神が讃えしその駿駆 作:松武栗尾
実は、『ビューティフル』の発音の仕方を指摘されると目を剥いて怒ってしまう。
昼休み。手早くお昼を済ませいつものように屋上へと足を運び、心置きなくスマートフォンゲームに興じようとしていたナリタタイシンだったが。
「あ」
扉を開けると視界に入った先客に気付き、思わず声をあげてしまった。
「ん? おおータイシンちゃん」
「またいる……んですね」
柵に身を預けていたウマ娘──白い星を揺らし振り返ったシンザンへ気まずさを覚えながらタイシンは会釈を返した。
「まあねぇ。自分はまたスマホゲーム、だっけ? をポチポチしにきたの?」
「はい……チケットのヤツが騒がし過ぎて気が散っちゃって」
「はは、そうねぇ。元気一杯だからねぇチケットちゃん」
「……うるさくて仕方ないですよ、本当」
取って付けた敬語で口調を誤魔化すが、気にした風もない大先輩の様子にほっとしつつ、いつものポジションへ腰を落とした。
それからは会話を交わすことなく──シンザンもそれ以上続けようとはしなかった──、タイシンはゲームのデイリーミッションをこなしていく。
「……ん」
少し経ち、ゲームの日課を消化し終えた後、タイシンはちらとシンザンの背を盗み見る。
夏休みが空けてからずっとだろうか。彼女は毎日──少なくとも自分が屋上に足を運んだ日は──昼休みになると柵に身をもたれ、景色をずっと眺めているのだ。
視線の先。そこには優美な輪郭を空の青さにぼやけさせる、富士の山が鎮座していた。
日本を代表する景勝地を茫洋と眺める彼女の姿、そこにタイシンがとある少女の姿を重ねていると。
「……白笠を葉月に編みし富岳かな」
「は?」
突然、シンザンが何やらを口走った。
タイシンはわけも分からず固まっていれば、やれやれと首を振りながらこちらへ顔を向けてくる。
「俳句よ俳句。たまにさ、親分の真似して詠んでみるんだ。けど……句の良し悪しは未だにさっぱりだ」
「なんて言うか、その……良いんじゃないですか」
そんなのアタシも分からないし、と内心で突っ込みを入れつつタイシンも自然とシンザンの背に聳える富士山へ視線を移す。
「本当、綺麗だよねぇ富士山は。いつ見てもうっとりしちゃうよ」
「けど、毎日見てたら流石に飽きません?」
「まさかぁ。富士は日本一の山、だよ。いつまでも見てられるよ」
日本の象徴へタイシンが目を眇める傍ら、歩み寄ってきたシンザンは隣に腰を落とす。
「それに、富士山の初冠雪のニュースを聞くと、秋シーズンが始まったなーって、いつもそんな気持ちになるんだよね」
シンザンの言う通り夏休みも終わり、秋のトゥインクル・シリーズも本格的に始動する時期にあたっている。
それこそタイシンが出走する予定であるクラシックレースの最終戦・菊花賞も十一月に控えており、九月末からにかけて開催されるトライアルレースのいずれかにも出走を考えているところだった。
「でよ。タイシンちゃんとしてはどのレースを使うつもりなの? 菊花賞の叩きには」
「あ、いや、それはまだトレーナーと相談中で……」
「そっか。今からだと月末のセントライトさんの……記念は難しいだろうから、その後の神戸盃*1か京都盃*2に──」
前哨戦についてはトレーナーとも相談している最中であり明確に答えられず口ごもるが、シンザンが唐突に黙り込んだことに眉を寄せた。
「…………」
「……先輩?」
目を伏せた茶褐色髪の大先輩のただ事でない様子に、思わず顔を覗き込んでしまう。
「具合でも悪いんで──」
「マイちゃんは」
心配する言葉を遮ってシンザンがポツリと呟いた。
いつものどかさが引っ込んだ、長年の疲労が染み付いたような落ち込んだ声だった。
「マイちゃんは京都盃──そういえば今は京都新聞杯だったね──を叩きに使うつもりだったんだとさ」
脈絡もなくここにはいないウマ娘の話題を振るシンザン。だが何を言わんとしているのかを察して、少し躊躇してからタイシンは静かな声で言葉を返した。
「……やっぱり、ショックですか?」
「……うん」
「長期離脱だって話でしたもんね」
「…………」
少しの間を置き、シンザンは悲しみとも疲れとも取れない、複雑な面持ちで顔を上げた。
「……屈腱炎だからね。長期休養は避けられないよ」
『屈腱炎』。
競走に身を捧げるウマ娘の脚部に発症する病気だ。
屈腱炎を発症した場合、長期に渡っての治療を強いられ、たとえ治癒したとしても発症する前の状態にまで脚部が回復するとは限らない。
どころか再発の可能性が高く、この病が原因で引退に追い込まれるウマ娘もいるほどの深刻な病なのである。
その屈腱炎を、マイシンザンが発症した。
「これからが、楽しみだったのにね」
夏休み中のトレーニングでの出来事であった。
感情は表情にこそ出てはいないが、垂れ切った両耳がこの件についてのシンザンの胸中を物語っていた。
タイシン自身マイシンザンの故障、長期の戦線離脱を耳にした時は驚きで言葉を失ったくらいである。
「先輩は、その、復帰できると思います?」
マイシンザンだって幾度となく大舞台で競り合ってきたライバルの一人だ。彼女が脱落した事実に対し、どうにか現役に戻ってきて欲しいという思いは当然ある。
しかし、本人がどれだけの思いで復帰を望もうが、周りが切に快復を祈ろうが、二度とターフを踏むことが叶わないこともある。屈腱炎とはそういう病だ。
マイシンザンともっとも親しい間柄の一人であるシンザンがどう考えているのかを知りたくて、躊躇いながらも勇気を出して問いかけた。
「……昔、キーストンっていう子がいてね」
質問に直接答えず、唐突に昔話を始めたことを訝しみながらもタイシンは黙って耳を傾ける。
「気持ちの良い逃げ脚を持ってた子でさ。その逃げでダービーにも勝ったくらいのすごい子だったよ」
「ダービーを逃げで……」
「だけど、暮れの阪神大賞典*3で転倒して競走中止してね。一命こそ取り留めたけど、その怪我が元で引退を余儀なくされたんだ」
「怪我で引退──もしかして、それって
「あれ、自分知ってるの」
「トゥインクル・シリーズを目指すウマ娘なら、知らない子はいないくらい有名な話ですし」
キーストンと言えばトゥインクル・シリーズの歴史を語る時、必ず語られると言ってもいい程に有名な話だ。
それはトレーナーとウマ娘との友情の話で、誰からも見向きもされなかった小柄なウマ娘がとあるトレーナーとの出会いを切っ掛けに最高の舞台へ駆け上がっていくシンデレラストーリーである。
しかし今もなおキーストンの名が語り継がれている理由──それは彼女の最後のレースとなった阪神大賞典、その最中の不慮の事故により負傷した彼女の元へ、レースが続行中にも関わらず駆け付けたトレーナーの姿に人々が感動を覚えたからに他ならない。
バ場に足を取られ、幾度と転倒しながらも担当の元へ走るトレーナーと、満身創痍でありながら自分のトレーナーを気遣うウマ娘……二人のその姿に人々は涙を誘われ、トレーナーと担当ウマ娘の関係の最良の形として色褪せることなく後世に伝えられている。
「けど、どうして今キーストンの話なんか……?」
「……キーストンのトレーナーね、今もトレーナーとしてトレセンに在籍してるのよ」
「え、マジ?」
唐突な告白を前に思わず素の口調に戻ってしまう。
そんな話は噂レベルですら今まで耳にしたことがなかったからだ。
「本人が言わないからね、周りも触れるのを遠慮してたのさ。それに、トレーナーを辞めようと何度も考えたそうだから……目の前で自分の担当があんな目に合ったら誰だって辞めたくもなるよ。けど、その人はキーストンと約束したから今もトレーナー続けてるの」
「な、なんて約束したんですか?」
タイシンは無意識に前のめりになってしまう。口振りからして、直に当事者たちを知っているような雰囲気をシンザンから感じ取ったからだ。
「…………」
目を細め、遥か遠くを見据えるような眼差しをしたシンザンは少しの間を置いた。
「『この先、あなたが担当することになるウマ娘が怪我や病気で立ち止まらざるを得なくなったとき、その子がターフに戻りたい気持ち──走りたいという想いが僅かにでも残っていたら、最後まで、走れなくなった私の分まで、その子に寄り添ってあげてください』」
「だってさ」
「そんなことを……」
「キーストンは辞めてほしくなかったんだろうね。ショウジさんも真面目で優しいから、あの子にもらったものを返そうとしてるんだろうね……似た者同士だ。で、キーストンのトレーナー、名前がヤマモトっていうんだけど」
「ヤマモトトレーナー……」
交わされた約束の内容に言葉を失うタイシンだったが、続けて告げられたキーストンのトレーナーの名を脳内で反芻した後、驚きに目を見開いた。
「っ! それって──」
確か、マイシンザンの所属しているチームのトレーナーの名は──
「……だから、マイちゃんが諦めない限りわたしは応援し続けるよ」
驚愕を肯定するように多くを語らず、シンザンは言葉少なげに言葉を切った。
「……人の繋がりって本っ当に不思議」
不治の病に侵されてなおターフに立つことを諦めない少女と、担当ウマ娘の心が折れぬ限り寄り添うと誓ったトレーナー……人の縁とは全くもって分からないものだ、とタイシンは静かに気圧された。
「ショウジさん──下の名前がショウジっていうんだ──に興味本位でキーストンの話を振るのはよしてちょうだいね、あの子の話題になると今でも悲しい顔するから」
「は、はい」
「ごめんね、こっちから話題にしておいてこんな約束させちゃってさ。そいで、話は変わるけど、タイシンちゃんお見舞いしてくれたんだって?」
「えっ、何のお見舞い──あっ、ええ。ハヤヒデとチケットの三人でですけど……」
「マイちゃんがお話ししてくれたんだけど、なんでも果物の盛り合わせを差し入れてくれたらしいじゃない」
急に入院中のマイシンザンへの見舞いの話を振られたので、慌てて我を取り戻す。
……シンザンも、本音のところではキーストンとそのトレーナーについてあまり触れたくなかったのかもしれない。
「なんでも、ハヤヒデちゃんがバナナ尽くしの盛り合わせを選んでくれたとか。それに自分からはお花をもらったってすごく喜んでたよ。確か……百日草、だったっけ?」
お見舞い時に花を送った話をされた瞬間タイシンは顔を背ける。赤らんだ顔を見られたくなかったからだ。
「? どうしたのよ」
「ウチ、実家が花屋だからそのくらいは……ってアタシが何の花を送ったかなんてのはどうでも良くて。そんなことより、先輩はマイのところにお見舞い行ってあげたんですか?」
「うん、連絡がきたその日にね。ミホを呼び出して二人で一番乗りしてきたよ」
「ミホさんもか……なら、不安な時に二人から言葉を掛けてもらったんだしマイもすごく喜んだんじゃないんですか? もしかしたら、それが切っ掛けですごい勢いで快復し始めたりして」
「はははは、だったら嬉しいなぁ……わたしが見舞っても迷惑なんじゃないかっていつも考えちゃうから、本当に嬉しいよ」
「え?」
唐突なカミングアウトにタイシンは目を丸くする。
シンザン、そしてミホシンザンと尊敬して止まない先輩が見舞ってくれたことをマイシンザンの立場になって考えてみれば嬉しいに決まっているはずだが……。
「なんでそんな心配を……」
「夏負けに掛かったり脚先とか腰なんかはやったりしたことはあるけど、大きな怪我とか病気とは無縁で引退できたからさ。その……ね? 嫌味になっちゃわないかな~って、入院見舞いの時はいっつも不安になるんだ」
「そっか……先輩の引退理由って大分レアなパターンでしたもんね」
『もう走るレースがない』
いつぞやにビワハヤヒデが彼女の引退理由を語っていたことを思い出す。
トゥインクル・シリーズにグレード制が導入される前は今でいうところのGⅠレースと目されるレースはいわゆる八大競走と呼ばれたレースのみだった。
シンザンはクラシック路線を選択し、見事三冠を達成。その後は当時勝ち抜け制であった天皇賞と有マ記念もを制覇し目標とする冠を全て得た『五冠ウマ娘』として現役を去ったのである。
「まあ『無事之名バ』なんて言葉もあるし、わたしとしても胸張れることではあるんだけど──」
「だからこそ、元気付けるのは難しいわな」
困ったように頬を掻き、シンザンは自嘲するような微笑みを浮かべた。
きっとシンザンはこう言いたいのだろう。
『レースに支障をきたす状態に陥ったことがない自分には、マイシンザンの辛さや悔しさを真に分かってあげられない』と。
対して連れ立って見舞ったミホシンザンは幾度かの故障の経験がある。その事実がなおさらに、疎外感と己の無力さが身に染みたのかもしれなかった。
「…………」
そんな告白を前にして、タイシンはこの人はなんて贅沢なのかと思った。本当に贅沢な悩みだと。
「……きっと考えすぎですって」
だが同時に、シンザンでも悩んだり苦しんだりする姿を前にした途端、今まで雲の上の存在だと思っていた大先輩のことを身近に感じることができたのだった。
「そうかなぁ……」
「ビックリはするだろうけど、先輩に見舞ってもらって嫌がるヤツなんてトレセン学園にはいないだろうし」
「そう? だと嬉しいな。だけども……うーん、もっと元気付けられる言葉を掛けられればなぁ」
「大丈夫ですよ。先輩の想いもマイには伝わってますから」
その悩みに共感はできないけど、と苦笑して思わずポンポンとシンザンの肩を叩いてしまい「あ、マズった」と直後焦るタイシンだったが、気にする素振りも見せなかったのでほっとする。
「それにマイ言ってましたもん。先輩たちがいるだけで私は頑張れるって」
「ん……? どういうこと」
「シンザン記念……じゃなくてシンザン先輩記念の後に、話す機会があったんですけど──」
不思議そうに見つめてくるシンザン。
タイシンはかつてこの屋上で彼女と同じように景色を眺めていた少女──マイシンザンと交わした話を語り聞かせた。
「──って感じですけど」
マイシンザンが自らに語った内容を伝え終え、改めてシンザンの様子を窺う。
神妙な面持ちである。黒い瞳が瞬きもせずにじっとこちらを見つめていた。
無言で凝視され、もしかして言わない方が良かったのか? と気圧されながら不安でもぞもぞ身を捩った。
「……そっか」
そう言って目線を外したシンザンは表情を真剣なものに変え、顎に手を添えるとぶつぶつと呟き始め何かを思案し始めた様子。
瞳の持つ迫力にたじろいでいたタイシンだが、打って変わって自分の世界に入ってしまった大先輩へ恐る恐る声をかけた。
「あの、先輩……?」
「────決めたっ」
「わっ」
ぱんっ、と両膝を叩き、シンザンがいきなり立ち上がった。
あまりに勢いよく、なにより機敏に立ち上がったのでタイシンは反射的に体を仰け反らせてしまった。
「な、何を決めたわけ?」
「ありがとうタイシンちゃん。自分のお陰で道が拓いた気分だよ」
「へ?」
「わたしとしたことが大事なことを忘れてたよ……マイちゃんの屈腱炎に思ってた以上にまいってたみたいだ」
正面を真っ直ぐに見据え、呆れたように溢すシンザン。
そんな彼女から、普段の穏やかさでも多い覆い切れぬ、確固とした強い意志をタイシンは感じ取った。
「わ、忘れてたって……」
「ん? そりゃあ、あれよ」
訳も分からずタイシンが口走ると、シンザンは白い星を揺らしてとぼけた──いや、覚悟を決めた者特有の吹っ切れた面持ちで言い切った。
「ウマ娘には
そう確信めいた断言を下した瞬間。
彼女が王者の風格を纏ったような、有無を言わせぬ威圧感を放ったようにタイシンは錯覚してしまった。
「となると、気合い入れてかないとねぇ」
圧倒されているとそう溢してシンザンが踵を返したので、呆けていたタイシンも慌てて我に返る。
「お先ねぇタイシンちゃん」
「え、あっ、ちょっと──」
「今度、諸々が落ち着いたらお礼させてちょうだいねぇ~」
かーねが鳴る鳴るリンカンとーをぉ、と制止も聞かずなんだかよく分からない歌を口ずさみながら屋上を去っていくシンザンを、タイシンは声もなく見送ることしかできなかった。
「……なんなの。ホントに」
何から何まで、圧倒されっぱなしだった。
「……ってやばっ、チャイム鳴っちゃったじゃん」
響く昼休みの終わりを告げる予鈴にはっとして、タイシンも慌てて立ち上がり校舎の中へと飛び込んで階段を跳ねるように降っていく。
(語り方がどうとか言ってたけど……)
それに、先程シンザンが口走っていた言葉……ファン感謝祭とかミホが出るはずだとか呟いていたが──
「……流石に遅刻は不味いよね」
頭を降り、浮かんだ考えを一旦掻き消して、タイシンは駆け足で教室へと戻っていった。
『さあ今年もやってまいりましたトゥインクル・シリーズ秋のファン感謝祭!』
『今回最も注目されている催しはなんと言ってもエキシビションレース!』
『出走メンバーは名だたるウマ娘ばかり! 中にはトゥインクル・シリーズを退いたあのウマ娘たちも参戦!』
『夢のレースを見届けたいファンの皆様はぜひ学園グラウンドへお越しください──!』
爽やかな秋空に『聖蹄祭』──通称秋の感謝祭の到来を告げる放送が響き渡る。
在校生の家族やファンに楽しんでもらうための新たな試みとして開催される特別レースの予告放送に耳を澄ませ、生徒会長シンボリルドルフはふっと顔を綻ばせた。
「確か、ミホが出走するのは中距離のレースだったかな」
今回のエキシビションレースは午前と午後の計二部、短距離から長距離・ダートの五つのレースプログラムが組まれており、各部門十名でのレースが予定されている。
その内の中距離部門に友人のミホシンザンも参加することになっていた。
トゥインクル・シリーズ引退後は静養に入っていた彼女が非公式とはいえ、レースに出走者として名を挙げたと知ってルドルフは驚いたものである。
(親しい者のために、か……)
とはいえ、ターフに戻る理由には心当たりがあった。
今年のクラシック戦線で活躍するウマ娘の一人であり、屈腱炎の発症によって離脱を余儀なくされたマイシンザンを勇気付けるためだろう。
二人が非常に親しい間柄であることは当然ルドルフも承知している。
それが自身とトウカイテイオーとの間にあるものと極近い感情であることも、ミホシンザンの態度からある程度察することはでき、彼女の心情に寄り添いたい気持ちが強くあった。
「そろそろ発走時間か……運営面でのこれといった報告も上がっていない」
今のところ、大きな問題やトラブルも見受けられず、感謝祭はつつがなく進行している。
なにより、最近になって再び会話できるようになった友人の久方振りのターフでの晴れ姿である。見に行かない理由がなかった。
「──よしっ、これからミホの応援に……」
「会長っ!」
グラウンドへ足を向けようとした、その時だった。
自身の右腕であるエアグルーヴが息せき切って駆け寄ってきたのだ。
「なにか緊急事態が?」
普段の彼女の振る舞いとはかけ離れた慌てぶりに、ただならぬ気配を感じ取ったルドルフは表情を引き締める。
「も、申し訳ありません。トラブル等が発生したわけではないのですが……」
「そうか。となると、君の周章狼狽ぶりがどうも腑に落ちないのだが──」
「こ、これを」
首を傾げると、スマートフォンの画面を突きつけられる。
「これは……ウマッターの投稿?」
画面に表示されていたのはライブ衣装に身を包んだウマ娘たちがステージ上から己と観客席が収まるような画角──つまり自撮りをしている写真が投稿されていた。
「屋外ステージで開かれているライブの写真? スマートファルコンたちが結成したというアイドルユニットだろう? 『逃げ切りシスターズ』、だったかな──ファンとの交流を捉えた素晴らしい一枚にしか見えないが……」
「いえ、見ていただきたいのはそこではなく……!」
「後ろ?」
投稿者であるダート競走の認知を高めてくれた第一人者にして、トップウマドルを目指す輝くウマ娘の姿に微笑む。
だがこの写真とエアグルーヴの動揺とが結び付かず、促されるままに指差された箇所を注目して──
瞬間、ルドルフはあらんかぎりに目を見開いた。
「わ、私も直接確認したわけではありません。ですが他にも姿を捉えた写真などの投稿がSNS上にあがっていまして……」
写真に小さく写るその人物を凝視したまま、あまりの衝撃にうろたえるエアグルーヴの言葉が耳に入ってこない。
「仮装の類いかとも考えましたが、それにしてはあまりにも……今回のファン感謝祭では出し物はされないとおっしゃっていましたし、個人的なファンへのサービスなどの可能性は──会長!」
打ちのめされていたルドルフは我を取り戻すと、副会長の言葉に耳を貸さず足早に立ち去ろうとする。
「すまない、先に向かう」
「向かう? 一体、どちらに──!」
そうとだけ告げて、戸惑うエアグルーヴへ背を向けた。
(どうして、今あの姿で……)
背中へ投げ掛けられる制止の声を無視し、ルドルフは来場者でごった返す中、歩を進めた。
初めは自らの目を疑ったが、何度も夢想したあの姿を自分が空見するはずがない。
……己の目で確かめなければ。
困惑と期待、喜びと悲しみ、そして僅かな怒りとがない交ぜの感情のまま、ルドルフはグラウンド──まさにエキシビションレースが行われる戦場へと急いだ。
「────うん。じゃあ行ってくるよ」
「え? 昔と全く変わらない? ふふん、ありがとう」
「ケンさんたちのお陰で調子は万全よ。出走枠だって無理矢理譲ってもらったわけだし、無様を晒す気はないからさ。安心して応援してて、それに──」
「
捕捉:マイシンザンの屈腱炎について
作中でマイシンザンは夏休み期間中に屈腱炎を発症したことになっていますが、史実では出走を予定していた京都新聞杯の追い切り中に屈腱炎を発症してしまったとのことなので、一応ご注意を。