神が讃えしその駿駆 作:松武栗尾
先に行こうが後から行こうが同時に行こうが関係ない。どうしようもなかったですよ。
──シンザンのライバルと呼ばれたウマ娘の述懐
『ここでやってきた! ミホシンザンがものすごい脚を使って伸びてきた!』
大歓声に紛れて鼓膜を突く実況の声を耳にしつつ、ミホシンザンは普段の淑やかな眼差しからは想像もつかない鋭さで深紅の羽織を睨め付ける。
(落ち着いて、ゆっくり追えとは言いましたけど……)
誰よりも敬愛する先輩と、その彼女が慕っていたトレーナーが常々口にしていたレースの信条を一丁前に吐いてみたものの……。
シンザンの動向に全神経を集中させる今のミホに余裕など一切なかった。
流れる汗に混じる冷や汗、強張って思い通りに動かせぬ体、弾けそうな心臓を理性と闘争心で押し留め、奮い立たせている有り様である。
ただ一人、他の強豪たちを差し置いて自分だけが食い下がれている理由があるとすれば単純明快。このレースを走る誰よりも先輩を──シンザンの走りを知っていたから。それだけだ。
シンザンのレース運びはいつだって同じだった。好スタートを切り、好位置に着け、直線で勝負を決める。
だからこそサクラバクシンオーに釣られてペースを崩すこともなく、シンザンただ一人を徹底的にマーク。スパートのタイミングを遅らせることができ、脚を残すことができたのだ。
(どうして……よりによって今日なんですか)
突如訪れた、夢にまで見た憧れの人との勝負を前にして抱いたのは後頭部を殴られたかのような衝撃と困惑、そして畏れ。
かつてと変わらぬ勝負服。本番前のアイマスク、加えて今日の髪留めは──
(どこまで……どこまで本気なんですか)
「シンザン先輩……っ」
『四〇〇メートルのハロン棒に差し掛かる! ここから巻き返せるウマ娘はいるのか!』
絞り出すような悲鳴を噛み殺し、残る差を詰めようと脚に力を込めたその矢先。
「だっっっっしゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!!」
右後方。外側から闘志剥き出しの気合いが体を貫く。
『ヒシアマゾンだ!! 最後方から女傑ヒシアマゾンが大外から突っ込んでくる!!』
はっとしてミホが目線を飛ばせば、戦意衰えぬ眼差しのヒシアマゾンが末脚を爆発させて肉薄してくる。
「何もう勝負は決したみたいな空気醸し出してんだい! レースはまだ終わっちゃいないんだよ!!」
「ヒシアマさん……っ」
猛然と追い込みをかけるヒシアマゾンの煮えたぎるような迫力にミホは思わず息を呑む。
「アタシだってッ、まだ、負けてないッ!」
「なにもできずに終わるだなんて、そんなの絶対に嫌だ……!」
「バ……クシ…………ン」
彼女だけではない。ナイスネイチャにセイウンスカイ。美浦寮寮長の気迫に他の出走者たちも闘志の炎を俄然燃やし、必死の形相で迫ってくる。
「くっ……!」
前方のシンザン。後方のライバルたち。追う立場と追われる立場というプレッシャーによってスタミナが急速に消耗していく。
抜かされてなるものかとさらに目つきを鋭くし、一バ身先を走る背中に追い縋ろうと脚を必死に回転させるが、差が一向に詰まらない。
『ミホシンザン伸びが悪い! 先頭は依然、先頭は依然シンザンだ!』
誰よりもその走り様に憧れたからこそ、駿駆を超えることがいかに困難であるか理解しているつもりだった。
(と、どかないッ!?)
縮まらない一バ身差に、自分の考えが思い上がりだった事実にミホは顔を引き攣らせる。あの人との差がこれだけ遠いとは──!
意気込み勇み、久し振りのレースに出たと言うのにこの有り様では大切な後輩を勇気付け、道標になるなど叶わない。
(ごめんね。あなたを元気付けてあげたかったのに、情けない先輩で……)
己の無力さを嘆き、ミホは胸中で大切な後輩へと許しを乞うた。
「────ミホせんぱい!!!!」
──と、自分の名を呼ぶ声が鼓膜を貫く。
(マイ……)
反射的に目を向けた先。観客席の最前列。柵を越えんばかりに身を乗り出すマイシンザンの姿がそこにあった。
慌てて留めようとする友人たちの制止も聞かず、今にも泣き出しそうな顔で何事かを叫ぶ少女を目の当たりにし、ミホはどうして自分が今走っているのかを再認識する。
病気で満足に走ることができないマイシンザンに元気を与えてあげたい。
再び走り出せるような勇気を与えたい。
どんな困難が立ち塞がろうと、諦めなければレースにだって勝てることを証明したい。
あの子に笑顔でいてもらうために。
けど、今のあの子は自分の理想の表情とはかけ離れている。それは何故──?
簡単だ。自分が、不甲斐ない姿を晒しているからだ。
不甲斐ない姿──それはレースに負けることではなく、
(私は、あの子にあんな顔をさせるために走ってるんじゃない──)
どうすればマイシンザンの苦しい表情を晴らすことができる?
──勝つことだ。
そんなことは分かり切っている。
──勝たなければ。
最初から、そのつもりで挑んでいたじゃないか。
先達として、
レースが始まる前からシンザンと競うことへのプレッシャーに負けていたのだ。
(……実力だけならまだましも)
勇気付けたい少女に悲壮な表情をさせてしまった己への怒りを覚悟に変える。
(気持ちまで負けていたら)
このレース、絶対に負けられない。
相手が誰であろうと、絶対に負けることはできない。
「勝てる勝負も──勝てないじゃないッ!!」
たとえそれが、超えることの叶わない幼き頃からずっと憧れた人だとしても──!
地面を砕く勢いで踏み込んで、爆ぜるように加速する。コースと平行になる程の前傾姿勢を取り、目の前赤い羽織を射殺さんばかりに睨み付ける。
気後れと、躊躇いはもう捨てた。
憧れと尊敬も、今は忘れて。
今はただ、勝つことだけに全神経を注ぎ込む。
この一走は、この勝利は、全てはマイのために――!
「────うぁぁぁぁああああああッッッッ!!!!」
『ミホシンザン再び伸びる! とんでもない末脚! 今度こそシンザンに追いつけるか──!?』
喉が裂ける程に吠え、無我夢中で駆ける。
このレースを最後にもう走れなくなってもいいと、ミホは己の選手生命を賭ける覚悟でもって勝利をこの手にしようとして。
(あ……)
ふっ、と重りが外れたように体が軽くなる。乱れていた呼吸も嘘みたいに落ち着いてきた。
(これは……)
いつか体験した、懐かしい感覚へミホは抵抗することなく、身を委ね──
気付けば、ファンの歓声も実況のアナウンスもライバルたちの存在も、何もかもが自分から遠ざかっていった。
「っ! 会長、あれは──」
二番手に着けながら追い込みの冴えを欠いてもたついていたミホシンザンが、嘘のようにぐんぐんと末脚を伸ばしてくる。
目の前で起こった彼女の変質にエアグルーヴは驚愕に目を見開いた。
それが意味するところを知るエアグルーヴは妖しい輝きの瞳のままレースの行方を見据える皇帝へ顔を向ける。
シンボリルドルフは少しの沈黙を挟み、独り言のように静かに口を開いた。
「……
『残り三〇〇メートルを切ったっ! 追い詰めるミホシンザン! 逃げ粘れるかシンザン!』
ミホシンザンの二段ロケットのような末脚で猛追していく光景に勝敗の行方を半ば察していた観衆の驚嘆の混じった歓声が巻き起こる。
「ハヤヒデ、これって……!」
「ああ、これはひょっとすると……!」
「ミ゙ボ゙ぜ゙ん゙ば゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁい゙!!!!」
怒涛の追い込みを見せるミホシンザンにナリタタイシンとビワハヤヒデは目を見張り、もしかしたらを想像する。
他の出走者たちが一着争いから落後する中で、ミホシンザンだけが食らい付いているのだ。
『シンザン粘る、まだ粘るが……これは──!』
どころかシンザンとの差をぐんぐんと詰まっていっている。
エキシビションレースとは思えない程の激闘にファンの声援も膨れ上がり、そして──
『並んだ! シンザンとミホシンザンハナ一線!』
ついにその時が訪れた。
『交わした、交わしたっ! ミホシンザン先頭────!!』
壮絶な叩き合いの末、外からミホシンザンがシンザンを相手に僅かに先んじた。
「嘘……!」
「なんて勝負根性だ……っ」
「……っ」
「あっ!?」
刹那、左右から両腕を抱え込まれていたマイシンザンが身をよじり、二人を振りほどいた。
「バカ!」
「マイ君!?」
レースに釘付けになっていたため拘束が緩くなっていたところを抜けられ、しまった、と呆気に取られている内にマイシンザンは倒れ込むようにして柵を乗り越えてしまう。
「戻ってきたまえ、レースはまだ終わっていないんだぞ!」
危険な行動に出たマイシンザンを目を丸くして呼び止めるハヤヒデの制止も聞かず、外ラチ沿いにゴールの方へと彼女は自由の効かない体を引き摺っていってしまう。
「──っ、ああもうっ!」
「タイシン! 君まで何を──うおっ!」
「良いから! ハヤヒデはそれ持って! チケットもこっちくる!」
「頑゙張゙っ゙ぶ゙ぇ゙っ゙!゙?゛」
苛立たしそうに唸ったタイシンは立て掛けられたままの松葉杖をハヤヒデへぶん投げると、絶叫しているウイニングチケットの首根っこを引っ掴んで柵を潜り抜けた。
「ま、待つんだ二人とも! ──あいたっ!?」
慌てて潜ろうとし柵に頭をぶつけたハヤヒデが、私の頭はでかくない柵が低いだけだなどとブツブツと漏らすのを無視してタイシンはマイシンザンの背中を睨み付ける。
(あんな話を聞いた後で……引き止められるわけないってのに!)
彼女の先輩へ抱く想いを知っており引き止めるができない自分に苛立つタイシンは後で一発ぶっ飛ばすと誓い、細心の注意を払って後を追った。
「…………」
観衆の視線がミホシンザンへと集中する中。彼女はスクリーン越しにその競り合いをじっと見つめていた。
「……入るとは思っていたけど、こうも簡単に入れるのか」
『
時代を創るウマ娘だけが至るという、極限の集中状態。
トゥインクル・シリーズの頂点に座すウマ娘たち、その中でも極一握りの者たちだけが限界を向かえた先の先にしか到達することの叶わない境地。
スーパーカーが、ターフの演出家が、皇帝が。
競走の歴史に名を刻んだウマ娘たちがかつて踏み入った極致へ再び踏み入れたミホシンザンの末脚は『鉈』と呼ぶに相応しいものだった。
「やっぱり、君は後継に──シンザンを継ぐに相応しい器だったみたいだね」
呆れと羨望を滲ませた呟きを溢し、彼女は視線をアタマ一つ分飛び出したミホシンザンへと向ける。
「けど」
次いで、その自分を今まさに交わした彼女へ
「
自分以外の全てが朧気になった世界の中で、ミホは目を瞬かせた。
音は今も遠く、己以外の存在は希薄だ。
再び踏み入れるとは思っていなかった『
「……?」
待て。自分は今、何を考えている?
どうして
「──ッ!?」
意味するところを脳が理解する前に、反射的に脚の回転を上げる。
だがすでに限界を超えている。これ以上はもう。
もがいている間にも赤色は一層鮮明に色を発し、徐々に縁取られて──
「待っ、て」
彼我の差が開いていく。
伸ばした手は、届くことはなく、顧みられることもない。
ハナ差がアタマ差に。アタマ差がクビ差に。クビ差、二分の一、四分の三、そして──
『─
世界に音と色が戻る。
間を置かずうねりのようなどよめきがミホを襲った。
『
勝負の結果に考えを巡らせる間もなくゴール板を最高速度で越え、かつてのようにそそくさと減速したシンザンに追い付き、そのまま追い抜いていく。
(……ああ)
視線が交錯し、浮かんでいた表情を目にしてミホは顔を伏せ、口を引き結んだ。
(本当に……あの時のままですね)
『後続も固まってゴールイン! 強い、全くもって強い! 並みいる強豪、予想外の展開もものともせず! ミホシンザンの猛烈な追い込みすらも抑え切り! 貫禄を見せつけましたシンザン!』
勝負の結末にどよめく観客席。
目を見張るスタートダッシュの上手さ、ライバルたちの動向に惑わされず自分の走りの型を崩さない冷静振り、直線での先頭に立ったら抜かせない絶対の勝負根性。
振り返ってみれば、全くもって危なげないシンザンの完勝と言える内容であった。
「相変わらず、嫌味なくらい落ち着いてるよ」
シンザンの堂々たる横綱相振りを目の当たりにしたファンの興奮の渦中で彼女はレース結果に顔をしかめ、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……だからこそ」
ふるふると頭を振るうと、先程とは対照的に相好を崩して称賛のこもった目線を上げる。
「だからこそ、決して変わることのないお前の走りは、今も皆の心を捉えて離さないんだろうな──シンザン」
『これがシンザン! 伝説の三冠ウマ娘の走り! その切れ味は今も錆び付くことなく健在だった──!!』
彼女の赤い瞳は、仮設スクリーンに写し出されたシンザンの──感情を拭い去った表情の中心で鈍く輝く黒い双眸へ、遠い過去を懐かしむように細められた。
捕捉:史実におけるスプリングステークス出走でのシンザンの立場
1964年3月29日に東京競馬場で開催された第十三回スプリングステークスを快勝し一躍クラシック戦線の第一候補に名乗りを挙げたシンザン。しかし当の調教師はシンザンがレースに勝つとは思わず、東京に姿を見せなかったためシンザン勝利の報せが届き「俺は目が見えなかった。お前がこれほどの大物とは知らなかった。これからは真剣にお前と一つになって勝負をする」と頭を下げたという逸話があります。
しかしよくよく考えてみれば何故調教師はクラシックレースの前哨戦にあたるスプリングステークスに唯一自らの管理するシンザンが出走するのに東京競馬場にやって来ず関西に身を置いたのか。
単純にシンザンの強さを見抜いていなかった、四戦無敗ではあるもののまだ一度も一級馬とレースをしていなかったためどこまでやれるのかが読めていなかったなど色々と説はありますが他にも原因はあったようで
①スプリングステークスと同じ週に開催されていた阪神競馬で管理馬が数頭出走しまたシンザンとは別の期待馬が同じ日にステークス戦を控えており、そちらもクラシックレースに間に合わせたかったためこちらを優先した。
②翌週に控えていた桜花賞に出走する管理馬(前年の阪神三歳ステークスを優勝した実力馬)の調整のため関西に身を置きたかった。
など当時西の大厩舎として知られ、自身の管理する競走馬の走る走らないに関わらず分け隔てなく時間を費やす調教師としての矜持と立場も関係していたようです。
しかし結果としてステークス戦に出走した期待馬は二着に泣き他の管理馬も成績は振るわず、桜花賞制覇を見込まれていた実力馬は完敗。故障があったためか暫く出走を見送り復帰後もこれといった成績は残すことが叶いませんでした。
さほど期待していなかったシンザンのスプリングステークス勝利も加味すると、調教師は『競馬には絶対がない』ということをこれでもかと思い知らされたことでしょう。
またここから調教師が真にシンザンと向き合い始めたと考えればシンザンを巡るドラマの中でスプリングステークスは彼らにとってのターニングポイントの一つと言っても過言ではないかもしれません。