神が讃えしその駿駆   作:松武栗尾

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第二十六話 レースは勝負

「ぜ……、ぜぇっ、ぜぇっ……っ、はぁっ……」

 

 ゴールを境に集中力が切れ、疲労が一気に襲い掛かりミホシンザンは緑のコースへ崩れ落ちた。

 

 全身が酸素を欲して呼吸が乱れ、心臓が破裂しそうな程に脈打ち、疲労のために視界が霞む。

 

(これが、シンザン先輩……)

 

 ずっと憧れていた人との初めての本気のレース。

 

 負けた。完敗であった。限界を超え『領域(ゾーン)』に到達してなお勝利に届かなかった。

 

 幼い頃から憧れ、いつか超えたいと夢見、目指した駿駆の背はあまりに大きく、険しく──そして遠かった。

 

 荒れる呼吸をつきながら定まらない思考を巡らせていると、緑の芝を踏みつける右近下駄と銀鼠色の袴が視界の端に写り込んだ。

 

「シン、ザン……はぁ、先輩……」

「良い走りだったね」

 

 シンザンの息遣いが二四〇〇の距離を走ったとは思えない程に整っていることを努めて無視して、ミホは顔を上げた。

 

「あの難しいペースで追い出しをあそこまで遅らせたもんだ」

 

 視線が重なる。穏やかな声音とは対照的な、静かな迫力を発する鈍い輝きを湛える黒い瞳に気圧されミホは思わず目を逸らした。

 

「ぜぇ……『辛抱は金の棒』、でした、から……それに」

「『相手はわたし一人に絞ったから』、って? んふふ、今回のレースでシンザン(わたし)相手にそれができるのはわたし(シンザン)を良く知ってる自分だけだろうね」

 

 言葉の端に嬉しさを感じさせて微笑むシンザン。

 

 今述べた格言は彼女から教わったものであり、勝ち負けは別としても『落ち着いてゆっくり追え』という教えと合わせ後輩である自分が実践せしめたことに満足しているのだろう。

 

「……その(かんざし)は」

 

 息も整い始め、一度深呼吸をついてミホが髪留めについて指摘するとシンザンは微笑を深くし、目を細め後頭部に手を伸ばしそっと触れる。

 

「分かった?」

「あまりにも……あからさま過ぎます」

「まあ、そりゃそうか」

「アイマスクだって、バ場に出る前には外していたのに……どうして直前になるまで着けっぱなしに」

 

 レース直前、周囲にさも勝負服に合わせて髪飾りを変えたのだと呑気に吹聴していたが、そんなものは真っ赤な嘘だ。

 

 この人が勝負服をその身に纏うときにお洒落などという()()()()()が介在する余地など全くもってない。

 

 シンザンが指先で触れている簪は普段身に付けている一本櫛タイプのものではない。漆塗りの年期が入った櫛簪(くしかんざし)で、表面には風──巻き上がるような気流の意匠が施された物だ。

 

 位置関係からすればシンザンの櫛簪の意匠など分かるはずがないのだが、ミホはその櫛の一本一本、彫られた風の流麗さ、年月の積み重ねのみが放てる色の深みを手に取るように知っている。何故なら……。

 

「これを挿して走ったのは今日で()()()だ。ま、最後にこれを挿したのはわたしじゃなくて()()だったわけだけど」

「……」

「アイマスクについてはね、外すタイミングを逃してただけよ。けど、わたしがこのレースにどんな心境で臨んだのかがよおく分かったんじゃないの」

 

 そうだ。シンザンがあの櫛簪を身に着ける()()を自分は知っているし、アイマスクにしても同じである。故に彼女がエキシビジョンレースに如何程の気概で挑んでいたのかを察するのには時間は掛からなかった。

 

 故にミホは気付いてしまった。この先輩がエキシビジョンレースに代走という名目で参加したのは偶然などではなく、()()()()()()()ものであったということを。

 

「……いつからこのレースに出ようと」

「セントライトさんのレース直前に」

「調整のためのトレーニングは」

「ケンさんのところの姉妹っ子と、後はまぁ……ミナと追い切りをちょいとね」

 

 やっぱり。否定せず明瞭な答えを聞いて確信した。

 

 シンザンはファン感謝祭に完璧な調子に仕上がるようにトレーニングを積んでいたのだ。

 

 しかし何故? ミホはなおさらシンザンがエキシビジョンレースに出張ってきた理由が分からず、彼女に対し初めて怒りの感情が芽生えてくる。

 

 レースに勝って、少しでもマイを元気付けられればと思っていたのに敗れてしまい、敗れた相手がずっと憧れていた人。

 

「どうして──どうしてシンザン先輩はこのレースに?」

 

 こんなところで同じレースを走りたくなかった、とミホは複雑な感情を胸抱きつつ声を固くし、レース前にした同じ疑問をぶつけた。

 

「……その質問に答える前にわたしからも一つよろしいかい」

「え?」

 

 質問を質問で返されるとは思わずはっとして顔を上げるが、自分を見据える視線に身を強張らせる。

 

「ミホ」

 

 相も変わらず穏やかな声音。だがそこには有無を言わせぬ響きがあった。

 

 永い年月を掛けて使い込まれ、見るものを後退りさせるような剥き出し刃物のごとき鈍光を放つシンザンの黒い瞳に晒されてミホは身を強張らせる。

 

「ミホ。自分」

 

 

 

 

 

「レース始まるまでマイちゃんに良い格好見せようってそればっかり考えてたね?」

 

 

 

 

 

 はっきりと、確信した物言い。

 

 シンザンの口から放たれた問いに、ミホは一瞬息をすることを忘れてしまう。

 

「そ、れは」

 

 答えようと口を開くが、喉が引き攣って思うように言葉が出てこない。

 

「考えてたでしょう」

 

 再度同じ問いを先輩は突き付けてくる。

 

 自身の考えを伝えようと口をもごもご動かすものの、彼女の視線の圧力に逃れることができず……。

 

「……はい」

 

 観念したように頷いた。まさしくそれは図星であった。

 

「レースに出る時はね、()()()()()()()()()()()()()()()()って散々口を酸っぱくして言ってきたじゃないの」

 

 そう言ってシンザンは鼻息を吹き、首をふるふると振る。

 

 普段のシンザン()()知らない者が聞いたら普段の振る舞いからは想像できないであろう発言に、ミホはそれこそ叱られる子供のように体を竦ませて項垂れてしまう。

 

 

 

 ──いいか、レースってのは一番初めにゴールに飛び込むことが重要なんだ。個性だとか、見せ場だとかを考えるのは役者の仕事で……ミホ、お前さんが考えなきゃいかんことはどうやってファンに手前(てめえ)の勝ち姿を見せてやれるかってことだそ。そこをはき違えちゃあいかんからな。

 

 

 

 シンザンが親分と慕っていた彼女のチーフトレーナー──年老いて往年の迫力が失せてなお眼鏡の奥の瞳をぎらつかせ、レースへの心構えを説いてくれたタケダ先生の姿が脳裏を過る。

 

 そうだ。レースにおける勝敗へのストイックな姿勢もシンザンの持つ一面であり、単純にして明解な勝負哲学は彼女を鍛え上げた二人の男によって培われたものであった。

 

 トゥインクル・シリーズが一大エンターテイメントスポーツとして人々に根付き、ウイニングライブが旺盛を極める今日。それらが現れる以前の取り残された──そして古き良き時代の教えをシンザンは今もなお忠実に守り続けていることを思い知らされた。

 

「で、ですけど、私はどうしてもマイに……」

 

 だけど、とミホは声を上げたかった。私は決して先輩たちの教えを忘れたわけではないと。ただそれ以上に成し遂げたいことがあったのだと訴えたかった。

 

「わたしの走りはどうだったよ」

「え?」

 

 自分のこのレースに対する想いを述べようとしたことろを遮られ、ミホは思わずシンザンを見上げてしまう。

 

「変わってたかい?」

「……っ」

「昔のまんまだったでしょう」

「…………」

「自分が小さい頃に憧れてくれた、あの時のまんまだったでしょう?」

 

 押し黙ってしまう。先輩は何も変わらなかった。レースに臨むときの姿勢。勝負服姿。レース中の走行技術、勝負根性……。

 

 レースに挑んだシンザンの姿は、鮮やかな記憶の中からそのまま飛び出してきたかのように、不変そのものであった。

 

「当たり前だ。自分の手前中途半端な(はんかくさい)走りなんかできるわきゃあないでしょうに」

 

 呆れか、苛立ちか、はたまた悲しみか。

 

 シンザンの声がさざ波のように揺れたが、ミホにはそこにこもった情念を推し量ることもできなかった。

 

「翻って、自分はどうよ」

 

 感情の波が収まり、穏やかな凪いだ声で続けるシンザン。

 

「マイちゃんはミホ、自分を慕ってる。自分がわたしを慕ってくれてるように。そうだね?」

「そう、です。だから……だから私は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあそのマイちゃんが憧れたミホ先輩ってのは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を現役の頃してたわけかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その指摘に、ミホは目を見開いて絶句する。

 

 頭をぶん殴られたような……いや、この身を叩っ切られたような強い衝撃が自分を襲った。

 

 

 

 

 

 ──わたくし! ミホせんぱいのことをずっとお慕いしておりました! わたくしも、どんな逆境にもものともせず! 目標に向かって走り続けられる、ミホせんぱいのような不屈のウマ娘になってみせますわ!

 

 

 

 

 

 初めての出会い。顔を緊張と興奮で赤くし、目を輝かせたマイシンザンの告白が頭の中で虚しく木霊する。

 

「小さい頃の自分が、わたしにかけた言葉とマイちゃんから向けられたものと、そう違っちゃあいないでしょうに」

 

 『五冠ウマ娘』を超えるウマ娘に、という理想を抱きながら先んじて先輩を超えた皇帝に手も足も出せず、煮え切らないレースを繰り広げていた現実とのギャップに苦しみ、それでも憧れの人に近づきたいともがいていたあの時の自分のようになりたいと、マイシンザンは言ってくれた。

 

 そうか、そういうことだったのか。何故シンザンがエキシビションレースに、それも一か月も前から入念な準備をしてまで出張ってきたのはそれを理解させるためだったのか。

 

(私は、そんなことにも気付けないで──)

 

 マイシンザンが憧れた自分の姿は勝利で着飾った自分の姿──ではなく、不甲斐ない成績しか出せず、それでも憧れの人(シンザン)に近づこうと勝負の中であがいていた姿だったのだ。

 

 彼女への想いが先走るあまり、勝利そのものに対する執念が欠けていたことを見抜かれ、事実を容赦なく突き付けられミホは声も発せず項垂れていると、シンザンが口を開いた。

 

「……確かに、さっきまでの自分はマイちゃんが思う格好良い先輩とは言えなかっただろうさ。けど」

「今のミホは、格好良い先輩になってるのと違うかな」

「え……?」

 

 続いた言葉の意味が分からず顔を上げ、彼女の指し示す方へ顔を向けてミホは信じられないものを見たように目を見張る。

 

「マイ……!」

 

 視線の先。脚を引き摺りながら近付いてくるマイシンザンの姿があった。

 

 彼女の脚は屈腱炎に蝕まれているのだ、補助もなしに歩くなどそれこそ選手生命を捨てるようなものなのに……!

 

「マイ──っ」

 

 咄嗟に腰を浮かせるが、脚に思うように力がこもらない。

 

「こ、んな時に──」

「ん」

 

 言うことを聞かない我が身を罵っていると、紅白色の袖口が視界に飛び込んできた。

 

「ほれ」

「……っ」

 

 シンザンの手を取るべきか一瞬躊躇った後、ミホはどうにか一人で立ち上がってマイシンザンへ駆けていく。

 

 走ることを封じられたマイシンザンの手前、ただの疲労で身動きができないなどと死んでも言えるわけがない。

 

「ミホ、せんぱい……」

「マイ──マイ!」

 

 駆ける、などとは到底呼べない速度でよろよろと寄っていき、崩れ落ちるように倒れ込んだ少女をすんでのところで抱き留めた。

 

「マイ、杖はどうしたの? あなた自分の体のこと分かってるでしょう……っ」

 

 その場に腰を落とし、少女の脚へ目線をくれつつミホは病状を悪化させる真似をした理由を問い詰める。

 

「どうして、こんな無茶なことを──」

「申し訳ございませんでした……!」

 

 ところがマイの発した謝罪の言葉の意味が理解できず呆気に取られてしまった。

 

「マイ?」

「わたくし、一瞬でも疑ってしまいましたの。ミホせんぱいが、シンザンせんぱいを前にして、このレースを諦めてしまったのだと……!」

「っ!」

 

 思わず目を見開いてマイシンザンを凝視する。

 

「ミホせんぱいが如何ほどにシンザンせんぱいをお慕いしているかは、幾度とお話してくださったときの言葉の節々から伝わっていましたわ……同時に、ご自身がシンザンせんぱいを超えることが叶わなかった無念さも」

 

 腕の中で少女は声を震わせながら胸の内を吐露していく。

 

「ですから、お慕いするシンザンせんぱいと同じレースを走ることがどれほどミホせんぱいの心を乱したか。辿り着くことの叶わなかった頂が、突如眼前に現れた瞬間の動揺──わたくし、手に取るように理解できてしまって……」

 

 言葉を震わせて顔を上げたマイシンザンの瞳には大きな涙が浮かんでいる。

 

「直線でミホ先輩の苦しそうなお顔を見た瞬間、ミホせんぱいは、勝負を捨ててしまったのかと、思わず叫んでしまっていて……」

 

 声を詰まらせるマイシンザンの眦からはらはらと涙が零れていく。

 

「ですが、それはわたくしの思い違いでした。ミホせんぱいの、シンザンせんぱいへ食らいついたお姿は──わたくしが憧れた、憧れたままの勇ましい、ミホせんぱいで……っ!」

「マ、イ……」

「わたくし、必ず──必ず戻ってみせます。どれほどの時間がかかろうと、最後まで、挑み続けてみせます。今まさに、道を示してくださった、ミホせんぱいのように……!!」

 

 感極まって言葉を途切れさせたマイシンザンの額から伝わる熱を勝負服越しに感じながら、ミホは彼女の後頭部を見下ろす。

 

 少女には全てお見通しだった。

 

 自身のシンザンに対する決して褪せることのない憧憬。同じ名を抱いた者としての気負い。そして超えたいと願い、終ぞ叶うことのなかった残酷な結末……。

 

 複雑な感情を抱いて臨んだシンザンとのレース。マイシンザンを勇気付けるはずが、目標としていた先輩を前に畏れ委縮してしまっていた自分はあの叫びで逆に勇気付けられたのだ。

 

「……ありがとう、マイ」

 

 目の奥が熱を帯びる。

 

 レースの本分を半ば忘れ、憧れていた姿を見せることすらままならず、それでもなお目標と慕ってくれるマイシンザンを心から誇りに思うとともに、己の考えの至らなさも心から恥じ入った。

 

「本当に……先輩失格ね」

 

 視界の端で大切な後輩の後を追ってきたBNWの三人を前にして、目尻から流れる熱いものもそのままにミホは少女の頭を優しく抱き寄せた。

 

 

 

 

 

 ことの成り行きを見守っていた出走者たち。内の一人で最も彼女たちの近くにいたヒシアマゾンはすぐそこで佇んでいるシンザンへ声をかけた。

 

「なあ先輩。今の話、アタシも聞いてたんだけどさ」

 

 身を寄せるミホシンザンとマイシンザン。

 

 心暖まる光景を無感情にじっと見つめる大先輩に無気味さを抱きつつ、躊躇いながらも答えを聞きたくて踏み込んだ。

 

「先輩、ミホさんのためにレースに出たってのは本当……」

 

 突然、シンザンがかぶりを振った。

 

 予兆もなく、それも勢いよく首を回すものだから「うおっ!?」とヒシアマゾンは面食らって後退る。

 

 二度、三度と汗を散らし、大きく首を回す大先輩を前にわけが分からずあたふたしていたのだが……。

 

「……いやー」

 

 満足したのか頭を振り終えたシンザンはふぃーと息を吐き──

 

 

 

「しんどかった」

 

 

 

 いつもの穏やかさを取り戻し、あっさりとそれだけ嘯いたのだった。

 

 嘘だろ、と固まってしまうヒシアマゾン。

 

 シンザン本人は傍目から見れば疲労が感じられず、明らかに余力を残している風情がありながらなんだそのぼやきは。

 

「お疲れ様、アマちゃん。良い勝負だったね」

「あ……はい」

 

 水を向けられ絶句していたヒシアマゾンは我に返ると、力の抜けきった声でそうとだけ答える。

 

「とは言ったって、結局先輩にもミホさんにも届かなかったわけだし……完敗だよ」

「いんや。もう少し早めに最後尾から位置を上げて、ゆっくり追っとけばかもしれなかったと思うけどねぇ。わたしは」

「先輩、アタシの位置取りまで──」

「そりゃあ頭はスタンドに置くようにしてるからねぇ」

 

 先団に着けていながらこちらの位置取りまで把握しているとは……。

 

「にしても、バクシンオーちゃんも良く粘ったもんだ。見事なシンゲキ、いやバクシン? 具合だったね」

 

 「スタンド?」と妙な例えにヒシアマゾンは首を傾げるがシンザンは気にした素振りもなく、ある意味MVPだったサクラバクシンオーへと話題を変えた。

 

「バクシンオーについては、アタシも同意だね。アイツ、いつの間にあれだけのスタミナ着けてたんだか。ヒシアマ姐さんとあろうものがたまげちまったよ」

「坂をずっと走り込んでてね。二〇〇〇までならバテずに最後まで走れるようになったんだとさ」

「なるほど、道理で……」

 

 上級生たちの呼びかけにも微動だにせず、草生す屍と化した短距離の王者へ目を向けてヒシアマゾンも合点がいったように頷いた。

 

 

 

「え」

 

 

 

 直後シンザンへと振り返った。

 

「せ、先輩。そんな情報、どこから」

「バクシンオーちゃんのトレーナーから直接聞いたんだ」

「はっ?」

 

 聞き間違いかと疑って問い返せば、またも予想外の返答で呆気に取られる。

 

「『自分ところの子、短距離なら敵なしなのに中距離出るんかい?』って聞いたら快く教えてくれて、聞いてもないのに作戦まで話してくれたもんだったからちょいと困ったんだけどさ。まあ儲けもんと思ってありがたく聞かせてもらったよ。とはいえ長距離ぃ──じゃなくて中距離の二四〇〇は長すぎるから本音は一六〇〇の方に出したかったみたいだったよ。段階を踏んでいってっていうことで」

 

 レース展開も想定の内だったのか。んー、と伸びをして天気模様でも語るような呑気な調子のシンザンへ信じられないものを見る目でヒシアマゾンは凝視する。

 

「ただ本人が長距離出たいって言って聞かないもんだから、方便使って中距離(こっち)でお茶を濁したそうよ。バクシンオーちゃん天皇賞へのこだわり……なんだかナオキ思い出すよね」

「…………」

「しっかし流石にしんどかった……成績表とビデオで済ませないでミナに付き合ってもらったのは正解だったかもなぁ」

「……んで」

「ん?」

 

 気付けば、ヒシアマゾンの口から掠れた呻きが漏れ出る。

 

 シンザンがレースに飛び入り参加した理由も、レースに賭ける意気込みも一連のやり取りを目撃して理解した。

 

 だが何もそこまで用意周到にするのは、という強い戸惑いがあるのも確かだった。

 

「なんで、先輩は──」

「『そこまでエキシビ()ョンレース』に気合いを入れるのか、って? んふふ~。甘いねぇアマちゃん」

 

 心を読んだように言葉を引き継ぎ振り返ったシンザンは穏やかに微笑むと、指先をヒシアマゾンの鼻先へと突き付ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レースはね、突き詰めれば()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 優しげに、だが異議を挟ませない調子ではっきりと言い切った。

 

「レースに出るのは勝つためで、勝つためにはできることは方々手を尽くす。そこは今日のレースもオープン戦も、八大競走も関係ない。それに──」

 

 過去の実績と言葉の重み、それを実現せしめたシンザンの見えない力に圧倒され、ちょんちょんと鼻先をつつかれても、ヒシアマゾンは口を開くこともできなかった。

 

「──まあ、いいや。さてと、レースも終わったし、わたしは戻るとするかな」

 

 そう言った途端にぱっと手を離したシンザンを、ヒシアマゾンは食い入るように見つめてしまう。

 

「じゃあね、アマちゃん……機会があればまた稽古でもやろうね」

 

 「ケンさんはどこにいるかな?」と、流れるように踵を返しすたすたと歩き去っていく茶褐色髪の大先輩をヒシアマゾンは引き留めることもせず、声も出せずにただ見送るしかできない。

 

 離れていくシンザンの赤い羽織姿の背中からは、勝利への喜びや自信といった感情は全く見受けられなかった。

 

「…………」

 

 これだけの面子を相手にするための入念な情報収集、予行演習を怠らず、その上で実力を遺憾なく発揮しての完勝。

 

 シンザンへ今まで抱いていた漠然とした尊敬の念が、今の会話によってはっきりとしたものへと形作られた。

 

「…………っ」

 

 ふるり、とヒシアマゾンは体を震わせる。

 

 

 

「…………こっわ」

 

 

 

 ──人は見た目で判断してはいけない。

 

 

 

 その言葉の意味を本当の意味で理解し、シンザンというウマ娘の深奥──端から望む姿は穏やかなれど、一歩足を踏み入れた瞬間本性を表した峻険な山嶺のよう──に触れたヒシアマゾンは鳥肌の立った両腕を抱くように擦ったのだった。

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