神が讃えしその駿駆 作:松武栗尾
ファン感謝祭の開催にあたり設営された救護室。マチカネフクキタルは仮設ベッドの上でぎこちない笑顔を浮かべていた。
「本当に大丈夫なのね?」
「も、勿論ですっ。休んだお陰でだいぶ楽になりましたよ! あはっ、あははは……」
「そ、なら良かった」
「イエス! ファンをエキサイトさせることも大事ですが、自分のヘルスが一番デース!」
そう言って空笑いすると、自分の体調の急変を聞き駆け付けてくれたメジロドーベルがほっとしたように表情を崩し、勝負服姿のタイキシャトルもうんうんと頷いた。
「てっきり拾い食いでもしてお腹を壊したのかと思ってマシタヨー」
「……タイキ、いくらなんでもそれはないんじゃない?」
「そ、そうですよ! 拾い食いなんて誰がするものですかっ! ははっ、ははは……」
とぼけた物言いのタイキシャトルへ冷静に突っ込みを入れるドーベル。自分の具合を慮ってくれる暖かな友人たちを前に、一方のフクキタルは……。
(い、言えない……仮病だなんて)
内心冷や汗がダラダラだった。
体調不良なんて真っ赤な嘘である。体調はもちろん今日の運勢は絶好調、ラッキーアイテムも完璧でシラオキ様のお告げも前途洋々とのお墨付きをいただいている。
では何故具合が優れないと嘘を付き、エキシビジョンレースを辞退し体調の不調を装ってベッドなんかに身を任せているかというと。
(しかし、シンザン先輩は大丈夫でしょうか……)
今まさにエキシビジョンレース中距離部門──本来フクキタルが走るはずであったレースに代走として参戦している先輩が脳裏を過った。
『ファン感謝祭の特別レースの枠を譲って欲しい』
全ては一ヶ月前──そう一ヶ月も前の話だ。
突如シンザンに呼び出され──呼び出されるような覚えもなかったのでビビり散らかしていたのだが──あまりに唐突に切り出されたので思わず聞き返してしまったくらいである。
理由は聞かないで欲しかったらしく、加えてこの件については内密で頼むと釘を刺されたこともあってどうしたものかと頭を捻ったのだが……。
(あんな表情をされるなんて思いもしませんでした……)
深々と頭を下げる直前のシンザンの普段と異なる真剣な表情。黒い瞳に宿った力強い輝きに呑まれるように圧倒され、フクキタルは思わず自分の出走枠を譲ってしまったのだった。
(しかし、結局シンザン先輩は何を考えて……?)
あの時の選択が正しかったのかは分からない。ただ一つ、言えるのは『五冠ウマ娘』シンザンが一時的であれターフに立っているということだ。
「……あれ? もしかしてこれ、大変なことになるのでは」
「? フクキタル?」
「何か言いましたカ──」
「ここにいたか」
ふと我に返りシンザンの出走が周囲に与える影響について考えようとしたところ、ぶっきらぼうな声が施行を遮った。
「ヘーイっ、ブライアン!」
声のした方へ顔を向けると、そこにいたのは生徒副会長、そしてタイキシャトルのチームメイトでもあるナリタブライアンだった。
「ブライアン先輩? どうかしたんです、か……」
ドーベルの問いかけを無視し、ただならぬ雰囲気を纏わせて二人の間に身を割り込んだ黒鹿毛の副会長の姿にフクキタルは身を強張らせる。
「おい」
「は、はい」
「出る予定だったエキシビションレースで代走を頼んだそうだな」
「そ、そうですが……」
「代走?」
「あっ」
有無を言わせぬ迫力に気圧されていると、脇から怪訝そうな声が飛んでくる。
「何それ? フクキタルあなたそんなことしてたの?」
「ワタシたちそんなこと一言も聞いてませンヨ?」
胡乱げに首を傾げる二人へブライアンは無造作に目線をくれたかと思うと、何やらを取り出した。
「見ろ」
ずいっ、と突き出されたのはスマートフォン。
怪訝な表情で顔を見合わせ、言われるがままスマートフォンの画面を覗き込んだ二人を前にフクキタルは背筋が凍る思いで行く末を見守るしかできないでいた。
「ウマッター……ですよね。動画?」
「とにかく再生してみまショウ」
「どれどれ……」
画面に表示されていたのはSNSにアップされた動画のようだ。
「この動画、今日のエキシビションレースのやつじゃない?」
「オーウ、ベリーストロングな勝ち方デスネ」
「ええ……なにこの差し返し」
レースの動画らしいが、何やら二人して難しい顔で唸っている。
「けどこの勝った子、どこかで見たことあるような気が……」
「シンザンだが」
「あ!そうよっ、この勝負服を着た先輩の写真を教科書で──」
「は?」
ブライアンの素っ気ない答えにドーベルが硬直した。
「ホワイ? どうしてシンザンセンパイがレースを走ってるんデスカ?」
「フクキタル」
「ひゃ、ひゃいっ」
「お前、
「ふぎょ!?」
疑問符を浮かべるタイキシャトルを無視し、ぐるりと首を巡らせたブライアンに矛先を向けられどころか図星を突かれてフクキタルは潰れたカエルのような声を漏らす。
「乗せられた、ってそれどういう意味デス?」
「ちょ、ちょっと待ってください! どうしてシンザン先輩がフクキタルの代走を? いやそもそもなんで先輩がレースに出ることに?」
要領を得ず腕を組んで首を傾げるタイキシャトル。ドーベルに至っては話に追いつけていないようで混乱した様子だが、ブライアンは一顧だにしていない。
「理由なんぞアタシが知るか。ただ一つ言えることはコイツは仮病を使ってシンザンがレースに出れるよう謀ったということだ。第一、エキシビションレースに出るつもりでいたヤツがレースの直前になっても制服を着たままな訳がないだろう」
「た、確かに」
「言われてみれば、デース」
「ふぐう……っ」
言い逃れのできない点を指摘され、身を縮こませて布団に潜り込むフクキタル。
ファン感謝祭での自分の役目を放棄してファンの期待を裏切り、友人たちに嘘をついていたことが露見し、おまけに生徒会にまで目をつけられてしまった。
(わ、私どんなお叱りを受けるんでしょうか? 反省文? 一週間のニンジン畑の雑草取り? はっ! も、もしかして停学──!?)
ネガティブな思考を目まぐるしく働かせていると、ドーベルが上擦らせながらも声を上げる。
「ま、待ってください! 確かに、確かに仮病でレースを放棄したことは駄目なことかもしれません。けど、フクキタルも好きで放棄したとは思えません!」
「ドーベルさん……っ」
「ソウデスヨ! フクキタルにも何か考えがあったのかもしれないじゃないデスカ!」
「タイキシャトルさん……っ!」
「……何か勘違いしてるみたいだが、ソイツに灸を据えようなんて毛ほども思っちゃいないぞ」
「「え?」」
「アタシはな、確認を取りに来ただけだ──むしろ礼を言いたいくらいだよ」
ブライアンは面倒くさそうに頬を掻くと拍子抜けたタイキシャトルの手からスマートフォンを取り返し、画面を凝視する。
「この走り──どう見ても奴は余力を残してる。これだけの連中を相手にこんな余裕綽々の走りができるコイツが全力で走ったら、どんな走りをすると思う?」
「そ、それは──」
「だからアタシは決めた。何がなんでも、どんな手を使ってでもシンザンをURAファイナルズに引きずり出す」
言葉を切って顔を上げたブライアンを見て、フクキタルだけでなくドーベルもタイキシャトルも息を呑む。
抑えられない感情の昂ぶりで口角が歪み、ぎらぎらと荒々しく黄金色の双眸を燃やしている。
「アタシとレースをするときはこんな余裕そうな顔はさせてやらん。アイツのとぼけた上っ面を剝ぎ取って、その下に隠した
その輝きはまるで飢えた猛禽が狩るべき獲物を定めたような、闘争心剥き出しの眼差しだった。
予感は的中した。シンザンの出走をきっかけにして起こるであろう余波の初めのうねりが、今まさに目の前で胎動を始めていた。
「あれが、シンザン先輩の──『五冠ウマ娘』シンザンの走り」
学園グラウンド。大きな波乱が巻き起こったエキシビションレース中距離も終了し長距離部門へと移行する中、エアグルーヴは衝撃から未だ立ち直れずにいた。
「『鉈の切れ味』と揶揄された末脚ですか」
「そうだ。あれが時代を切り開いた豪脚。『髭をも剃れる鉈の切れ味』とはよく言ったものだよ」
静かに圧倒されていたエアグルーヴへ同意の投げ掛けられる。
「
そろそろとシンボリルドルフを見やる。柵を握ったままではあったがその横顔はほんのりと朱が差しているが普段通りの冷静さを取り戻してした。
「正直に申しますと、たとえかの『五冠ウマ娘』といえどそう易々と勝てるとは思ってもいませんでした。誰が勝ってもおかしくない実力者が揃っていたのですから……バクシンオーは別として」
「ああ。実際、サクラバクシンオーは別としても
「とはいえ、最もレースを盛り上げたのはバクシンオーであることは間違いありません。あの距離までスタミナが保つようになっていたとは驚きです」
「確かに驚きではあった。しかしこれを予想外の一言で片付けるのは些か憚られる。彼女と、彼女のトレーナーの血の滲むような努力が芽を出し始めたというのが適当だろうからね」
「ええ、まったくです」
自身の適正距離を優に超える距離を先頭で驀進し、ファンを大いに盛り上げた稀代のスプリンターが上級生におぶられて退場していくところを生暖かい称賛の眼差しで見送るエアグルーヴとルドルフ。
二人の間に降りたしばしの沈黙は周囲の喧騒に埋もれ、誰の目にも留まることはない。
しかし喧騒と言っても周囲の人集りは先程までの勢いを失っている。これからエキシビションレース長距離部門があるというのにどこか寂しく感じられた。
無理もない、とエアグルーヴは先程の強烈なレースを前にしては興奮も満たされてしまう。そしてその興奮と感動を生んだのはシンザンと、彼女の走りで……。
「エアグルーヴ」
「はい」
「その……先程はすまなかった。我を忘れてしまった挙げ句、君へぞんざいな態度を取ってしまって」
理解できたものの胸に芽生えたいささかの悔しさと反発心にエアグルーヴが戸惑っていた折、ルドルフが遠慮がちに口を開いた。
恥じ入るように俯くルドルフからはいつも満ち満ちている威厳が鳴りを潜めている。
「……お気になさらないでください。確かに、戸惑ってしまったことは事実ですが。ただ、改めてお聞きしても?」
「もちろんだよ」
「会長にとって、シンザン先輩とはどういった存在なのですか」
「そうだな、私にとって彼女は──」
もう一度同じ質問をエアグルーヴは投げ掛け、ルドルフも応えようと口を開く。
「……?」
が、ルドルフは言葉に詰まったように口をまごまごさせるだけで、一向に続きが出てこない。
「会長?」
「──どう説明していいものか……私自身シンザン先輩に対する想いをどう言葉にすべきか整理がついていないみたいだ」
「そう、ですか」
「君に問われるまでそんなことにも気付けなかった私を、笑ってくれるかい?」
そのまま口を閉ざしてしまったルドルフは、エアグルーヴが今まで聞いたことのないような小さな声で恥じらうようにこちらを窺ってくる。
「まさか。ですが、あなたの様子からでも分かることはあります」
今まで見たことのない皇帝シンボリルドルフの表情、感情の発露。
「会長にとって、あの方がいかに大きな存在であるかは理解することはできましたから」
自分には、恐らくは誰もが引き出すことのできなかったルドルフの新たな一面──いやウマ娘の見本たるという自覚と理性でもって抑えていた生徒会長シンボリルドルフの、一人のウマ娘としてのシンボリルドルフの姿。
それを露にさせたシンザンに対し、エアグルーヴは畏敬の念と微かな羨望の想いを胸に抱いて目線を切った。
「……ありがとう。最近、君には気を遣わせてばかりだよ」
「ふふ、私としては会長にはもっと隙を見せていただいてもいいのですよ?」
「これでも君には気を許しているつもりなんだがな……」
「話は戻りますが、シンザン先輩は本当に強いレースをされていましたね」
互いに苦笑し合うとエアグルーヴはレースへと話題を軌道修正をかける。
スタートダッシュ、位置取り、レース運び、ペース配分、仕掛けのタイミング、勝負根性……挙げれば切りがないが彼女の持つ競走技術はエアグルーヴの目から見てもあらゆる点でトップクラスのものであった。何より直線で見せつけた末脚の冴え──ミホシンザンにアタマ差抜けられた刹那に差し返した瞬間は乾いた笑いさえ出かけたくらいだ。
「GⅠレースに勝利するウマ娘ともなると総じて技術面は高い水準を保持しているものです、シンザン先輩も素晴らしい技術をお持ちのようです。ただ──」
「なにか気にかかったことでも?」
「はい。一つ気になったのは他の出走者との力量差です。私にはそこまで実力に差があったとは思えません……故に何故シンザン先輩があそこまで強いレースを走れたのかがどうも腑に落ちないのです」
伝説のウマ娘シンザン乱入という事実がメンタル面に影響を与えた点は多分にあるだろうが、それにしたって最後の直線では呆気なく勝負が着きすぎたきらいがあった。
「……確かに彼女のレース振りは
「勝敗を分けたもの?」
「ああ」
言い回しに引っ掛かりながらもエアグルーヴはルドルフへと向き直る。
ライバルたちが持たず、シンザンのみが持ち得ていた勝利への鍵とは……?
「それは姿せ──」
「姿勢だよ」
ルドルフの答えに予期しない声が被された。
「え?」
声の飛んできた方へ二人揃って顔を向けると、柵に手を添える一人の女性が自分たちから三、四人程の離れた距離に佇んでいた。
本来なら会話に割り込んだ女性へ眉を顰めるところだが、エアグルーヴは彼女の知ったような口振りに思わずおうむ返しに聞き返してしまう。
「姿勢、ですか?」
「レースに対する『姿勢』。他の子たちにとって今のレースはあくまで模範競走。このレースはファンとの交流、あくまで楽しんでもらうことが主題だった」
頭の頂点に立つ耳と腰から垂れる尻尾。女性はウマ娘であったが学園の生徒ではない。こちらの困惑を余所に名も知らぬウマ娘は言葉を続ける。
「だけどシンザンは違った。あの走りは勝てるように完全に調整してきてた。他の子たちの調子が七割ならシンザンは九割九分。シンザンが勝つに決まってるさ」
「どうしてそうだと言い切れるのです?」
「君たちも見ただろう? 白いアイマスク。アイツ、レース──特に大レースに臨む前はあれを着けて集中力を高めてたんだよ」
「ア、アイマスクで? そんな話、聞いたこともありません」
「メンコ代わりとでも言えばいいのかな。それに、あれはパドックの後控え室に戻ってから着けるからね。で本バ場に出る前には必ず外すんだ。そりゃ普通は知れないさ」
「そ、そうですか……では、何故今日に限りアイマスクを」
「これは推測だけど、ミホちゃんへのメッセージじゃないかな。『今日は勝負しに来てるんだ、伊達や酔狂じゃあないんだぞ』って……まあ単純に外すタイミングがなかっただけかもしれないけど」
立て板に水のようにすらすらと答えを述べられてエアグルーヴは思わず閉口してしまう。
「しかしまあレースの時は本当に容赦ないな。あれだけ可愛がってたミホちゃん相手にあれはないだろう。あの差し返しは。君もそうは思わないかい?」
「は、はあ」
「タカチホも目黒でやられてたけど……まったく」
謎のウマ娘はこちらの様子には気にも留めず苦々しそうに顔を歪めたが、直後に口元を綻ばせて懐かしさを漂わせた大きなため息を吐き出した。
「ダービーを思い出すよ」
遠くを見据え感傷に浸るように黙り込んでしまった謎のウマ娘の横顔を暫し凝視した後、エアグルーヴは遠慮がちに声をかけた。
「ところで失礼ですが──」
「ん?」
「あの、あなたはどちら様で?」
「えっ」
キョトンとした顔で見つめてくる謎のウマ娘。
「……あっ!? す、すまないっ。つ、つい話が聞こえたものだからで、でしゃばった真似を……っ!」
瞬間、彼女は我に返るとはっとしたように顔を赤らめてわたわたと慌てだした。
その態度の変わり様にエアグルーヴは鼻白んでしまう。つらつらとシンザンに関する見識の深さを覗かせ、レース前のルーティーンまで知っていたこのウマ娘は何者なのか?
「じゃ……じゃあ、私はこれで……」
「待ってください!」
エアグルーヴが呆気に取られている間にもこそこそと退散しようとしたそんなウマ娘を、ルドルフが引き止めた。
「会長?」
「そんな。いやまさか──」
ルドルフへ目線をくれれば、それまで一言も発さなかった彼女の表情は信じられないといった面持ちを浮かべている。
「か、会長はこちらの方をご存知なので?」
「知っているもなにも……彼女は、シンザン先輩と三冠レースで激闘を繰り広げ、そのシンザン先輩をしてライバルと呼ばれたあの──!」
「……ライバル、か」
うろたえる皇帝の姿にただ者ではないと遅れながらも悟ったところ、足を止めていたウマ娘が口を開いた。
「天皇賞か有マ記念に勝ててたら、自信を持って肯定できたんだろうけど」
言葉を切り、くるりと向き直った彼女は諦めたような笑みを浮かべていた。
「如何せん、その呼称は過分だと思うんだよね」
「! やはりあなたは……」
「クラシック期のライバル……?」
ルドルフの説明を元に記憶を辿る。
モノクロの、あるいはカラー映像の中。シンザンのクラシック三冠レース。数多のウマ娘が彼女の勝利を阻まんと死力を尽くした。
その中の内の一人のウマ娘が目の前のウマ娘の姿が重なって──
「っ!! では、あなたがあの?」
「はじめまして。エアグルーヴさん。そして──皇帝シンボリルドルフさん」
エアグルーヴも目の前のウマ娘が何者かに気付き、あらんかぎりに目を見開いた。
長い黒鹿毛をポニーテールに纏め、右耳に白梅をあしらった耳飾り。
切れ長の芯の強さを感じさせる鋭い目付き。しかしその眼差しに反し、紅梅のように真っ赤な瞳は春の陽気のような穏やかな光を内包していた。
「トレセン学園の元生徒