神が讃えしその駿駆   作:松武栗尾

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 《注意》

 当作品の一部の登場人物は実在する方々をモチーフにしています。
 該当する登場人物の言動・心情は一部を除き全て作者の想像でありモチーフになった方々の当時の心境を全て反映しているわけではありません。ご留意ください。










 シンザンは速いウマ娘じゃなくて強いウマ娘だって皆言いますけどね、そんなことはなかったですよ。あの子は速くて、強かった。だから割合安心して見届けられましたよね。





 ──シンザンの日本ダービーを振り返る担当トレーナー







第二十八話 勝利の余韻 後編

『いつ見ても富士山は素敵ですわ』

『富士山、好きなんだ』

『はい、こうして遠くから望む姿は優雅でもいざその麓へ赴けば雄大で厳しく、いかにわたくしが小さい存在であるかを認識させられますから』

 

 

 

『まるでわたくしのお慕いして止まないミホせんぱいのよう』

『富士山? ミホさんが?』

『はい。わたくしの今の成績はミホせんぱいが残された成績とは雲泥の差。せんぱいに比肩するような成績を残せる日がくるまで幾度となく無様を晒すことになるでしょう。最悪、届くことすら叶わないかもしれない』

 

 

 

『……それが富士山とどう関係してるわけ?』

『登山と似ていますわ。目指す頂はいつまでも変わることなく聳え続けている……挑み続け、諦めなければ少しでも近付けます。そしていつかは頂からの景色を望むことができる』

 

 

 

『もし、アンタの言う山頂に辿り着けなかったら?』

『たとえ登頂叶わずとも山頂を目指し続けたという事実は残ります。道半ばから望める景色もきっと綺麗に違いありませんわ』

 

 

 

『そういうもの、なの?』

『ミホせんぱいはわたくしを──そしてミホせんぱいのお慕いしているシンザンせんぱいも、決して諦めることのなかったミホせんぱいを、山の頂きのようにいつまでも待ち続けて下さっているはず。そもそも』

 

 

 

 

 

 ──脚を踏み出し続けなければ、目指す場所には近付くこともできませんものね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……踏み出し続けなければ、ね」

 

 あの日、ナリタタイシンから伝えられた少女の想いをシンザンは噛み締めるように呟いた。

 

 学園の一角。チョコバナナやニンジン焼きといった模擬店の列なりを眺め香ってくる美味しそうな匂いを堪能しつつ、グラウンドでのレース(用事)を終えたシンザン。

 

 自らの目標とそれまでの道のりを山登りに例えたマイシンザンへ想いを馳せる。少女の言う山の頂、峰の矛先の鮮明さをきっと見せることができただろう。

 

 

 

「なあ、あの子もしかして……」

「さっきのレース走ってたウマ娘、だよな?」

 

 

 

「あのウマ娘、シンザンって名前らしいぜ」

「え、シンザンってあれでしょ? ミスターシービーの前の三冠ウマ娘」

「滅茶苦茶強いウマ娘だったって話だよね」

 

 

 

「嘘、あれ、シンザン先輩じゃない?」

「え? ほ、ほんとだ。じゃあ、あれが先輩の勝負服……」

「風格が……すごい」

「けど、どうして勝負服を……?」

 

 

 

 多くの人々でごった返す中、自分に気付いた少なくない来園者と生徒たちが足を止め、そんな会話を交わしているのを耳をぴくつかせて聞いていた。

 

(今も昔も、距離を取られるのは変わらないねぇ)

 

 通行人たちが寄りつかないせいで自分を中心に半円状の空間がぽっかりとできている。

 

 三冠を達成した後の現役時代、そして引退後もしばらくの間は遠慮するように人が寄り付かなかったものだがらこの光景は見慣れているし扱いも慣れてもいたがまさか今日もこうなるとは……予想が少し外れてしまった。

 

 遠巻きに自分を窺う野次ウマからは好奇心、畏敬、無関心、詮索、そして極僅かに懐かしさといった様々な想いのこもった視線を一身に注がれているのがひしひしと伝わってくる。

 

 そういった視線にも慣れ切っているので別に気にも留めていない。だが……。

 

 

 

「しゃ、写真。撮ってもいいよね?」

「だ、駄目だよ勝手に撮っちゃ。先輩に許可取ってからの方が……っ」

「ていうか、写真撮るのも畏れ多くない……?」

 

 

 

 スマートフォンを手にこそこそ耳打ちし合う後輩の姿が目に入る。

 

「……」

 

 いつぞやの栗東寮での撮影会もそうだったが、今はカメラではなくスマートフォンで写真を撮影できるのだ。

 

「今は誰でもカメラマンかぁ」

「シンザーン」

「あっ」

 

 昔の一眼カメラは高級品だったな、と呑気に懐かしむ最中、自分の名を呼ぶ声がした。

 

「ケンさんっ」

 

 聞き慣れた声が上がった方へ首を巡らせ、声の主を認めるとシンザンは顔を綻ばせた。

 

「いやあ、すまんすまん。待たせてもうたな」

なんもなんも(全然)。このくらいは待った内に入らないよ」

 

 声の主は誰も立ち入ることをしなかった、いやできなかった無人地帯に躊躇せず足を踏み入れる。

 

 周囲の注目を浴びていることを意に介さず、手を翳して詫びた背の高い男性をシンザンは見上げ微笑みかける。

 

「ケンさん。勝ってきたよ」

「うん、見とったで」

 

 そう勝利宣言をすれば、ケンさんと呼んだ男性は眼鏡の奥の優しげな眼差しを細めて肩を叩いてきた。

 

 背の高い男性──ケンさんこと『ナカオ』トレーナーは現在のトレセン学園に在籍する者の中でシンザンが最も長い付き合いをしている、北海道の片田舎から出てきた自分にとっての父親のような存在だった人である。

 

 現役の頃は自分の出走するレースは必ず応援に駆け付けてくれ、レースに勝つといつも褒めてくれたがそれはファン感謝祭のエキシビションレースに勝った今日も変わらなかった。

 

 あの頃と異なる点といえば眼鏡を掛けたこと、一職員として勤めていたトレセン学園を辞め──一人のトレーナーとして新たに学園に勤務していることだろうか。

 

「代走の件も伝えてくれてありがとうね」

「そのせいで──せいって言うのもおかしな話やけど──実況席の人らに詰め寄られてすぐこっち来るはずが遅れてもうたんやけどな」

 

 ひっぺがすのが大変やったでほんまに、とぼやくケンさんへシンザンは頭を傾けて詫びを入れる。

 

「ごめんごめん……さてと。戻ってきてくれたことだし、早速着替えますかねぇ」

「そこも変わらへんなあ……僕としてはもう少し自分の勝負服姿を見ていたいんやけどな」

「んー、けどいくらケンさんのお願いでもこればっかりは」

 

 肩を竦めたケンさんの嘆きに後ろ髪を引かれる思いがしたが、シンザンとしては芝の上以外で勝負服を纏っている違和感がどうしても拭えないのだから仕方がない。

 

「もちろん分かっとるよ。今のは僕の個人的な意見やから。けど、その前に」

「え? あっ」

 

 すでに踵を返していたシンザンだったが引き留められて振り向くと、視界を掌が遮った。

 

 

 

「お疲れさん、よう頑張ったな」

 

 

 

 直後、その言葉と共に手が頭に乗せられ、ぽんぽんと優しく髪を撫でられる。

 

 思わずシンザンは目を瞬かせてしまう。周囲のファンや後輩たちも皆一様に驚いているの肌で感じられた。

 

「おっと。すまん、つい昔の癖で」

「…………」

「もうそんな歳でもあらへんよな……さ、部室行こか」

 

 手を乗せたケンさんも慌てて手を引っ込め、気まずさを誤魔化すように促すと雑踏へと足を向けた。

 

「…………」

 

 だが、シンザンは頭に手を添え、そこにあった感覚を確かめる。

 

「……へへ」

 

 久しく感じることのなかった暖かみのある感触の懐かしさに、周囲の視線も忘れて思わず顔を弛緩させてしまった。

 

 

 

 

 

「しっかし、他の子たちの動揺もあったとはいえしっかり勝ち切るんやからほんに強いなあ」

 

 場所をケンさんのトレーナー室へと移し、勝負服から制服へ着替え終えたシンザンは扉を開けると、廊下で待たせていたケンさんが先程から同じことを繰り返し綺麗に整理整頓された自身のトレーナー室へと入ってきた。

 

「なに言ってるのさ。ケンさんがチームの子らと稽古させてくれたお陰だよ」

「自分に頼られて断れるわけあらへんからな」

「特にあの姉妹っ子、あの子らには特別お礼をしてあげないとねぇ」

「ええよそこまでせんで。むしろお礼したいのは僕の方や。()()()に入った自分の練習相手に、僕のチーム選んでくれるなんてなあ」

 

 「最近伸び悩んでたところやったし良い刺激になったわ」とぼやいたケンさんは腕を組み、壁に掛けた赤と黒の和装勝負服をしみじみと見つめた。

 

「久方にお目にかかったけどほんま変わらんな……変わらん格好良さや。けど、まさか今日の模擬レースに櫛簪(それ)挿してくる思わへんかったなあ」

 

 得意気に鼻を鳴らすと、頷いたケンさんが目線をこちらへ向けながら切り出してきた。

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()言うとったやないの」

 

 

 

 

 

 ぴた、とシンザンは後頭部へと伸ばした手を止める。

 

「まあ──その通りなんだけどさ」

 

 一拍置いて髪から挿していた櫛簪を抜く。留めていた後ろ髪が下りてうなじを覆う。

 

 掌に収まる漆塗りの櫛簪を見下ろし、表面に彫られた風の意匠をそっとなぜた。

 

「母さんの分まで、なんていっちょ前なことは言わないけど」

 

 忘れもしない五月三十一日。

 

 あの日、日本一のウマ娘を決める日本ダービーに挑む自分を応援するため北海道から遠路はるばる駆け付けてくれた両親。

 

 控え室まで足を運んでくれた母が震える手で差し出してきたのは、この櫛簪。

 

 聞けば母が一度として纏うことのできなかった勝負服。その勝負服に合わせる髪飾りとして特注したものだったという。

 

 母がトレセン学園の卒業であったことを知ったのはその時だった。同時に、どうして母がトレセン学園への入学を反対していたのかも知った。

 

「喜ぶ顔が見れるならって、誓ったからねぇ」

 

 巻き昇る疾風──母の名を連想させる意匠を見つめて、櫛簪をシンザンはそっと両手で包み込む。

 

 母の夢見たクラシックレース、八大競走。この櫛簪は大舞台を勝負服を着て駆けることのなかった母の夢の跡。

 

 子に自分を重ね、己の叶うことのなかった夢を託すことの愚かさを自覚しながらそれでも渡すことを選んだ母の想い。

 

 母からすれば大一番に臨む娘に余計な重荷を背負わせてしまうと詫びられたが、あの時シンザンは自分の知らなかった過去を告白した母と同じ道を辿っていたことへの嬉しさから迷いなく受け取った。

 

 以降、ダービーを含む八大競走では勝負服と共に母の櫛簪を挿して走り、勝利の栄光も共にしてきた。

 

 大切な母の破れた夢の結晶(櫛簪)……だから皐月賞を除く八大競走でしか挿すことはなかったし、挿す機会は二度とこないと思っていた。

 

「今日のレースはそれくらいわたしにとって大事だったってことよ」

「それもそうやね」

「ミホとマイちゃんの手前、半端な走りはできないしね。それに、ミホならわたしの意図に気付いてくれると思ったからさ」

「ミホちゃんには託したものな、お袋さんの櫛簪」

「ふふ。わたしも、母さんの櫛簪を人に委ねるとは思ってなかったけど」

 

 櫛簪を年季の入った桐の箱に仕舞いながら、シンザンはケンさん困ったように笑って返す。

 

 

 

 『ミホシンザン(あの子)ために淀へ来てくれ』

 

 

 

 ミホの最後のレースとなった春の天皇賞。

 

 レースが差し迫ったとある日。帰省中のシンザンの元にミホのトレーナーが突如やってきたかと思えば開口一番そう切り出したことは今でも覚えている。

 

「軒先で頭下げたままずっといられちゃあね……あそこまでしてる人を顔も合わさず帰せないじゃない。ミホのためにわたしのところまで足運んでくれたわけだし」

「ミホちゃんのトレーナー、相当に悩みに悩んで自分ところに伺った、っていうのは風の噂で耳にしたけれどな」

「あの頃は……あの頃は丁度わたしも、休学し始めだったし。それでどうしても応援に行くのは叶わなかったからさ。あの時のわたしにできたのは──うん、櫛簪(これ)を渡してもらうことくらいだったから」

 

 ことん、と簪入れを机に置き普段使いの一本簪を手に取る。

 

 家に上げるや否や何度も謝罪を繰り返しながら土下座まで披露したミホのトレーナーの懇願に、あの時の自分は応えることができなかった。

 

 現地で後輩を応援したい気持ちよりも、レース場に足を運ぶことの辛さが勝っていたから。

 

 でもあの子の力にはなりたい。その気持ちからか気付けば母の櫛簪へと手を伸ばし、ミホのトレーナーの手へ託していた。

 

 自分の想いが通じたのかは分からない。だが櫛簪を挿したミホは天皇賞を制した。ぼろぼろで、返しウマでまともに走ることすらできない満身創痍の姿。

 

 勝者とは思えないミホの姿をテレビで見守っていたシンザンは、櫛簪を渡したのは間違いではなかったと今でも確信してる。

 

 自分と同じ名を持ち、自分に憧れた故に苦しみもがいた後輩──最も愛した後輩の最後まで理想を捨てなかったその姿こそが、己が立ち直る最初の切っ掛けになったから。

 

「ともあれ、今日の企みは大成功だ。マイちゃんの気持ちも繋ぎ留められたし、何よりレースにも勝ったからね」

 

 下ろした髪を纏め、簪で留め終えるとシンザンは満足げに頷いてみせた。

 

「今日のレース運びには親分とトレーナーがいても満足したんじゃないかしらねぇ」

「そうやな、あの二人もまた手放しで褒めてくれるやろな」

 

 現役時代、自分の走りっぷりを絶賛する二人の得意気な姿を思い出し、シンザンは同じ光景を思い描いたであろうケンさんと顔を見合わせて笑いあった。

 

 そうして少しの間笑った後シンザンは目を伏せた。

 

「どないした?」

「…………」

「シンザン?」

 

 俯いて黙り込んだ自分を覗き込むケンさんを前に逡巡していた。

 

 今日、ファン感謝祭で走ることを決めてからずっと胸の内に秘めていた想いを告白して良いものか、と。

 

「……いやね」

 

 それでもケンさんには──自分のトレーナーと個人的にも親しかったこの人には伝えるべきだと意を決して。

 

 

 

()()、守れてよかったなって、思っただけよ」

 

 

 

 ぽつりと、囁くように呟いた。

 

「っ、……そう、やな」

 

 瞬間、ケンさんが顔を強張らせ、声を詰まらせた。

 

「しっかり仕上げてきたさかいに。約束だってしっかり守ったんや」

 

 そう言葉を添えて表情を柔和なものに変え、静かな優しい声と共にそっと両肩に手を置いてくる。

 

「だから、マサルちゃん──いや」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『クリタ』さんも()()()()ほっとしてくれてはるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケンさんが口にした名前に、鼓膜を揺らした響きの懐かしさにシンザンはゆっくりと浸るように目を閉じた。

 

「……うん」

 

 かつて所属していた親分のチームの補佐役を務め、自分の担当を務めてくれたトレーナー。

 

 

 

 誰よりも早く、己すら気付かなかった才能を見抜き三冠の偉業へとへと導いてくれた、自分のトレーナー。

 

 

 

 それ故に大きな過ちを犯してしまった、今はもう言葉を交わすことの叶わない、大切な相棒(ひと)──

 

 

 

「……そうだね」

 

 シンザンの脳裏をトレーナーと共に過ごした記憶が鮮明に駆け巡る。

 

 初めて顔を合わせた日。稽古と練習の日々。些細な日常。他愛のない会話。苦悩した一夏。大一番に臨む瞬間の闘争心。栄光の瞬間。そして……。

 

「あ」

 

 今は亡きトレーナーの記憶を辿っていた折、ふと気付く。

 

「……気持ちの整理は、着けたつもりだったけど」

「シンザン……」

「走った後は、トレーナーのことを考えるとどうとおセンチになっちゃうんだ──けど」

 

 知らぬ間に頬を伝っていた涙を拭って顔を上げ、気遣うように覗き込むケンさんへ微笑みかける。

 

「大丈夫、安心して。今のは油断してただけだからさ」

「ほんまか? 自分、まだクリタさんの死を──」

「久しぶりのレース──ミホが相手だったからなおさらだ──で気持ちが高ぶっちゃっただけだから」

 

 手を振って何でもないことを伝えるが、半分は嘘だった。

 

 復学してから半年以上経つもののやはりトレーナーと会うことができないのは堪らなく寂しかった。

 

 まだ若く、チームを率いるトレーナーとしてこれから活躍といったところであったのに……。

 

 ただ、今日のレースを走って分かったことがある。

 

 

 

(トレーナーがいないところで負けるのは、もうごめんだね)

 

 

 

 あの日──十二月十八日の敗北からの一連出来事を切っ掛けに、決して負けてはならないとの想いをより強く再認識したのだった。

 

「ふぅ……辛気臭くしちゃったね」

 

 大きく息を吐き出して気持ちを切り替える。

 

 折角、マイシンザンを踏み出してもらう勇気を与えられ、良い気分でファン感謝祭を旧友と堪能しようとしていたのだが。

 

「ごめんケンさん。弱気なところ見せちゃって」

「ええって、僕と自分の仲やない──ところでシンザン、この後まだ時間あるやろ?」

 

 どんな顔して会おうか考えようとした矢先、神妙な顔をしていたケンさんが切り出してきた。

 

「? なくはないけど」

「レースも終わって、お腹が空いたのと違う? ちょいと軽く食べに行こか」

「え、でも……あんまり待たせちゃ申し訳ないし──」

「自分とあの子の仲やし、少し寄り道したって怒らへんよ」

 

 突然の提案に目を瞬かせるが、ケンさんはこっちの懸念を他所に柔らかい、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて続けた。

 

「久しぶりのレースやったもんな。体力使うてひもじくなってるんやろ。お腹も膨れれば気持ちも落ち着くと違う? なんでも、今日はえらい美味しい焼きそば焼いてる生徒がおるんやって。噂が本当かちょいと確認しに行こうか」

 

 そう言ってトレーナー室を横断したケンさんは扉へ手をかける。

 

「実は、お腹が空いて叶わへんのよ。だから、ちょお着き()うてくれると嬉しいんや。な?」

 

 振り向いて眼鏡の奥の瞳をいたずらっぽく煌めかせ、トレーナーの親友であったケンさんはウインクした。

 

 シンザンはその微笑を暫し見つめ……負けたように苦笑した。

 

「……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかなぁ」

「おおきにな、シンザン」

 

 後を追い廊下へと飛び出すと、にっこり笑うケンさんの顔とぶつかる。

 

「僕が全部奢るさかい。焼きそばだけ何て言わず、好きなもの食べえな。それと、待たせるあの子の分も買うてあげんとな──」

「ケンさん」

「ん?」

 

 一瞬躊躇い、シンザンは扉を閉めたケンさんの腕にそっと両腕を回して額を押し付ける。

 

「──ありがとう」

 

 腕を回したことも、ありがとうとの本当の意味にも触れず、ケンさんはころころと笑って空いてる方の手でくしゃくしゃと──昔、トレーナーがしてくれたように、髪を掻き回すように頭を撫でてくれた。

 

 

 

 

 




補足:シンザントリオ ~五冠馬を作り上げた男たち~

 戦後初の三冠、史上初の五冠を成し、十九戦十五勝二着四回着外なしと日本競馬史上類まれな成績を残したシンザン。

 競走馬・種牡馬・功労馬時代を問わずエピソードには事欠かないシンザンですがやはり競走馬時代の密度は別格と言えるでしょう。そして濃密な逸話を持つ競走馬シンザンを陰に陽にと支えた三人の男たちの存在がありました。



 一人目は武田文吾。

 日本競馬の揺るがぬ金字塔・シンザンをはじめ無敗二冠馬コダマ・無敗二冠牝馬ミスオンワードなどを育て上げた関西を代表する大調教師。



 二人目は中尾謙太郎。

 シンザンのいるところ必ず彼の姿があり、その競走馬生の始まりから終わりまで常に傍に寄り添い、支え続けた陰の立役者であった担当厩務員。



 そして、最後の三人目は栗田勝。

 東西間での交流が希薄であった時代、関西を代表する騎手であり一見平凡でありながら非凡なる才能を秘めていたシンザンを戦後初のクラシック三冠へと導き『シンザンの騎手』としてその名を日本競馬の歴史に刻んだ伝説のジョッキー。



 シンザンが史上初の五冠という栄誉を浴するに至ったのはシンザン自身の才能・素質はもちろんのこと、彼らの努力と献身があったことは疑いようもありません。

 ですが彼らの栄光までの道程は常に順風満帆だったわけではなく、逆風や反発、対抗心、そして彼ら自身の対立もありました。それでも三人の男たちは己の信じた道をシンザンと一心同体となって進み、ついに五冠という前人未到の業績を残すに至りました。



 己の信ずる道を脇目も振らず邁進したアイディアマン武田。



 当時トップクラスの騎乗技術を持ち大胆緻密な競馬を展開した名手栗田。



 片時もシンザンの傍から離れず一心に愛情を注いだ女房役中尾。



 彼らシンザントリオなくしてシンザンを語ることはできず、個性豊かな彼らの人間模様を知ることは後世に生きる我々が過去の名馬シンザンを深く知る手助けとなり、五冠馬シンザンの物語を単なる栄光の歴史上としてではなく、一頭の傑出した競走馬と男たちのドラマとしてより身近に感じることができるかもしれません。










 以前取ったアンケートでシンザンについて詳しく知っている方はそこまでいらっしゃらなかったようなので(活躍したのが半世紀以上前なので当然とは思います)、今後は史実におけるシンザンや関係者、ライバル(馬も人も含めて)たちのエピソードも挟みつつゆっくり物語を進めていこうと考えています。

 これまでように後書きなんかにもちょこちょこ史実に関する補足なんかもなるべく載せていき、シンザンや関係者たちに対する理解を深めてもらえたら大変ありがたいです。

 書きたいことを勝手気儘に書いている作品にはなりますが(この先はより鮮明なると思われます)、良ければこれからも読んでいただけると嬉しいです。

史実のシンザンを取り巻いた人々、誰(何)が知りたい?

  • シンザン
  • シンザントリオ
  • ライバルたち
  • その他(レース内容、血統、産駒など)
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