神が讃えしその駿駆 作:松武栗尾
別段他の子らと変わったところはないんです。むしろ普段の練習を見ると本当に勝てるんかなと思うような走りなんですけど、不思議ですね。勝負服着てバ場へ出ると印象がころっと変わるんですよ。
──シンザンの印象を語るトレセン学園のナカオ職員(のちに中央トレーナーへ転身)
「ねえ聞いた? シンザン先輩がファン感謝祭で走ったこと」
「すごく強かったんでしょ? 一緒に走った先輩たちでも追い縋るのが精一杯だったとか」
「アタシ、シンザン先輩のレース見てたけど……マジですごかった」
「うわー、良いなあ~」
「ねえ。先輩の走りってさ、どんな感じだったの」
「うーん……強いて挙げるならルドルフ会長に似てた、かも?」
「そもそもなんでシンザン先輩はレースに出たわけ?」
「確か……体調崩したフク先輩の代わりに走ってあげたんだって」
「あれ、アタシはマイシンザンさんが関係してるって聞いたけど」
「そうなの? ミホ先輩とレースがしたかったからってウチは聞いたよ?」
「シンザンさんと走れたなんて……セイちゃん羨ましい~!」
「いえいえ、ほんとただの偶然ですし~」
「そういえば、あなた珍しく出遅れてたけどどうしちゃったの?」
「にゃはは。こんなことあんまり言いたくないけど気迫敗け……ってやつですかねぇ」
「はあ?」
「気迫敗け、ですか?」
「目がね~すごくてね~……はあ」
「まさか一緒にレースすることになるなんて……」
「先輩とレースができるなんて光栄なことじゃないか。ヒシアマもかなりツイてるね」
「……アンタがアタシと同じ立場になってもそれが言えたもんか見物だね」
「あっはは、そんな顔しなくても。先輩の噂はコー寮長から随分聞かされてたから、ヒシアマの言いたいことは人並み以上に分かってるつもりだよ」
「……そういやコーさん、シンザン先輩と仲良かったっけね」
ファン感謝祭も終わり秋シーズンが本格化してきたが、学園内は今もエキシビションレースに飛び入り参加した『五冠ウマ娘』の話題で絶えなかった。
長い間表舞台に姿を見せなかった伝説が甦ったというインパクトもだが、何よりもその走り様に目撃した人々の心に与えた衝撃の大きさがなおも語られる一因になっていた。
そんなこともあってシンザンに関する噂が噂を呼び、伝聞が伝聞を広められており。
曰く、実はトレーニング嫌いで手を抜いていた。
曰く、並みのウマ娘では併走もままならない。
曰く、一部のレースをトレーニングと見なして走っていた。
曰く、脚が折れる程に走らなければ勝つことができない。
曰く、スタートをミスしてすっ転ばってもレースに勝った。
曰く、レースで
など真偽の程はどうあれ、種々様々な風説があちらこちらでシンザン伝説なるものとして流れていた。
校舎内の廊下を歩く二人のトレーナーもその例に漏れず、伝説に関する話題で盛り上がっている。
「そういえばシンザンさんって、あれだけの成績を残してるのに大差勝ちもレコード勝ちもしてないんですね」
「有名な話だな、それ。そういや、それについては一つ伝説があるらしいぜ?」
「伝説、ですか?」
大袈裟な表現に新米の女性トレーナーは訝しげに先輩である男性トレーナーを見やると、彼は得意気な顔で頷いた。
「シンザンに大差勝ちがないことを疑問に思った記者が本人にそのことを質問したことがあったそうなんだが、なんて答えたと思う?」
「もう、焦らさないでくださいよ」
「それがな──『ハナ差でも勝ちは勝ち』ってこともなげに言い放ったんだってよ!」
彼の身振りを付けての告白に女性トレーナーは信じられないと声を漏らした。
「うわぁ……それ、本当ですか?」
「まっ、実際の真偽は不明なんだけどな。デマだとしても普通はこんな噂は広がるはずもねーし、作り話ってことはないだろうさ」
「なるほど……そうだ! どうせですし、直接シンザンさんに聞いてみるっていうのはどうですか?」
『おっ、良いなそれ!』とトレーナー室に面する廊下で盛り上がる会話を耳にしてベルノライトは思わず苦笑した。
「あはは……またシンザン先輩の話」
ファン感謝祭のエキシビションレースでシンザンが出走した。
このちょっとしたサプライズがSNSなどで拡散された結果反響が反響を呼び、ファン感謝祭の翌日はそれはもう大変な騒ぎになったのだ。
SNSのトレンやドネットニュースはもちろん、スポーツ新聞や週刊誌がファン感謝祭での顛末を大々的に取り上げ果てはテレビのニュース番組でもこのレジェンドウマ娘について特集を組むなど、社会的な関心を集めている。
そういったこともあり今日この頃はどこの誰でもシンザン、シンザンと一人のウマ娘のことばかり。『五冠ウマ娘』の名を聞かない日がないくらいであった。
かくいうベルノが読むトゥインクル・シリーズ関連の情報を纏める週刊誌でもシンザンの特集を組んでおり、彼女の現役時代における『五冠』達成までの経歴を多くのページを割いて紹介されていた。
「現役時代を知らない子たちもシンザン先輩の話で持ち切りですね」
「まあシンザンだからな」
「なんだかGⅠレースに勝ったようや盛り上がり方してますけど……」
「まあシンザンだからな」
「個人的には、ここまで大騒ぎすることなのかな~とは思いますけどね」
「まあシンザンだからな」
「…………」
ベルノは胡乱気な眼差しを一語一句同じ返事を発した相手へと向けた。
「あの。なんかこう、もっとありません?」
「……しょうがねぇだろ。シンザンなんだから」
彼女から半目を向けられ、新聞に目を通していたベテラントレーナー──六平銀次郎は誤魔化すように渋面を作って顔を上げた。
「アイツのレースを生で見たことのない連中からすればインパクトは強いだろうが、俺たち年配のトレーナーにとっちゃまたシンザンかで納得できるんだよ」
「そんなものですか……」
シンザンの名前で免罪符にしてないか? と疑問に思わないでもなかったが、この老練なベテラントレーナーをして「シンザンだから」の一言で片付けざるを得ないのはかの先輩の成せる業なのだろうか。
「六平トレーナーは現役時代の先輩の走りを見たことがあるんですか?」
「俺もこの業界が長いんでな」
読んでいたスポーツ紙を畳んで執務机に置き、六平ははベルノの方へ向き直った。
「シンザンが現役の頃は俺も駆け出しでよ。アイツのレースを見て、俺もシンザンみてぇな強いウマ娘を育ててみたいって夢見たもんだ」
「六平トレーナーが新人の頃かぁ~。フフ、想像がつかないで──ん?」
「駆け出しの頃?」と首を捻ったベルノをそのままに、六平は天井を見上げた。
「ただアイツ、妙なことにトレーニングじゃそこまで走らない……当時は首を捻ってたもんだよ。このトレーニング駆けしないウマ娘が本当に三冠獲ったのか、って」
一度言葉を切り、湯呑みを傾けて唇を潤す。
「思い返してみても、正直わけが分からん。シンボリルドルフしかりオグリしかり、歴史に名を刻むウマ娘ってのは、どっかしら常識に囚われないポテンシャルってのを持ってんだろうな──ベルノ?」
「──はっ!? い、いえっ別になにも……そういえば、シンザン先輩って、そんなにトレーニングを真面目に取り組まない人なんですか?」
六平の呼び声に思考の迷路に陥っていたベルノは我を取り戻す。続けて以前から気になっていた疑問を六平へとぶつけた。
「たまたま、『スピカ』と『リギル』のトレーナーが会話してるのを耳に挟んで……」
「そういや、東条とアイツんとこのチームと何度かトレーニングしてたそうじゃねえか。シンザンのヤツ」
「はい。で、ジョギングではいつも最後尾。併走でも一回も先頭で駆け抜けなかったみたいで、二人とも今の六平トレーナーと似たようなこと言っていましたよ」
なんでも、想像していた程の気迫や速度感といったものも発揮してくれなかったそうだ。
史上二人目のクラシック三冠、そして史上初の『五冠ウマ娘』という残した功績からイメージが先行してしまい実際に走る姿を目の当たりにして拍子抜けしてしまったそうだ。
「そのくせ本番じゃしっかり成績残すんだから不思議だよな。『シンザンは銭のかからんレースは走らん』なんてタケブンさんは嘯いてたが、クリタさんに言わせりゃ別に手ぇ抜いてたわけでもねぇみたいだそうで──」
「タケブンさんとクリタさん?」
「ん? ああ。ちょっとそれこっちに見せてみろ」
首を傾げたベルノへ六平はそう促す。
ベルノは言われた通りに──ちょうど写真も掲載されている──シンザンの特集記事のページを向けた。
「この、先輩を挟んでる二人のトレーナーだよ。眼鏡を掛けてる方がタケブンさん、もう一人がクリタさんだ」
「トレーナーが二人も就いてたんですね」
「チームのチーフトレーナーとサブトレーナーの関係だよ。タケブンさん──本名はタケダってんだ──がチーフでクリタさんがサブでシンザンを直接担当してたんだ。あの頃のタケブンさんのチームは大所帯だったこともあって他にも……って悪い、ちょっと待ってくれ」
指し示しつつ昔話に花を咲かせようとしてた六平の話を、スマートフォンの着信音が遮った。
「もしもし? なんだゴッドか。どうした電話なんて寄越して──何?」
電話の相手は自身の担当するウマ娘。彼女の話に耳を傾ける六平だったが話が進むにつれて声と表情が固くなっていく。
「ど、どうしました?」
次いで次第にこめかみへと手を伸ばした彼のただならぬ様子に、ベルノは知らず息を呑んだ。
「……ゴッドのヤツ。電車の乗り継ぎ間違えて甲府まで行っちまったらしい」
「え゙」
「おまけに手持ちもねぇそうだ……ちょっと迎えに行ってくるから、話の続きは今度にしようや」
「お、お気をつけて……」
担当する天然ウマ娘の斜め上のポンコツっぷりに対しため息をつきたいのをどうにか堪え、六平はソフト帽の庇を大きく下げて緩慢に立ち上がった。
「……はは。ゴッド先輩、相変わらずだなぁ」
哀愁漂うアロハシャツの背が扉の向こうに消えるのを見届け、一人トレーナー室に残ったベルノは独りごちると、誌面に載るシンザンと二人のトレーナーのモノクロ写真を見つめる。
「……先輩も、こんな風に笑うんだ」
菊花賞優勝杯と三冠杯*1なる大杯を前に破顔する二人のトレーナーに挟まれて、満面の笑みを浮かべるシンザン。
純朴なその表情にベルノは細やかな親近感を抱きつつ、先人の大きな蹄跡を辿るため記事へ再び目を落とした。
「それでは、今日のトレーニングメニューですが……」
グラウンドでチーム『カノープス』を受け持つ南坂は秋も深まって寒さが身に染みてきたというのに額に冷や汗を浮かべていた。
「「「「じぃ~……」」」」
メンバーに今日の練習内容を説明しているのだが、誰一人と彼へ注意を向けていない。準備運動中であることを忘れた少女たちの視線は一点に集中していた。
「あの……シンザンさんが気になるのは分かりますが、今はこちらに集中してもらえると」
メンバー全員が外ラチ際に佇む一人のウマ娘──今まさに話題の渦中にあるシンザンその人へ注がれていた。
「ふ、風格ある佇まいだね」
「むぅ~、あれがネイチャを負かしたシンザンかぁ~」
畏敬の眼差しをシンザンへ送るマチカネタンホイザ。一方のツインターボはかの大先輩を睨み付け、腕を組んで唸るように呟いた。
「いやはは……振り返ってみても本当、アタシにもなにがなんだが」
「けど、ネイチャもすごかったよね! だって三着だもん!」
「た、確かに三着には食い込めましたけども! 正直、あれはレースの
「そう自分を卑下しないでください。マチタンの言う通り、あれだけのメンバーを相手に素晴らしいレースを繰り広げたのですよ」
マチカネタンホイザの舌っ足らず気味の称賛を体を解していたナイスネイチャは身振りと共に謙遜するが、イクノディクタスも同意するようにうんうんと頷いた。
「ネイチャ、あなたはもっと自信を持つべきです。自分を誇ってください」
「そ、そうでしょうかね?」
「けどやられっぱなしは駄目だぞネイチャ! 次は勝たないとだ!」
彼女の丸眼鏡越しの真っ直ぐな視線にたじろぎつつ、ネイチャは少しだけまんざらでもなさそうに頬を掻いたものの、ツインターボがぶんぶんと両腕を回して声を張る。
「次、と言ってもアタシにはとてもとても……第一先輩とレースする機会なんて──」
「じゃあターボが代わりに敵を取ってあげる!!」
「え? はっ? いや、ターボさんそれは流石に……」
素っ頓狂な声を上げたネイチャを意に介さず、まさかの名乗りを上げたツインターボは「へっへーん」と得意気に胸を張った。
「ターボの超っ! 爆逃げ! ならシンザンだって手も足も出せないもんね!」
「おおーっ、それは名案だよ!」
「まさしく盲点です。偉大な三冠ウマ娘といえどターボさんの奇襲をもってすれば可能性は大いに──!」
「あははっ、ターボってば天才ーっ!」
「えぇ……皆さん方、それは……えぇ」
謎の自信を元に堂々たる逃げ宣言をした彼女へ輝く目と丸眼鏡を向けて称賛するマチカネタンホイザとイクノディクタス。
(……彼女たちにはシンザンさんのレースを見せない方が良さそうですね)
やいのやいのと一名を除き盛り上がる担当たちに放っておかれる南坂は、一人生暖かい目で彼女たちを見つめた。
シンザンは三度の逃げ──それも大逃げを差し切って勝利した経験を彼女たちが知ったらどんな顔をするだろうか、と思ったところで南坂は我に返る。
「……って、それよりも今はシンザンさんのことよりもトレーニングに──」
盛り上がる少女たちに呑まれかけた半ば諦め気味に注意を促そうとしたしたところ、意外な人物がシンザンへ歩み寄る目を丸くした。
「あれは……」
「人気者だね」
グラウンドを見つめたままじっとするシンザンへと近寄った彼女は開口一番そう言った。
ちらりと人集りのできたスタンドを一瞥し、振り向いた茶褐色髪のウマ娘を正面から見据えながら言葉を続ける。
「トレーナーにしろウマ娘にしろ、この間のレースを知って皆注目しているけど、この状況を君は気にしないのかい?」
「…………」
声をかけたシンザンは何を言うわけでもなく目を丸くしたまま固まっている。その様子に声をかけた彼女は戸惑いを覚えた。
「……? 僕の顔に何か──」
「あなた、
「えっ?」
突拍子もなく告げられて彼女──若き天才トレーナー奈瀬文乃は間の抜けた声を出してしまった。
「あ、ああ。紹介がまだだったね……奈瀬文乃。どうぞよろしく」
「やっぱりだ、顔が若い頃の奈瀬英さんそっくりだもん。てっきり若返って女の人になったのかと面食らっちゃった」
暫し呆気に取られた奈瀬が取り繕うように名前を述べればシンザンは胸を撫で下ろすように息を吐くが、一方の彼女は内心落ち着きを取り戻せていなかった。
(目元が似てる、とは言われたことはあるけどな……)
そんなに似てるだろうか? と奈瀬は自分の頬に触れて首を傾げてしまう。
「それで? 奈瀬英さんの娘さんがわたしにどんなご用件なのかしら?」
「いや、特に用件というわけじゃなくて、ただ君の姿が目に入ったから声をかけただけなんだ」
「あらそう。奈瀬英さんの娘さん──」
「文乃で構わないよ」
「──文乃さんに声をかけてもらえるなんて光栄だぁね……あらぁ、目なんてお父さんまんまじゃないの」
ほぇーと親戚みたいな反応を示すシンザンからふいと顔を背け、一つ咳払いをして奈瀬は彼女の身なりを指摘した。
「み、見たところ、制服のままみたいだけど今日はオフの日なの?」
「まぁね。この間久方ぶりにレースも走ったし、少しの間は一休みよ」
「そうなのか」
「とはいえ後輩たちとの稽古あるもんで、走らないわけでもないんだけども」
困ったように微笑んでシンザンはスタンドの方を指差す。
「走りもしないわたしを見に人が集まってるでしょう? 後輩たちの気が散っちゃって練習にならないものだから。メイクデビューもしてない子たちなもんで周囲の視線に慣れてないのよ」
「けど君自身は周囲の目は気にならない」
「そうねぇ……この扱いは昔っからで慣れてるし。第一、わたしはそういうのは気にしない性分だから」
「けど、それだと後輩とのトレーニングを延期せざるを得ないだろう?」
シンザンの話に奈瀬はわずかに眉を寄せる。主役である彼女たちウマ娘がトレーニングに集中できないことをあまり快く思わなかったからだ。
「確かにグラウンドは走れないけど、他にもできることはあるからねぇ」
「できること?」
「今、テストを受けさせてるんだ」
「
が、彼女の返しは意外なもので、予期しなかった答えに奈瀬はおうむ返しに聞いてしまう。
「レースに関するテスト。わたしの自作」
「自作? すごいじゃないか」
「いやぁ、本職の文乃さんに褒められる程のもんじゃないよ」
「相応の知識と理解がなければ作成できるものじゃないよ」
奈瀬は素直に感心してしまう。後輩のためとはいえ、学生の身でありながらトレーニングだけでなく知識面でも後進を育てているとは……。
「それで君はどういった問題を作ったんだい?」
「え?」
「三冠ウマ娘の君が作成したテスト、僕も少し興味あるな」
シンザン自作のテスト問題に興味が湧いてそう問いかけると、予期していなかったようでシンザンは目を瞬かせた。
「いやいや、文乃さんみたいな優秀なトレーナーさんに教えられる程のもんじゃないし……」
んー、と首を捻って考え込むシンザン。
その様子に余計なことを聞いてしまったか、と奈瀬は申し訳なく感じ前言を詫びようとした奈瀬だったが──
「……ま、奈瀬英さんの娘さんだし、いいかぁ」
さらりとオッケーを出され脱力してしまった。
「…………」
「どうしたの、文乃さん」
「……いや、随分すんなりと了承してくれたと思ってね」
ずり落ちたコートを整え奈瀬な半目でシンザンを見やった。
頼んでおいて言うのもあれだが、この掌返しはどうも腑に落ちない……このウマ娘にとって自分は“奈瀬英人の娘”という事実はそれだけの重みがあるのだろうか。
これが以前なら親の威光だなんだと穿った捉え方しかできなかったが……あの頃よりは成長しているのだ。
「僕が“奈瀬英人の娘”だから君は許可してくれたように思えるんだけど」
「もちろん」
シンザンに即答されてしまい、まだそういう目で見られてしまうか、と苦笑する奈瀬だったが続けて発された予期しなかった言葉に瞠目してしまう。
「奈瀬英さんにはお世話になってたからねぇ」
「なんだって? 君が?」
「いやぁまさか」
思わず身を乗り出して問いかける。彼女の反応にシンザンはふふと笑うと、くるりと背を向けた。
「わたしのトレーナーがね。名瀬英さんとは飲み仲間だったそうだから」
想像もしなかった返答に奈瀬は一瞬何を言われたか理解できなかった。
──あの変わり者の
「まあ正確には、奈瀬英さんがわたしのトレーナーの世話になってたそうだけどねぇ」
「──っ、ちょ、ちょっと」
「せっかくグラウンドにいるんだし、歩きながら話しましょうよ」
思考が停止していた奈瀬だったが置いてけぼりに気が付いて我を取り戻し、慌ててシンザンの
「父が──奈瀬英人が君のトレーナーとお酒を酌み交わす仲だったっていうのは本当なのか?」
彼女に追い付いて横に並び、一緒になって外ラチ沿いを進みながら奈瀬は単刀直入に尋ねる。
「本当の本当よ。トレーナーが話してるのもしょっちゅう聞いたからね」
「さぞ迷惑を掛けたんだろうな……」
「……いや。多分、その逆なんじゃないかしら」
「ぎゃ、逆?」
茶褐色の髪を揺らし、なんとも言えない顔で首を傾げたシンザンの横顔に複雑なものを垣間見てしまう奈瀬である。
「ところで、文乃さんは奈瀬英さんとは二人で晩酌したりするの?」
「面白いことを聞くね」
「いいじゃない。お酒はもういける歳でしょう」
今度は逆にシンザンに覗き込まれ、奈瀬は顎に手を添えて少しだけ考え込む。
「……父が日本に戻ってきた時に、ね」
「へぇ~」
「本当にたまにだけど」と続けてシンザンの方を向く。彼女の黒い瞳は興味ありげな光を湛えていた。
「親御さんと飲むお酒っていうのは、どう? 美味しいものなの? 楽しいお酒になる?」
「それは人それぞれとしか言えないさ。好みもあるし、アルコールに強い弱いもある。第一、アルコールを摂取した結果たがが外れて一大事、なんてこともあ──」
そこまで言いかけて奈瀬ははっとする。
「す、すまない。今のは
「……? ああー、
取り繕う彼女の様に怪訝にしていたシンザンも合点がいったのか、軽く頷くと手を振る。
「大丈夫、文乃さんにそういう気がないのは分かってるから。じゃあ文乃さんは名瀬英さんと一緒になってお酒飲むのは、あんまり好きじゃない?」
「……好きとか嫌いとか、ありきたりな言葉で表現するのは難しいかな」
地雷を踏んだかと身構えたが軽く流してもらえたことにほっとしつつ、奈瀬はただ、と言葉を切る。
「昔より──屈託なく話せるようにはなったんじゃない、かな」
目を伏せ、人差し指で頬を掻いた。
秋になって冷たくなってきた風が少しだけ心地好かった。
「そう──良いじゃない。孝行者だね、文乃さん」
「孝行者、って……君は年配者みたいな物言いをするね」
「わたしくらいになればそれくらい分かるさ。見たところ、名瀬英さんとの間に色々あったんでしょうしね」
「はは……全部お見通しか」
言葉の節々に感じ取れる年季の入り様は伊達ではなく、奈瀬は苦笑するしかなかった。
「ところで話は変わるけど、奈瀬英さんは昔エースやらカチドキやら担当してたけども。文乃さんは今はどんな子を担当してるのかしら?」
「僕の担当? そうだね、例えばあそこにいる──」
コースの直線を駆け抜ける生徒たちへ視線を送りながら独り言のように尋ねるシンザン。それに答えようと奈瀬は指差そうと腕を上げ──何かを忘れているような気が……。
「──の前に。すまないけど、先に本題に入ってもらってもいいかな」
「ん? おおっ、そうだったそうだった。奈瀬英さんの娘さんだからつい親近感が湧いちゃって」
話に夢中になっていたようで、シンザンもメインテーマを忘れていたようだった。
「とはいっても、そんな大したものでもないよ?」
再度前置きしつつ一つ咳払いをして、『五冠ウマ娘』はテストの内容とその意図を話し始めた。
肌寒さを感じるようになってきた秋空の下、コースの内側を駆け抜けていくウマ娘たちと何度も交錯しながら奈瀬は伝説のウマ娘の話に耳を傾ける。
「──なるほど。そういうやり方もあるのか」
コーナーの手前まで進み、引き返して最初に声を掛けた場所まで戻ってきたところで初めて彼女は口を開く。その声にはありありと感心の思いがこもっていた。
「貴重な話を聞かせてくれてありがとう」
「まぁ、わたしのやり方がこのご時世にどれくらい通用するかは分からないけどね。今はビデオもあるから」
「いや、君のやり方は実に特に君が見て上げている子たちにはかなり有効だと僕は思う……今度、そのやり方を試させてもらうよ」
「いやいや、そんなことしなくたっても……畏れ多いなぁ」
自身の担当にもシンザンの倣った方法を実践することを伝えると、彼女は照れたように後頭部へ手を伸ばした。
「──さてと。お話はこの辺にして、わたしは戻りましょうかねぇ」
「え?」
「あと十分でテスト時間も終わるからね。後輩のいる教室に戻らないと」
不意にそう発して踵を返したシンザンを前に奈瀬は片眉を上げ、思わず腕時計に目をやった。
「もう時間……って君、一度も時計に目を向けてない──」
「わたしはね、人よか
向き直ったシンザンの発言に奈瀬は目を丸くする。
「時計を読むのが得意──?」
「
いたずらっぽく黒い瞳を煌めかせ、にやっと笑う──そんな表情を浮かべるとは思っても見なかった──シンザンに彼女は呆気に取られることしかできない。
「ということで文乃さん、またお話しましょうね」
ガチョーン、と手を付き出したのを最後にシンザンはグラウンドから立ち去ってしまった。
「…………」
「トレーナーさーん! ウォームアップ終わりましたよ~」
一人取り残され、茫洋と見送る奈瀬の背に声がかけられる。
「トレーナーさん? 大丈夫ですか?」
「……クリーク」
案じる言葉と共に奈瀬の顔を覗き込んできたウマ娘──彼女が初めて受け持った大切な担当ウマ娘のスーパークリークの問いかけに答えつつ、視線は今も伝説のウマ娘の背を追っていた。
「うん……大丈夫だよ」
「さっきまでシンザン先輩とお話されてましたけど……何を話してたんですか?」
「世間話を少しね。それより、アヤベとマーベラスも終わってるんだね?」
「はい! 二人もトレーナーさんも待ってますよ!」
「分かった──それじゃあ、始めようか」
言うやいなや視線を切り、待たせている担当たちの元へ足を向ける奈瀬。
(彼女がシンザン、か)
底が見えない不思議な子、というのが彼女のシンザンへの率直な印象である。
威厳や風格とは程遠いようにも感じられたが彼女を知れば知る程に全容を捉えることのできるタイプのウマ娘なのだろう、と目星をつける奈瀬だった。
(それに──いや、今はよそう)
思案するように目を伏せた奈瀬だったが頭から自身の雑念を追い出し、表情をトレーナーのものへと変える。
(けど──)
だが一つだけ、これだけは気に掛かって仕方のないことがある。
それは──
「……彼女、
「何か言いましたか?」
口振りといい振る舞いといい昔の父を知っていることといい、年月の感覚がわけ分からなくなりついぼやいたことで、不思議そうな顔でスーパークリークに首を傾げられてしまう奈瀬であった。
「
グラウンドの際、己の言葉を思い出しながらシンザンは芝の上で担当たちへ指示を飛ばす奈瀬文乃を眺めながら呟いた。
「わたしも、トレーナーとそういう仲になりたかったもんだ」
──もう叶わない望みではあるけども。
「チョイと一杯のつーもりで飲んでぇ~いつっの間にやーらはっしご酒ぇ~……」
やや調子外れに歌詞の中頃まで歌ったところでシンザンは足を止めた。
「……『分かっちゃいるけどやめられねぇ』、か」
「はぁ」とため息をつき、もう一度頭を振り、口ずさむのを止めて再び歩き出す。
(親分にしろトレーナーにしろ、つくづくアルコールとは相性が悪いねぇ)
禁酒についての念書をやり取りしていた二人の姿を脳裏に浮かべながらしみじみと思う。
好きだったお酒でその一生を短くしてしまったトレーナーを想うと、好んで口ずさむ昔の流行歌の歌詞にあるようなお気楽な気持ちになれなくなるシンザンだった。