神が讃えしその駿駆 作:松武栗尾
実は、雑穀米も捨てがたい。
午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時にシンザンは大きく伸びをした。
「んんー、やぁーっと終わったよ」
休学期間中も自主学習は怠っていなかったので基本的に授業は復習の場との割り切っているのだが、如何せん気が緩みがちなる。
(とはいえ勉強は学生の本分。しっかりせんとだ)
走りは当然として、勉強についても手は抜いてはいけないと親分にこんこんと説かれたことが懐かしい。
実際、芝の上で往生する訳もなし。学があれば明日の飯にはありつくことは可能だが走り一本だけではそうもいかない。走りも学も上等なら前途は広いがそんなものは極一部一握りの選ばれたウマ娘だけだ。
だからこそ親分は勉強について口うるさかったし、うるさかったからこそ自分の管理するチームのウマ娘たちの勉強まで面倒を見てくれたのである。担当ウマ娘のためにここまでできる人は今も昔もそうはいないだろう。
「後輩の目もあるわけだしねぇ」
「先輩先輩先輩!」
そんなことを考えながら腰に手を当てて体の凝りを解していると、捲し立てるように呼ばれるので目だけをそちらに向ければ足踏みするミナガワマンナの姿があった。
「早くっ! 早く購買に行こうよ! じゃないと限定のにんじん焼きそばパンが売り切れちゃう!」
「あー、それね。悪いけど一人で行ってちょうだいな」
「えぇっ!?」
「実は大事な要件ができちゃってね。お昼自分と食べられなくなったのよ」
癖っ毛のポニーテールを揺らして急かす後輩から目を離し、二度三度腰を回し終えると、シンザンは彼女へ背を向けながら教室の入口の方へと足を向ける。
「そんな……ひどいよ先輩! もう三日も一緒にお昼ご飯食べてないのに……っ!?」
「たったの三日でしょうに。何を言ってるんだかこの子は」
分かりやすくショックを受けるミナガワマンナの様子にクラスメイトたちも苦笑している。
だがシンザンからすればその喧しさを見ていると、抑えているため息がどうしても漏れてしまう。
自分程とは言わずとも、あともう少しだけ落ち着きがあれば、もう一勝は八大競走で挙げられただろうにと。
「第一、そんな急用があるなんて私聞いてないよ!」
「しょうがないでしょ今朝たづなさんからお願いされたんだから……理事長さんの話し相手になって欲しいんだとさ」
「お昼を食べながらね」と扉に手をかけ、分が悪いと悟ったのか握った拳を震わせ苦い顔をしているミナガワマンナへと一瞥を向けて教室を後にした。
「まぁ、話の内容は、大方想像できるけどねぇ」
「別にそうでもなかったよ」
「感謝ッ! 貴重な休憩時間を! それも突然の誘いだったにも関わらず割いてくれたこと、改めて礼を言わせてもらおう!!」
会食を終え、理事長室から退室するシンザンが真後ろから響いてきた元気な声に振り向けば、大きな庇の白い帽子を被った少女──トレセン学園理事長秋川やよいが堂々と立っている。
「いやぁとんでもない。むしろ美味しいお弁当ご馳走になっちゃって申し訳ないくらいです」
「安堵ッ! 懇意にしている学園のスポンサーの伝手を頼りに注文したものだが、お口に合ったようで何より! 君は幕の内弁当が好みとの噂を耳にしてな! その通りで安心したぞ!!」
こんな幼い娘を後釜に据えるなんて先代理事長も無茶しよる、と内心ぼやきつつシンザンが後頭部に手を当てながら頭を下げると、そう言って秋川理事長は扇子を打ち開きながら元気よく笑った。扇面には『好物ッ!』の二文字が踊っている。
……開くたびに変わる扇子の文字。一体どんな仕組みになっているのやら。
「そんな公言する程ではないですけども……わりかし食べる方ですかねぇ、はい。それで、さっきのお話ですけど」
「考慮ッ! トゥインクル・シリーズのさらなる発展のためにも良い返事を期待している!!」
「んー、あまり期待しないどいてもらえると助かりますかねぇ」
「了承ッ! だが、君なら必ずや快諾してくれると信じているぞ!!」
「そうですか。ともかく、授業もあるんでここいらで失礼しますね。お昼、ご馳走様でした」
「うむッ! 午後の授業も頑張ってくれたまえ!!」
自信満々な小さな理事長が胸を張る様を言葉に困りながらシンザンは頬を掻いた。こりゃあたづなさんも振り回される訳だ。
「ありがとうございます。猫ちゃんもじゃあね」
「ニャア」
もう一度頭を下げ、秋川理事長の帽子の上にちょこんと乗っている子猫へ手を振り、シンザンは彼女へ背を向けた。
(てっきり、URAファイナルズ出走の催促と思ったけど)
教室へ戻る長い道すがら、食事中彼女と交わした話を振り返る。
「『来年度の新入生と新人トレーナーへの特別講義を頼めないか』、ねぇ」
あの小さく愛らしい、それでいてパワフルな理事長からの要請、それは想定していたものとはまったく異なるものであった。他にもメディアへの取材依頼についても振られたのだが、こちらは一旦脇に置いておく。
曰く、最先端であるトレセン学園のトレーニング内容、指導技術。そこに先人の知恵や経験を加えることで化学反応を発生させ、次の世代の大きな飛躍を目指す、ということらしい。
正直に言えば、シンザンはあまり乗り気でなかった。
確かに、後輩を相手取り練習を実施してはいる。
しかしそれはまだ担当トレーナーの着いていない後輩たちを対象としており、親分やトレーナーから叩き込まれた教えと実戦で培った経験を元にあくまで基礎部分、土台作りを主としている。
そこに目を付けたというなら……まあ、百歩譲って新入生への講義は引き受けても良いかもしれない。ただし、教官の指導の迷惑にならないような講義内容にしなければいけないが。
だが新人トレーナーへの特別講義、こちらは学生の領分を明らかに超えている。
新人トレーナーとはいえ、ウマ娘を導きたい気持ちが強いに決まっているし、良い大学も出ているだろう。そこへ指導する側である一生徒の自分がのこのこ顔を出すのはお門違いというものだ。誰だって良い顔はしない。
大体、新米への講義なんてベテラントレーナーを充てればいい訳である。
優秀どころが選り取り見取りであるのに、何故自分にそのような話を回すのかとそれとなく理事長に尋ねてはみたのだが……。
『想定ッ! 君の憂慮が最だということは理解している──だがッ! 中央トレセン学園の機能がここ府中に集約する以前、かつて東西を代表した名指導者、その片翼から直接指導を受けた君にしか伝えられないことがあると私は確信しているのだ!!』
そう、熱っぽく語られてしまい、流石にシンザンも突っぱねることはできなかった。
……それにトレセン学園に分校が存在した時代──自分が入学するよりもっと昔の話だ──の話を持ってこられるとは思いもせず、小さいにしては良く知っているものだとつい感心してしまったというのもある。
「いやはや……無茶を言いなさるねぇ。当代の理事長さんは」
やれやれとつい首を振ってしまう。
だが『一言どころか三言多い』せいでトレーナーの間では煙たがられていた親分のことを高く評価してもらっていることについては……悪い気はしなかった。
「しっかし、東と西……ね。久し振りに聞いたよ」
シンザンは顎に手を当て、久しく耳にすることのなかったトレーナーへの称賛の言葉を思い出し、ふふと笑みを溢した。
「まぁけどそもそもあれは──」
「……いや、流石にこれは……トレーナーとしては駄目──あだっ!?」
「──親分の親分と大オガ、っと?」
上の空で階段を登り、丁度踊り場に上がったタイミングで降りてきていた人物に衝突してしまった。
「おっと失敬」
ぐえっ、と潰れたヒキガエルみたいな声を出してひっくり返った相手にシンザンは寄って膝をついた。
「ちょいと考え事してたものだから。怪我はしてない? ぶつけたところはある?」
「だ、大丈夫……こ、こっちこそごめんなさい。ちょ、ちょっと、読み歩きをしてて……」
「読み歩き?」
倒してしまった女性──見たところトレーナーのようだ──の背中に手を添えながら助け起こす最中、彼女の言い分を聞きシンザンは思わず目を丸くした。
「駄目じゃないの歩き読みなんてしたら。ぶつかったのが踊り場だったから良かったけど……怪我じゃ済まなかったかもしれないじゃない」
「うっ……」
「こっちも不注意だったからあんまり強くは言えないけども、周囲には十分気を付けてちょうだいな」
頭の横っちょで結わえている小ぶりなサイドテールを揺らし、額を抑えて立ち上がる女性トレーナーが面目なさそうに体を縮こませた。
「トレーナーさんの体は、トレーナーさんだけの体じゃあないんだから」
「返す言葉もありません……って、え? 嘘、キミ──っ」
「読み歩きする程だなんて、一体どんな本に目を通してたのやら……ん?」
何やら驚いた素振りを見せる女性トレーナーだったが、特段シンザンは反応せず彼女が直前まで読んでいた冊子を拾うと誌面を眺め──目を丸くした。
「これは……」
(あわわわ……ど、どうしよう……っ!?)
椿は生徒とぶつかる直前まで月刊トゥインクルに掲載されたさる『レジェンドウマ娘』に関する特集記事を読んでいた。
お昼休みを同席したトレーナーから勧められ──自分とそう年齢が変わらない若き天才トレーナーからのおすすめだ──、最近このさる『レジェンドウマ娘』の話をあちこちで耳にしているのだが、彼女をよく知らないことに思い至り譲ってもらったのだ。
始めは最初のページをざっと目を通す程度に留め、チームの部室でゆっくり読むつもりでいたのだが……文章の妙というべきかついつい引き込まれてしまい歩き読みしてしまった。
……のだが、やはり行儀の悪いことをしたのが良くなかったのだろう。
前方不注意、注意力散漫のせいで前からきたウマ娘とぶつかって転んでしまうという失態を犯してしまった。おまけに生徒であるぶつかった相手から至極もっともな注意を促される始末である。
(けど──)
(
直前まで自分が読んでいた月刊トゥインクルで取り上げられていた『レジェンドウマ娘』──シンザンその人と衝突するなど露程にも思っていなかった。
しかも彼女は先程までとは打って変わり、雑誌の誌面へ目を落としたっきり黙り込んでいる。普通に考えれば自分の記事を読んでいるのだろう。
(き、気まず過ぎる……)
ぶつかったことへの申し訳なさ。当人についての記事を読んでいたことへの後ろめたさから、椿はおろおろすることしかできないでいた。
「──まぁ」
「ひょっ!?」
唐突にシンザンが声を上げたので驚いた椿は跳ね上がってしまう。
「トレーナーさん若いし、わたしのことはよく知らんわな」
「え、あ……」
「これも何かの縁だね……こんなところで話すのもなんだし、場所を変えようじゃない」
「はっ?」
脈絡のない提案に椿が上手く飲み込めないでいると、ぱたんと雑誌を閉じたかと思えば彼女は踵を返した。
「ちょっと待って。話すって、一体何を──」
階段を下り始めようとする慌てて呼び止めると、シンザンは茶褐色の髪を揺らして振り返る。
「何って、わたしのことについてよ」
「ええっ!? でも、あなたこれから授業があるでしょ? そんな時間はないんじゃ……」
「おお、そりゃあそうだ」
突然の提案。ついさっき知り合ったばかりの、それもレジェンド中のレジェンドであるウマ娘と二人きりなんてと、椿は遠慮させてもらおうとしたが、当のシンザンは何か合点がいったように頷いてスマートフォンを取り出した。
「ミナ、ミナ、ミナ……と」
「……何をしてるの?」
「ちょいと電話をねぇ……あったあった」
目を細めスマートフォンを遠ざけるシンザンの姿に「父さんと同じことしてる」なんて考えが椿の頭を過る。
「もしもしわたしだけど。ちょいとねぇ話が盛り上がっちゃって──そう。だから午後始めの授業には出れないって教官に伝えておいてよ──うん、そいじゃよろしく」
要件だけを伝えてそそくさと通話が終わってしまい椿が呆気に取られていると、スマートフォンをしまったシンザンが下り階段の中程で佇んだまま見上げてきた。
「よし、それじゃあ行きましょうか」
「へ? い、良いの? そんな簡単に授業を休んじゃって」
「平気平気。理由も伝えたし、向こうも納得するさ。さっきまで理事長さんとお昼食べながらお話してたからねぇ」
「秋川理事長と……でも、秋川理事長との話は終わってるよね──」
「ん? そうよ。だからわたしは
「…………」
「ま、詭弁と言われたらその通りではあるけどもね」
あまりの平然としたシンザンの口振りに椿は絶句してしまった。
確かに誰との会話とは一言も口にしていない。だがそれをこうもあっさりと言ってのける彼女の胆力に言葉が出てこない。
「とはいえ、授業をおサボりすることには変わりはないからねぇ……人目がなくて、それでいて腰の落ち着けるところ。トレーナーさんはどこかご存知?」
「…………」
これが三冠ウマ娘なのかと慄く椿を他所に、シンザンが首を傾げてそう尋ねてくる。
──人もウマ娘も見かけで判断してはいけませんよ。
トレーナーになったばかりの頃、父からの忠告の意味を今更ながらに実感しつつ、椿はこの茶褐色髪の地味なウマ娘の意向に添うことにした。
「……誰もいない、よね」
引戸をそっと開け屋内に人気がないことを確認して、椿は安堵のため息をついた。
要望のあった人目に付かず腰を落ち着けられる場所。椿が一番最初に思いついたのがこの小さな平屋──自身の所属するチーム『アルケス』の部室だった。
……部外者を勝手に招き入れたことが父さんにバレませんように。
内心ビクつきながら椿は背後へ振り向き、控えていたシンザンへ声を掛ける。
「大丈夫みたい……どうぞ」
「お邪魔しまーす」
あ〜寒かった、と椿が引戸を閉める横でシンザンは体を縮こませて畳に上がる。
「しっかしあなた、明石さんところのトレーナーさんだったのね」
「父さ──じゃなくて、『
「そりゃあ有名だものね。この間一緒に走ったバクシンオーちゃんも所属してるでしょう?」
「そっか。二人はファン感謝祭のレースを走ったんだっけか」
「それに、秋天でミホ負かしたのも『アルケス』の子だ──忘れるわけないじゃないの」
「な、なるほど……」
一瞬だけシンザンの纏う空気が張り詰めたような気がするが、椿は努めて気付かない振りをしつつ、一応客人であるのでもてなしの準備に取り掛かった。
「えーっと、シンザン、さん? は何か飲む……ますか?」
「じゃあ緑茶で。そんなことよりトレーナーさん、敬語はよしてちょうだいな。学生よ、わたし」
「そ、そうだよね。あはは……」
「トレーナーさんはトレーナーなんだから遠慮せずお話してね」
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
そう諌められても椿は愛想笑いするしかできない。
部室までの道中も彼女の現役時代の話を聞かされていたのだが、語り口と内容の年季の入り様が尋常でないのだ。
(父さん世代の人と話してる気分になるんだよね……)
ぶっちゃけ、自分より年上じゃないのかと疑う自分がいることに対し然程驚かない椿だった。
「それで。バクシンオーちゃんのその後はどう? 走れる距離は伸ばせてる?」
「うーん。バクシンオーの二〇〇〇メートル以上が中々過酷で……先輩も苦労してるみたい。はい、どうぞ」
「こりゃどうも。けどバクシンオーちゃんのトレーナーさんも変わってるわね。何よ『一二〇〇を三回走れば三六〇〇になる』って……初めて聞いた時は耳を疑ったよ」
「あはは、先輩──バクシンオーのトレーナーさん、結構変わってる人だから」
スプリンターとしての天賦の才を持ちながら長距離レースへの出世を望んだサクラバクシンオーをどうにかなだめすかし、短距離レースの王者へと開花させた苦労は話に聞いている。
その後の適正距離延長トレーニングの苦労についても言うに及ばす、だ。
「だからレースが終わった後、バクシンオーちゃんのトレーナーさんに言ってやったのよ」
ふーふーと息を吹きかけたお茶を啜り、シンザンは湯呑み茶碗を卓に置いてもったいぶった様に頷いた。
「長距離に勝たせたいなら『
「いやあんまり変わらなくない?」
斜め上をいく発想を告げられて椿は思わず突っ込みを入れてしまった。
「いやいや全くもって違うのよこれが。実際、そういう風に走って勝ったウマ娘もいるんだから」
「だとしても……うーん」
レース理論として正しいか判断が付きかねて首を傾げる椿。
三冠ウマ娘の彼女が口にするのだからそう的外れでもないのだろうが……あまり腑に落ちなかった。
「まぁ長距離に重点が置かれてた時代の長距離適性が薄い子らの知恵だから、どこまで通用するかはやってみないことには分からないけどねぇ……さて」
こっちの胸中を読んだように呑気に茶を啜りながら呟くシンザン。しかし彼女は切り替えるようにしてばさりと月刊トゥインクルを卓の上へ放った。
開かれた雑誌のページ。そこには“『五冠ウマ娘』シンザン。栄光の軌跡”とタイトルが踊っている。
穏やかに微笑む彼女の鈍く輝く黒い双眸に真っ直ぐと見つめられ、椿は無意識に背筋を伸ばし息を呑んでいた。
「トレーナーさんには、
補足:作中におけるトレセン学園の変遷
作中でのトレセン学園の歴史についてですが、シンザン入学以前現在のトレセン学園を東京本校とし中山、京都、阪神、中京四つのレース場に併設されていたトレセン学園分校が特急こだまの運行開始の前後に東京本校(府中)に集約・統合された、という設定になっています。
ついでに言うと、作中でのバクシンオーのトレーナー(アプリトレ)はスタブロに登場する『アルケス』のサブトレーナーという設定にしています。