神が讃えしその駿駆   作:松武栗尾

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 ならあんた方には頼まん、腕尽くで開けてやる。





 ──有マ記念目前、シンザンの中山レース場での本バ場練習が許可されなかったタケダトレーナーが放った一言。







第三十八話 有マの顛末 前編

「──で坂上で追い込んできたハクをしっかり抑えて天皇賞制勝。四冠目を獲ったという訳だ」

「ほあ〜」

 

 座卓を挟み自身の現役時代を語るシンザンへ相槌を打ちつつ、明石椿はだらしない声とともに愛用のマグカップを傾ける。

 

「すごいなあ。断然の一番人気を背負って期待通りに勝っちゃうんだもん。プレッシャーだって相当あったわけでしょう?」

「んー、重圧とは違うけど気合いは入れてたかな。何せトレーナーが勝ててなかった天皇賞だもの」

 

 椿がそう問い掛けてもシンザンは別段得意になる訳でもなく、間を置くようにお茶を啜った。

 

「けどね。いの一番にゲートを出て、良い位置取ってさっと控えて、道中ペースを確かめながらゆっくり追う。そこは天皇賞もオープン戦だろうとやることは変わらないのよ」

「そ、そうだね……」

「結局、肝心なのは『落ち着いて勝負する』ってことだわね」

 

 そう頷いて煎餅──追加で出したお茶菓子だ──へ手を伸ばす彼女の様子に椿は感心を通り越して半ば呆れていた。

 

(歴史に残るような成績を残したウマ娘の口振りじゃないと思うんだけど……)

 

 目の前にいるウマ娘は史上二人目の三冠ウマ娘にして史上初の『五冠ウマ娘』である。

 

 自身の偉業についてもっと堂々と語っても良いと思うのだが、昨日の晩ごはんの献立でも思い出すような調子で話すので感覚が麻痺してくる。

 

「存外、わたしの現役時代も順風満帆とは言えなかったでしょう? えーと……トレーナーさん?」

「あ、そっか。名前伝えてなかったね……明石。明石椿です。どうぞよろしくね」

「そうか、明石椿さんっていうのね……明石?」

 

 名前に反応したシンザンが煎餅を食べる手を止め、目を丸くしてこちらを見つめた。

 

「何、あなた明石梧郎さんの娘さんだったの?」

「えーと、はい。実はそうだったり……」

 

 ふーんと、唸りながらしげしげと見つめてくるシンザンの視線に晒されて椿は頬を掻いて苦笑する。

 

「……あんまり親父さんと似てないなぁ」

「父さんの知り合いからはよく言われるよ」

「名瀬英さんところはうり二つなのにねぇ……ま、顔立ちはともかく。娘さんが育ってくれれば明石さんも『アルケス』も安泰ってところかしら」

「あ、あはは……」

 

 まさか生徒から父のチームの後継者問題についての心配をされるとは……もう愛想笑いしか浮かばない。

 

「けど、うん。クラシック期の夏負けの話は聞いたことはあったけど……山もあれば谷もある。ウマ娘であればそこは変わらないんだね」

 

 なんだか親戚の叔母か祖母と話している気分になってきたので、椿は気持ちを切り替えるように話を戻した。

 

 月刊トゥインクルで知ったシンザンの軌跡は言うなれば第三者の目線からもの。しかし今こうして椿が耳を傾けているのは当事者であるシンザン自身の目で見て感じた話である。

 

 内容は偉大な功績に隠れ余り目を向けられなかったもの、公にならず当事者間でしか知り得なかったものなど、誌面に記されている彼女自身の所感であり経験談なのだ。

 

 たとえば──

 

 

 

 彼女の所属チームのチーフトレーナーであったタケダトレーナーの推薦でトレセン学園へ入学したものの、優秀なチームメイトが数多くいたこともあり始めは注目されていなかったこと。

 

 

 

 一方で担当トレーナーとなったクリタトレーナーからはデビュー当初からクラシック三冠を目指せるウマ娘として評価されていたこと。

 

 

 

 その後も評価は変わることはなかったがスプリングステークスにて下バ評を覆し、一躍クラシック戦線に躍り出たことで評価を見誤っていたタケダトレーナーが頭を下げることになったこと。

 

 

 

 といった風に有名な逸話(椿自身はそのほとんどを月刊トゥインクルの記事で知ったが)がポンポン飛び出してくる。

 

 加えてシンザンが語るところによれば。

 

 

 

 彼女が夏負けで体調を大きく崩した際、タケダトレーナーは体調が快復することだけに専念し三冠と言う言葉を忘れたかのように一言も発しなかったこと。

 

 

 

 夏負けの余波もあり当時の京都盃*1をバリモスニセイというウマ娘に逃げ切られた際、ショックのあまりクリタトレーナーが三冠達成への自信をなくしてしまったこと。

 

 

 

 ところが劇的な三冠達成後は打って変わり彼がシンザンへ三本指──Vサインの伝統はここから始まったのかと椿は今更に知った──を掲げるよう促したこと。

 

 

 

 しかもクリタトレーナー自身はレースの勝利後、ウマ娘が観客への過剰な愛想の振りまきをあまり快く思っていなかったのに、だそうだ。

 

 知る人ぞ知るシンザンとトレーナーたちの秘められたエピソードの数々。シンザンの淡々とした、それでいて興味を引き立てられる口上に耳を傾ける椿はまさしく歴史の裏舞台を覗いている気分になっていた。

 

 

 

 ……シニア級の春シーズンの不調が()()()()()()()()()()()()ことが原因だと聞かされた時は反応に困ってしまったが。

 

 

 

「わたしの場合、成績に目が向きがちだからそっち視点の話ってそんなに取り上げられなかった、ってのはあったかもねぇ」

「それは確かに……昔はトレセン学園にも推薦制度なんてものがあったんだね」

「それは明石さん──じゃ紛らわしいから椿さんて呼んでもいいかしら? ──椿さんが知らないのも無理はないさ。だって推薦制度がなくなったのはハイセイコーブームが理由だもの」

「ハ、ハイセイコー……」

「お父さんに聞いてみなよ。あの子の人気で入学志望者が殺到してすごかったんだから……え? まさか、ハイセイコー知らない?」

「いやいやいやっ! 知ってるっ、知ってるって!」

「だよねぇ」

 

 下の名前で呼んでいいよ、と呑気に頷いていたら突然ビッグネームが飛び出してきたので呆気に取られていたら、シンザンの穏やかな表情が一変して厳しいものになったので椿は慌てて否定する。

 

 元祖アイドルウマ娘の影響が学園の入学制度にまで及んでいたとは……。

 

「しかし、わたしも親分の推薦で入学したんだけど、まさか『若い頃担当したウマ娘と走る姿が似てたから』なんて思いもしなかったなぁ──どっこらしょ」

 

 椿もついさっき聞き及んだ、入学することになった経緯についてぼやいたシンザンは一息つくように畳へ身を投げ出した。

 

「あははは。でも最初の経緯はどうであれ、キミを見出したタケダトレーナーは慧眼だったことには変わりないよ」

「お、嬉しいこと言ってくれるじゃない……にしても、いいなぁ」

 

 座卓の向こうで寝転がり姿の見えなくなったシンザンへ相槌を打てば、座卓の下から腕だけ伸ばして人差し指で指し示される。

 

「やっぱり日本人なら畳よね」

「和風造りなのは珍しい?」

「いんや。昔の部室は畳敷きが普通だったのよ」

「あ、昔は逆に和風の部室しかなかったんだ」

「ほとんどは老朽化で取り壊されちゃって。今じゃ『アルケス(ここ)』以外残ってないんじゃないかしら」

「ふーん……」

「この部室は比較的新し目だけども。いやぁ〜『アルケス』の子が羨ましい」

「……」

「たまにお邪魔させてもらおうかしらねぇ」

「…………」

 

 絶賛畳を満喫するシンザンの話に合わせて頷く椿。

 

「そうだ。ケンさんにお願いしてトレーナー室に敷いてもらおう」

「…………」

 

 独り言にも黙って耳を傾けるが、彼女は一向に畳に寝転がったまま寛ぎ切っていた。

 

「…………」

 

 

 

 

 

「あの、話の続きは?」

 

 

 

 

 

 ──と、思わず本音が漏れるところを椿はぐっと堪えて口を噤んだ。

 

 何故なら今シンザンが語っているのは彼女の現役時代。そして天皇賞を優勝するまでを既に語り終えている。つまり残るレースは……。

 

(有マ記念のことがあるし……)

 

 シンザンと階段で鉢合わせる直前まで読んでいた月刊トゥインクル。彼女の引退レースでの『衝突』。続く『不祥事』についても当然記載されていた。

 

 シンザンというウマ娘を語る上で決して避けては通れない、現役時代最大の()()──彼女自身に非があったということではない。

 

 それでも記事にすら詳細が記述のない、歴史の闇に覆われた真相を当事者から聞ける絶好の機会である。

 

 しかし……当の本人からすればこの話題は相当にデリケートな問題であるのは明白。

 

(すごい気になるけど、無理に聞き出そうとするのはな……)

「……そんなにそわそわしなくても大丈夫よ」

「へっ!?」

 

 良心と邪な好奇心とがせめぎ合い、体を前後に揺らしていた椿を制止させたのはシンザンの苦笑したような声だった。

 

「あの、私──」

「有マ記念の件でしょう? ちゃんとそこも話すから安心してちょうだいな」

「う、うん……」

 

 そう言って体を起こしたシンザンは、声音と同じように困ったような微笑みを浮かべていた。

 

「皆、興味があるのはそこなのよねぇ」

 

 胸中を見透かされていたことに椿は俯いて己を恥じる。

 

「大体、人がわたしのことで尋ねるのは、有マ記念で何があったのかを聞いてくるんだけど」

 

 ぺらり、と開かれている月刊トゥインクルのページを捲り、こちらへ向きを変えてとんとんと誌面を人差し指で叩くシンザン。

 

 マグカップを脇に除けて指し示された箇所を椿が覗き込むと、『有マ記念で表面化。トレーナー間の確執』と中見出しが飛び込んでくる。

 

 ──まさしくシンザンと出会う前に目を通していたページであった。

 

「普段ならそういうゴシップ好き? 野次ウマ根性的な人には『本に書いてあるでしょ』ってあしらうんだ……親分のこともトレーナーのことも知らない人らに語っても気持ちが良くないからね」

 

 穏やかな、だがはっきりとした口調から察するに、シンザンを中心として巻き起こった一連の騒動は、今もなお彼女の中で影を落としているのかもしれない。

 

「けどわたしの昔話に付き合ってくれた人は別よ。椿さんみたいにね」

「つまり、キミやキミのトレーナーたちの背景を理解してる相手であれば……」

「そういうこと」

 

 頷くシンザンを前にして椿は内心ほっとする。

 

 ……かくいう自分も有マ記念での一悶着には関心があったのだが無理矢理で話の流れを切らず、順を追って話に傾けてのは正解だった。

 

「まぁ妙な頃合いで有マ記念の話を持ち出してきたら適当にはぐらかそうと思ったんだけどねぇ」

「ぎくっ」

「こうして時間を貰ってる訳だし、お預けにはしないさ」

 

 しっかりと見られていた。

 

「ありがとうねぇしっかりと話に付き合ってくれて。あの時……『五冠』に王手かけた有マ記念は今でもよく覚えてるよ」

 

 ころころと笑うシンザンだったが、笑顔を引っ込めるとその黒い瞳が遠くを見るような眼差しへと変わった。

 

「色々とあったからねぇ」

「じゃあ、やっぱり」

 

 椿は足を正座に組み直し、表情を引き締めると改めてシンザンへ向き合う。

 

 トレーナーという立場上、どうしても尋ねたかった有マ記念での──正確にはその()()()()()()()()を切っ掛けに起きた悲劇について、一瞬躊躇ってから切り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クリタトレーナーがキミの引退レースを見届けられなかったのは本当なんだね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここでない遠く。過去の光景を見つめていたであろうシンザンの焦点が椿へと合わさる。

 

 全てを見透かすような鈍い輝きを内包した黒い瞳……その裏に隠された感情を推し量ることは椿には到底できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十一月二十三日。圧倒的一番人気を背負い、並み居る強豪たちを一顧だにせず圧巻の強さを見せつけてシンザンは天皇賞を制覇。三冠ウマ娘の貫禄も十分、堂々の四冠を達成した。

 

 残すビッグタイトルは有マ記念のみとなり、かつ秋の天皇賞での勝利から有マ記念優勝も確実視され、早くも次は世界だとの声すら上がり始めていた。

 

 

 

 ──シンザンは有マ記念を最後に引退する。

 

 

 

 しかし天皇賞後の記者会見にて、シンザンの所属チームを監督するタケダトレーナーが彼女の当年一杯での引退を表明。翌日のスポーツ誌の一面で天皇賞優勝と共にシンザン引退が報じられ、惜しまれつつも世間の関心は彼女の『五冠』達成の成否に寄せられることとなる。

 

 主な敵は存在せず前途は洋々。後は有マ記念への調整を仕損じることさえなければ『五冠バ』への障害はないに等しい。それがシンザンに対する世間の評価であった。

 

 時は進んで十二月十八日土曜日。有マ記念まで後一週間。

 

 シンザンは突如として中山でのオープン競走に出走。世間を驚愕させたオープン戦の結果はクリデイの二着に終わり、クラシック級の夏負けの影響の残る京都盃以来の敗北となる。

 

 有マ記念との連闘になるオープン戦に出走させたこと、そして敗北という結果に終わったことで一部からタケダへ非難が上がることとなったが──

 

 

 

 ──シンザンは中山を経験していない*2。レースは負けはしたが、これで有マ記念に盤石の状態で臨める。

 

 

 

 中山レース場の特徴を掴ませるという明確な目的の元、オープン戦への出走を決めたとタケダトレーナーは明言し、ローテーションへの批判に対する答えとした。

 

 発言の影響もあったのかは不明だが、シンザンが過去三回敗れたレースも然程重要なレースでなかったこともあり、大半のレースファンも有マ本番前の最終調整も兼ねていたとオープン戦の結果を受け止めた。

 

 大事の前の小事と、シンザンの敗北を問題視する者はいなかった。

 

 

 

 

 

 ──ただ、一人を除いて。

 

 

 

 

 

 シンザンがオープン競走で敗れた同日の阪神レース場。

 

 そこに、シンザンの担当トレーナーであるクリタトレーナーはいた。

 

 関西におけるトゥインクル・シリーズを締め括るレース*3に出走予定である別の担当ウマ娘との遠征で阪神レース場に前乗りしていたクリタ。彼は自身の担当するシンザンの敗北の報に触れた翌日──レース場に姿を見せなかった。

 

 クリタ不在の理由についてはURAから病欠と告知され、本来共にレースに臨むはずだったウマ娘たちは急遽同じチームに所属するサブトレーナーが対応することとなり、体裁上は事なきを得た。

 

 

 

 しかし、クリタが十八日の夜()()()()()()()()()()()()()し、泥酔のため阪神レース場へ行けなかった事実が発覚する。

 

 

 

 酒の失態を犯す前、シンザンの担当トレーナーであったクリタはシンザンをオープン戦に出走させるローテーションに強く反対しており、チーフトレーナーであるタケダと激しく衝突していた。

 

 シンザンの担当トレーナーであるクリタの抗議を切り捨て、タケダはオープン戦へ出走を決定。敗北という形で終わる。

 

 クリタの乱心はその結果に対するタケダへの抗議であるとか、シンザンの敗北によるショックからの逃避のためであるとか噂が立ったものの、真偽の程は不明だ。

 

 この不祥事に対しチームを監督する立場にあるタケダは後日、義理の息子でもあるクリタをシンザンの担当トレーナーから外すことを表明。同時に本人の反省を促すため有マ記念への引率も固く禁じた。

 

 事態を深刻に捉えたURAも遅れながらにクリタへ戒告処分を下し、監督不行届きを理由にタケダへも警告を発することとなった。

 

 

 

 シンザンを三冠へと導いたクリタは、自らの失態で彼女の引退レースを見届けることは叶わなくなったのである。

 

 

 

 有マ記念直前の酒の不始末による彼の謹慎は、シンザンの精神面に少なからぬ影響を与えるのは確実とされ、彼女の『五冠』達成に不安が囁かれながら、十二月二十六日。シンザン最後の決戦の日は訪れる──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──とまぁ、こういった事情を抱えてわたしは有マ記念へ向かった訳だ」

 

 一頻り話し続けたシンザンは区切りをつけるようにして、目を伏せながらお茶を啜った。

 

「…………」

 

 重苦しい沈黙が室内に満ちる。

 

 彼女の話を黙って聞いていた椿だったが、いざ本人から伝えられると言葉に窮してしまう。

 

 自分が望んだとはいえ、共に栄光を掴んできたトレーナーが、自身の引退レースに立ち会えなかった話に耳を傾けるのは……彼女の気持ちを思えば心苦しいものがあり、好奇心など失せてしまった。

 

 同時に、どんな理由があったにしろ自制が効かなかったクリタトレーナーへのやるせなさと呆れ、そして怒りを覚えた。

 

「……オープン戦でキミが負けたこと、クリタトレーナーはショックだったんだね」

 

 しかし少しの沈黙の後、椿は当たり障りのない言葉をシンザンへ伝える。彼女の前で、それも故人を批判することなどできるはずもなかった。

 

「……まぁね」

「でも、分からないよ」

 

 言葉少なに返すシンザンへ、椿は一連の話を知った上で疑問を投げかける。

 

「どうしてタケダトレーナーはキミを有マ記念の一週間前にレースをさせたのか」

 

 連闘。二週間連続でレースを走るなど椿には考えられなかった。父が若い頃からあり得たのかもしれないが、現在の価値観で見れば論外とも言えるローテーションだった。

 

「実際、当時でも連闘は珍しくなっててね。中一週ならともかく、それも八大競走直前で連闘となれば批判も出るだろうさ」

「ならどうして?」

 

 連闘への反発をシンザン自身真っ当なものだと受け止めている様子に、椿の中でなおさら疑問が深まる。

 

「理由は幾つかあったんだけど」

 

 シンザンは急須へ手を伸ばし、話を再開させる。

 

「親分。レース前はびっしり追い切る人だって話したでしょう? 椿さんは?」

「ありがとう──ダービー前もそれを理由にオープン戦に出たんだっけ」

 

 日本ダービーについて語る際、シンザンから聞かされたエピソードを椿は思い起こした。

 

 

 

 彼女はダービーを控えた二週間前にもオープン競走に出走している。

 

 こちらもタケダトレーナーの方針として出走であり、叩き台としてレースを使用したものの結果は二着に終わっている。因みに言えば、このオープン戦は彼女の無敗記録が途絶えるレースでもなった。

 

 

 

 こうして振り返ってみると、何故タケダトレーナーはそうシンザンをオープン戦に出したがるのだろうか?

 

「……ゼネラルってウマ娘に聞き覚えはある?」

 

 腑に落ちないでいると、シンザンの口から飛び出したのはウマ娘の名でだった。

 

「ゼネラル?」

「親分が若い頃に担当した、ずっと昔に活躍したウマ娘」

 

 はあ、と話の繋がりが見えず、注いでもらったお茶に口をつけながら椿は曖昧に頷いた。

 

「このゼネラルさん、昔のダービーで一番人気を背負ったらしいんだ……けど負けたのよ」

 

 かつて担当したウマ娘とチームに所属するウマ娘、二人の共通点がダービーにあることを理解した直後シンザンから紡がれた結果に目を瞬かせる。

 

「負けちゃったの?」

「体が重くて思った通りの調子を出せなかったんだって──『この子は才能がある、大事に走らせるべきかそれともびっしり稽古するべきか』って悩んだ末に追い切りを加減したことが敗因だったみたい。ゼネラルさんに高い才能があったことも判断を鈍らせたそうよ」

 

 湯呑み茶碗を持ち上げ、シンザンは記憶を探るように視線を頭上へ向けたまま続ける。

 

「大レースの前は控え目な攻めウマするトレーナーさんは多いけど、ゼネラルさんの経験があったから親分は大レースの前にこそ、びっしり追うようになったって訳だ……わたしら未来のウマ娘にゼネラルさんと同じ悔しい思いをさせないためにもね」

 

 そこでシンザンは言葉を区切り、お茶を啜った。

 

「……その失敗が、後のタケダトレーナーを形作った」

「まさしく人に歴史ありだ」

 

 名伯楽と呼ばれた大トレーナーの若き日の過ち──それはトレーナーの判断一つでウマ娘を活かすことも殺すこともできるという、分かり切っていた現実を改めて突き付けられた。

 

(私も、ローレルとの日々で後悔しない日なんてなかったな)

 

 初めての担当ウマ娘とトゥインクル・シリーズに挑んだ日々が脳裏に過る。

 

 歴史に名を残すような偉大なトレーナーでも、自分と同じように悩み、苦しんでいたかと思うと、椿は少しだけ彼我の距離が近付いたような気がした。

 

「けど……それでも連闘を避けることはできなかったのかな?」

 

 タケダトレーナーの信念は理解できた。

 

 しかし、シンザンを鍛え上げたトレーナーがあえて連闘という彼女の負担が増すような方法で調子を整えるしか手段がなかったとは思えなかった。

 

 ……結果論にはなるが、連闘を選んでしまったことでクリタトレーナーの飲酒トラブルが起こってしまったとも言えるのだから。

 

「たとえば中山でスクーリングするとか──」

「スクーリング?」

「えっと、レース前に本バ場でトレーニングすることをスクーリングって言うんだけど……」

 

 単語に馴染みがなかったようで、首を傾げるシンザンにも理解できるよう椿は言い換えた。

 

 スクーリング──ウマ娘が走ったことのないレース場で走る際、本バ場を使用して予行演習することだ。

 

 あのオグリキャップもかつて有マ記念前に中山レース場でスクーリングを実施したことは有名であり、その経験が有マ記念に勝利する要因の一つにもなっていた。

 

「ああ」

 

 意味を理解したシンザンが声を上げた。だがその声音には気持ちがこもっておらず、どこか上の空に聞こえた。

 

「スクーリングを申請してればオープン戦を走らずとも万全の調整ができたかもしれないでしょ」

「…………」

 

 過去の出来事に後世の人間が指摘することの愚かさを理解しつつ、椿は彼女のトレーナーたちの対立を解決できたはずとの義心から気付けばそんなことを口走っていた。

 

「────たさ」

「え?」

 

 口ごもるような呟きに思わず聞き返すと、シンザンは上体を反らして大きく息を吐いた。

 

 

 

 

 

()()()()()

 

 

 

 

 

 投げやりで突っぱねるような返事だった。それはこれまで穏やかさ一辺倒だった彼女が初めて見せた、怒りの感情だった。

 

「え、あ──」

 

 感情をぶつけられ硬直してしまう椿。

 

「……わたしが中山走ったことがなかったから」

 

 その様子を見たシンザンは声を荒らげてしまったことを恥じたのか、体を揺らし声の調子を落とした。

 

「感覚を掴ませるために中山の本バ場開けてくれって。トレーナーもオープン戦走らなくても本バ場で追い切れば問題ないって、親分に持論述べてた。親分だって言われるまでもなく本バ場を使わせろって申請したけど、許可が降りなかったのよ」

「許可が、降りなかった……?」

 

 

 

 ──スクーリングの申請が承認されなかった?

 

 

 

 前人未到の大記録、『五冠』を目前にしてなぜそのような事態が発生したのか理解できず呆然とする椿。

 

「言ったでしょう。色々あったって」

 

 気持ちを落ち着かせるようにシンザンお茶を啜る。

 

「……()()()()、あったのよ」

 

 ゆっくりと、噛み締めるように呟いて彼女は栄光の裏に隠されていた有マの顛末を再び語りだした。

 

 

 

 

 

*1
現在の京都新聞杯。当時は京都盃の名称で呼ばれ、菊花賞の前哨戦の一つに位置づけられており十月に開催されていた。

*2
シンザンがクラシック三冠を達成した年は中山レース場がスタンド改修工事のため休場となっており、皐月賞が東京レース場で開催されていたため中山レース場で走った経験がなかった。

*3
阪神ジュニアステークスと阪神大賞典を差し、史実での阪神三歳ステークスと阪神大賞典にあたる。




シンザンの有マ記念騒動についての回想は字数が想定を大幅に超えてしまったため話を跨ぎます。ごめんなさい。

……一話あたりの文字数をもう少しコンパクトにまとめたいですけど……難しいなぁ。
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