神が讃えしその駿駆   作:松武栗尾

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《注意》

 今話を書くにあたり、過去の史料や証言を元になるべく事実に基づいての記載を心掛けていますが、一部作者の方で脚色している点もあります。
 ですが作者には当時の関係者への批判や擁護、誹謗中傷するといった意図はありません。ご留意ください。



第三十九話 有マの顛末 後編

 シンザンの引退レースとなる有マ記念を目前に控えた十二月中旬。最後の戦いの舞台となる中山レース場をシンザンが経験していないことにタケダトレーナーは一抹の不安を感じていた。

 

 そのためタケダは中山レース場の本バ場での練習──つまるところスクーリング──を教え子であるシンザンが実施できるよう、管理者である中山レース場長へ要請することとなった。

 

 しかし、その年の師走は天候が崩れがちで、バ場の状況も例年より悪いため本バ場の開放は難しいとの判断が下されることとなる。

 

 結果シンザンのために本バ場が開放されることはなかったのだ。

 

 だが──

 

 

 

 

「建前?」

 

 スクーリングが許可されなかった経緯を俯いたまま黙って聞いていた椿だったが、妙な言い方に疑問から思わず口走っていた。

 

「そう。本音は別のところにあってね」

 

 腕を組み、こくんと頷くシンザン。

 

「確かにバ場の状態は悪かった。けど許可されなかったのには他の理由があったの」

 

 先程見せた苛立ちは既に霧散している。

 

 けれども穏やか一辺倒であった彼女の荒い感情を目の当たりにした椿にとっては衝撃的な出来事であり、その感情を再び逆撫でしてしまうのではないかと萎縮していた。

 

 早い話、彼女に怯えてしまったのだ。

 

「……ごめんなさいね」

「っ」

 

 鼓膜を打った申し訳なさ気な声音に椿ははっとする。

 

「善意で言ってくれてるのは分かってるんだけど……年甲斐もなく声荒らげちゃった。みっともないね」

「そ、そんなことは……っ」

 

 シンザンはばつが悪そうに眉尻を下げていた。まさか謝罪されるとは思ってもみなかったので、慌てて手振りで彼女の自虐を否定する。

 

「私も、その、キミの気持ちも理解しないまま分かった様なこと言っちゃって……ごめん」

 

 項垂れるように頭を下げ、謝罪の意を示す。

 

「頭下げないでちょうだいな」

 

 顔を上げると、優しく穏やかな眼差しを浮かべるシンザンと目が合った。

 

「わたしが椿さんから時間もらって話聞いてもらってるんだ。椿さんが謝るのは筋違いってやつだよ」

「だ、だからってキミが頭下げるのも違うって……」

 

 そう言って彼女は頭を下げたので慌てて頭を上げるよう椿は促した。 

 

 しかし……バ場状態の悪化という至極真っ当と思われる理由を傘に着てまで本バ場を使用させなかったとは、一体どのような事情があったというのだろう。

 

「妙だと思うでしょう?」

 

 場の空気もある程度落ち着きを取り戻した後、椿の内心を読んだような台詞をシンザンは口にして話を戻した。

 

「師走の中山のバ場は今と比べたら酷い状態でね……ダートコースもないから*1レースは全部芝コースで開催、荒れに荒れてたの。有マ本番の時は稍重で発表されてたけど、これが府中のバ場なら重の発表になるくらいにはね」

「そんなに……でも、だとしたらどうして」

 

 どのような理由が隠されているのか? 固唾を呑んで答えを待つ。

 

 

 

 

「実は……圧力が掛かったんだ」

「圧力?」

「中山──いや()()()()()()から」

 

 

 

 ────関東の人たち?

 

 

 

 聞き慣れない呼び方に椿の頭上に疑問符が浮かぶ。

 

「……親父さんから昔はどこそこの所属どうとかって話は聞いたことは?」

「所、属?」

 

 意味を測りかねているとシンザンが再び妙な言い回しをする。が、やはり椿には首を傾げることしかできない。

 

「そうよね、椿さんは若いからよく知らないわよね。まずはそこから話しましょうか」

 

 無理もない、と言いたげにふるふると首を振りシンザンはやおらに解説を始めた。

 

 

 

 

 

 かつてトレセン学園には分校が存在したらしい。

 

 東京、中山、京都、大阪──四大レース場に隣接するようにトレセン学園の学舎が設けられ、現在の中央トレセン学園にあたる東京の学園を本校とし、他三つの学舎が中央トレセン分校として日々ウマの教育と指導にあたっていたようだ。

 

 具体例も挙げてもらったものの「親分の親分なら阪神分校。大先生なら東京本校」と言われたところで誰を指しているのか判然とせず、正直ピンとはこなかった。

 

 話を戻すと、中央トレセン学園に四つの学舎が存在していた当時、ウマ娘の指導にあたるトレーナーも学舎ごとに専属として在籍し、各学舎から最寄りのレース場を使用してトレーニングを実施していたそうだ。

 

 そんなこともあって各レース場職員と各分校所属トレーナー間の繋がりは強く、色々な面で融通が効いたという。

 

 例えば、レース本番直前の追い切りが顕著であったらしく、かつては合同トレーニングという形でチームの所属を問わずレースに出走するウマ娘とトレーナーが混ざり合って実施していたそうだ。

 

 その際は開催レース場に隣接されていた分校に所属するトレーナー陣の意見が尊重され、併走の順序、条件、併せる相手など優先権が存在していたとのことである。

 

 無論、トレーナー間の関係や有望あるいは逆のウマ娘の存在如何によってはこの限りではなかったようだが、基本的には当時のトゥインクル・シリーズ界隈全体で暗黙の了解として慣習と化していたそうだ。

 

 各分校トレーナーの優先権とでも呼べたレース場・分校の顕密な関係性はシンザンの先輩(コダマ)の名前と同じ電車特急の登場を先駆けとした全国的なインフラ整備・高速化により各レース場間の移動時間の削減に伴う旧東京本校──現在の中央トレセン学園への学園機能集約による分校廃止後も、暫くの間は途切れることはなかったという。

 

 

 

 

 

「──ざっくりした説明になったけど、旧東京・中山分校所属のトレーナーさんらを関東のトレーナー、旧京都・阪神分校のトレーナーさんらを関西のトレーナーって呼ぶ括りがあってね」

 

 中央トレセン学園の変遷を語り終え、シンザンは湯呑み茶碗に口をつけた。

 

「当時は東西間の交流する機会が少なかったせいで、お互いに対抗意識を燃やしてた時代があった訳よ。それはトレセン学園が東京本校に集約された後も暫くは残ってたんだ」

「…………」

「『関西陣には負けられないぞ』、『関東の連中の鼻を明かしたれ』ってな具合でね」

 

 口をお茶を啜り、一旦口を噤んで煎餅に手を伸ばした彼女を、椿は黙ったまま見つめた。

 

「……シンザン」

 

 ぱりぽりと煎餅の砕ける小気味良い音の合間を縫って椿は口を開く。

 

「んはい」

「つまり、キミが本バ場を使えなかった理由っていうのは」

 

 

 

 

 

 

「関東圏のトレーナーたちが中山レース場の職員に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()からってこと?」

 

 

 

 

 

 分校制度が存在した中央トレセン学園。

 

 各分校の所属としてウマ娘の指導にあたっていたトレーナー。

 

 環境的要因でトレーニングをレース場で実施していた過去。

 

 各レース場職員と分校所属トレーナー間の親密な関係。

 

 分校間、そして関東と関西という地方間に芽生えていた対抗意識。

 

 

 

 

 

 中央トレセン学園の歴史と変遷。シンザンの言葉の意味がはっきりとした形となって椿は理解した。

 

 同時にウマ娘に最高のコンディションで走らせることを至上命題とするはずのトレーナーが、()()()()()()()()()()()()()()()事実に唖然としてしまった。

 

「…………」

 

 再びシンザンは湯呑み茶碗へ手を伸ばす。注がれているお茶はとうに冷めきっているだろうに構わず喉へと流し込んだ。

 

「…………縄張り意識、とでも言うのかしらねぇ」

 

 やけに大きく聞こえたお茶を啜る音に続いて、彼女はゆっくりと口を開いた。

 

「京都分校の流れを汲んでた関西派の親分と教え子のわたしに、関東のトレーナー──特に中山分校で指導してた人らだね──は大きな顔されるのが面白くなかったんだろうさ。それに関東の人らが本バ場を使わせようとしなかったのには、やっかみもあったからだろうね。天皇賞も勝って有マ記念も勝てば史上初の『五冠バ』になるのを見てるなんて……許せる訳もない。何もできずにさ」

 

 否定の言葉が返ってこなかったという事実に声すら失い、怒りとも呆れとも言い難い、複雑な感情が椿の胸の内で渦巻く。

 

「ただね、結論を言うと()()()()()()()()()()()()

「そう、なんだ……えっ?」

 

 だから続け様に放たれた矛盾する一言は完全に意表を突かれる形となった。

 

「で、でも今、関東? のトレーナーたちの圧力で本バ場は使えなかったって……」

「親分を誰だと思ってるのよ」

 

 頭の整理が追いつかないまま率直に述べると、小さく吹き出してシンザンはそれまでの神妙な面持ちを崩した。

 

()()()()()()よ? そんなみみっちい理由ではいそうですかと引き下がる訳ないじゃない。『ならもっと偉いヤツから許可取り付けてやるわ』って燃えてたよ、あの時は」

 

 あのも何も、タケダトレーナーと面識がないのだから知るはずもないよと告げる間もなく、彼女は茶褐色の髪を揺らして愉快そうに顔を綻ばせた。

 

「許可が下りなかったその日の内に競バ会(URA)のお偉いさんに直談判して、中山の本バ場使用許可をもぎ取ってたねぇ」

「……バイタリティに溢れた人だったんだね」

「いやはや……親分を向こうに回したら駄目なことくらい知ってたろうに」

 

 今までの過去話はなんだったのかと椿は遠い目をするが、シンザン自身は気の毒そうな声を上げて当時を思い返すように目を細めている。

 

「反骨そのものみたいな人だったからなぁ」

「そ、そんなにその、あー……克己心の強い人だったの?」

「っ、親分について話すと長くなるからなぁ……親父さんに聞いてみなよ。それか、面識があるならケンさんとかショウジさん、あとは()()さんがそこのところよーく知ってるよ」

 

 言葉を選んだのを見透かされたのか、理解したように彼女は苦笑して幾人かの名前を挙げたが、誰が誰トレーナーなのか検討項目つかなかった。

 

 下の名前で呼ぶということは親しい人物ということになるのだろうが……。

 

 この子の言うことな毎度質問してたら日が暮れるなとの思いを抱きつつ、椿も喉を潤すためマグカップに口を付け──

 

(──あれ?)

 

 そこでふと妙な違和感を覚える。

 

「……シンザン」

 

 違和感の正体に気が付き、中身を流し込みもせずマグカップの縁から口から離した。

 

「タケダトレーナーの尽力で本バ場の使用許可は貰えたんだよね?」

「そうよ」

「じゃあ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 よく考えれば──いや、よく考えなくともおかしな話だ。

 

 有マ記念の直前にシンザンがオープン戦に出走したことは彼女と彼女の功績を語る上で外すことのできない逸話であり、彼女を知る者にとっては周知の事実である。

 

 そして賛否両論であった連闘を選択した知られざる理由については、当時の複雑な歴史的経緯と人間関係が関係していたことが今し方シンザンの口から語られた。

 

 おまけに一度はスクーリングを拒否されたところを、タケダトレーナーの尽力(ごり押しとも言えた)で許可を取り付けていたというのだから驚きである。

 

 というのに()()()()()()()()()()()()()。成績上にもその事実は確かに残っている。

 

 本バ場が使用できたのなら同時にオープン戦に出走する必要も自然となくなるはず。

 

 何か聞き逃していたのか。あるいはまだ語られていない歴史の陰の部分が存在することを意味している。

 

「……色々とあった。さっきそう言ったじゃない?」

 

 シンザンは曖昧な笑顔を浮かべ、組んだ両腕で座卓に寄り掛かった。

 

「本バ場の使用許可をもらった親分だけど、椿さんの疑念の通り結局はわたしをオープン戦に出すことにしたんだ」

「ど、どうして? だって、本バ場は走れたのに……」

「『頭飛び越えて無理矢理開けさすなんて横暴だ』だの『シンザンだから特別扱いするのか』だの関東の人から意見が出てね」

 

 肘を立て組んだ指に顎を乗せて理由を述べるが、端からは気乗りしない様子であった。

 

「無論わたしは親分のやり方に一切文句はないよ? とはいえ親分のやり方も強引なことは否めんから関東の人らの反発はさもありなんだ。……始め(ハナ)から開けてくれりゃあ良いものを。でも、親分がわたしをオープン戦に出すって表明したお陰で、まぁ曲がりなりには事は収まったんだよ。だけど──」

 

 シンザンはふっと小さく息を吹き組んだ指を解き、手のひらを合わせた両手の付け根に顎を乗せ直し、ぴたりと動きを止めた。

 

「…………」

 

 黙想するように瞼を下ろすシンザン。

 

 彼女が何を考え、何を想っているのかを椿は自然と察することできた。

 

「……でも、クリタトレーナーはその方針に真っ向から反対した」

「…………」

「さっき言ってたよね。クリタトレーナーはキミにはスクーリングで十分だ、レースを走らせる必要はないって」

 

 シンザンは沈黙を保っている。

 

 だが、彼女の眉間に寄った微かな皺と、僅かに傾いた頭の動きが椿の予想を肯定していた。

 

「初め、中山でのスクーリングは望めなかった。けどタケダトレーナーの働きでそれが可能になった……きっとクリタトレーナーも安堵したんでしょう? キミを有マ記念に勝たせる道筋が立ったって。なのに、本バ場の使用権を手に入れた当の本人が放棄してキミの身体的負担をかける選択をしたから」

 

 言い淀み、座卓を挟んで鎮座するシンザンの茶褐色の髪の下の表情を伺った。

 

「……だから、抗議したけど受け入れてもらえず、お酒でその鬱憤を晴らすしかできなかった」

 

 自分がシンザンの担当トレーナーでありながら意見が通らず、ましてやレースで担当ウマ娘が敗れたことを遠く離れた関西で知ることとなった。

 

 ショックを隠せなかったのだろう。許せなかったのだろう。

 

 彼は遣り場のない感情を発散するためにお酒に縋り、溺れ、最も大切な瞬間を病床で過ごすことになってしまったのだが。

 

「……トレーナーの行動、椿さんはどう思う?」

「え?」

「トレーナーの酒のやらかしについて、椿さんは悪いことだと思う? そうは思わない?」

「私は──」

 

 シンザンの問いかけに幾ばくか逡巡する。

 

 クリタトレーナーの不祥事にいたるまでに至った経緯を知ったことで、同情の念を抱いたことは確かだ。

 

(けど……)

 

 たとえどのような理由があれ、担当するウマ娘の最後のレースを、それも歴史に名を残す程のウマ娘の引退レースを見届けることを放棄し、自分の感情を優先したことには変わりない。

 

「……クリタトレーナーは、見守るべきキミのレースに立ち会えなかった」

 

 自制を利かせられなかったトレーナーとしての彼の行動を、椿は許容できなかった。

 

「それはレースに全てを懸けるウマ娘を預かるトレーナーとして、絶対にしてはいけない行為。だから、私はクリタトレーナーは悪いことをしてしまったと思う」

 

 シンザンを真っ直ぐに見つめて、そう断言した。

 

「…………」

 

 沈黙するシンザンの合わせた両手の向こう側で、黒い瞳が重い煌めきを湛えていた。

 

「……うん」

 

 

 

 

 

()()()()()()()

 

 

 

 

 

 重々しく頷いたシンザンの答えに、全く逆の想いを抱いていると考えていた椿は目を丸くした。

 

 

「ただね」

 

 ぎしり、と。

 

「トレーナーは抗議だとか反発だとか、そういった短絡的な考えでお酒に溺れた訳じゃない」

 

 座卓を軋ませて身を乗り出したシンザン。

 

 彼女の真剣な色を帯びた眼差しに直視され、椿は息を呑んで身を緊張させる。

 

「そんな自分勝手な人じゃないってことは、覚えておいてほしいかな」

 

 はっきりと断言する口調に呑まれる椿だったが……。

 

「……キミ」

 

 どこか願うような、頼み込むような節も感じられる彼女の言葉を前にして。

 

「もしかして──」

 

 その先を続けようとした矢先、不意に聞き慣れた声が鼓膜を揺すった。

 

 

 

「──鍵が空いていたので誰がいるのかと思えば」

 

 

 

 椿が弾かれたように振り返ると、開かれた引き戸の前で『アルケス』のチーフトレーナーにして実父、明石梧郎が意外そうな顔をして佇んでいた。

 

「あなたですか椿さん」

「父さん……」

「ここでその呼び方はしないルールですよ。しかし──」

 

 救われたような、縋る思いで父を見やる椿だったが、ぴしゃりと返されてしまった。

 

 ……レースチームのチーフトレーナーとサブトレーナーの関係を優先する約束を破ったからである。

 

「これはまた珍しい客人を招いていたようで」

 

 眼鏡の奥の瞳を覗かせて、父はその眼差しをシンザンへ注いでいた。

 

「こ、これはその……」

「どうもぉ明石さん」

 

 どう返答しようか椿がしどろもどろになっていると、座卓の反対側からシンザンの呑気な声が上がった。

 

「シンザン……」

「いやぁごめんなさいね。わたしが無理言って入れてもらったんで、椿さんのことはあんまり責めないでくださいな」

「あなたが、ですか?」

「そうなのよ」

 

 彼女は会釈しつつもしれっとした様子で父と会話する。

 

「わたしの現役時代に興味があったみたいでね。わたしの記事が載ってる雑誌まで買ってくれてたから、聞かせてあげてたのよ」

「それが『アルケス(うち)』の部室に上がることにどう繋がるのでしょうか?」

「わたしの現役時代を道端で語るには()()()と長いからね。腰据えられる場所を提供してもらったのよ……ここだけの話、明石さんところ畳じゃない? 個人的にお邪魔してみたかったのよね」

 

 そう言って彼女はのっそりと立ち上がり、父の方へ歩み寄っていく。

 

「もちろん明石さんの言いたいことは分かるよ? でも、一生徒のわがままと思ってここはね?」

「しかしですね──」

「もうお暇するから。それに、今度開ける時、好物用意しておくからさ」

 

 「ね?」と両手を合わせて拝む彼女の様子に、父梧郎はふむと顎に手を当てて思案する素振りを見せる。

 

「……分かりました、今回だけは多目に見ましょう」

「さっすが明石さん、話が分かる人だぁ」

 

 息を一つ吐いて頭を振って引き下がった父へ、彼女は拝んだ両手を掲げて礼を述べ、続けて椿の方へと振り返った。

 

「椿さんもありがとうね、現役時代の話ができて楽しかったよ」

「あ……」

「また時間がお話しましょうねぇ。じゃあねぇ」

 

 咄嗟にシンザンへ手を伸ばす椿だったが、彼女は顧みることなくそそくさと部室から出て行ってしまった。

 

 ……去り際に「ガチョーン」とよく分からないジェスチャーを残して。

 

 置いてけぼりにされた思いでゆるゆると手を下ろす椿へ、父である梧郎が淡々と告げてくる。

 

「あまり感心しませんね。チームメンバー以外のウマ娘を招き入れるのは」

「……はい」

「お茶請けでもてなしていた、ことについては目を瞑りましょう。シンザン程のウマ娘にもてなしがないというのも失礼でしょうから。それにしても──」

 

 畳に上がり直前までシンザンがいた対面に腰を落とし、続けて父は座卓に置かれたままの月刊トゥインクルへ手を伸ばした。

 

「彼女の現役時代の話ですか……大方、有マ記念のいざこざに興味でも湧きましたか」

「っ」

 

 眼鏡を上げ、シンザンのローテーションを巡るトレーナー間の対立に関するページを眺める父に図星を突かれ、椿はばつが悪く身を揺らした。

 

「あまり褒めらたことではありません。が、気持ちは分かります」

「っ、本当っ……ですか?」

「ええ」

 

 言葉遣いを訂正しつつ椿が思わず食い付くと、眼鏡と月刊トゥインクルを降ろして父は向き直った。

 

「史上初の『五冠』を目前にしての担当トレーナーの乱心、それも()()クリタさんがですからね。当時も随分憶測や風聞が飛び交っていました。加えて──」

「加えて?」

「この件については当事者全員が口を閉ざしていたので、事の真相は当事者以外誰も知り得てなかったんですよ」

 

 すっ、と眼鏡越しに視線を向けられた椿は身を強張らせる。

 

「その有マ記念での騒動を彼女は当時を語ったので?」

「う、うん」

「なるほど……」

 

 思案する素振りを見せる父の姿。何か思い当たる節でもあるのだろうか?

 

「椿さん」

「は、はい」

「今後、彼女──シンザンとはあまり関わらないようにしていただけますか」

「えっ?」

 

 父の口から放たれた予想外の言葉に思わず椿はぎょっとする。

 

「き、急にどうして……っ」

「個人的友好関係に口を挟みたくはないのですが……彼女は例外です。あなたがトレーナーであり、彼女が競走ウマ娘である限り、シンザンとの交流はあまり勧められたものありません」

「い、いくらなんでも、それは横暴過ぎる──」

「これは」

 

 あまりに唐突だったのて思わず反論しようとするが、はっきりとした父の声に抑え込められてしまった。

 

「これは、チームトレーナーとしての指示ではなく──父としてしての忠告です」

「父、さん……」

 

 トレーナーとしての立場ではなく、親としての言葉。

 

 公私を厳格に区別する父梧郎の、眼鏡の奥から注がれる真剣な眼差しに、椿も二の句を継ぐことができない。

 

「約束してくれますね?」

「……理由」

 

 それでも納得がいかず、椿は握った両の拳を見つめながら問いかける。

 

「理由くらいは教えてよ」

 

 確かにシンザンは少し変わっていて、その口振りに時折閉口することはあった。それでも短い時間ではあったが言葉を交わし、彼女が遠ざけるべきウマ娘ではないことは明らかだった。

 

「……私は、現役時代の彼女を知っています」

 

 数秒の静寂を挟み、父は静かに切り出した。

 

「トレーナーにしろウマ娘にしろ、彼女とレースを通じて関わったことでその運命を大きく変えられた人々を目にしてきました。良くも、悪くもです。私は、あなたに彼ら彼女らのようになってほしくないのですよ」

 

 眼鏡の位置を整えて組んだ指を座卓に乗せつつ、父は言葉を続ける。

 

「当時はそんな感想は抱いていなかったのですが、この歳になり、多くのウマ娘を見てきた今にして思うのです。レースに臨むシンザンの姿は魅力に溢れ──堪らなく恐ろしかった、と」

 

 トレセン学園でも一流のベテラントレーナーである父が吐き出した評価。

 

 恐ろしいとまで言わせしめるシンザン。椿には見透かすことのできなかった底知れなさを彼女はまだ隠しているということだろうか?

 

(けど……)

 

 最後のクリタトレーナーを語る際の姿は──どこか彼を庇っているように感じられた。

 

 父の言う底知れなさとは異なるだろうが、何かしら語られていない秘密を抱えているように思えた。

 

 きっとそれは、クリタトレーナーを庇う素振りを見せる理由に関係しているのかもしれない。

 

「無論、無理にとは言いません。ですが、先程まであなたが接していたウマ娘が多くの一流トレーナーたちを魅了し、当時でも指折り実力を誇ったライバルたちのレース人生を翻弄し、自身のトレーナーたちの目すらを眩ませてしまった存在であることを重々理解していただきたい」

 

 そんなことを考えつつ意識を父梧郎へと戻し、椿は再度の忠告にただ頷くことしかできなかった。

*1
史実において中山競バ場にダートコースが設置されたのは一九六六年であり、シンザンの引退レースとなった有馬記念の後であった。

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