神が讃えしその駿駆   作:松武栗尾

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 天皇賞で入れ込んでるんや。トレーナーもウマ並や。焦れ込まないのはシンザンだけや。





 ──天皇賞直前、普段と異なる様子を見兼ねた知人の問いに対するクリタトレーナーの返答。







第四十二話 制勝のみが我が栄誉

「なあ、今日は誰が勝つと思う?」

「そんなのシンザンに決まってるだろう」

 

 

 

「シンザーン! 宝塚みたいに今日も頼むでー!」

「俺ら兵庫から夜行で来てるんやー! 東京でも、自分がいっちゃんてとこ見せたってなー!」

 

 

 

「聞いたか? シンザンの応援支持率、七十八パーセントだってよ」

「七十八? ……けどまあ、前走の目黒であれだけの余裕見せてたし、妥当っちゃ妥当か」

 

 

 

「今日もシンザンかな……なんだか面白みに欠けるなあ」

「いや、そうとも限らないぞ。なにせ今日は始めて当たる──」

 

 

 

「誰でも良いから、シンザンを負かしてくれる子はいないかね」

「ウメノチカラか、ミハルカスか、ブルタカチホか、あるいは……」

 

 

 

「十中八九シンザンだろうよ」

「今日はシンザンの勝ちっぷりに注目だな」

 

 

 

 晩秋の東京府中。冬の到来を知らせる冷えた空気と小雨がちの秋雨も意に介さない、東京レース場に集った観衆の興奮のざわめきの合間を縫って実況の機械質な拡声された声が聞こえてくる。

 

 

 

『五十二回目を数えます、天皇賞。十二人の優駿が集います東京レース場の本バ場へ、各ウマ娘続々と入場致します──』

 

 

 

 背後のスタンドから流れる場内アナウンス。観客同士で語らう評価と期待、その他諸々の一切を聞き流し──競走相手たちに交じってシンザンは東京レース場の本バ場へ脚を踏み入れた。

 

 十一月二十三日。秋の天皇賞である。

 

「…………」

 

 レースのためにこの和装を纏うのは一年振り。史上二人目の三冠ウマ娘となった菊花賞以来。

 

 (えり)を黒。袖口を白に縁取った赤い羽織。黒色の長着に銀鼠色の二股袴。袴の裾から覗く黒足袋と赤い鼻緒の右近下駄。

 

 そして、母から譲り受けた櫛簪と──シンザンが自ら選んだ勝負服で挑む、一張羅を纏うことを許された四度目の大レースである。

 

 右手で櫛簪に軽く触れ、返しウマに入ろうと進行方向へ身を翻したその時、スタンドから己の名を呼ぶ聞き慣れた声が響いてきた。

 

 

 

「シンザーン!」

 

 

 

 振り向けば、スタンド最前列にひょろりと背の高いこれまた見慣れた姿──ケンさんが口元に両手を添えて叫んでいる。

 

「気ぃ付けて走りぃー!」

「シンザンちゃーん! 勝ってきてねーっ!」

「お前ん方が勝てば、秋の大競走は俺らの二連勝っちゃねー!」

 

 ケンさんの周りにはオンワードセカンド(セッちゃん)やダイコーターを始めとしたチームメイトたちが総出で集い、声援を送ってくれていた。

 

 櫛簪から離した右手をちょいちょいと振って声援に応え、すぐさま視線を正面へと戻す。

 

 シンザンは小さく息を吐くと、両腕を羽織の(たもと)へ引っ込め、スタート地点となる第三コーナー手前の坂上へ向けてえっらおっちらと速歩(ダグ)で返しウマへと入った。

 

 無論、負けるつもりなど毛頭ない。

 

 勝負服を着たからには、負けることは論外である。勝つことにのみに全神経を集中するだけだ。

 

 何せ今日は天皇賞──名実共に古バ(シニア)最強を意味し、トレーナーが未だ手にしたことのない最高の栄誉が掛かった大一番なのだから。

 

 

 

 

 

 

「今日の天皇賞。先行組はミハルカス、バリモスニセイは確実ですね」

「そうやな。せやけども、今日の天皇はスイートラペールがハナ切る可能性が高いわ」

「先行しての逃げごまかしか。あの子は中距離までしかスタミナ持たへんですからね。でも……菊でカネケヤキの大逃げを経験してるシンザンに逃げごまかしは通用せんですよ」

 

 二人の男のレース展開を議論する声が聞こえてくる。

 

「とすると後から来るのはブルタカチホと──」

「目黒記念で番付はもう済んどる。直線での出し抜けにだけ気ぃ付けておけば問題にもならん。それよかウメノチカラが……」

「菊花賞の出来ならともかく、追い切りの様子じゃウメの奴は本調子じゃありません。ウメには悪いが、今日のシンザン相手に回すには不足してますわ」

 

 本バ場入場前の控室。真っ暗な視界の中、眉毛を寄せつつもシンザンは無言のまま二人の会話に耳を傾けていた。

 

「今日警戒すべきなのはやっぱり──」

「いや、存外ミハルカスの方がやかましいかもしれん。しれんが──マサル。今日の天皇賞、シンザンの敵はおらんよ」

「まぁ、俺かてそう思いますけど……」

「『向こう正面で二十バ身離せばシンザンにも勝てる』」

 

 話が纏まりかけたところで、シンザンは口を開いて会話に割り込んだ。

 

 言葉を切り、顔に手を掛けると暗闇に光が差し込む……視界を覆っていた愛用のアイマスクを額へ上げたシンザンは、揃ってこちらを見つめる二人の男たち──親分とトレーナーの顔を交互に見やった。

 

「どないした急に。いつもなら俺らの話に黙って耳傾けてるやろ」

「いやね、バリモスニセイ(バリモっちゃん)がレース前のインタビューでそんなこと言ってたから、わたしはぼちぼち気を払っておこうと思ってさ」

 

 パイプ椅子に腰を落とす、ふっくらした顔立ちをしたトレーナーの問い返しに、シンザンは目元を擦り、伸びをしながらそう答えた。

 

 

 

 ……バリモっちゃんの性格的にケヤキとおんなじ芸当が出来るとは思わないが。

 

 

 

「確かに春天では三着に入っとったが……」

「アイツは典型的な中距離走者や。二二〇〇までならともかく三二〇〇、それもお前が出てるレースで優勝は土台無理な話や」

 

 顎に手を当てたトレーナーに対し、その脇に佇み上着のポケットに両手を突っ込んでいる眼鏡を掛けた壮年の男──シンザンの所属するチーフトレーナーたる親分は口元に余裕の笑みを浮かべて言い切った。

 

「そもそもシンザン。今日のお前なら、何が来ようが負けるとは俺らは毛程も考えとらん」

「いつもなら小兵相手でも油断するなって言うくせに……」

 

 「今日は天皇賞なのにさ」と、親分の自信たっぷりの物言いにシンザンは肩を竦める。

 

 ……が、内心で同意している自分がいるのも事実であった。

 

 それくらい、今日の具合はそれこそ恐ろしい程に絶好調だったからだ。

 

「──そう。今日は天皇賞や」

 

 親分よりも真剣味を帯びた声にシンザンが首を巡らせると、真面目な面持ちを浮かべるトレーナーの顔が飛び込んでくる。

 

「けどなシンザン。天皇賞とはいえ、やることはなんにも変わらん。いの一番にゲート出て、良い位置取りキープして、ペース読みながら道中下げるところは下げて上げるところは上げる。終盤包まれないよう早めに外目にコース取って──」

「後は三コーナーの坂で仕掛けない、直線坂下で早追いしない、坂上追い出しのタイミングでしょ? ペース配分については問題ないよ。そのために毎日()()()()()()()()()()

 

 デビューしたての頃によく聞かされた基本の『キ』の字を真面目くさって語るトレーナーの様子に、ついシンザンは苦笑してしまった。

 

 

 

 レース中のペース配分、ラップ読みに対してトレーナーは厳しい。トレーナーが良しとしないということは親分もその通りであり、むしろ親分がペース配分に厳格ということ。

 

 ちょっとでも併走でいい加減なペース感覚で走ろうものなら、即雷が落ちてくるくらいには厳しい。

 

 レース毎に五秒も十秒も変わってくるならともかく。タイムラップという絶対的な指標が存在するのに自分の直感だけで走ることをトレーナーは由とせず、親分に言わせれば「抜け作のすること」だと公言して憚らないのだ。

 

 元々の体内時計が優れていたこともあるがペース配分、ラップ読みに関して徹底的に鍛えられたお陰もあり、シンザンの体内時計は途轍もない精度を誇っている。

 

 過去のレースでも実際のゴールタイムと体内時計に差が出たのはメイクデビューくらいであり、ペース読みの正確さをシンザンは細やかな自慢としていた。

 

 

 

 ……最悪、レース展開が乱れに乱れペースの読みにズレが生じたとしても、一周目のスタンド正面通過時に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()である。

 

 

 

 すくっとシンザンはそれまで身を預けていたパイプ椅子から立ち上がり、改めてトレーナーへ向き直った。

 

「とはいえ今日は天皇賞だからね。皆気合いはいつも以上だろうから雰囲気に呑まれないように気を付けるさ」

「そう……そうやな。いつも通りが一番や」

 

 独り言のように呟くトレーナー。その様子にシンザンは心配ご無用とばかりにトレーナーの肩をぽんぽんと叩いてしまう。

 

「安心して。わたしが絶好調だってのは親分とトレーナーが一番良く分かってるんだから」

 

 神妙さと真面目さの混ざり合う、複雑なトレーナー表情を見下ろしてシンザンは微笑むと、額に上げていたアイマスクを外した。すると──

 

 

 

 途端、()()()()()()()()()()()

 

 

 

 周囲のあらゆるもの全ての存在が希薄となり、全ての音が遠ざかり対して己の存在は強く鮮明に感じ、五感全てが研ぎ澄まされる。

 

 まるで自分だけ半歩ずれた世界に存在するような、そんな感覚にシンザンは包まれる。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「……知ってるよ。今日のお前が、最高のコンディションだってことくらい。何せ──」

 

 朧となった世界の中で、トレーナーの姿形は色鮮やかに、はっきりとした輪郭で視界に写る。

 

「俺がお前を鍛えたんやからな」

 

 トレーナーの高い調子の声が耳朶を揺さぶり、鼓膜の奥まで響いてくる。心拍数まで聞こえてきそうだ。

 

「……行ってこい、シンザン」

 

 送り出す言葉と共に肩に手が置かれる。トレーナーに触れられた肩が熱を帯びる。体温が勝負服越しに伝わってくるようだ。

 

「うん」

 

 シンザンは頷き、トレーナーへ背を向けて扉へと歩み寄った。

 

「シンザン」

 

 呼び止められて振り向けば、先程まで笑みを浮かべていた親分が笑顔を消し、勝負師の顔で告げてくる。

 

「今日の天皇賞に勝てばお前は史上初の四冠……初めて八大競走を四勝したウマ娘になる。が、今日のお前は三冠ウマ娘シンザンやない。三冠の看板下ろして、天皇賞に挑む一人のシニア級ウマ娘として走ってこい」

 

 トレーナーと同じく鮮明に写る、親分の眼鏡の奥の鋭い眼光をシンザンは見つめ返す。

 

「うん、分かった。そいじゃあまぁ。二人ともスタンドから見守っててちょうだいね」

 

 アイマスクを(たもと)へしまい込み、気持ちを()()()()()()()()()、シンザンはドアノブへ手を掛けた。

 

 

 

 

 

「いつも通り、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

『一番トサイサミ、二番ミハルカス、三番ウメノチカラ──……』

 

 遥か向こうのスタンドから出走者と枠番を読み上げるアナウンスが小雨に混じり薄っすらと流れてくる。

 

 東京レース場本バ場。第三コーナー手前の坂上に設置されたスタート地点に場所を移し、時折額を打つ雨粒の感触をはっきりと感じながら、シンザンは競争相手たちへそれとなく目を向けた。

 

 緊張で顔を強張らせ、あるいは闘志剥き出しでゲート入りを待ち、あるいは集中のため目をつむり瞑想に耽る──

 

 面持ち、立ち姿。誰も彼もがA級のオープンウマ娘の風格を漂わせ、まさしくシニア最強を決定する天皇賞に相応しい陣容であった。

 

「…………」

 

 シンザンの視界に写る競走相手たちが放つ彩りは、色褪せた世界の中で強弱にこそ差はあれど、確かな彩りと輝きを放っていることからもそれは明白だった。

 

「…………」

 

 周囲を俯瞰して観察する流れの中で、シンザンは一人のウマ娘へ視線を送る。

 

 視線の先、侠客を思わせる羽織を纏った着流し姿──赤と黄色の差し色の入った()()()()()()()を纏ったウメノチカラが、視線に気付いたようでこちらへ顔を向けた。

 

 シンザンが黙ったまま見つめる中、ウメノチカラは口元に笑みを浮かべて、左の太腿をぽんぽんと叩いて肩を竦めた。

 

「…………」

『……──十一番ブルタカチホ、十二番フジイサミ』

 

 その仕草と、褪せた世界の中でウメノチカラ(ライバル)の放つ淡い輝きを前にして、シンザンは何も言わなかった。

 

 競走相手たちがターフの上の自分に対する反応はおおよそ二通りに分けられる。

 

 

 

 そっぽを向かれるか、あるいはじっと見つめてくるかのどちらかである。

 

 

 

 理由とそこにこもった感情は十人十色種々様々ではあったが、現在もそんな状況に置かれる中でどちらでもない反応を示し、ゲート前でその時を待つウメノチカラの背中をシンザンはじっと見つめ続ける。

 

 ……横っちょから爛々と怒りの炎を燃やすブルタカチホの熱い視線を浴びながら。

 

「少しよろしいですか」

 

 不意に張り詰めた空気を割き、落ち着いた声が背後から上がった。

 

 呼び掛けられたことに内心意外に思い、ゲート入り直前に声を掛けられたのは菊花賞以来だったかなとシンザンは思い出しつつ、声の振り返って声の主を真正面から見据える。

 

「こうして言葉を交わすのは初めてでしたね」

 

 そこに立っていたのは初めて見る白と青を基調とした軍装然とした勝負服を身に纏う、流星の走る栗毛の髪を肩の高さで切り揃えたウマ娘。

 

「改めて、ハクズイコウといいます」

 

 

 

 ────ハクズイコウ。

 

 

 

 トゥインクル・シリーズにおいて優秀な成績を残すウマ娘を多数輩出する名門・『ハク家』。

 

 その名を知らぬ者はいない名家の出身にして、かの大トレーナーの指導を受けた才媛である。

 

「この日が来ることを待ち望んでいました……皆さんと同じ晴れ舞台に立てる日を」

 

 噛み締めるように、胸の前に掲げた拳を握るハクズイコウから切実な想いがひしひしと伝わってくる。

 

 デビュー前、脚を骨折してしまったことにより、ジュニア級、春のクラシック級の期間を棒に振ってしまっていたからだ。参戦するのことの叶わなったクラシックの悔しさを、雪辱を晴らすという強い意志を示していた。

 

「そして──あなたに挑む日を……!」

 

 言葉に違わず、遅れに遅れた秋のクラシック級でのデビュー戦からこれまでに十戦九勝──現在まで七連勝とハクズイコウは素晴らしい成績を残している。

 

 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの昇りウマとして、シンザンの次点に次ぐ支持率を受けていた。

 

 育ちの良さを感じさせる顔立ちと瞳に強い決意を浮かべたハクズイコウの宣言をシンザンは黙って受け止め、十一人の競走相手相手の中でも色鮮やかに輪郭を浮かび上がらせる目の前のウマ娘を眺めた。

 

 仄かに上記した顔、浅めの呼吸……これまで条件戦を走ってきたハクズイコウにとって天皇賞は初めての大舞台。表面上は冷静を保っているが、胸中には確かな興奮と緊張が滲んでいる。

 

「今日の天皇賞であなたを打ち倒します。シンザン……決してあなたが打ち負かせないウマ娘でないことを、私が証明してみせる。レース場に足を運び私を応援してくださるファンの為にも。不注意で怪我をしてしまった不甲斐ない私を決して見放さず、指導してくださった先生とトレーナーへの恩返しの為にも。そして、我がハク家に栄誉の為にも、必ずや楯の栄光に触れてみせる……!」

 

 声援に応え、恩義に報い、名誉の為に走る。

 

 栗毛の挑戦者の内に秘めた想いを、シンザンは真正面から受け止める。

 

 けれど、話に耳を傾けながらもシンザンの心は別のところにあった。

 

 

 

 ──天皇賞が近付いてきてトレーナー(マサルちゃん)の様子がおかしい?

 

 

 

 ──ああ、シンザンは知らへんかったんか。マサルちゃん、担当と天皇賞に勝ったことあらへんやろ?

 

 

 

 ──けど、一回だけ惜しかったレースがあったさかい。直線で出し抜け食らって、半バ身差で負けてもうたんやけどな。

 

 

 

 ──その時勝てなかった天皇賞、それも秋の天皇賞を自分と臨むことになって、当時を色々思い出してるのと違うかなぁ。

 

 

 

「…………」

「あの、シンザン」

 

 何時ぞや交わしたケンさんとの会話をシンザン思い起こしていると、ハクズイコウの困惑した声でシンザンは現実に引き戻される。

 

「ゲート入り前に声を掛けたのが不躾だというのは理解しています。ですが、話しかけているのですから、少しは反応を示していただいても……」

「ハクズイコウはさ」

 

 放ってしまっていたことを思い出し、シンザンはハクズイコウの名前を呼ぶ。戸惑っていたハクズイコウはぴくりと肩を震わせ体を強張らせる。

 

「……なんでしょう」

「今日のレース……今まで自分が走ってきたレースが何が違うと思う?」

 

 投げ掛けた質問に対し、ハクズイコウは何を分かり切ったことをとでも言いたげな表情を浮かべた。

 

「何を尋ねられたかと思いましたが……天皇賞の過酷さ、競走難度、出走ウマ娘の実力の高さ。加えてレースの伝統、格式は競走ウマ娘にとってそれこそ日本ダービーに勝るとも劣らない最高の栄誉」

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ばっさりと遮って切り捨てた。

 

「……は?」

 

 得意げだったハクズイコウの顔が凍り付つ。

 

「八大競走初めてでしょう? それも天皇賞だ。浮つく気持ちはよーく分かるよ」

 

 誰かが吹き出した音を遠くで聞きつつ、けどねと一拍置いた。

 

()()()()()()()()()には高尚なお題目も大層なおべんちゃらも画餅にしかならない──だから、あんまり気負い過ぎて天皇賞を特別視する必要はないんだよ。()()()()()

 

 ぽんぽん、とシンザンはハクズイコウの肩を叩いてやる。

 

 叩かれたことにも気付かず唖然としていたが、一拍遅れて名門の才媛は怒りで顔を赤くさせ、敵愾心も顕わに目付きを鋭くした。

 

「シンザン、あなた……っ!」

 

 わなわなと震えて何か言おうと口をまごつかせるハクズイコウだったが、結局何も言わずに荒々しく立ち去って行った。

 

 肩を怒らせて遠ざかるその背中を見送りながら、シンザンはため息をつきそうになるのを堪え、ゲートへと向き直った。

 

 シンザンだって、天皇賞に出走し、ましてや優勝することが如何程の名誉であることくらい、痛いほど理解している。

 

 それでも……芝の上ではそれら事情を一切合切を忘れ、ただ勝つべき一つのレースとして臨むのだ。いや、臨まなければならない。

 

 走る際のそれらは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 

 十五時四十五分になった──定刻通りにスターター台の上で赤旗が振られ、ファンファーレが鳴り響く。

 

 周囲のウマ娘たちの緊張が一段と高まるのを肌で感じる。

 

 シンザンも自分の収まる枠番の前へと進み出る。

 

 ゲート入り間際、さも可笑しそうに肩を震わすウメノチカラの姿が、視界の端でちらりと見えた。

 

(嫌ねぇまったく……)

 

 ゲートへと素直に収まり、胸中で独りごちた。

 

 集中が極限までに高まる仕切りの最後の瞬間、トレーナーの屈折した感情を浮かべた顔が脳裏を過ぎった。

 

 

 

 

 

「レースに勝つ度、勝たなきゃいけない理由ばっかり増えていくんだから」

 

 

 

 

 

『スタート地点は三コーナーの坂上……全員ゲートインしました』

 

 

 

 

 

 

『スタートしました』

 

 

 

 

 

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