神が讃えしその駿駆 作:松武栗尾
東京レース場。トゥインクル・シリーズが開催される週末の府中には、レースに出走するウマ娘たちの雄姿を目に焼き付けようと数万人もの観客が押し寄せていた。
『続きまして、東京レース場第十レース! ダービーへの挑戦権を掛けたダービートライアル*1が間もなく始まろうとしております──!』
ターフに響くアナウンスと共に、スタンドに詰めかけた群衆の興奮も徐々に高まっていく。何故なら、これから開始されるレースはクラシックレースの第二関門──全てのウマ娘にとっての最高の栄誉たる日本ダービーへの出走権を手にすることのできるレースだからだ。
ダービー挑戦者が決定する瞬間を一目見ようと盛り上がるメインスタンドの喧騒とは打って変わり、レース場東側に位置するスタンド施設──ミレニアム60スタンドの七階は粛然とした雰囲気に包まれていた。
一般人の立ち入りが制限されているこのフロアには貴賓室、来賓室が備えられ、一部の高い地位にある要人をもてなすための階層となっており、どこかで俗世離れした空間でもあった。
「──どうぞお入りください」
来賓室の一室。そこに三人のウマ娘と一人の女性が足を踏み入れる。
中央トレセン学園の制服に身を包んだ三人のウマ娘の内の一人──生徒副会長のエアグルーヴが恭しく頭を下げ、女性の入室を促した。
白いブラウスにカーディガン、ロングスカートを履き、ショルダーバッグにカンカン帽姿という、どこにでもいそうな地味な出で立ちの女性は質の良い調度品の置かれている部屋へのんびりとした歩みで進んで、彼女に続けて入室してきたウマ娘たちへと向き直り──
「……なあんで、見つけちゃうかなぁ。ルドルフ」
牛乳瓶の底のような眼鏡を外しながら女性──ウマ娘であることを隠すために変装していたシンザンは、前髪に一房の白い三日月垂らすウマ娘へ自分をここまで導いたことに対する非難めいたぼやきを投げかけた。
「遠慮会釈のない行為であるとは百も承知でしたが……先輩をお見掛けしておきながら、無視を決め込むことの方が失礼であると思いましたので」
「まあ……そうかもしれないけどねぇ」
申し訳なさそうにはにかみつつも、トレセン学園生徒会長のシンボリルドルフはそれとなく弁明を試みれば、シンザンも否定し切れないのか歯切れ悪く返す。
ところで、ルドルフが万単位の群衆がたむろするこの巨大施設で、彼女を発見したのは全くの偶然であった。
生徒会の業務の一端としてレースの視察を行っていたルドルフは、軽食でも摘まもうかと共に視察にきていたエアグルーヴを伴い階下へ足を運んだのだったが……。
「──シンザン先輩、早くしないとレースが始まっちゃいますよ」
「ちょっと見てよミホ。立ち食い蕎麦だってさ」
フードコートに差し掛かった時、ふと聞き馴染みのある名前と声が耳に入り思わず振り向いたところ。
「ねえ、ちょっと寄ってかない?」
「何言ってるんですか。シンザン先輩がマイのレースを見届けたいって言うから、お供したんですよ。なのに蕎麦に現を抜かして見逃しちゃったら本末転倒じゃないですか」
「えぇー? 良いじゃない、立ち食いだよ。こんなの二分で啜れるんだから食べてこうよ」
併設されている立ち食い蕎麦屋の前で、トレセン学園の制服を身に着けたウマ娘と目立たない服装の女性が何やら揉めているところであった。
その女性が帽子とバッグでウマ娘の象徴である耳と尻尾を隠し、眼鏡をかけて極力面立ちが分からないように工夫していたものの、一度見た相手の顔は決して忘れないルドルフにはその女性が大先輩であるシンザンであることを見破ってしまい、気付けは思わず声をかけていた。
「会長? どうされましたか──って、どちらに……」
「駄目です。食べるならマイのレースが終わって──」
「……ミホ。シンザン先輩」
「──からにしましょ、う……」
声に反応して同時に振り返る、瓶底眼鏡カンカン帽姿のシンザンと鹿毛のロングストレートヘアのウマ娘。
「え、ルドルフ?」
「二人揃って、何をされているのでしょうか?」
「……何で自分、わたしだって分かったのさ」
──いや名前を普通に呼ばれていたら気付く者もいるでしょう。
驚いた様子のシンザンに制服姿のままの一番近しい後輩と共にいては遅かれ早かれ正体がばれていただろうとも思ってしまい、つい突っ込みしかけたルドルフであったが、自分が気が付く遠因となった彼女の後輩にして、己が同級生のミホシンザンが幽霊でも見たようなすごい表情で自分を凝視していたことに面食らってしまい、突っ込むことを忘れてしまった。
「……本当に真面目よねぇ、自分」
「性分ですので、こればかりは……それに、あまり顔を会わせていない友人と、言葉を交わしたい思いもありましたので」
ショルダーバッグに開けた穴からするりと尻尾を抜き取り、耳を隠すために被っていたカンカン帽、そして眼鏡をふかふかのソファへ放るシンザンを苦笑がちな表情で眺めた後、ルドルフは初めて足を踏み入れることになった来賓室の隅っこで落ち着かない様子のミホシンザンへと目線を送る。
「こうしてまともに顔を合わせるのは君の引退式以来だな、ミホ」
「そ、そうですね」
ルドルフは親しみを込めた微笑みを浮かべるが、対するミホシンザンはぎこちない笑みを作るだけであった。
「脚の具合はどうだい?」
「トゥインクル・シリーズを引退してから暫く経ちますし、大分良くなってきているとは……」
「そう、か……それは吉報だ。君の脚部の不安が完全に払拭された暁には、ドリーム・トロフィーリーグに是非参戦して欲しいものだよ。私は、あの中山の時のようにもう一度君とターフを駆けたいと思っているからね」
「あはは……」
同期の復調に嬉しさを覗かせるルドルフだったが、なおもミホシンザンは愛想笑いを浮かべることしかできない。
ルドルフにとって彼女との対決は、七冠へと邁進する自らの帝道に立ち塞がった好敵手との戦いとして、印象深い記憶として残っている。
一方ミホシンザンにとってあの有マ記念は──当時クラシック級に所属していた彼女が初めてのシニア級に属するウマ娘たちと鎬を削るレースとなり、加えてこの若武者が皇帝にどこまで食い下がれるかという期待と応援を一身に背負い挑んだレースであった。
「会長さんにそう言ってもらえるのは、すごく嬉しいですけど……私にはあの中山はまだ思い出として語るには時間が必要みたいで」
しかし結果は完敗。最後の直線で振り切られて四バ身離されての二着に終わり、『唯一抜きん出て並ぶものなし』──皇帝の絶対を証明するレースとなった、苦い記憶として残っている。
その経験からミホシンザンはルドルフへ苦手意識を抱いており、かつ手も足も出なかったショックから軽いトラウマとして化しており、今もどこか立ち直れてない節があった。
「今でも、時たま夢に見るんですよ……中山の直線、追っても追っても追い付けない、あなたの背に縋ろうとする夢を」
「な、なるほど……」
生気の引いた目付きで遠くを見つめる同級生を前に、微笑に乗せる感情を困ったものへと変えるルドルフ。彼女の傍らで口を噤んでいたエアグルーヴは胸の中で
(……あの時の会長を前にしては、自信を失うものも無理はないか)
ただ観戦していた側ですら言葉失うほどに、あの有マ記念のルドルフは圧倒的な強さを誇っていたのだから。
実際にその衝撃をターフで体験した彼女が悪夢の一つや二つ見ても仕方がないだろう、とエアグルーヴが同情の念を抱いていたところ、唐突にすっとぼけた声が飛んできた。
「夢に出るぅ?」
一人窓際に寄り、首に掛けた双眼鏡でガラス越しにターフの様子を窺っていたシンザンが振り返りながら、少し沈んだ場の雰囲気など意に介していないような、のんびりとした調子で彼女たちの話に割って入る。
「シンザン先輩……」
「一回負けたくらいで何を腑抜けたこと言ってるの、わたしとウメが何回競ってきたのか、散々話してきたでしょうが」
「は、はい。それはもう何度も……」
「全く……ウメを見習いなさいよね、ウメを。むしろ自分は恵まれてるんだからね。ねえエアグルーヴ」
「わ、私ですかっ」
話の矛先を突然向けられてしまい、油断していたエアグルーヴは慌てて居ずまいを取り繕った。
「そうよ。だって自分、ルドルフと同じチームにいるけど、全力のルドルフと
「それは当然──」
シンザンの問いに迷いなく返答しようとして──言葉に詰まる自分がいることに、エアグルーヴはショックを受けた。
ルドルフは自らの練習は勿論、チームメイトとの練習でも手を抜くなどという相手を侮辱する行為を働いたことははない。
だが魂を全力で揺さぶる、闘争心をこれでもかという程刺激されるような走りを、この身で体験──あるい彼女からその走り振りを引き出してみせたことがあるだろうか?
「…………」
「でしょう?」
目線を下げて固まるエアグルーヴの沈黙を肯定と見て取り、シンザンはうんうんと頷いてみせる。
「エアグルーヴだってこうでしょ? ルドルフみたいなすんごいウマ娘が全力で掛かっていくウマ娘なんて滅多にいないんだから、ミホはその内の一人なんだからもっと誇らないと」
「わ、分かっていますから、会長さんたちもいるのでお説教は勘弁してしてください……」
自分が弱音を吐いたばかりに尊敬して止まない先輩のくどくどとした説法を説かれてしまい恥ずかしそうにしてミホシンザンは止めさせようと口を挟む。
「……シンザン先輩、ミホが困っています。彼女への叱責はまた後日、我々のいないところされた方がよろしいのではないでしょうか?」
「そう? じゃあ今日はルドルフの顔に免じてあげるよ」
ルドルフがお説教に口を挟んでミホシンザンに助け舟を出す。しかし彼女は彼女でエアグルーヴに気まずそうな目線をくれており、シンザンの発言に心当たりがある様子だ。
「ありがとうございます会長さん……」
「いや、気にしないでくれ……私も、少し配慮が足りていなかったようだから」
「けど、お説教はしっかり受けなければいけないんですね……」
「む……す、すまない」
「とにかくね、もっとC調に考えて自信持ちなさいなミホ。勝負事っていうのは、自分が納得できる結果を出せるまで何度でも挑むことも大事なのよ。機会があるならなおさらね──まあ、わたしもウメに教えられたことだけど。しかし、ごめんねエアグルーヴ。自分を出汁にするような真似をしちゃって」
「……いえ、むしろ自らの至らなさを自覚させていただいたようなものですので、お気になさらないでください」
「強い先輩がいると、後輩は後輩で苦労するね……よしよし、落ち着いてるねマイちゃん。ミホ経由で伝えてもらったアドバイスが生きてるぞぉ」
トラウマをほじくり返されたり現状に満足していたことを気付かされたりだとかで、それぞれ複雑な心境に至っている三人の後輩を尻目に、シンザンは一人のんびりと向き直って双眼鏡を覗き込む作業を再開して、発走準備に入っている贔屓のウマ娘の様子に安堵していた。
呑気な大先輩の様子に何とも言えない感情が湧いてくるエアグルーヴだったが、ルドルフに対する対抗心、克己心といった勝利への熱が薄らいでいたことに気付かされ、そのこと事態への己に対する細やかな怒りを抱くと同時に、より一層トレーニングに精進しなくてはと人知れず気合いを入れ直す機会と捉える。
きっと会長も同じようなことをお考えのはず、と彼女はルドルフへ視線を向け……。
「……会長?」
一切の表情が消えていた。先程までの痛いところを突かれたような困惑した表情はいつの間にかごっそりと抜け落ちている。感情の窺えない瞳で再び双眼鏡を覗き込んでいる、シンザンの簪を差した茶褐色の頭部を凝視していた。
「────
「か、会長? いかがされましたか?」
「っ、いや……高論卓説。シンザン先輩のおっしゃる通りです」
常に他の生徒たちの模範を心掛けているルドルフの、初めて目にした能面のごとき表情にエアグルーヴは戸惑いつつも声をかければ、彼女はハッとしていつもの穏やかな表情へと素早く切り替える。
「君の気持ちに整理がついたら、良ければ声をかけてくれ、ミホ。私は君の挑戦を諸手を振って受けさせてもらうよ」
「会長さん……」
「ね? こう言ってくれるんだから、その内もう一回挑んでみなさいな──でないとお腹が減りに減ったライオンちゃんが、我慢できずにミホのことを襲いに行っちゃうかもよ?」
「ライオン?」
「入学したてのころのルドルフはそれはもう喧嘩っ早い子でさ。名のある先輩ウマ娘たちに、しょっちゅう声かけては勝負挑んでたよ。誰彼構わず歯を剥くから、それでライオンなんてあだ名がわたしたちの中で広まった時期があったんだ」
「会長がですか……!」
シンザンの丁寧な説明に首を傾げていたエアグルーヴは驚きに目を丸くする。あの謹厳実直の生徒会長シンボリルドルフに
「……世界は自分を中心に回っていると、思い上がっていた幼稚な時期が私にもあったんだよ。エアグルーヴ」
「にわかには信じられません……」
「カブにガビー、マルちゃんに『テーテージー』……懐かしいねぇ」
「そういえば、おタケ先輩にも挑んだことがありましたね、会長さん」
「あー、あったねぇ。あの時は笑っちゃったよ、何せ──」
「ところでっ。先程から気になっているのですが、今日は何故変装をされて観戦にいらっしゃったのですかっ?」
二人のシンザンのしみじみと懐かしむような会話をあからさまに遮って話題を変えようとするルドルフ。その顔は仄かな朱色に染まっていた。
(……先程のは気のせいだな)
自分には見せたことのない皇帝の焦った姿にエアグルーヴは新鮮な印象を抱くとともに、この人にも頭が上がらない人が存在するのだなと微笑ましい気持ちになる。
同時に、一瞬前の言い知れない表情は自分の勘違いだと納得させた。
「ああ、これ? これはあれよ、URA職員対策」
「と、言いますと?」
「あの人たち、わたしを見つけるとこぞって
「……ああ」
確かに、とエアグルーヴは納得してしまった。会長は当然のこと自分ですらこの待遇だ。ともすれば彼女がレース場に現れた暁には平身低頭するURAの職員たちがこぞって七階へと誘導する姿が目に浮かぶ。
「しかも
「ご、ご宸儀……?」
「何、知らないの。御上のことよ、
「サヨナラホームラン」と、呟きながら小さくスイングの真似をするシンザン。
聞いたこともない言葉を使う彼女に、この人は一体幾つなんだという失礼な疑問を抱きつつも、大先輩なのだからと、肩を竦めた。
「しかし……先輩ならそのような待遇も致し方ないかと? 何故なら先輩は『
ある意味、彼女はウマ娘の間でも本当に特別な存在なのだから、と続けてエアグルーヴは冗談混じりに彼女の名前をもじった呼び名を口走る。
瞬間、空気の軋む音を彼女は耳にした。
「……え」
空気の変わりようにエアグルーヴは間抜けにもそんな声を漏らしてしまう。
ルドルフはリラックスしていた顔を強張らせており、あっという表情をして両手で口元を抑えるミホシンザンの姿も視界に入る。
そして二人の視線の先には──
「…………」
恐る恐る振り向けば、双眼鏡から目を離し、ゆったりと顔を向けてくる茶褐色髪のウマ娘の姿。
「…………神、ねぇ」
シンザンと目が合う──いや合わせてしまう。彼女は表情も、声音も声量も変えていない。だというのに、エアグルーヴは威圧されたようにビクリと肩を震わせた。
「わたしは、
濃く深いシンザンの瞳に浮かぶ、静かな鈍い光にエアグルーヴは呑まれ、喉が引き攣ったように謝罪の言葉すら出てこない。
痛いほどの静寂を裂き、来賓室に満ちる重苦しい空気とは対照的なダービーへの切符を掴む戦いの始まりを告げる、高らかに鳴り響くファンファーレがどこか別の世界の出来事のように感じられた。