殺さずの剣客、そして人斬りの君 作:ただの物書き
そもそもの始まりはなんだったか——。
いやはや、説明することすら
であれば、ここいらで語っておくというのも、ひとつの筋といえよう。
というよりも。
それこそ
そもそも事の発端といえば——赤衣が旅籠を飛び出したことにあったのを覚えているだろうか。
松田重助が集めた、薩摩の人斬りに関連する事件の数々——。
それらの現場を洛中洛外図に照らし合わせた結果、赤衣はなにかに感づき、五条橋へとひた走ってそのまま川へ飛び込んだ。
そういう経緯であったはずだ。
しかし、それよりも不可解なことがあったかもしれない。
いや。不可解と言うにはあまり特別なことであったとも言えないが……それはそれとして、赤衣が洛中洛外図を眺めていたときだ。彼は唐突に『四神相応』、『青い龍』なる言葉を呟いた。
正直に白状してしまえば、これらに関して深い意味はない。
第一、人がふと口走る言葉に、深い意味が隠されていることなど稀有であろう。
しかし、決して無意味というわけでもない。
何の理由もなく、まったく無意味な言葉が口をついて出るというのも、またおかしな話だからだ。
であれば、赤衣はあの時、なにに気が付いたのか。
簡単に言ってしまえば、水である。
さらに言えば、水路である。
薩摩の人斬り——田中新兵衛が起こした事件には二種類あった。
ひとつは、田中新兵衛の意思で起こしているであろう天誅。
もうひとつは、第三者の意思が透けて見える、無差別な辻斬り。
松田が白い紙と青い紙で事件を色分けし、洛中洛外図の上に配置したそれらの痕跡を見て、赤衣は間桐臓硯の狙いが水脈——すなわち京の『龍脈』へと通じているのだと踏んだのだった。
— 壱 —
夏の日は長い、というが、流石に夜五つにもなれば夕刻には赤く染まっていた空も、今や深い藍色に沈みきっているらしい。
川から遠く離れた、田畑のど真ん中。ぽつんと取り残されたように佇む土壇には、人の気配も灯りひとつない。
ねっとりとした生温かい風が、むせ返るような土の匂いと青田の青臭さを孕んで吹き抜け、四方を囲む田畑から湧き上がるような夏虫のすだきが、かえってこの土壇の異様な静寂を際立たせていた。
そんな忘れ去られたような暗がりの中。
泥に塗れ、屍のように横たわっていた赤衣が微かに眉根を寄せ、やがてゆっくりと重い瞼をこじ開ける。
「……う」
小さく呻き、視線をさまよわせる。
枝葉の隙間から覗くのは、一番星が瞬き始めた薄暗い空だった。
身じろぎをすると、着物がバリバリとこわばった音を立てる。夏の熱気と流れた時間のせいか、布地はすっかり生乾きになり、泥と共に肌へ張り付いていた。
そして、顔面の中心——鼻柱のあたりを陣取る鋭い痛みが、赤衣の意識をはっきりと覚醒させる。
暗闇の中で突然顔面を強打され、見事に気を失った痛みの記憶が、じわじわと蘇ってきた。
「気がついた?」
すぐ横から、静かな声が落ちてきた。
痛む顔をしかめながらそちらへ首を向けると、そこには彦斎が座り込んでいる。
「……河上殿」
「ようやっと起きたか。……けっ、まったく不用心な奴じゃ」
「以蔵殿も……」
少し離れたところからは、腕を組んで立つ以蔵の不貞腐れた声が聞こえた。
以蔵はどこか気まずそうにそっぽを向いているが、その手には抜き身の白刃が握られており、足元の茂みには見覚えのある鞘が転がっている。
どうやら、暗闇の中で赤衣を曲者と勘違いし、全力で殴り飛ばしたらしい。水を含んで抜けなかったはずの鞘が、打撃の衝撃ですっぽ抜けた結果がこれなのだろう。
赤衣は痛む鼻をさすりながらゆっくりと上体を起こし、こびりついた泥にまみれた二人の姿を交互に見た。
彦斎も以蔵も、袴の裾や袖がひどく汚れ、氾濫した川に揉まれた痕跡があちこちに目立っている。
「なるほど、だいたい話が見えてきたでござるよ」
暗闇の中、赤衣は息を吐き出した。
「どうやって、ここまでたどり着いたか分からぬが……某が五条橋から川へ飛び込むのを見ていたのでござろう? それで、以蔵殿と河上殿は某を追うため、おなじく川へ飛び込んだ。まったく、ずいぶん無茶をしたでござ——」
「どの口がほざきゆうがじゃ、どの口がぁ!」
「い、
良い感じに締めそうになった赤衣の頬を、近づいてきた以蔵が、激昂のあまり両手で思い切りつねり上げる。
川でおぼれかけたことと、大事な刀の鞘をダメにしてしまったことで怒りが爆発したのだろう。赤衣の引っ張られた頬は、情けなく横へ伸びた。
「おまんがわしの方に走ってきて、そのまま川に身を投げたがじゃろうが! 何も言わんと飛び降りおって! この女なんぞ、川に溺れて死にかけちょったがぞ!」
「別に溺れてないし、死にかけてもない」
「陸に打ち上げられた鰹みたいになっちょった奴が、ようぬかすわ!」
そう言われた彦斎は、すっと目を逸らした。
どうやら否定しきれないらしい。実際、川から引き上げられた直後の彼女は、濡れた衣服を張りつかせたまま、しばらく河原で仰向けに転がっていたのだ。
頬をつねられたまま、赤衣が情けない声で彦斎を見る。
「か、
「……貴方に言われると、少しだけ腹が立つわね」
無表情のまま告げられる。
以蔵に続いて彦斎までもが「……えい」と赤衣の結い髪を引っ張りはじめた。
「か、
「仕返し。貴方のせいで、せっかく結ってもらった髪が台無しになったから」
無機質に髪を引き続ける彦斎に、赤衣は「
ひとしきり気が済んだのか。もしくは、次も髪を結ってもらえる役を取り付けたからなのか。彦斎だけはぱっと手を離し、赤衣から数歩の距離を取った。
一方の以蔵はというと、まだ怒りが収まらないのか「ええ加減にせえ!」とばかりに、ギリギリと指に力を込めて赤衣の頬を左右に引っ張り続けている。
依然として以蔵には頬をつねられたまま。はてさて、どうやって手を離してもらおうかと赤衣が考えていると——。
「……それで」
「?」
泥の跳ねた着物の袖を軽く払いながら、彦斎が短い言葉で本題を切り出した。
「そろそろ、納得のいく説明がほしい。あの時、何を察してあんな真似をしたの?」
淀みなく核心を突いてきた問いに、赤衣は思わず「……
その急に冷え込んだ空気を察したのか。赤衣の頬をつねっていた以蔵もぴたりと指の動きを止め、いぶかしげに眉を寄せて赤衣の顔を覗き込んだ。
次の言葉が出てこない様子の赤衣。
彦斎からしてみれば、旅籠で洛中洛外図を眺めていた赤衣が、いきなり何かを察して走り出したことしか分かっていない。面と向かって話していた松田も、赤衣の豹変ぶりには目を剥いていたほどだ。
「なにか、分かったんでしょう。田中新兵衛について。それと、今回の奇行についてどういう繋がりがあるかまでは分からないけど。もし何かあるなら——」
「——おい、それはまことか?」
彦斎の言葉を遮るように、低く唸ったのは以蔵であった。
田中新兵衛について何か分かったと聞いた瞬間、以蔵は赤衣の頬から手を離し、今度は片手で力任せにその胸ぐらを掴み上げる。
「くっ……!」
「おまん、なにか新兵衛について分かったことがあるがか?」
「以蔵、殿……?」
「おい、さっさと答えぇ! わしの気ぃは長うないがぞ!」
赤衣の煮え切らない態度が気に入らなかったのだろう。
以蔵は胸ぐらを掴み上げたまま、空いた手で自身の愛刀を握りしめた。
困った表情を浮かべる赤衣だったが、一度だけ深く息を吐き出すと、申し訳なさそうに視線を落とす。
「……誤解、しないでほしいのだが、某は決して、はぐらかすつもりはないでござるよ」
「じゃあ、なんでおまんは、さっきからずっと黙っちょるがじゃ」
「こちらも、分かっていることの、ほうが少ない。下手に、口にするわけにも——」
「その少ない分かっちょることだけでも話せばええがじゃろうが!」
「そうしたいのは、山々だがっ……なにぶん前提となる話が、あまりに、突飛すぎる……っ。どうか、ここは何も聞かず、いてはくれぬか?」
以蔵の眉が僅かに寄り「はぁ?」といぶかしげに顔をしかめる。
しかし、赤衣にとっては、どう説明したものか分からないのも事実だった。
なにぶん、今回気が付いたことは間桐臓硯絡み——つまり、魔術的な発見である。魔術、霊地、龍脈。そうした常識から外れた神秘の概念を、幕末という時代を生きる純粋な剣客たちに話して、どこまで理解され信用してくれるやら。
それにそもそも、魔術には隠匿すべしという大原則もある。
赤衣は決して生粋の魔術師というわけでもないが、その世界に浸かっていた期間はそれなりにある。おいそれとその禁を破るという発想は出てきづらかった。
だからこそ、出す情報を絞りに絞った赤衣は——。
「重ね重ね、すまぬが……っ」
「あぁん? おまん、この状態で何をぬかしゆう——」
「以蔵殿と河上殿には、この一件から手を引いてほしい。薩摩の人斬りについては、某に一任していただきたいでござるよ」
ぴしゃりと、窪地の空気が凍りついた。
唐突に突きつけられた、あからさまな介入を許さぬ申し出。
一瞬の空白ののち——怒鳴りかけようとしていた以蔵の顔から、すっと表情が抜け落ちた。
― 弐 ―
目の前の優男を見とると、わしはどうも嫌なことばっかりを思い出すがじゃ。
理由なんぞいちいち聞かんでええ。
わしは、お人好しっちゅうがは反吐がでるほど嫌いってだけじゃ。
あいつらは一見すると優しい顔をしとるが、いざという時には必ず人を裏切る——そういう奴らぜよ。
大した才もないくせに偉そうにしちょる奴らも好かんけんど、そういう上っ面だけえい奴らは、いけ好かんを通り越して腹の底から気持ち悪さすら感じるき。
どうせ学のないわしなんぞを腹の中で見下して、初めから対等に話す気すらないんじゃろ。
あいつも、そういう男じゃった——。
——『あれま、以蔵さんじゃないがか。久しぶりじゃのぉ』
あれは、たしか今年の元旦を過ぎたあたりのことじゃ。
京の町をふらついちょった折、わしはあの馬鹿と久しぶりに
どうやら大殿様から脱藩を赦免してもろうたらしく、あの阿呆はわしに堂々と話しかけてきよった。
最初は、言葉も交わさず斬り殺してやろうかと思うたぜよ。
当たり前じゃ。こいつは、武市には脱藩のことを話しちょったくせに、わしには何の別れも説明もなく、国を……勤王党を出ていきよった裏切りもんじゃ。わしが許すわけもない。
けんど、あの阿呆は海軍がどうだの、塾がどうたのと言うては、あたかもわしに何も告げず脱藩したことを気にもしちょらん様子じゃった。
まるで、柿を目の前にした童のように、目を輝かせちょった。
わしには、それが我慢ならんかった!
こいつは、わしらのことを歯牙にもかけず、気にもしとらん!
そればかりか、今も目の前に立つ男が自分を斬り殺そうとしていることすら気づかず、間抜け面を晒しちょる!
むかっ腹が立った。腸が煮えくり返りそうじゃった。
仲間と思っとったんはわしだけか。友達じゃ、思うちゅうたのはわしだけか。
ひとりで出て行っては、脱藩まで許され活き活きとしちょるこの男が、たまらんくらい憎うに思うたぜよ。
そこからは、ひどく短絡的な思考じゃった。
だったら、思い出させようと——そう思ったがじゃ。
わしを怒らせるとどうなるか。わしの剣がどれほど恐ろしいか。
その身に刻み込み、一生忘れられん傷にしちゃろうと、そう思ったがじゃ。
けんど、それが誤算じゃった。なんの流れか、そのまま『勝』と呼ばれる幕臣の先生のところまで連れていかれ、流れのまま用心棒をする羽目になった。
そん頃は、土佐勤王党内でも、わしの立場は曖昧じゃった。それもあり、武市とも距離があったきぃ、とやかく言われることもない。それに金にも困っちょった。
だから、わしは羽振りもええきぃ、京におる間だけ、その勝先生の用心棒をしちゃることを認めた。
それに、こいつが先生と慕うだけの男じゃ。わしの凄さを思い知らせて信用を勝ち得てから斬れば、さぞええ気になれるじゃろうと、そうも思うた。
そんな、ある夜。刺客から守ってやった時のことじゃ。
その時、わしは刺客を三人も斬り捨ててやった。わしの剣がなけりゃ、今頃あの二人は死んどったじゃろ。
だから、わしは誇った。
どうじゃ、おまんらをわしが守ってやった!
わしは剣の天才じゃあ!
と。
ほいたら、あの二人は揃いも揃って渋い顔をし、わしにこう言いよった。
——『君は、人殺しを楽しんでいるのかい?』
——『以蔵さん、人の道を踏み外してはいかんぜよ』
——そう言って、ひどく哀れむような、『お人好し』の目ぇを向けよった。
ふざけるなと思った。
わしが居らんかったら、今頃、死んじょったかもしれん連中が、雁首揃えてわしを憐れむような目を向ける。
しまいには、武市と共に血反吐を吐くような思いで泥をすすってきよった土佐勤王党の活動すら、奴らは快く思わないよう諭してきよった。
『武市という輩は距離をとったほうがいい』『過激尊攘派には近づくな』『このまま、僕たちと一緒に海軍を作らないか』。
上から見るな……わしを憐れむな……!
仲間を見捨てた分際で、どの面さげて言いよるがじゃ!!!
わしと先生が手を汚してやってきたことを、あいつらはその生ぬるいお人好しの正論で全否定しよる。
だから、わしは————。
「……が、ッ!?」
現実へと引き戻したのは、不意に漏れ出た赤衣の苦悶の声だった。
胸ぐらを掴んでいた以蔵の手が、突如として万力のような力で着物の襟を締め上げたのである。
かつて大坂で、幕吏の首を素手で絞め殺したこともある人斬りの腕力。
無骨な手の甲がぎりぎりと鳴り、その指の関節は容赦なく赤衣の気道を塞いでいく。
人間、呼吸をせずに生きてはいられない。
酸素を絶たれ、赤衣の顔がみるみるうちに苦痛に歪んでいく。
だが、至近距離で見上げる以蔵の瞳には、微塵の感情も浮かんではいなかった。
「もう一度聞くぞ、優男。おまんは今、わしに手を引けと……そう言うたがか?」
「ぐっ、ぁ……! 以蔵、殿……っ!?」
「なんじゃ……わしがおまんを殺そうとするんが、そんなに不思議か?」
至近距離から以蔵を見返す赤衣の目に、恐怖はない。
怒りも、怯えも、蔑みもない。
ただ、何かを見極めるように、まっすぐと以蔵を見つめている。
だが。
そうじゃ。わしはこいつの目ぇが——。
あいつと同じ目ぇをしとるこいつが——。
「そのムカつく目ぇをやめぇ! おまんも、あいつらと一緒でわしを馬鹿にしちょるがか!?」
ぎりっ、と布地が裂けそうな音を立て、さらに襟が食い込む。
乱暴に引き寄せられた赤衣は息を詰まらせ、もはや抗議の言葉すら封じられた。
その様子を横で静観していた彦斎が、わずかに目を細める。
「さっきから黙って聞いていれば……貴方、少しは落ち着いたら?」
「おまんは黙っちょれぇ! わしは落ち着いちゅうッ!」
以蔵は赤衣の胸ぐらを捻り上げたまま、首だけを巡らせて彦斎を怒鳴りつけた。
彦斎も下手に動くわけにはいかない。
今の以蔵を刺激すれば、こっきりと赤衣の首が折られかねないからである。
しかし、それ以上に問題なのは、赤衣自身に抵抗する素振りが見えないということ。
その気になれば身を捩り、気道の確保くらいはできそうであるが、何故かそれをしようとしない。ただ為されるがまま、捻り上げられている。
そんな標的である赤衣の様子にも気づいていないのか、以蔵は鼻先へ顔を近づけた。
「のぉ、優男。わしは前からおまんが気に入らんかったがぜよ。なんもかんも人を疑わん。お人好しの目をしちょるきぃ」
「っ……!」
「けんど、その目ぇがただのお人好しの目ぇやないことくらい、わしはよう知っちゅう」
酸素を求めてもがく赤衣を冷酷に睨み据え、以蔵は鼻で笑った。
そうだ。こういう手合いの目ぇをよう知っちゅう。
遠くの眩しいもんばかりを見据えて、自分の足元など一顧だにしない。わしのような阿呆のことなんぞ、どうせ最初から風景のいちぶとしか思っちょらあせんのだろ、おまんらは。
そう、以蔵は自虐の笑みすら浮かべた。
「その目ぇは人を疑わんのではなく、人を見てない目ぇぜよ。己の描いた絵空事ごとばっかり盲信しとる奴の目ぇじゃ」
「某、は……っ! 別に、以蔵殿を蔑ろにしたいわけではっ」
「なら話せ」
「それ、は……っ」
「話せちゅうんが、聞こえんがかッ!」
ぎりり、と以蔵はさらに襟を締め上げた。
——またじゃ。
大事なことは何ひとつとして教えられず、ただ背中を向けられる。
どうせ言っても無駄じゃ。どうせこいつには分かりゃあせん。
武市も、土佐勤王党の同士たちも、あの坂本龍馬も。誰ひとりとして、以蔵には言葉足らずであった。
赤衣の沈黙からも、そんな声なき声が痛いほど透けて見えるのだ。
だからこそ、そんな行き場のない怒りと、それ以上に深い劣等感が、以蔵の理性を焼き切っていく。
「おまんも、わしに話しても無駄じゃ思うちょるがじゃろ!」
「そういうっ、ことでは——」
「なら、なんじゃ! 何で言えん!? わしは頭が悪いきぃ! はっきりと言わにゃあ、分からんぜよ!」
悲鳴にも似た猜疑心をひた隠しにして、とうとう以蔵は白刃を赤衣の目先へと押し付けた。
そこまできて、ついに彦斎も抜刀の姿勢を取る。
「そこまでよ。これ以上は、さすがに容認できそうにない」
彦斎の親指が鍔を押し上げる。
小柄な体躯からは想像もつかないほどの、凄まじい殺気が以蔵の肌を刺す。
だが、今の以蔵にとって、それは己の神経を逆撫でする忌々しい横槍でしかなかった。
「ああん!? さっき黙っちょれと言うたが聞こえんかったがか! わしは今、こいつと話をしゆうがじゃ! 部外者はすっこんどれぇ!」
「そうもいかない。私はその人の味方だから」
あまりにも迷いのない返答だった。
二の句を継ぐ暇すら与えない。
しかし、その迷いのない言葉こそ、以蔵の胸糞をさらに悪くさせた。
打算も何もない、相手への絶対的な肯定。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
「こん男の味方? はっ、おまん正気か? こいつのどこを信用できるがじゃ」
「信じるとか、信じないとか、そういう話じゃない。その人がそう言うのなら、私はただ力になるだけ」
「なんじゃ。おまんも人のことを犬っころ呼ばわりしちゅうくせに、自分も立派な犬か」
吐き捨てるように以蔵は言うと、赤衣の身体を乱暴に引き寄せ、盾にするように彦斎のほうへと向けた。
抜刀すれば、以蔵だけではなく赤衣もろとも斬りかねない。
そういう脅しであった。
怒りで我を忘れているように見えて、その身に染みついた人斬りとしての戦闘眼は、決して失われてはいないらしい。
「不快ね……私はお前と違って、その人の言葉ではなく人となりを信じているだけ。上っ面しか見えない人に、犬呼ばわりされるのは癪に障る」
「同じじゃ。おまんはこん男のなにを知っちゅう。名前は? 国は? 目的は? なんも知らんがじゃろ」
「それを上っ面って言っているのよ。そういう情報でしか人を信じられないなら、お前こそ、私たちに素性をすべて明かすべき」
「河上殿っ、某は、別に——」
「いいから、今は黙ってて。私がこの駄犬と話す。……そうでしょう、岡田以蔵——いいえ、土佐勤王党の人斬り以蔵」
以蔵の右手に力がこもり、赤衣が再び苦痛に顔を歪めた。
だが、以蔵の視線はもはや赤衣にはなく、どす黒い殺意を孕んだ双眸で彦斎を射抜いていた。
「土佐勤王党に属し、田中新兵衛と比肩するほど天誅の名人として恐れられているお前が、どうして同じ勤王党の仲間である田中新兵衛を追っているの? 目的はなに。どうしてその人に近づき、一緒に探すなんて真似をしたの」
——応えようによっては、斬る。
そう言わんばかりに、彦斎の目が鋭くなった。
しかし、そんな彦斎を眺めながら以蔵は数日前のことを想起する。
——何故、わしが新兵衛を追うかじゃと?
そんなことは決まっている。
わしを用済みとして京から追い出し、あの薩摩の猿を重用しよった武市に、己の過ちを思い知らせてやるためじゃ。新兵衛が狙う獲物を横取りし、新兵衛ごとこの手で微塵切りにしてやる。そうすれば、あの澄ました顔の武市も、わしを蔑ろにしたツケを払うことになる。
わしは誰の犬でもない。誰よりも剣が立つ天才じゃと、わしの価値を証明するためぜよ。
だが——そんな話をして、どうなるというのだろう。
以蔵は、忌々しげに目の前の彦斎を睨んだ。
おまんなんぞに、わしのことを理解できるか。
無条件で相手を肯定し、『信じる』などという綺麗な言葉で結びついちょる女に。
『信じろ』と口先だけで言い捨てられたわしの惨めさが理解できるはずもない。
と。
「……おまんらに話す義理はない。気に食わんなら、斬ってみぃ。あいにく、わしは相手が女子供であろうが、
「そう……なら仕方ない。非常に残念だけど」
以蔵が、赤衣に押し当てた白刃の柄を握り直す。
彦斎もまた腰の刀へ手を添え、すっと重心を落とした。
互いの殺意が臨界点を突破し、まさに血飛沫が舞わんとした——その瞬間。
がさり——と森の奥から、空気を引き裂くような異音が鳴った。
何かが、凄まじい速度で飛来する気配。
否、なにかが襲来する気配と言うべきか。
直後——耳をつんざく轟音と土煙を上げ、先ほどまで三人が密集していた地面が激しく爆ぜる。
それはもう見事に、大爆発であった。
― 参 ―
耳を塞がなければ、鼓膜を破かれたのではないか。
そう思えてしまう程に、なまなかではない大轟音が炸裂した。
あまりの衝撃に、赤衣を締め上げていた以蔵も手を離してしまったほどだった。
耳をつんざいた爆音と土煙の向こうからは、凄まじい勢いで人影が転がり込む。
目測でおよそ6尺といったところか。かなり背丈のある影である。
以蔵は反射的に柄へと手を掛け、身構える。
が、砂塵の向こうに認め得た人影の輪郭に、わずかにその双眸を見開いた。
「おまんは……」
それ以上の言葉は、喉の奥で凍りついた。
砂塵の向こうにある姿が、あまりにも異常だった。
もはや人間ではない。
破れた衣服の隙間から覗く肌は悍ましくうねり、白目を剥いた眼窩からは濁った体液が溢れている。発しているのは、血と腐臭が混ざり合った、ただの生肉の悪臭だ。
以蔵の背筋を、冷たいものが一筋這い上がる。
それは、怒りでも恐怖でもない。
かつて共に仕事をしたことがあった。金銭の問題で揉めたこともあった。人斬りの在り方を、武市に対する思いを、どうこうと説かれたこともあった。
しかし、そんな鬱陶しく感じていた筈の相手の変わりように、以蔵は——。
「なにをしちゅうがぜよ……おまん」
「キギ——キギィァアッ!!」
「なにをしちゅうがと聞いとるがじゃ、新兵衛ぇ!!」
血を吐くような以蔵の絶叫が、虚しく夜風に溶けていった。
返答などあるはずもない。そこにいるのは、かつて国のためにと剣を振るった誇り高き薩摩の剣客ではなく。理性のかけらも残さず、ただ殺戮の本能のみに支配された異形の怪物であった。
その瞬間である。
地面を這っていたはずの新兵衛の身体が、人間離れした跳躍で突如として空間を縫った。
狙われたのは、さっきの爆風の衝撃でわずかに態勢を崩していた彦斎だった。
「————っ!!」
数日前、己の腕を斬り落とした女こそが、この場において最も排除すべき外敵である。
そう判断したのだろう。
凄まじい金属の衝突音が、夜気を切り裂く。
彦斎は咄嗟に愛刀を抜き放ち、上段から迫る圧倒的な凶刃を頭上で受け止めていた。
暗闇に火花が散り、死力を尽くした鋼と鋼が耳障りな悲鳴を上げる。
一歩も引けない。息を呑む暇すら与えられない。瞬きひとつの油断が死に直結する。
「くっ……!」
頭上から圧しかかる圧倒的な重圧に、彦斎の足袋がずるりと泥の中へ沈み込む。
——このままでは、押し切られる。
直接刃を交えている彦斎自身が、その絶望的なまでの膂力の差を誰よりも痛感していた。
純粋な腕力だけで言えば、この場の誰も今の新兵衛には適わない。たとえ全身のバネと気力を振り絞ろうとも、化け物と化した新兵衛の剛腕一本に、やがて無惨にねじ伏せられてしまうだろう。
そしてその恐ろしさを、身を以て一番理解している者がここにはいる。
あの夜、鴨川でこの化け物と対峙した赤衣だ——。
以蔵の手から解放され、泥土に突っ伏していた男は、焼けるような肺に無理やり夜気を流し込みながら、ふらつく身体を強引に起こした。
明滅する視界の端で、今まさに、彦斎が凄まじい暴力の前にすり潰されようとしている。
酸欠で白く霞む意識の中、脳裏に鮮明に蘇ったのは、いつかの夜の彼女の姿だった。
——『馬鹿は、私のほうかもしれませんね……』
——『一歩——音越』
——『なので——どこにも行かず、見届けてくれませんか?』
もう、たくさんだ。
もう、たくさんだ。
自分が倒れているせいで、誰かが傷つくのは……誰かが泣くのは、もうたくさんだ。
「けほ、ごほっ……!」
助けなくては————。
これ以上、目に映る誰も傷つかせないためにも。
そう決意したのならば、ここで立ち上がらなくてはいけない。何に代えても。たとえ手足がもがれようと、肺腑が張り裂けようとも。
立ち上がって、己が
「はあああああああああ!!!!」
喉の奥から込み上げる鉄の味を噛み殺し、赤衣は力強く泥を蹴った。
呼吸も十分に整わぬまま、己の限界を置き去りにして、魂を削るような絶叫と共に二人の死闘の間へと飛び出そうとする。
「……っ!」
しかし、その決死の挙動を、極限まで張り詰めていた以蔵の目が捉えた。
——いや、捉えて
刀に手をかけ、今まさに跳躍せんとする男の初動。
以蔵は、この男の底知れぬ強さを知っている。
いつぞや薩摩藩士が大通りで騒ぎを起こしていた時、この男は、自分すらも見失うほどの速さと身のこなしで、あっという間に薩摩藩士の背後を取ってみせた。
正直に言おう。岡田以蔵はあの時、戦慄したのだ。
己を剣の天才だと豪語しているからこそわかる。数々の流派を、見ただけで己がものにしてきた目があるからこそ理解してしまう。
この男は、マズい。
もし刃を向けてくるのなら、確実に殺さねば、自分が殺される。
信用できない。目の前の男が何者なのか、敵なのか味方なのかすら、以蔵には分からない。
蓄積された猜疑心と、極限の緊張が、ついに以蔵の理性を完全に焼き切ってしまった。
やられる前に、やる。
ゆえに、無音の空間を裂くように。
研ぎ澄まされた白刃が、非情の閃きを描いた。
「——————」
「以蔵、殿……おぬ、し……」
驚愕と戸惑いを湛えたまま、赤衣の双眸が大きく見開かれた。
赤衣が加勢へ踏み出そうとした、まさにその刹那。身を翻した以蔵の切っ先が、躊躇なくその腹部を貫いていたのだ。
ずぶり、と鈍く重い肉を断つ感触が、柄を握る以蔵の掌を通じて全身に伝わる。
赤衣の口端からぽたりと赤い雫が垂れ、それが足元をどす黒く染めていく。
なぜ。どうして。
赤衣の瞳には、怒りよりも純粋な疑問と、そして——どこか相手を憐れむような悲哀が浮かんでいた。
その目に耐えきれなくなったかのように、以蔵は顔を歪め、力任せに刀を引き抜いた。
「……っぐ……あ……」
糸が切れたように、赤衣の身体が崩れ落ちて泥へ沈む。
そのあまりにも唐突な暴挙。そして背後から響いた掠れた絶叫は、目前で激しく切り結んでいた彦斎の意識すらも、一瞬だけ引き剥がしてしまった。
「人斬り、以蔵————ッ!!!!」
さっきまでの遺恨などかなぐり捨てた、純粋な怒りと焦燥の叫び。
そして、ほんの一瞬の綻び。
それは、死地に立つ者にとって致命的すぎる隙だった。
「キギィ——」
「しま————」
極限の均衡が崩れたその一瞬。
それだけで、化け物と化した新兵衛にとっては十分すぎた。
人間離れした剛腕が、容赦なく上段から叩き込まれる。
死力を尽くして凌いでいた彦斎の愛刀が、ついに耐え切れぬ断末魔の悲鳴をあげて、甲高い音と共に真っ二つに砕け散った。
砕けた鋼の破片が夜の闇にきらめき、無情に散る。
そして。
「がはっ……!」
防壁を失った無防備な胸部へ、新兵衛の丸太のような巨大な拳が直撃した。
骨が軋み、肺腑がひしゃげる凄惨な音が空気を叩く。
凄まじい衝撃に内臓を抉られた彦斎の身体が、まるで枯れ葉のように数間先へと吹き飛ばされ、泥濘の中へと無惨に叩きつけられた。
ごぽり、と口から大量の鮮血を吐き出しながらも、彦斎は執念で這い上がろうと指先を泥に立てる。しかし、肉体の限界をとうに超える強烈な一撃だ。先の一撃は、容赦なくその四肢から自由を奪い去るに足る脅威があった。
そうして残ったのは、耳鳴りがするほどの重く冷たい静寂。
周囲の空気が、絶望に塗り潰されて凍りつく。
泥に沈み、立ち上がることすらできない彦斎。
以蔵の刀で貫かれ、血溜まりの中に倒れ伏した赤衣。
この地獄で今立っているのは、味方であったはずの男の血をその身に浴びて荒い息をつく泥まみれの以蔵と——。
白濁した瞳で標的を見定め、喉の奥で異様な咆哮をくぐもらせる、異形の化け物と化した新兵衛の二人だけだった。
坂本某「そうか。僕は以蔵さんを、そこまで……」
蛇「おい、龍馬。変な気は起こすなよ? あのクソ雑魚人斬りが悪いんだからな」
ハレンチ宝具「いやー、僕もついつい老婆心が湧いちゃって色々と言ったけど。彼には悪いことをしたかな?」
さて、そんな未登場キャラたちの掛け合いを奉納しつつ。
やぁ、お待たせ。
週一投稿になりつつあるけど、ちょっと本業とかが忙しくなってきただけの作者だよ。
できれば、週2、3くらいで出したいんだけどねー、ごめんね。
さてはて、この話もそろそろラストスパートというところです。
話も本題に入ってきて、いよいよかぁと染み染み思いましたが、ここまで付き合ってくれている人には感謝と愛を伝えたい。
ここ最近は、私が書きたいものを、ただ書きなぐっているだけなので。
おそらく次回は、今回以上に長くなるでしょう。
ええ、文字数が。
ただ、二万文字とかにはさすがにならないと思う。
……ならないよね?
あとは、あれしてこれして、最後にボンッで終わる感じかな。
うん、意外とあるかもしれない。
ラストスパートというのは忘れたほうがいい。