殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:ただの物書き

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お人好しに毒されて

 わしは悪うない——そうじゃ、わしはちっとも悪うない。

 あいつがいきなり妙な真似をするが悪いがじゃ、あんな動きただの素人にできるわけがない。

 あれは絶対にわしを殺そうとしちょった、間違いないわしは天才じゃき肌で分かる。あのまま放っておけば確実にわしが背後からやられちょった。だから斬ってやった、やられる前にやった。人斬りが人を斬って何が悪い、信用できん奴を斬って何が悪い、わしは生き延びるためにやった、それだけのことじゃ。

 こいつが悪い、わしは正しい。

 わしは、わしは、わしは、わしは、わしは————。

 

「……い、ぞ……ウ……?」

「————っ」

 

 不意に。

 頭の中で、誰に向けての言い訳かも分からない叫びを木霊させていた時だった。息継ぎすら忘れた以蔵の独白を、泥を這うような声が断ち切った。

 

「……い……ゾう……おハん……なんで、ココに……」

 

 振り返ってみれば、声の主は赤衣でも、倒れ伏した彦斎でもなかった。

 ゆっくりと、まるで錆びたからくりが動くような音を立てて首を傾げている、目の前の肉塊。

 それが声をかけていた。

 白濁した瞳から汚れた体液を流し、理性など微塵も残っていないはずの悍ましい化け物。

 はっきりと言って、人間と呼んでいいかすら危ぶまれるその面貌。

 それが、じぃと以蔵を見つめていた。

 

「おまっ……まさか、わしのことが分かるがか?」

 

 とってつけたような言葉ではある。

 予想外という点では間違いないが、それをいま尋ねたところで何になるというのか。

 しかし、意外にもその化け物は以蔵の言葉を理解できたらしく、大太刀を振り上げることはしなかった。

 

「キギ……おハん、は……おイの、この無様ヲ……ギギ……笑イに……?」

「なっ……誰が、わざわざおまんなんかっ……!」

 

 反射的に出たその言葉も、途中から尻すぼみになって消える。

 新兵衛の喉から漏れた掠れた声は、意味をなさぬうめきではない。しっかりとした意思のある言葉だった。

 けれど、それを発する見てくれだけが決定的に違っている。

 顔つきが違ってしまっているのだ。

 いいや、顔つきどころの話ではない。

 顔の半分は波打つ肉の塊に侵食され、その白濁した瞳の奥に「田中新兵衛」の残骸がわずかに残っているだけ。肌の色はやけに煤けた黒に変色し、もはや人の肌が大火事で焦げてしまったのではないかと思うほどである。

 そんな生きてるかも死んでるかも分からぬ相手に、いったい何を言えばいいか分からなかった。

 けれど、問いかける言葉だけは自然と出てきた。

 

「……なんじゃ、その(なり)は」

「……」

「なんで、そんな形になってしもうたがじゃ……」

「以、ゾう……おい、ハ……」

「——っ、おまんがこうなっとること、武市は知っちょるがか!?」

 

 以蔵の叫びが響いたのか、新兵衛の目に少しだけ正気の色が灯る。

 

「武、チ……先セイ……」

 

 それに気がついた以蔵は、息を呑んだ。

 

「そうじゃ、武市先生じゃ!」

「武市、セン生……は」

「なんじゃ」

「タケ、市……先生ハ……おいのコトを……知って……いっ」

 

 それが最後まで吐れることはなかった。

 けれど、分かってしまうものだ。

 仕事を何度かともにしたことがある。その時も、掛け声すら使わず連携させてみせた間柄ゆえに、相手が何を言おうとしたのか、すべてを聞き出さずとも先が読めてしまった。

 知っている——そう、新兵衛は呟こうとしたのだ。

 その事実に、以蔵はまたもや声を失ってしまった。

 

「やっぱり、そういうこと……っ」

 

 そんな男の背後に、声が掛けられた。

 振り返れば、数間離れた泥濘の中、彦斎が絶え絶えの息を吐いていた。

 胸部を深く強打され、骨の砕ける音とともに心臓の拍動すらおぼつかない体でありながら、その女は折れた愛刀の柄を泥に突き立て、杖代わりにして必死に上半身を持ち上げている。

 乱れた前髪の隙間から覗く冷ややかな瞳が、以蔵の背中を貫いた。

 

「お前も、この男の仲間だった、のね……だから、その人も——」

「っ、やかましい! おまんは黙っとれ!!」

 

 不意に突きつけられた焦りと、腹の底から湧き上がる胸糞悪さに耐えかね、以蔵は吠えるように叫び返す。

 逃げているのは自分でも分かっている。

 目を逸らし、現実から背を向けようとしていることも理解している。

 だが——今はそれで精一杯だった。

 殺すつもりで追ってきたはずが、化け物になっていた新兵衛の変わり果てた姿。殺す気のなかったはずの男を衝動で刺し貫いてしまった、ねっとりと舌にへばりつくような後味の悪さ。

 いくら頭に血が上っていたとはいえ、冷や水を浴びせられた今となっては、なぜ自分がこんな愚行に及んでいるのか、以蔵自身が一番理解できていなかった。

 

 ちらりと視線を下げれば、己の足元には今も赤衣の男が横たわっている。どくどくと赤黒い鮮血を流し、泥を染め上げているのは、なにを隠そう以蔵自身の凶刃によるものだ。

 人を斬ることなど、吉田東洋を゙殺した日(あの日)からこれまで飽きるほどやってきた。仕事と言われれば、どんな奴でも殺してきた。

 けれど、なぜか——。

 これは違う——違うのだと、思ってしまう。

 なにも変わらないはずなのに、なにかが決定的に違ってしまっていた。

 

 ——『はは、こりゃあ手厳しいのう。けんど、そうじゃなぁ……僕にとって以蔵さんは、どうしても放っちょけん人ながぜよ』

 ——『……某にとってはただ、どうしても放っておけぬ御仁というだけでござるよ』

 

「やめぇ……! わしに、その目を向けるな……ッ」

 

 脳裏にへばりつく面影を払うように頭を振り、以蔵は血走った眼光を目の前の異形——田中新兵衛へと強引に叩きつけた。

 ——今はそんなことよりも、目の前のコイツぜよ。

 以蔵は新兵衛の膨張した肩へ強引に手を伸ばし、言い聞かせるように声を張り上げた。

 

「おい、聞こえちょうか、新兵衛! 今すぐ、先生のところに連れて行ってやるき! 先生も知っちょるなら、おまんのことはなんとか——」

 

 しかし、その瞬間だった。

 

「――ゴホッ」

 

 新兵衛の咽喉の奥から濁った音が響く。

 直後、異形の巨躯が苦悶に折り曲がった。

 

「ゴボッ、ゲホッ……!」

 

 そのまま、どろり、と黒ずんだ血塊が泥の上にぶちまけられる。

 吐瀉物ではない。

 それは、血の海の中で黒く蠢く、生きた何かだった。

 

「な……なんじゃ、これは……っ!?」

 

 地面に落ちた血溜まりの中で、小さな塊がぴくりと身を捩る。

 蟲だ。

 見たことはない形状だが、直感的にそう理解できた。

 しかし、吐き出されたのは一匹や二匹の話ではない。新兵衛の口から溢れ出た体液の海で、無数の気味の悪い蟲たちは「キィキィ」と狂ったように蠢いていた。

 

「っ……!」

 

 吐き気とともに思わず一歩、後ずさる。

 新兵衛は何も言わなかった。

 ただ、肩を酷く上下させ、喉を鳴らして喘いでいるだけ。

 こんなものが、口から——腹の中から出てきたというのに。

 

「新兵衛……おまんっ」

「……」

「おい……っ、なんとか言わんか!」

 

 決して以蔵の言葉に従ったわけではない。

 が、それでも——新兵衛は、ゆっくりと顔を持ち上げる。

 

「以、ゾう……おい、は……モお……長くハ、なカ……」

「っ、何をほざきゆうがじゃ! こんなもんまで吐き出しおって! 冗談も大概に——」

「分か……っど……」

 

 己が吐きこぼしたそれを、新兵衛は濁った目で見た。

 

「身体ガ……もう……ゆうことヲ、聞かン……。サっきカら……少しズつ……おかしュ、なっちょう……ど」

「それは……」

 

 以蔵は言葉を探した。

 見れば分かる。こんなものを体内に入れた人間が、普通であるはずがない。

 寝ている時に蜘蛛が口の中に入るのとは訳が違う。

 宿主を見てか、ぶち撒けられた蟲たちは尚も、キィキィ——とけたたましく鳴き続ける。

 ひどく不快な合唱だった。

 だが、言葉を詰まらせる以蔵をよそに、新兵衛の声は不気味なほど静かに紡がれる。

 

「……武チ……先生ハ」

 

 絞り出すような新兵衛の問いは、またも、その名だった。

 

「先生ハ……おイに……ないカ……」

「おまんは……最後まで、それか……っ。今はそんなこと、どうでもええじゃろ……!」

「なイか……お達しヲ……ゆっては、おらンやったか……?」

 

 がしり、と腐蝕しかけた異形の掌が、以蔵の肩を力任せに掴み寄せた。

 骨が悲鳴を上げるほどの強烈な圧迫感。

 田中新兵衛という男は、死が目前に迫ってなお、武市半平太が自分をどう扱おうとしているのか、それだけを求めていた。

 

 以蔵は知らない。

 なぜ、この男がそこまで武市に付き従うのか——他藩の人間でありながら、なぜ義兄弟の契りを交わし、土佐勤王党のためにその手を泥と血で汚し続けてきたのか——その真情も、二人の間に結ばれた絆の深さも、以蔵はなにひとつ知らなかった。

 

 だが、これだけは分かる。

 いま目の前で潰れかけている命は、己の終わる理由を求めている。武士として、道具として、死地へと到る最後のくたばりどころだけを欲しているのだと。

 それを心から求めていることだけは、なぜか分かってしまった。

 だからだろうか。

 

「……おまん、死にたいがか」

 

 分かっているのに——引き止める気もないはずなのに——歪んだ声で、そう問うてしまったのは。

 

「……」

 

 その問いに、新兵衛は答えなかった。

 けれども。

 

「おイは……先生ンためナら……何でもスっ……ジャっどん……先生ン敵を……残しっセぇ、逝くことは……できん……」

「…………」

 

 荒い吐息とともに、どす黒い血の泡が新兵衛の口端から溢れ出す。

 以蔵は、新兵衛を見つめた。

 敵を残しては、死ねない。

 だからこの男は、体を蝕まれながらも彦斎を襲い、それらが倒れたことでようやく糸が切れたというのだろう。

 しかし、まだ相手の息の根があるうちは、そう簡単にはくたばる気もないらしい。

 大太刀を握りしめ直し、もはやとうに限界を迎えているだろう体を引きずりながら、敵のほうへと歩もうとする。

 以蔵は吐き気のような衝動を抑え込み、その肥大化した肩をそっと支えた。

 そして、己の喉を締め付けるような静けさで、嘘を吐くことにした。

 

「ほうか……でも、安心せい……新兵衛」

「……?」

「武市先生からな……実はきちんと命を貰うてきちゅうがじゃ」

「メ……い……?」

「ほうじゃ」

 

 以蔵は、新兵衛の顔から目を逸らした。

 自分が吐いているのが、最低で、惨めな嘘だと知っていたからだ。

 武市が新兵衛を捨てたのか、それとも最初から使い捨ての道具としてこうしたのか、そんなことは今確かめようもない。

 しかし、いまこの場において、この嘘だけがこの男を人間として死なせてやれる唯一の呪いだと、以蔵は思っていた。

 

「……おまんに、死ねと……先生が……そう言うちょった。だから、おまんは休め……あとはわしがやってやるき」

 

 夜風が止まり、静寂が二人を包み込む。

 新兵衛はしばらくの間、何も言わなかった。

 ただ穴が開くほど以蔵の顔を見つめていた。

 まるで、その言葉の裏にある真意を見極めようとするかのように。

 けれど——やがて。

 

「……そう、カ」

 

 ほんの少しだけ。

 苦痛に歪んでいた新兵衛の頬が緩み、安堵したように口角が上がった。そのまま、糸が切れた人形のように泥の中へ膝を突き、枝葉に隠れた夜空を見上げるように顔を上げる。

 

「……先生が……そう、言うタなら……おいは、従ウだけジャ……」

「…………」

 

 そう言って、新兵衛の大きな手が、腰に差した脇差の柄へと伸ばされた。

 以蔵は止めなかった。

 いや、止められるわけがなかった。

 これが、この男が求めた()()だと肌で感じ取ってしまっていたから。

 

「おいも……武士じゃッで……最後くれい……腹ぁ斬ッて、けしんドん……よかナ……?」

「……あぁ、ええじゃろ。わしが介錯を務めちゃる」

「おハんニ……さるっタぁ、腹ぁ立つな……じゃっどん……仕方なカな……」

 

 新兵衛の口から、血の泡と共に自嘲めいた掠れ声が漏れた。

 以蔵は何も答えられないまま、ただ奥歯が砕けるほど噛み締め、歪んだ顔を伏せることしかできない。

 そして、「以蔵……」と低く呼びかけられた。

 

「おはんハ気づいチょらん、かったろうが……おイはの、おハんガずっと……羨ましかッた……おイは、ついぞ……あん御方ん心ん支えニは、なれンやっタでナ……」

「——っ、なにを、わけの分からんことを……! 最後まで、いつもみたいにわしを見下せや!」

 

 以蔵の叫びは、悲鳴に酷く似ていた。

 いつだって自分を格下扱いし、猿真似剣法と蔑んでいたはずの男だ。武市先生の懐刀として己より重用され、その陰で惨めな思いをさせられてきたと信じ込んでいた。

 それなのに、去り際にそんな言葉を遺されるなど、これまでの己の執着や怨嗟がすべて一人相撲だったと言われているようで、耐えられるはずがなかった。

 

「いっチゃがデ、聞け……辞世ん句ジャなかが……おイん最後ん言葉じゃ……」

 

 鞘から引き抜かれた刀身が、冷たい月光を浴びて鈍く光る。

 そのぎらついた刃先を己の腹へと向けながら、化け物は酷く人間臭く、しかしどこまでも誇り高く笑ってみせた。

 

「そいでモの、そげンおイも……おハんに負けンこっガ、ひとつだけあっど……」

 

 新兵衛は一呼吸置き、濁った瞳を以蔵へと向ける。

 以蔵は、自分の立場こそ田中新兵衛に取られたと思っているが、その実、それは大きな間違いだ。

 剣術も、暗殺術も、武市からの寵愛さえも、すべて以蔵のほうが優れている。

 だが、それを丁寧に教えてやる暇もなければ、そこまでしてやるほど新兵衛も以蔵を好いているわけではない。

 ただ、同じ立場だっただけ。

 同じ時代に生まれ、人を斬る異常な才を授かり、同じ男のためにその手を血に染め続けただけの二人だ。

 そこに心温まる友情や仲間の情義など一片も存在しない。

 しかしそれでも、伝えたいことはある——。

 

「それは、なんじゃ……」

 

 以蔵が尋ねる。

 そうしないといけないと思ったから。

 そして、新兵衛が満足そうに答えた。

 

「そレはの……忠義ジャ……」

 

 男が死の淵で唯一、己の誇りとして握りしめたもの——それは、以蔵には口が裂けても真似のできない、狂おしいまでの純粋さだった。

 

「おハんの言うこッは……信用ならんが……万が一、いまのおイヲ……セン生が、要らんと、思ウちょったラ……おイハ……あん人ニ、刀を向くっコとに、なッど……」

「おまん、気づいてっ……」

「そイだけハ……デきんじゃろ……?」

 

 以蔵の喉が引きつった。

 新兵衛は最初から分かっていたのだ。以蔵の言葉が、自分を武士として死なせるための、あまりにも不器用で優しすぎる嘘であることに。

 だが、それがただの嘘であったならば、新兵衛も乗ることはなかっただろう——以蔵がただ自分を殺すためだけについた嘘であれば、それを強引にはねのけることもしたであろう。

 しかし、そうはしなかった。

 それは、万が一に武市が自分を要らないと思っている可能性があった——というのもある。

 しかし、それ以上に。

 

「おはんハ、気に食わん男ダが……腕ト仕事だケは、たしかヤった……そゲンおはんがゆなら……あとを任せて、オイは逝けッど……」

「新、兵衛……」

「あトハ、任せた、ゾ……」

 

 震える手で腹に突き立てられようとする白刃。

 その刃先に込められた、あまりにも残酷で、どこまでも一途な忠義の重み。

 

 ——先生ヲ、頼……む。

 

 まるで、遺言のように落ちてきたその言葉が、以蔵の脳腔をどろりと侵食していく。

 新兵衛は自分になにかを託したつもりなのだろうが、以蔵にとってみれば、それは己を永久に縛り付ける怨念の呪い以外の何物でもなかった。

 ふざけるな、託したじゃと——?

 勝手に化け物になって、勝手に託して、どこまでも自分勝手がすぎやしないか。

 しかし、そうは思っていても、新兵衛の異形の腕は血管が太く浮き上がり、腹の肉を裂いて刃を突き立てんと迫っている。

 あと少し、あとほんの少しで、その腸がぶち撒けられるだろう。

 だったら、自分はどうすべきか。

 そう思った——まさに、その瞬間だった。

 

「待て、新————」

「させぬで、ござるよッ!」

 

 泥を叩く重い足音とともに、一つの影が凄まじい執念で飛び込んできた。

 鮮血で赤黒く染まった着物を泥に引きずりながら、その影は自決を図る新兵衛の太い両腕に死に物狂いでしがみつく。

 全体重をかけてその凶行を力任せに引き剥がそうとするそれは、先ほど以蔵の刀で腹を刺し貫かれたはずの赤衣の男だった。

 

「おまんっ……生きて……!? いやっ、なにをしちゅうがぜよ……!」

 

 以蔵は我が目を疑い、思わず掠れた声を漏らした。

 確実に死線へと叩き落としたはずの男が、なぜ今、目の前の化け物の自決を命がけで止めているのか。

 思考が激しく逆回転し、以蔵の顔が引きつる。

 

「キギギィ、はな、セ……!」

「離すわけにはいかんなっ……! あれだけの人間を傷つけておいて、そんな風に自分勝手に死に逃げするなど、許されるはずもない……!」

 

 吐血しながらも、赤衣は折れぬ鉄の意志で新兵衛を食い止める。

 死を以て忠義を全うし、美しく終わろうとする男の企みを、赤衣はその泥臭い執念だけで、真っ向から叩き潰そうとしていた。

 

「田中新兵衛っ! お前には、まだ聞かなければならないことも沢山ある……! 武市やらとともに、その目論見も全て、吐いてもらうでござるよっ!」

「ッ、きサま……! やハり……セン生ノ……!」

「その蟲を植え付けた者のこと、これから起こすであろうこと! それらは、必ず善良な人々を苦しめる悪行であろう! そんなもの、某が生きているうちは、決して見過ごすわけにはいかんなっ!」

 

 だが、正義を騙る青臭い言葉など、狂気に陥った新兵衛の耳に入るはずもない。

 新兵衛にとって武市半平太という存在は、命を捧げるに足る信仰そのものだ。それを土足で踏みにじられた激怒が、死に体の肉体に残された全神経を焼き切っていく。

 新兵衛は巨躯を激しく跳ねさせ、力任せに赤衣を振り払った。

 

「キギギっ……キサ、まはっ、おいガ、ころっす!! ここデ、今ァ!!」

 

 キェアアアアアアっ!! と猿叫が轟く。

 丸太のような腕が振り下ろされ、赤衣の首骨を粉砕せんと目前まで迫っていく。

 死力の腕力——このままでは、圧殺される。

 誰もがそう確信した、一瞬の刹那だった。

 

「————」

 

 赤衣は退かなかった。 

 それどころか、死線をさまよう視界の中、迫る死刃を紙一重でかわすと、赤衣は前傾姿勢のまま新兵衛の首筋へ得物を深々と突き立てる。

 

「がッ!?」

 

 痛打。いや、そんな生易しいものではない。

 首筋の血管を通り、血流に乗って駆け巡る劇薬が、腹の底で蠢いていた魔蟲どもを直撃する。

 全身の肉を内側から焼き焦がすような激烈な拒絶反応。

 次の瞬間、脈動していた異形の腕から急速に力が抜け、全身を支配していた魔蟲たちが、一斉に阿鼻叫喚の悲鳴を上げて沈黙していった。

 

「な、にヲ……! おい、ニ……! なに、ヲした……ッ!!」

「お前があの夜、落とした指で作った霊薬でござる……っ! それで、体内の蟲どもを少しの間黙らせた……っ!」

「き、サまッ!!」

 

 全身を駆け巡る痛撃と、力の発源たる蟲たちの悲鳴。その不気味な虚脱感によって、新兵衛の意識が一瞬にして黒く塗り潰されかける。

 動かない——魔蟲による異常な補正を失った肉体は、ただの爛れた巨躯に過ぎない。重なるように覆いかぶさる赤衣に押さえつけられ、指一本動かすことすら叶わなくなっていく。

 このままでは、己の命の終着点さえ奪われ、己の尊敬する男の秘密さえ暴かれてしまう——。

 それまで化け物として暴威を振るっていた男の瞳に、初めて人間としての激しい焦燥と恐怖が走った。

 

「以、蔵っ……!」

 

 新兵衛は血の涙に濡れた目を血走らせ、泥の中で立ちすくむ以蔵へと惨叫する。

 

「こいつハ……先生ン、敵だッ……! はよう、おいごと……斬れぇッ!!」

 

 自分に被さる男ごと斬れ、と新兵衛は乞うている。身動きの取れなくなった己の肉体もろとも、邪魔者を両断しろと。

 元より、以蔵の目的は新兵衛を始末することだった。赤衣が勝手に間に割り込んでいるだけで、二人まとめて血祭りに上げれば、武市への腹いせは完遂される。

 それなのに——以蔵の足は、泥の底に縫い付けられたように微動だにしなかった。

 

「ならぬっ! 以蔵殿っ、この者を、殺すのは……!」

「以蔵っ……! なイを、ぼさつチちょッ……! はよう、斬れェ……!!」

 

 二人の叫びが、以蔵の頭の中で不快な音を立てて衝突する。

 さっき、己の手でこの赤衣の腹を深々と穿ったのだ。放置すれば確実に死んでいたはずの男が、いま、自らの命を削りながら化け物を泥に縫い留めている。

 なぜ、そんな真似ができる——自分を刺した男に背を向け、あまつさえ、自分たちを殺そうとした化け物の自決すら許さず庇うように抑え込む。

 理解できない。

 理解したくもない。

 命をただの道具とし、奪うか奪われるかでしかない人斬りの世界に、そんな理屈は存在しなかった。綺麗事を振りかざす赤衣の存在そのものが、己の生きてきた世界を否定しているようで、胸の奥から激しい反吐が迫り上がる。

 しかし、それを。

 

「あとを……任せたとっ、そう言うたはずだァ、以蔵ォォォォォォ!!」

 

 新兵衛の叫びが——せき止めた。

 

「き、ぐぅぁっ……!」

「以蔵殿……っ!」

 

 新兵衛の叫びは、もはや怒号というより、すがりつくように求める哀号だった。

 魔蟲の力を失ったとはいえ、新兵衛本来の巨躯と身体能力は凄絶だ。重傷を負った赤衣が体格差を押し返して抑え込むなど、正気の沙汰ではない。以蔵の刃を受け止める余裕など、どこにもないであろう。

 そんな無防備な背中を前にして、以蔵は切っ先を天高く掲げ上げた。

 

「おい、優男! 今すぐ放れにゃ、おまんごと叩き斬るぜよ!!」

 

 言葉通り、踏み込めば二人まとめて命はない。

 刃から立ち昇る凄絶な殺気が、夜の静寂を切り裂いていく。

 しかし——赤衣はそれでも退かなかった。

 背後から放たれる凄絶な殺気。一歩踏み込めば胴が繋がらない死線に晒されながらも、赤衣は新兵衛を泥に押しつける手を決して緩めようとはしない。

 暴れる巨躯を全身で押さえ込んでいるため、振り向く余裕など微塵もないが、赤衣は肩越しに血塗れの顔を歪め、鋭い眼光だけを背後の以蔵へと叩きつけた。

 

「っ……させぬ! 死んで終わろうとするのは簡単なことだが、その果てに得られるものなど、万に一つも幸福であるはずがない……! この男を切って殺したところで、誰も浮かばれぬでござるよ!」

 

 新兵衛を救おうとする必死の拒絶。

 だが、その青臭い説教は、人を殺すことを生業としている以蔵の胸を、最も反吐が出る形で逆撫でした。

「幸福」だの「浮かばれる」だの、泥沼で生きてきた自分たちを上から目線で憐れむような言葉。

 胸の奥から激しい怒りと不快感が煮え滾り、視界が真っ赤に染まりあがっていく。

 

「知るかぁ、そんなもん!! わしはのぉ……わしはっ、殺るっちゅうたら……必ず、殺るきのおおおおおおお!!」

 

 以蔵は狂ったように絶叫した。

 もう、何もかもが鬱陶しかった。理解不能なお人好しも、自分を捨て置く武市も、死を乞う新兵衛も、全てこの刃で粉砕してしまえばいい。

 理性のタガが完全に弾け飛び、以蔵は血走った目を剥き出しにしながら、切っ先を二人へ向けて一気に振り下ろす。

 月光を弾き、黒い泥を跳ね飛ばす、死の軌跡。

 無防備な赤衣の背後から、二人の肉体をまとめて叩き斬る必殺の太刀筋が迫る。

 ——だが。

 

「っ……!」

「かはっ」

 

 鮮血が夜の空気を重く赤く染めた。

 赤衣は避ける素振りすら見せなかった。

 それどころか、背を深々と斬り裂かれ、口から血を撒き散らしながらも、新兵衛を押さえつける腕の力を一瞬たりとも緩めなかったのだ。

 

「んぬぁっ……!? なんで避けんがじゃ、おまん!?」

 

 以蔵は刃を止めたまま、驚愕に目を剥いた。

 赤衣が血を吐きながらもゆっくりと顔を上げ、以蔵の目をまっすぐに見据える。

 

「この者を、ここで殺すこと……っ、お主は、本当に望んでいるのか!? その剣は、本当に『死んでほしい』と願っているものなのか!?」

 

 ズキリ、と頭の奥が痛んだ。

 図星を突かれたのではない。己の最も醜く、最も覆い隠しておきたかった深層を、泥足で踏みにじられたような不快感と衝撃が以蔵の呼吸を止めた。

 殺したい。消してしまいたい。自分を惨めな思いにさせる奴も、自分を置き去りにする者も、己を馬鹿にし嘲笑う者も、すべてこの手で叩き斬って抹消してしまいたい。

 そう思ってここまで走ってきたはずだった。

 なのに——その刃の鋭利さとは裏腹に、心の最深部で何かが冷たく、重く波打ち続ける。

 

「世迷言を抜かすな……! さっきも言うたじゃろうが! わしは殺るといったら、必ず殺る! 人を斬ることしかできん、人斬り以——」

「そんなことは知らぬっ!」

「んぬぁ……っ!?」

 

 背中から流れる血が泥を赤く染めていく中で、赤衣は叫んだ。

 痛みに声音を震わせながらも、その言葉には一切の怯みも揺らぎも存在しない。

 

「某が知っているお主は、ただ……泥酔した人間に薬を与え、川に飛び込んだ知人を見れば、命がけで飛び込んで助けようとする……そんな、どうしようもなく心根の優しい土佐の男でござる!」

「な、にを――っ……!!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、以蔵の頭の中で何かが盛大に音を立てて弾けた。

 

 ——『少なくとも某には、お主と同じで、心根は優しい御仁に見えるよ』

 

『優しい』。

 その一言が、以蔵の全身の皮膚を逆撫でし、血を沸騰させる。

 それは、以蔵が最も嫌悪する人間だ。

 自分の理想のためなら平気で仲間を裏切り、汚いことは生ぬるいお人好しの正論で全否定する。

 一見すると優しい顔をしてはいるが、いざという時には必ず人を裏切り、上から憐れむ——そういう奴らだと。

 それを、今まさに自分が殺そうとしている、出会って間もない男から真っ直ぐに突きつけられたのだ。

 

「ふざけるな……ふざけ腐って、おまんはっ……!」

 

 劇薬のような怒りが、足元から急速に駆け上がる。

 以蔵の顔が引きつり、殺意が嫉妬と自虐の交じり合った、まるきり別の狂気へと変質していく。

 

「わしが優しいじゃと!? わしがそんな気色悪いもんであるか! 勝手に変な幻想ばかり見おって……! おまんらみたいな裏切り者と、わしを一緒にするな!」

 

 絶叫の果てに、視界が歪んだ。

 目頭の熱いものが溢れそうになるのを、以蔵は奥歯が砕けんばかりに噛み殺す。震える刃を構えたまま、荒い息とともに腹の底からどろどろとした本音を吐き散らした。

 

「わしはのう! こいつを殺しに来たがじゃ! わしのことをいっちょも使わん武市に嫌気が差してのう! そんな理由で人を殺すがじゃ、わしは! そんなわしが、こいつに死んでほしくないと思うわけないろうが!!」

 

 己を貶め、最低の人斬りだと証明しようとする悲痛な叫び。

 だが、赤衣はそれを静かに受け止めたまま、更なる言葉を叩きつけた。

 

「だったら——」

「……!?」

「だったら、なぜ、あの時、呼びとめようとしたのでござるっ」

「っ……」

「なぜ、今某とこの者は生きているでござるかっ!? お主ほどの剣才があれば、この程度ですむはずがないではござらぬかっ!」

 

 ——言葉が出なかった。

 赤衣の言葉が、鋭い刃となって以蔵の胸を真っ直ぐに貫いた。

 そうだ。以蔵の剣は天才のそれだ。真に殺意だけを宿し、一切の迷いなく振るわれた太刀筋であったなら、赤衣の首は跳び、この化け物となった新兵衛の胴もとっくに二つに割れていたはずである。

 なのに、そうなってはいない。

「止めたい」という無意識の迷いか。

「死んでほしくない」という無自覚の躊躇いか。

 それらが、以蔵の完璧な太刀筋をほんの僅かに狂わせていた。

 その事実を、眼前の男は見抜いていた。

 

「黙れぇっ! だまれだまれだまれだまれだまれっ! おまんの話なんぞ、聞きとうもない!」

 

 以蔵は頭をかかえ、発狂したように地を踏み鳴らす。

 

「おまんらはそうやって、わしを騙すがじゃ! わしにはなんも言わんと、勝手に決めて、勝手に憐れみよって、勝手に裏切る! それが、おまんらお人好しのやり口ぜよ!!」

 

 吐き出された言葉は、もはや赤衣に向けられたものではなく、かつて己を置いて去っていった者への、そして救いようのない己自身への呪詛だった。

 

「そいつは、もう長うない! 放っておいても死ぬ! けんど、最後にわしが武士として殺しちゃるだけじゃ! それのなにが悪い! そうでもしてやらにゃあ、こいつはただの化け物ぜよ! 何も己のことを吐かんおまんの言葉に、なんの信頼があるがじゃ!!」

 

 胸を上下させ、血走った目で睨みつける以蔵に対し、新兵衛を押さえつける赤衣は、拒絶の嵐を受け止めきったように、静かに目を伏せた。

 そして——。

 ゆっくりと瞼を開いた赤衣は、静かに語り始める。

 

「今、この男を苦しめているのは、魔術による蟲の仕業でござる……」

 

 背の傷から流れる血を泥に散らしながら、赤衣は声を振り絞る。

 

「体内に巣食うその『魔蟲』は、苗床である肉を内側から食らっていく……それを糧に作られるのは、魔術回路と呼ばれる神経のような役割であり、対象者に『魔術』という(まじな)いの力を与える」

「な、なにを……わけのわからんことを語っちゅう……っ!?」

 

 あまりに浮世離れした言葉の連続に、以蔵は気圧され、思わず踏み止まる。

 が、それでも赤衣はやめない。

 

「魔術とは、奇跡や神秘を人為的に引き起こす技芸をいう。大抵は魔術回路を用いて源泉である魔力を生成し、基盤へと繋げることで行使するが、この男の身にあるのは、命を削って力を絞り出す(のろ)いそのものでござる……っ。今すぐにこの男からその機能を……体内の魔蟲を取り除かねば、手遅れになって最悪、命を落とす!」

 

 赤衣の必死の叫びは、単なる状況の説明を超えて、目の前で潰れかけた命を救いたいという純粋な執念となって以蔵の胸を突いた。

 

「某が川に飛び込んだのも、薩摩の人斬り騒動に京の『龍脈』が関係していると踏んだから……っ。龍脈とは、大地に流れる魔力の軌跡。一つの巨大な生命の鼓動……」

 

 腹の傷を庇うように息を荒らげながら、赤衣は叫び続けた。

 

「田中新兵衛に魔蟲を植え付けた黒幕は、その龍脈を通じてなにか巨大な悪法を企てている! ここはその龍脈が幾重にも交差し、集まっている霊地の一つ……! 某は、その者の凶行を食い止め、これ以上の犠牲を出さぬためにこの一件に関わっていたっ!」

 夜風が激しく吹き抜け、泥と血の匂いを巻き上げる。

 以蔵の頭の中では、いまも混乱と困惑が渦を巻いていた。

 魔術、魔蟲、龍脈——聞いたこともない神秘の理。

 だが、目の前で蠢く新兵衛の化け物じみた姿と、赤衣の背中を流れる赤黒い血、そしてその真摯すぎる眼差しが、それがすべて事実であると語っていた。

 

「これは、そういう話でござる! 某の今言ったことが信じられぬというのであれば、好きにすればいい……っ! だが!」

 

 赤衣は血に濡れた顔を上げ、以蔵の目を真っ直ぐに見据える。

 その瞳に宿るのは、憐れみでも嘲笑でもない。

 

「少しでも、この男に情が残っているのであれば……今は刀を納め、某に力を貸してはくれぬかっ!?」

 

 その瞳にあったのは、人を殺すことしか知らぬ『人斬り以蔵』の内に潜む、ほんの僅かな人間の情——それを頑なに信じ切った、愚直なまでの光だった。

 ぎり、と以蔵の奥歯が鳴る。

 脳裏を駆け巡るのは、自分を置き去りにしたかつての友と、己には何も言わない武市の背中。そしていま、血と泥に塗れながら自分を対等な相手として扱い、正面から頼み込んできているこの赤衣の男である。

 葛藤の末、以蔵の胸が引きちぎられそうになった、その時。

 赤衣の足元で押さえつけられていた新兵衛の肉体が、どくん、と激しく跳ね上がった。

 

「キギ……!」

「——っ、まずいっ」

 

 薬効が薄れたのか、体内の魔蟲が最後の悪あがきで暴走を始めたのか。

 白濁した瞳から完全に理性を失わせた新兵衛が、凄まじい膂力で腕を振り回す。手傷を負った赤衣は怪力に弾き飛ばされそうになりながらも、裂けた腹と背の痛みに歯を食いしばり、血を吐きながら全体重をかけてその巨躯にすがりついた。

 だが、限界は疾くに超えている。新兵衛の異形の腕が赤衣を撥ね退け、再び男の首へ向けようとした——刹那。

 

「——ッぁぁあああああッ!!」

 

 裂帛の気合いとともに、以蔵が泥を蹴った。

 夜空を切り裂いて振り上げられる、血まみれの太刀。

 赤衣は死を覚悟したように固く目を閉じ、それでも新兵衛を押さえつける手を緩めなかった。

 

 だが。

 

「キェアアアアアアッ!!」

 

 耳を劈くような鈍い衝撃音と新兵衛の猿叫が、土壇に轟く。

 しかし、いつまで待っても肉を断ち切る激痛も、死の冷たさも訪れない。

 赤衣が恐る恐る瞼を持ち上げた。

 視界に入ったのは、暴れ狂う新兵衛の両腕の袖口——それを布地ごと深々と地面へ縫い付けた、一本の不自然に折れ曲がった日本刀だった。

 

「……以蔵、殿……?」

 

 柄から手を離し、激しい肩息を突く以蔵。

 その表情は、怒りとも情けなさともつかない、どうしようもなく歪んだものだった。

 己の仕でかした選択に苛立つように激しく舌打ちすると、以蔵は赤衣からぷいと顔を背け、吐き捨てるように呟く。

 

「……どうしたらええ」

「え……?」

「耳が遠いんか、おまん! 次はどうしたらええんかと聞いちゅうがじゃ!」

 

 以蔵は身動きの取れなくなった新兵衛を鋭い目で見下ろした。

 

「言っとくが、わしは頭が悪いきぃ。魔術だの龍脈だの、そんな小難しい話は何も知らんっ! だから……『これこれこうしろ』と、はっきり言われな、動けんぞ!」

 

 それは、土佐の狂犬と呼ばれた男が、初めて自らの意思で『お人好し』の側に立つことを選んだ瞬間だった。

 武市の言いなりでもなく、見栄や嫉妬のためでもない。ただ、目の前のどうしようもないお人好しに付き合ってやるという、以蔵なりの不器用な歩み寄り。

 その言葉の意味を理解し、赤衣は泥にまみれた顔をほころばせた。

 傷だらけの唇に、安堵の笑みが浮かぶ。

 

「……かたじけないでござる」

「礼なんぞ要らん。気色悪いだけじゃ……」

「それでも……ありがとう」

「だから、要らん言うとろうが! 言っとくが、まだわしはおまんを信じたわけじゃないぜよ!」

 

 赤衣は深く頷くと、息を吹き返しつつある新兵衛の身体へ再び手を伸ばした。

 

「まずは、この新兵衛殿の身体から魔蟲を引っ張り出すでござる。多少、手荒な手段ではあるが、進行状況によってはうまく切除もできよう。以蔵殿はまず、新兵衛殿が暴れぬよう、その身体をしっかりと押さえつけられる道具か蔦を見つけてきてほしい」

「ちっ……さっそく、人使いの荒い男じゃ。つまりは、こいつを縛れるもんがあればええがじゃろ」

「そうでござる」

 

 以蔵は吐き捨てるように悪態をつきながらも、迷いのない足取りで新兵衛の巨躯にのしかかると、その太い肩を力任せに押さえ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 — 壱 —

 

「納得いかない」

 

 そう吐き溢したのは彦斎である。

 田中新兵衛に胸部を強打され、泥濘の中にうずくまっていた彼女も、ようやく体が言うことを聞くようになったのか。痛む胸を片手で押さえ、乱れた着物の裾を払いながら座り込むと、信じられないものを見るような目で二人の男を睨みつけた。

 

「なんじゃ、まだ根に持っとるがか。器の小さい女ぜよ」

「やっぱり、この犬は殺処分したほうがいい。いや、私がやる」

「あぁん!? 望むところじゃ。今すぐ、おまんから叩き斬っちゃろうかー?」

「まぁまぁ」

 

 つい先ほどまで殺し合いを演じていたはずの以蔵が、悪びれもせずに鼻を鳴らす。彦斎が冷ややかに殺気を滲ませると、その間に割って入るように、赤衣が苦笑いを浮かべた。

 そんな言い合う三人の前には、激しい立ち回りの末に気を失わせた田中新兵衛が、以蔵の裂いた着物と刀の下げ緒で厳重に縛られた状態で、ぐったりと横たわっている。

 完全に沈黙したわけではない。時折、その皮膚の下で蠢く『何か』が肉を波打たせるが、赤衣が施した即席の魔術のせいか、先ほどの様な爆発的な暴走は影を潜めていた。

 以蔵は、泥にまみれたかつての目標の姿を、どこか複雑な瞳で見つめて。

 

「で、どうするがじゃ。これから」

 

 と聞いた。

 

「ひとまずは、夜明けを待つでござるよ。魔蟲は光に弱い故、日が昇ってからのほうが施術がしやすい」

「はっ。なんじゃ、妖怪みたいな奴じゃの」

「あながち、そういう部類では間違えていないでござるよ」

 

 赤衣はそう言うと、自身の腹部の止血もそこそこに、「おー、ここは薬草も意外と生えているでござるなぁ」と現地調達よろしくの精神なのか、せっせとなにかしらの準備を始めていた。

 その痛ましくも迷いのない手つきを眺めながら、以蔵はふと、泥の中に落ちていた布切れを拾い上げ、無造作に自身の剥き出しになった刀に巻き付ける。

 

「おい、優男。おまん、ここへわざわざ来た言うちょったことは、ここが京のどのへんか知っとるか」

「? 大体、鳥羽伏見あたりでござるが」

「洛中はどっちじゃ」

「北へ登っていけば……と、以蔵殿はどこかに行くでござるか?」

 

 手を止め、不思議そうに見上げる赤衣へ、以蔵は背を向けた。

 顎をしゃくり、真っ暗な夜の先、京の都がある方角を見据える。

 

「もう、わしの手助けは要らんじゃろ。わしには行くところがあるき」

「……武市半平太のところ?」

 

 横から彦斎がそう問えば、以蔵は鬱陶しそうに眉間に皺を寄せ、彼女を睨み返す。

 

「こいつの言うことを全部信じたわけじゃない。けんど、新兵衛がこうなったのには、あの阿呆も一枚噛んどんは確かじゃろ。何を考えちょうか知らんが、話聞きに行くしかないき」

「やめたら。貴方もこうされるんじゃない」

「……」

 

 彦斎の言葉は、冷酷ではあるものの、おおむね事実だった。

 道具として使い潰され、異形へと変えられた新兵衛。武市という男がそれを是としているのなら、のこのこと戻っていく以蔵の末路も、火を見るより明らかである。

 以蔵は少しの間沈黙し、そして襟巻を整える。

 

「さぁの……そうされたら、その時はその時じゃ」

 

 以蔵は自嘲するように短く笑うと、背中越しに赤衣へと言い放った。

 

「おい、優男。そん時は、おまんがわしを斬——」

「できぬ相談でござるな、それは」

「はっ……言ってみただけじゃ」

 

 赤衣の即答に、以蔵は毒気を抜かれたように肩をすくめる。

 

「第一、わしがおまんごときに殺されるか」

「不遜」

「わしは剣の天才じゃぞ! 誰にも負けるわけないぜよ!」

 

 彦斎の冷ややかなツッコミに、いつもの虚勢を張ってみせる以蔵。だが、その声色はどこか晴れやかだった。

 以蔵は最後に一度だけ、泥にまみれて眠る新兵衛を一瞥する。

 

「ほいじゃな。……その阿呆を頼むぜよ」

「最善を尽くすでござるよ」

「……ほうか。それが聞けただけでも、まぁよしとしちゃる」

 

 翻る衣の音。

 以蔵はそれ以上振り返ることなく、泥濘を蹴って歩き出した。洛中へと向かうその後ろ姿が、夜の闇に溶けて完全に見えなくなるまで、残された二人は静かにそれを見送る。

 

「刺されたのに、随分と和やかなのね」

 

 ふと、呆れたような彦斎の溜息が空気を揺らした。

 自分の腹を刺した張本人と、まるで古い友人のように言葉を交わし、挙句の果てに見送る。その理解しがたい光景に、彦斎は首を振った。

 しかし、赤衣は手元の薬草を指先でなぞりながら、静かに笑った。

 

「以蔵殿は、某を刺したとき、ひどく『やってしまった』って顔をしていたでござるよ。あの御仁は、口ではなんだかんだといいながらも、その実、人を殺す快楽に魅入られた人斬りではなく、ついつい悪態をつきながらも人助けしてしまう、そういった優しい御仁なのでござろう」

「あれが……?」

「それが、以蔵殿の良いところでもあり、悪いところでもあるというだけの話でござる」

「……随分と悪いところが目立っているみたいだけど」

「あははは……そうとも言うでござるなぁ」

 

 そのあまりに能天気な態度に、彦斎は信じられないとばかりに眉をひそめる。

 土佐の狂犬——天誅の名人。数々の暗殺に手を染め、血の海を渡ってきた男。それが優しいなどと、到底信じられるはずもなかった。

 

「男っていうものは、分からない」

 

 理解を放棄するように呟いた彦斎に、赤衣は夜空を見上げながら優しく目を細めた。

 

「だけど、胴元さんも、そういう人でござろう?」

「……」

 

 不意に投げかけられたその言葉に、彦斎は言葉を詰まらせた。

 己をここへと送り出した兄弟子の顔。大義と理想を語り、時に非情な決断を下しながらも、その心の底にある不器用な情や矛盾。

 それを指摘され、彦斎は小さく息を吐いた。

 

 たしかに、そういうものなのかもしれないわね——。

 

 妙に腑に落ちたような納得とともに、彦斎は痛む胸を撫で下ろす。

 血生臭い風が吹き抜ける京の郊外。だが、三人が死闘を繰り広げたこの土壇には今、夜明けを待つだけの、不思議なほど穏やかな空気が流れていた。

 

 

 

 

 

 

 — 弐 —

 

 京の夜は、表向きの静寂とは裏腹に、常に血と陰謀の匂いが這いまわっている。

 洛中にある豪奢な料亭の一室。夜の帳が下りた密室には高価な酒と豪勢な膳が並べられていたが、そこに満ちているのは酒の香りよりも濃い、ひりつくような殺気であった。

 

「なるほど……やはり、武市半平太という男が、今回の首謀者で間違いないみたいだよ」

 

 上座に座る男——芹沢鴨が、手元の猪口を弄りながら口を開いた。

 その視線の先には、一人の女が控えている。

 女は何も答えない。だが、武市の名を聞いた瞬間、その華奢な身体から、部屋の空気を凍らせるような殺気が膨れ上がるのを感じた。

 今すぐにでも立ち上がり、標的の首を刎ねるために飛び出しかねない危うさである。

 

「待ちたまえよ。土佐藩邸を御上の許しもなく独断で踏み込めば、どのような処罰がくだったものかも分かるまい」

 

 前のめりになる女を、芹沢は意地悪く、しかし楽しげに言葉で制止する。女が不満げに小首を傾げると、芹沢は三日月のように口角を吊り上げた。

 

「まぁ、であれば——外で待ち伏せをし、斬ればいいだけなのだがね」

 

 その言葉が、暗殺の『許可』であると理解したのだろう。

 女は一礼もそこそこに音もなく立ち上がり、座敷を後にした。

 

 ぴしゃり、と襖が閉じられ、部屋に静寂が戻る。

 揺らぐ蝋燭の火だけが、室内に残された二人の影を障子に濃く焼き付けていた。

 女が完全に退出したのを見計らい、部屋の隅で息を潜めていた男——新見錦が、すり足で芹沢のそばへと歩み寄る。

 

「よかったのですか、芹沢先生」

 

 顔に色濃い不安と怯えを浮かべた新見の問いに、芹沢は徳利を持ち上げながら面倒そうに片目を細めた。

 

「なにがだ」

「その、本当に彼女にやらせても……」

 

 新見の脳裏をよぎるのは、先ほどの女が放っていた人間離れした狂気だ。剣の天才などという生易しい言葉では括れない、血に飢えた異形のものを見るような気配。

 

「最近の彼女は、どこか常軌を逸しているような……」

 

 震える声で進言する腹心に対し、芹沢は喉の奥を鳴らして低く笑った。

 

「くくく、ようやく実りだしたとは思わんかね、新見ィ」

「はぁ?」

 

 理解できないという顔をする新見に対し、芹沢は盃になみなみと注がれた酒の表面を見つめながら、淡々と語り出す。

 

「そもそも、あの娘は戦場での生き死になんぞ、いちいち気にする玉でもあるまい。人の皮をかぶった刀。もしくは、刀にほんの少しの情を与えてやってしまった、とでもいうべきか」

 

 そこにあるのは、部下に対する情愛や心配など微塵もない。ただ、己の手中にある極上の凶器の切れ味を賞賛する、刀匠のような顔だった。

 

「あんな得体の知れないもの、敵にするのは勘弁だがね。本質が刀であれば、研いでやるのも、振るってやるのも、人間次第という事だ。私は、そういった刀の扱いには長けているんだよ」

 

 芹沢は盃の酒を呷ると、満足げに息を吐いた。

 

「さて、吉報を待つとしようじゃないか。俺がこの国を変えるための、吉報をな」

 

 芹沢の重々しい呟きが、夜の帳の底へ、呪いのように溶けていく。

 

「そうだろう、総司くん」

 

 多摩に帰還したはずの女が、ここにひとり。

 標的は、土佐勤王党を率いる盟主——武市半平太である。




ほら。二万文字はいかなかったでしょ?

ということで、残された話数も残りあとわずか。
わずか…なのか?
まぁ、残るは本当にラストバトルくらいのノリなので、安心してください。
なにに対して、と言われると微妙なんですがね…へへ。

あ、ちょっと、話のずれる余談もいいですか。
実はこれを執筆している合間に、もう今日で終わってしまう星見の回廊に行ったりもしていましたが、皆さんもいきましたか?
あー、美術館にあるんだーと思いながら回っていましたが、わりと老若男女のかたがいて、驚いた作者です。特に、おじいちゃんおばあちゃんの夫婦?が、メリュジーヌのアルビオン姿を撮影しまくっていたのを見て、Wow、とおもったのが一番大きい感想でしたね。
11周年フェスのバスケコーナーで、作者が全ゴールの末、一緒のチームになった知らぬ人とスラムダンクのハイタッチをしたときより、記憶に残りました。

とまぁ、そんなこんなで、久々にちょこっと豆知識でも挟みつつ、ラストパートに向けて準備をしていきましょー!

そもそも、以蔵さんに恨まれまくっている張本人は今何してんの?
お答えしましょう。
今は文久三年五月、龍馬はちょうど勝海舟の弟子として神戸海軍操練所の設立準備に奔走している時期でもあります。
しかも五月には、勝海舟の命を受け、福井藩へ海軍塾の建設資金を借りるために派遣されていた頃ですね。
ちなみに、お姉さんの手紙がのこっている時期でもあります。
さらに言えば、このひと月後くらいに、皆さんも知っているかもしれない『日本を今一度せんたくいたし申候』という文も含まれた手紙が書かれたのも、このあたりのことなんだとか。

なので、うちの作品に本人が登場するのは、わりと先の話になるのかもしれない。

坂本某「なんだって? それは、あんまりじゃないかな…」
蛇「別にいいじゃないか、のんびりできて。それに、こっちのオヤジなんて無血開城までやることないぞ」
ハレンチ宝具「いやいや、こう見えても、僕も割と出番というか、色々とやっているんだよ。え、やってるよね?」
???「おいおい、アタシらこそ、お前らが死ぬまで出番こねーんだから、贅沢言うなっての! ね、殿様?」
???「ウム…こいつらを皆殺しにすれば、儂らの出番…いや、戦国編をはじめてくれるかもしれぬな…戦国時代発祥の古流剣術編とかで」
???「それより、召喚された方が早くね? ほら、マスターとかできるやついるし」
一同「…だれ、この人たち…?」
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