◆出走表◆
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◆レースの設定◆
【サウジアラビアRC】※2003年改修前
史実『いちょう特別』仕様。
1600m東京左回り、芝・天候状況等83年仕様。
アルテミスステークスGⅢ、東京3歳ステークス(東京スポーツ杯2歳)など創設年的なモノや、当時のグレード的な理由。
もしくは話の流れがそれるので名前が出ていないものがあります。
前半トレーナー君視点、中盤ルドルフ視点、後半トレーナー君視点です
それではどうぞ。
――20××年 10月29日 午後14時00分――
――東京レース場 出走関係者スタンド付近――
本日の府中は秋晴れに恵まれた日本晴れ。
2日ほど前に雨がパラついたくらいで、この1週間はほとんど今日みたいな感じの天気だった。
パドックでルドルフを見送った私は、リンゴの香りがする飴玉を口の中で転がしながら、関係者席であるスタンドの最前列を目指している――。
時折左右を見渡すと、新潟メイクデビューの時と違い今日は府中開催とだけあって学園の生徒の姿が目立っていた。
その光景の中をサラリーマンの様なスリーピースジャケットの姿で歩いている、私の両頬を涼しい風がすり抜けていく――。
独特な容姿のため時折じろじろと見られるが、来日当初ならまだしもそんな環境に慣れたので気にも留めず何となく空を見上げた。
その先には、コントラストのはっきりした蒼穹が高く続き、所々秋特有の細く長い白い筋のような雲が走る。そして赤とんぼが2匹すいーっとその視界の中を通過していった――。
口の中で転がしている少しだけ小さくなった飴が、歯を掠り軽い音を頭に響かせる。飴玉を噛み潰して飲み込んで、他の歩行者にぶつからないように前を向き、またゆっくりと歩き始めた――。
"――まさかメイクデビューの後、他のレースを挟まずグレードへ行けるなんて……――"
グレードレースに出るには、ファンクラブの会員登録者数が一定以上に達する必要がある。
通常であるならば地道に出られるレースに出て目立つ必要があり、簡単にグレードに出ることはかなわない。
そう、通常であるならばね――。
シンボリルドルフの場合は違った。
彼女の場合ある特別な理由があり、それが前評判として反映されデビューから破格の人気を誇っていた原因となっていたのであった。
"――まあ、実家にトレーニングコースがあるなんて普通は無い。そりゃ皆気にもするよね?――"
ルドルフの実家は千葉にあるという――。
本人曰く、その実家にはバランス感覚を養うための砂利道コースや、坂道のコースなど多種多様な設備が彼女だけの為に用意されており、親御さんや専属のスタッフが入学前から彼女に様々な教育を施していたという。
"――ここまで気合い入っている家庭環境ってなかなかないわねぇ――"
一体どれほど立派なトレーニング施設があるんだろうか? こんなこともあって"シンボリルドルフ"という選手は入学前から注目されており、その事実は私に対し諸々のハードルを上げてきている――。
人ごみを抜け関係者席があと2m先の視界に収まり、そして学生服を着た、見覚えのある後ろ姿をした先客が2名ほどそこには居た。
「あら、お2人ともこんにちは」
「――よぉ」「こんにちは会長のトレーナー」
そこに居たのは左に漆黒の髪のボニーテールのナリタブライアン、そして右には赤いアイシャドウが特徴的なエアグルーヴの2名。
柵の前の最前列に居た彼女たちは、私に気付いて挨拶を返してくれた。
私は柵の前で空きのあったブライアンの隣に入り、ルドルフが普段お世話になっているふたりと世間話を始めることにした。
「うーん。グレードともなると人手が凄いですね」
「メイクデビューからグレードにいきなり出てきたルドルフが居るし、今日の盛り上がりは格別だろう」
「まあそうなりますか……うう、こういう状況は久しぶりで流石に酔いそう」
「たわけ。ここでそんな事を言っていたらクラシックのグレードワンでは倒れてしまうぞ?」
人口密度が世界4位の東京都。
その府中に集まるウマ娘やら人間多さで酔い、吐き気を催している私の姿を見たエアグルーヴからごもっともな喝を入れられてしまった。
しかしそんな厳しめな事を言っているが、意外な事にエアグルーヴは口元に笑みを浮かべていた。
しかもよく見ると耳も伏せていない――ということは?
"――あれ? 叱られたというより、からかわれたのかしら?――"
先月末からルドルフにも行った講座を、エアグルーヴ本人から頼まれてやっている。
もしかしたらそれを通じて、また彼女とも距離感が縮まったのかもしれない。
いづれにせよルドルフが生徒会の事で何か悩むようなら、彼女たちの力も借りなければいけない――これはいい傾向だろう。
そんなことを考えていると――。
「しかし……なんでまたマイルになんか?」
普段無口なブライアンが珍しく今回のレース選択について食いついてきた。
ブライアンの奥にいるエアグルーヴも、この質問に関する回答はどうなるのか? といった様子で、興味深げにこちらを覗き込んでいる――。
開始まで時間もある。そのため私は彼女たちに少し解説することにした。
「基本ローテはルドルフの希望なんですが、私の方でも許可した理屈はちゃんとありますね。お2人はジュニア期をゆっくり過ごす意味を授業では習いましたか?」
有名な理屈なので既に知っているか2人に確認すると――。
「――確か身体づくりの為と習った。あまりビシバシやるとダービー以降へばるとか、確かそんな内容だったか?」
「私もそう聞いている。会長はそのトレーニング理論でローテを希望したんだな?」
ブライアンは普段生徒会の仕事をサボるイメージがあるが、意外とこういうことをきちんと覚えている。きっとブライアンは要領がいいタイプなのだろう。問題がなさそうなので私は話を続ける。
「ええ、その通りです。そして許可した理由は距離というよりコースですね」
「む……コース……?」
返事を返したブライアンもエアグルーヴも、イマイチピンと来てなさそうなの表情を浮かべている。自力で答えを出してもらうため、私は少しだけ核心まで話すことにした――。
「じゃあヒント――ルドルフが国内で特に勝ちたいのは3冠と、ジャパンカップでしょう?」
私がそう説明を付け加えると、エアグルーヴの両耳が何かに気付いた様子でぴこんと一度動いた。
「なるほど――ジュニアクラスのグレードで、かつ左回りの東京レース場の実戦演習としてのサウジアラビアRC。府中は"中距離を走りぬける程のスタミナ"を要求されるから、まずは日本ダービーへのひとつの試金石といったところか?」
「エアグルーヴご名答です。あと1回どこかオープンで東京を走り、来年に『皐月賞』の『中山』を想定したグレードを挟めればいいかなって感じです。まあ距離は距離でマイルはすべての時計理論の軸ですし、東京でそれを計測したいんですよ」
ジュニア期のグレードワン、その主戦場となるコースはここ東京以外だと――。
『朝日杯』と『阪神ジュニアステークス』となる。どちらも阪神開催でスタート150mでコーナーが設置され、大外不利が響く小回りカーブが主な特徴だ。
ここはクラシック路線の『桜花賞』の舞台でもある。
そしてクラシックだが、他のG1のマイルレースをあげ特徴を整理すると――。
坂が複数あり長い直線の間に約200mの上り坂――スタミナが試される東京『安田記念』。来年の11月に創設予定の"逃げ殺し"の"淀の坂"。登り切ればそれを下りながら進出し、その先には急な第4コーナーのカーブと320m程の平坦な直線が待ち構える京都『マイルCS』。
あとは中山だが、中山のマイルは枠順に大きく左右される。握り飯のような形のコース取りで、第4コーナーまで直線らしい直線がない。そのため外を回す選択をすると中々内が取れず距離ロスとなる。
対策としては第1コーナーのポケットからスタートして約240m地点にある、きつめのカーブが来る前に内に入るか、距離ロスをものともしない体力を武器に戦いに行くかになる。
このように同じ距離でもすべて特色が違う――。
グレード外のレースで東京で走るとルドルフの実力では物足りない挙句、前評判もあり回避だらけになってしまう。そしてグレードの高さだけで選んだ朝日杯ではコースが阪神になり意味が薄れる。
年明け後のグレードも中距離の東京である目黒はあるが出走条件はシニアクラス――結局東京で走ってみるにはマイルしかない。
だから今年にやってしまうのがベストだった。そういった理由でルドルフはこのレースを選んだし、私もそれを理解で許可を出した。
"――府中の面倒臭さはジャパンカップのための研究で理解してる。だからこそダービーとジャパンカップと同じ舞台で走り慣れる必要がある――"
「人気が稼げる演習か――しかもその会場はG3。会長サマは末恐ろしいな」
ブライアンは呆れたようにそう言葉を発した。
「グレードを軽視している訳ではないけど、結果これが演習となってしまう程ルドルフは強いですね。ダービーは『最も運がいい娘が勝利する』って言われていますが――私は運じゃないと言われる評価を彼女が得られるようサポートしたいですね」
「――アンタも随分な自信だな」
「ふふ、私はその為に連れて来られたんですから。……さあ、はじまりましたよ?」
場内には若い女性の声で実況の放送が流れはじめた。
私はブライアンの軽いジャブの様な発言を流し、今から選手たちが入場してくるバ場に目を向けた――。
◆ ◇ ◇
――20××年 10月29日 午後14時20分――
――東京レース場 ターフ内――
『2枠4番、シンボリルドルフ! 本日も1番人気!』
場内に姿を見せスタンド正面を向くと、府中のスタンドから大歓声が全身を包んでいく。
私は声援にしっかりと手を振り応え――それが終わると関係者席に居るであろうトレーナー君を探した。
そして程なく独特な輝きの髪を持つトレーナー君はすぐ見つかる。
彼女はエアグルーヴやブライアンたちと共にこちらに声援を送ってくれていた――。
トレーナー君は視線が合うとにこりと笑みを浮かべ、ぐっと右手の親指を立て『GOOD LUCK!』とでも言うかのように唇を動かしたのが見える。
それに軽く頷き、私はウォーミングアップを兼ね『返し』を観衆の前で行いはじめることにした――。
『6枠11番、ホープダンサー! 9番人気です!』
バ場の状態を確認しつつある程度走った後、邪魔にならない所に立ち適当な場所を決め――そこをじっと見つめ精神を統一するために深い呼吸をゆっくりと行う……。
これは私の習慣のようなものだった。
そうやって研ぎ澄ましていくと周囲の音などが意識の遠くに流れはじめ、段々頭の中がすっきりとクリアになっていく――。
"――……――"
しばしそうして目を閉じ――数秒間の完全なる”無我の境地"の中に自分を置く。
『8枠17番、ローマンラブリー! 6番人気です!』
心の整理と準備が整ったのでゆっくりと完成から遠ざかり、向正面のゲートの方へと歩みを進めた。
出走者全員がゲートの後ろに集まり、人気の低い者からゲートの中に案内されていく――。
『秋晴れに恵まれたここ東京レース場。第9レースはジュニアクラスのG3――サウジアラビアロイヤルカップ! 芝1600m左回りで出走者は17名。バ場の発表は良バ場となりました――!』
『最もタフさが要求される、東京1600を制するジュニアウマ娘は誰だ!』
実況の煽り文句に乗った音の波が押し寄せると同時に、緊張感と入り混じり独特な高揚感が私を包んでいった――。
レース前の人気上位発表の中――周りの者の様子を再度確認するように、他の出走者の様子を見渡しつつ軽めのストレッチをかける。
『3番人気はロックゼダーン。パドックでの逃げ切り宣言通りとなるのか!』
"――逃げの可能性があるとトレーナー君が言っていた者か――"
トレーナー君曰く。
『東京マイルで逃げ切るのは至難の業。それを考慮して予想すると1~3人がペースをつくり、セオリー通りなら最終直線までスタミナを切らさないよう警戒した後続は、団子か縦長になるなど慎重策が予想される。必ず先頭のタイムを数え本当にハイペースなのか? 確認を怠らないように』という忠告を受けていた。
"――ペースを気を付けつつ、なるべく内側の中団待機がベストだろう――"
『2番人気はサンプライド。芝とダート、どちらも安定の戦績! 距離延長の結果は如何に!』
"――そろそろか……――"
2番人気まで発表された。
私は身体を動かすのをやめ――係員の指示でゲートの中へと進む。
『1番人気はシンボリルドルフ! 今季最も期待されるルーキー! 今日はどんなレースを見せてくれるだろうか!』
先に入った2人よりもより大きく会場の空気を地鳴りのような声援が響く!
様々な感情が入り混じるその波を受けたかのように、私の髪や尾をもてあそぶ一陣の秋風がすり抜けふわりと靡いた――。
『各ウマ娘揃ってゲートインしました!』
スタンドからの声がやや静まり――わたしは真っすぐ前を向いて。
『スタート!』
ゲートが音を立てて開と同時に後ろにわざと移動させていた体重を勢いよく前に移す!
蹄鉄がターフへと一斉に叩きつけられ、大地と空に乾いたその音が鳴り響き、草の踏まれる香りがあたりに一斉に漂う!
出遅れた者がいたらしく、応援していた者たちの悲鳴がスタンドから聞こえる中私は好スタートが決まった。
現在の位置は先頭から1バ身~2バ身後ろ。
3つ並んだ団子のように2名の間に挟まれ2番手~4番手あたりであったが――。
ロックゼターンが2バ身差をつけて真ん中から飛び出て、ローマンラブリーも連れだって上がっていくのが見えた。
"――やはり逃げた――"
スタートから1ハロン弱続く下り坂を下りきる前に、私は2番手争いから離脱。
"――13――"
3~4コーナーの間から進出のプランに切り替え、先頭のタイムを数えながら中団に位置を下げていく――。
内ラチ側1番ライトドレーク並んで2番手を巡って激しい先行争いを繰り広げ、その間に4番手のビジョンワードが入り込もうしており、その後ろ1バ身ほど距離を話された5番手サンプライドが控えている。
混戦とする前方をよそに私はまだ前に出ず彼女たちの駆け引きを眺めていた。
12と書かれたハロン棒が左の視界を掠め過ぎて――。
"――23。時計は恐らく普通。地力が足りているものは最後に来るか――"
縦長の展開のように見えるそれは、後続が慎重になっているだけでハイペースではない。
そう踏んだ私は先ほどのプランを変えず仕掛け時を待ちそのまま進む。
ビジョンワードをサンプライドが抜き4番手に収まり、外から12番ホープダンサー追ったその後ろに――。
『1バ身離れた所に内側で控えています! 4番のシンボリルドルフ7番手の位置です!』
"――35――"
私の周囲のすぐ外にはハビノイソカゼが控えており、その後ろに実況曰く2名ほどいるようだ。
先頭は3コーナーへ吸い込まれていく。
新潟の小回りが必須なカーブよりもずっと余裕があり、視界の左側のラチが後ろに流れる体感速度が右側の住宅地垣間見える林の景色が流れるよりも速い。
そしてその中でぐぅっと、私をカーブの外に引っ張る遠心力に負けないようバランスを保ち――。
『先頭から最後尾まで20バ身と長い長いキリンの首のような超縦長の展開! それを牽引するのはロックゼダーン2番手から1バ身ほど差をつけまだまだ逃げる!』
"――47。平均通り。前に3、右斜め前1。今居る先行グループの前に逃げ3。位置取り準備にかかるか――"
今のアナウンスからおそらく自分の位置は真ん中。
内ラチの向こうにはコーナーの中間地点、大ケヤキが徐々に大きく見え始め、先頭からは今10バ身。
第4コーナーで最前線を走る3人の後ろに位置取れるよう、私も前に進出する機会をうかがい始める――。
『大ケヤキを通過し3~4コーナーの中間地点! 先頭は依然と前途洋々ロックゼダーン! その外に2番手ローマンラブリーピタリと張り付き! 続き1バ身離されつつも外からサンプライドがこれを追う!』
"――59――"
内側をずっと走り前と横にいる者の間が最終コーナーを曲がりながら、前の者たちを抜くために進路を外に取るために開くのを待つ!
先頭は横並び団子3姉妹のまま4コーナーに突っ込み、少し後ろの先行グループは6バ身ほど!
"――今だ!――"
予想通り前を塞ぐ者が外に出たため、そのど真ん中を射抜いた。
逃げ3人の後ろ――!
カーブを抜け切る前に先行グループの真ん中トップを無事陣取る!
『コーナリングを決めいい位置を取ったのは! 人気のシンボリルドルフ!』
曲がり切った目の前6バ身以内に最前の3名!
『正面スタンド前の直線勝負が始まった! 差を縮める4番手シンボリルドルフ! あがっていくが間に合うかぁ!』
そして東京の直線500.4 mと最後の上り坂が真っすぐに視野の中心に収まった――!
坂に入る前にも少し縮めて上がり切ったら一気に仕掛けるべく、目の前の3人の外に進路を合わせる!
『残り460! 坂を上がっていきます! 栄光まであと400!』
『先頭は依然として最内ラチ沿いロックゼダーン! その外ローマンラブリー! そして更に外にはサンプライド!ほぼ横並びの接戦デッドヒート! お互い譲りません!』
急な坂を上がり切りゴール板まで地平線が真っすぐ見え始め――。
『残り200! 坂を上がり切りまだロックゼダーン! ローマンラブリーか! サンプライドも上がってきた! これは混戦だ!』
"――もらった!――"
上がり切った直後を狙いビリビリとした静電気のような刺激が顔や全身を駆け抜け、その感覚の中溜めていた脚を炸裂させた!
『シンボリルドルフが一気に距離を詰めた! 人気のシンボリルドルフ一気にきた! 唸る獅子の様に前3人を視界に収めまっしぐらに追いかける!』
大きくスライドを取り駆け、近くなる3人の背中は一瞬で詰まり――!
『そしてサンプライドを追い抜いた! シンボリルドルフ! シンボリルドルフ残り50で全員を捉え抜き去った!』
先頭3名は完全に視界の外に流れ切り、その先の景色からは誰も居なくなった……!
『先頭は完全にシンボリルドルフ! シンボリルドルフ! その大外からミルユホープ上がってくるが追い込むも! 圧巻! 豪脚一閃! 今1着でシンボリルドルゴールイン!』
『強い! 強いっ! シンボリルドルフ人気に応えました! 1着シンボリルドルフ! 2着ミユルホープ! 3着サンプライド!』
ゴール板を超えたのを確実に確認してから力を抜き、高揚感がまだ冷めやらぬままの私は、右手のスタンドのほうを向きながら軽く流しつつ、左手を振りスタンドから響くファンへ応えた――。
◇ ◆ ◇
――20××年 10月29日 午後17時00分――
――東京レース場 シンボリルドルフ控室――
「あ――もう、予定が詰まってて息切れしそう! はい、ヘアセット完了ですよ!」
「午後の遅いスケジュールだったのに、今回もいい段取りだったよ。ありがとうトレーナー君」
「どういたしまして。ちょっと手を洗ってくるから雑誌とか、そこのボトルにフルーツジュース入ってるから欲しかったら召し上がってください」
鏡台前に座ったルドルフのメイクを整え髪をセットし終え、私はそれに使った道具をパパっと片付てけ、一旦手を洗いに部屋の隅っこの洗面台に近づき水道のハンドルをひねる――。
蛇口から出る水に手を付けてると、マッサージや施術などで疲れた手を心地よく冷やしてくれた。
15時から検査とシャワーを浴びたルドルフに施術をし、16時からタッパーに詰めて持ってきていた旬のフルーツやおにぎりなどをルドルフに軽く補給させ、それが終わったら手早く着替えとお手入れ。
本日で2回目となるそれらのルーチンは、まるでタイムトライアルレース並みの目まぐるしさだった――。
そして問題に直面――。
一応夕食時の18時がライブなのでその前にしっかり取らせたけど、ルドルフの普段の食事量を考えたら途中でお腹が空いてしまう予感がする――。
"――食べ足りなさそうだけど、ライブ前だから取らせすぎたら気持ち悪くなっちゃうし……あ――"
帰宅時に自分で持ち帰る小さなショルダーバッグの中に、リンゴ味の飴玉が入った缶を入れていたのを思い出す。
ハンカチで洗った手を拭きながら、上がり畳の隅っこに適当に置かれているバックの中身を漁って、目当ての丸くて平たい缶を取り出した。
缶の表面には食器などで有名な『プリンセリー・コペンハーゲン』特有の白ベースに青い花柄やツタの可愛い模様が施されている。
ちょっとした事で食欲がなくなる私は糖分摂取の為、他のお菓子の空缶に飴玉を入れて持ち歩くようにしていた。
それを手にルドルフが座っている背後の鏡台を振り返る。
ルドルフは台の前に備え付けられている椅子に脚を組んで腰かけ、用意しておいたミックスフルーツジュース片手に、経済雑誌を読んでいた――。
ちょっとした出来心で軽く3度ほど缶を振る――。
その動きに合わせて飴玉がそのアルミ容器の中で、カランカランと軽い音を立てるのを響かせた。
すると音に気付いたルドルフの耳が、可愛いらしく1度か2度はねる。
そしてルドルフはゆっくりと丸椅子を回転させつつ、雑誌を閉じ耳をまっすぐ前に向けた状態で此方を振り向いた――。
「それは? 随分可愛い缶だね」
「可愛いのは缶だけじゃないんですよ――ほら」
興味津々といった様子のルドルフに近づき、私は缶の蓋を開いて中に入っている飴玉を見せた。
「ほう? デザインはリンゴか。黄色と赤のグラデーションが鮮やかで綺麗だな」
「そうそう。デザインがまず素晴らしいのよねこの飴は。『楽店市場』の通信販売で買った『信州のりんご飴』。最近のお気に入りなんです――糖分切れを感じたら食べてください」
透明な緑色の包装で両端をねじり包まれた――ヘタのないリンゴそっくりの黄色と赤で彩られた飴玉をルドルフに3つほど渡した。
受け取ったルドルフは興味深げに手のひらに乗せた内のひとつを取り、光に透かして中のリンゴに似た飴玉をしげしげと眺めた後――。
「良く出来ている――素敵な飴玉をありがとう、助かるよ。後で私も購入したいから帰りにサイトを教えてくれるかい?」
「ふふ、いいですよ。他にも素敵なリンゴのお菓子があったから、その時に一緒に紹介しますね」
思った通り気に入ってくれたようだった。
ルドルフはその飴玉を衣装のポケットに仕舞い、再び私の方に視線を戻し――。
「――ところで君は魚介以外だと、リンゴのお菓子やジュースを、頻繁に口にしているようだが――リンゴが好きなのか?」
"――あら? 相変わらずよく見てるわねー……――"
ルドルフに魚介類以外の好物を教えた覚えはない。なのにどうして気付いたんだろう? そう疑問に思った。
しかしよく考えたら、トレーナールームの冷蔵庫に、私物でリンゴジュースやリンゴのお菓子を持ち込んでいるから、それで彼女が気付いたのかもしれない。
「好きですね。特にこの国のリンゴは焼かなくても甘くて美味しい。ルイビルでも日本からリンゴを取り寄せると、その味を知っている子の間で争奪レースが起きるほどの人気だったんですよ? ふふふ」
以前担当していたウマ娘『ディーネ』の4冠達成パーティーのデザートとして、日本から取り寄せた『ふじ』がその状況を招いたきっかけであった。
西洋のリンゴは焼き菓子やジュース用など用途が違うだけできちんと美味しいのだが、生で食べるなら日本のリンゴの美味しさは群を抜いている。
パーティーに出された生のリンゴを食べてしまったあるウマ娘は、飲み込むと同時に『極東のエデンの果実だ!』と叫び、あるウマ娘は食べてからずっと『Amazones.com』にそれがないか探し回る始末。
そう、この国の『生で食べても美味しいリンゴ』はウマ娘にとって『禁断の果実』であった――。
「人気の輸出品とは聞いていたが、本当にそこまで人気があるとは。ふふ――ちなみに君が好きな品種はなんだい?」
"――ん? 妙に突っ込んで聞いてきますね? ――"
何やら私を探るような気配をルドルフから感じるものの、質問の内容的に問題ないので素直に答えることにした。
「うーん。それは悩みます。用途別に使うからどれとは言い難い――強いて言うなら、特に注文して食べているのは『御所川原』か『つがる』ですね」
「ごしょがわら……? 聞かない名前だがどんなリンゴなんだい?」
聞きなれない単語を耳にしてルドルフのピンクダイヤのような瞳がくるりと丸くなる――耳は完全に前を向き、強い興味を向けているので軽く触れる程度の説明をつけ足すことにした。
「青森の御所川原市のみで栽培されている果肉まで赤いリンゴなんです。見た目もルビーみたいな深紅で綺麗ですよ。用途としては酸味が強いのでお菓子に使ったり、ジュースがおすすめです」
「ふむ……なるほど……」
"――ん? なんか凄く考えてる表情をしているけど……何だろう?――"
ルドルフは考え込むかのように腕を組んで少し左下に視線を向けていた。
"――聞きなれない品種を聞いたからかしら? まあマイナー中のマイナーなリンゴだしね――"
質問の答えとして返した『御所川原』は一般的なリンゴと違い生産数がかなり限定されるため、青森の物産好きか果物専門店の常連でもなければ知らない品種だった。
流れる沈黙が気まずくなってきたので、今聞かれた品種の話題をルドルフにも振ってみることにした――。
「……そういえばルドルフもリンゴが好きって言ってたけど、品種とかにもこだわりがあるんですか?」
「勿論私は『サンふじ』が好きだ。どこでも手に入るし甘みと酸味のバランスがよく、お弁当のデザートにするにはぴったりだからね」
思い返すとルドルフの茶色い健康的なお弁当には、いつも別の容器でよくフルーツが付いており、その中にはリンゴが入っていることが多かった。
"――好きとは聞いていたけどよっぽどなのね。今度から差し入れにもっと取り入れようかな。それとこれでご褒美も決まった――"
「なーるほどー。では、明日はサンふじでアップルパイを焼いて持ってきましょうか?」
「それは嬉しい! 帰ったら空いている時間を見繕ってLEADに送っておくよ」
ルドルフは嬉しそうに目を細めてほほ笑んだ。
このご褒美チョイスは正解のようだ。
「ふふ、そんなに楽しみにしているなら多めに焼いて差し入れますね」
"――やっぱりこういう無邪気な感じはとても微笑ましい――"
一瞬のぞかせた無邪気に喜ぶルドルフの姿に心がじんわりと温かくなる。
こういう気持ちになれる時があるから、今の私になれて本当に良かったと心底思う。
そんな温かな感情に包まれつつ壁掛け時計を見上げ、そしてポケットからも銀時計を取り出し時間を確認する――時刻は18時25分となっていた。
「さて、ルドルフ。ライブ前の会見に向かいましょうか」
「そうだな。丁度いい頃合いだ」
私はルドルフを促しウイニングライブ前の会見へと向かった――。
◆レースの時代背景設定◆
【マイルチャンCS――京都】
史実は84年実装予定。
翌年の11月に予定されているレース。
(新装前の内回りマイル)
【桜花賞――阪神】
エアグルーヴの兼ね合い考慮
桜花賞の阪神レース場は使いつつも外回りを増築中って事にしときます。
現在の話の中では旧式の内回りとします。
【ヴィクトリアマイル――東京】
史実は06年新設なので、将来新設予定にしときましょう!
なのでまだ名前は出さない。
【NHKマイル――東京】
史実は96年実装 解説では使用せず近々実装予定位な設定に。