――20××年+1 5月24日 午前5時――
――???の部屋――
"――……――"
遠い遠い昔から戻ってきたような、懐かしい気分に包まれながら、肺の中の空気をゆっくりと吐きだし、重い瞼をゆっくりと開け現実に意識を引き戻す。
視線の先、天井はまだカーテンから漏れ出て朝を告げる光に染まっていない。枕もとのサイドボードに置いた赤い目覚ましの時刻を見るとまだ出勤するには早い時間だろう――。
喉が乾いていることに気付いた私は平衡感覚の鈍る足取りでベッドを降り、寝室のドアに手をかけて外に出た。
テラスに繋がるカーテン越しに朝日の昇る前の気配を頼りに、灯りも点けずにキッチンのシンクの前に立つ。そして私はステンレスの水切り籠に置きっぱなしだったシンプルなガラスコップを蛇口に近づけ、レバーを押して水を満たし乾いた喉を一気に潤した。
辺り一帯にまだ人々の生活の音が満ちておらず、耳を澄ませると早起きな都会の小鳥のさえずりが少し大きめに聞こえ、そんなすがすがしい気分がこの空間と私の心持を満たしてくれた。
"――学園に今、『あの子』が居るから最近よく見るのかしら……――"
今朝も含め最近頻繁に見るあの頃の夢……それは私がまだターフの上にいた過去の事――。
ダービーでレコードを出した私は栄光から一転、色々な要因が重なって病と怪我に苦しんでいた。その病状は担当のトレーナーさんが方々探してくれて、やっと見つけたアメリカ人名医にすら無理だと断られてしまう程の勢いで悪化し手の施しようもない有様だった。
そしてそのお断りから2時間もしない内に治療を断ったその名医は『試験段階の治療』でよければと、費用は要らないので引き受けましょうと急に提案を翻してきた。説明を聞く限り完治する確率は僅かだけれど、再びターフに立てる可能性に賭け、私はエメラルド色の瞳が印象的な若い医者の手を借りることに。
――しかし治療後も意識が朦朧とした状態から中々戻らない。一命はとりとめたが回復する兆しは見えず、命だけ助かっただけでもよかったとしても、生き甲斐だったレースに戻るのは諦めるしかないのかと落胆した。
一旦思い出から現実に戻り、朝の支度をしようとカーテンを開けて外を見る。白んだ空に細く薄笑いを浮かべた月が浮かび、その位置は中点に差し掛かっていた。
そして冷静に思えば気味悪いと言われそうな出来事と共に、その奇跡はやってきた――それは丁度こんな月の浮かぶ、朝とは真逆の深夜だった。
『何を引き換えにしても、貴女はレースに出たい?』
首だけを動かし声のする方向を向くと――暗がりに青く光るサファイアのような煌めきを持つ黒髪、そしてあの医者と同じ緑の瞳の小さな子供が、病室の隅の暗がりから浮かび上がるように現れたのだった。そしてその子供は自分が治療薬を開発したのだと名乗っている。
まだ砂場遊びに興じていそうな子供にそんなことできるのか?それ以前に個人病室にどうして子供がいるのかと疑問に思う気持ちより、その存在が悪魔でも、神でもどちらでもよかった私は『何でもいいから出たい。覚悟なら決まってる。私はレースに出たい』と後先考えず縋るように応えた。
その子供は『私とのやり取りは他言無用でお願いしますね』といってドアの向こうに立ち去り、同じ瞳の医者がすぐやってきて軽く説明をしてから最終同意を取り私に注射と点滴を処方した。
それらを打たれた直後から凄まじい熱感と激痛が駆け巡って気絶。
そして目を覚ました翌朝から急激な回復を遂げ――菊花賞には間に合い、満足の行くレースキャリアを全うする事が出来た。その後私は、理事長と出会ってトレセンの改革を目指すことに。
私を助けてくれたあの子は初担当したウマ娘にスーパーエフェクタを達成させ、史上最年少のダービートレーナーとなった。雲の上の者となったあの子とはもう二度と会う事はないと思っていたら、偶然が重なり日本にやってくるときた――。
成長したあの子に、また会えてうれしくて『ありがとう』と声をかけてしまいたかった。けれど今の私は別の存在として生きている。そんなことをしてしまえば私の正体はバレてしまうだろう――。
心の内を洗うよう息を吐きだしてカーテンを開いてタッセルで留め、朝の支度をするべく洗面台に赴いて顔を洗いタオルで拭く――。顔を上げると目の前の鏡には自分の不安そうな顔が映っている。
このような体験があるためダービーの時期に私の胸中の不安が騒ぎ出してしまう。
また誰かが怪我をするかもしれないとか、いろいろなことが心の中で顔を覗かせるのだ。
しかし今年はあの頃の事を夢には見たけど例年のような強い不安ほどではない。
根拠は乏しいが今回はきっと大丈夫だろう――そんな安心感に包まれている。
だって私に匹敵する後輩のトレーナーにはあの
◆ ◇ ◇
――20××年+1 5月27日 12時――
――東京レース場 シンボリルドルフ控室――
楽屋特有の横に長い鏡台の前に優雅に膝を組んで椅子に腰かけた、まだ制服姿のルドルフは先程私の淹れたノンカフェインのハーブティーを片手にリラックスした様子で雑誌を読んでいる。
"――日本ダービーって言えば、あの時を思い出すなぁ――"
そして私はというと鏡台の後ろ側に広がる上がり畳の上で、医療器材の不具合チェックをしながらある事を思い出していた――。
それは年齢ひと桁前半くらいの頃だ。学会発表と旅行を目的に日本へ向かう叔父に着いて行って私も来日。そして日本ダービーを観戦し、さあ4日後にはアメリカに帰ろうかという話をしていた頃だった。
滞在先のホテル前で叔父に近づきすぎうちの護衛に捕まりながらも、『助けてくれ』と懇願するあるウマ娘のトレーナーが現れた。
話を聞けばダービーの勝者となったウマ娘がひどい傷病を患っているらしく、もう叔父に縋るほかないのだという。しかし、叔父の技術でも多分無理だろうと、話を盗み聞きしている私も叔父も気づいていた――。
叔父は助けたかったが技術的に無理なのでとそのトレーナーを追い返したが、『神さまでもいれば助けられるんだけどね』と無念を漂わせる姿を私には見せていた。
そんな家族の姿を見て私の心にとてつもなく締め付けられるような、強烈な胸の痛みが走ったのを今でも鮮明に覚えている。
叔父たちと養父とマハスティ。そんな小さな箱庭の中に居て、彼らだけが全てだった恐れ知らずの私は――元医師としての矜持もあり、この時初めてこの世界にとっての
そして私は叔父に治すアイデアを伝えた。彼は私の知識量に驚き目を剥いた。しかし理由も聞かず彼は医師として目の前の命を救うため、試験段階の技術として説明しそのウマ娘の命を救った。
ただ命だけは助かった彼女が全快するために必要な技術は、ウマ娘の遺伝構造に関し当時もまだ把握できていない箇所があった。そのため下手をすればもっとひどくなる可能性があり、更なるリスクのある治療を薦めるのは責任を持つ意味でも、子供に頼む程の意志を試す意味でも私に任せてほしいと叔父に頼んだ。
そして私が直接そのウマ娘に了承を取り、叔父が最後の治療を施し――結果奇跡的にそのウマ娘は助かった。
その件に関して叔父達と養父に色々と聞かれたが、私が一貫して『詳細は言えない』と伝えると、『その知識を迂闊に外で使わない事』を約束する代わりに何も追及はされなかった。それどころか
目の前の命を見捨てられず、後先を考えない愚かな私はこの善良な養父と叔父たちのお陰で今日も無事平穏に過ごせており、能力を認めてもらって大学高校のダブル受講まで許可して貰えることになった――。
"――もっともその若気の至りの結果『似非天才』っていう暗黒史に繋がるんだけど、それはそれとしてあの3人には本当に足を向けて寝られないね――"
そして今日の私が『オルドゥーズ財閥の切り札』になるきっかけとなったウマ娘は、トレセンにいるあの方に似ているような気がしたけれど、自己紹介の際に彼女は人間だと名乗っているから他人の空似だった。理事長に事情を伏せてあのウマ娘のその後について何か知っていないか聞いてみた所、あのウマ娘は無事引退まで走れて今は市井で生きているという。近況を聞く限り幸せそうで何よりだった。
「百面相してどうしかしたのかい?」
色々な事を思い出していたら、ルドルフが雑誌を閉じて膝の上に乗せ、こちらを見やってほほ笑んでいた。
「――そんなに面白い顔をしていましたか?」
「難しい顔をしたり、げんなりしたり、ほっこりしたり忙しそうだったよ」
「あー。それは大分出ちゃってましたね。今アジア支部にいる叔父と、年齢ひと桁くらいの頃に日本のダービーを見にきていた時の事を思い出していだけですよ」
「ふふ、そうだったのか」
ルドルフはそう言ってまた雑誌を開いてそれに視線を落とそうとしたが、丁度用事があるのでそのまま声をかけた。
「ルドルフ。靴なんだけどパワー型に傾けた、ダート芝両用の仕様にしておきますか?」
今年の春先が近年稀に見る寒波に見舞われたのはまだ記憶に新しいが、その所為で芝の生育が消耗に追いつかなかった。折角緑が萌え出でていたターフは見るも無残な荒れ地と化し、今朝バ場を2人で確認したところ『芝のレースのつもりが今日はダートだとは』というルドルフのギャグが炸裂。
なんと緑の砂がターフにまき散らされていたのだ。
芝が荒れると緑に着色された砂を撒くとは噂には聞いていたが、例年以上に緑の砂をまき散らされたそのバ場はターフというより日式ダートレースに近い。
念のため作っておいた砂ダート用仕様の靴を急遽カスタマイズして用意してみたのだが――。
「ターフ用で構わない。気持ちはありがたいが東京レース場仕様で頼む」
「了解しました。では仕様は変えずに行きますね」
「ああ、頼むよ」
私は腰の下程の大きさのある、四角く黒い食品宅配用リュックを大型にしたような収納を開けた。中には蹄鉄やら釘、それらを調整するための工具。そして仕上がった状態の靴が数足入っている。その中からターフ用の仕様にカスタマイズし靴を取り出し、軽く布で磨いてフィッティングスペースの傍に出した。
「それと今回、作戦はこちら側の裁量で変更させてもらうよ。やってみたいことがある」
「といいますと?」
「具体的に言うとダービーポジションは敢えて意識しないでやるつもりだ」
ダービーポジション――日本ダービーで起きたある事故がきっかけで、巷にささやかれ始めた日本ダービーのセオリー。その内容はバ群を捌くため第1コーナーを、10番手以内で通過しなければならないというものだ。
このセオリーを無視した結果立ちはだかるのが、4コーナーを回ってまだ心臓破りの坂がある状況、そこでさらにひしめくバ群の壁。それを超えるためには選手本人が異次元の強さを持っているか、最終直線に入ってすぐに運よく抜け出る隙間が空いていなければ勝機はない。
ダービーは運次第――そう言われてしまうのはこのためだ。
多い時には30名近く出走していた日本ダービーが25名を切ったのは、今回を含めた過去10年内ではブロッサムウィナーの20名、ミスターシービーの21名、そして――目の前で優雅に脚を組み、落ち着いた様子で椅子に腰かけているルドルフの出るダービーだ。
けれど今回は30人近くいる訳じゃない上に、良発表とはいえ埃まみれの布団の様に叩けば土埃が舞うバ場で飛ばすのもどうかと思った私は――。
「いいですよ」
「おっと? こうもあっさり許可が出てしまうと拍子抜けしてしまうな。――何か言うことは無いのかい?」
ルドルフは一瞬肩透かしを食らったような表情をした後、口元を笑みで染め腕を組んだ片手を顎に当てて首を傾げ、『君はどう考えているのかな?』と私の反応を面白がって知りたい様子だった。
「バ場が悪いですからテンで行き脚を無理に使わない判断もありです」
「ふむ。君は重い足場でも私が追い付くとふんでいると?」
「ええ。足元が荒れた時の対策について、今までご実家や私の下でルドルフは修練を積んできたのでしょう? メイクデビューの時の湿っただけの足場とは性質が少し違いますが、貴女の重バ場適正は十分なはずです。そして進出を控えることでさらに大きなメリットがあるなぁと思いまして」
「ほう? メリットとは?」
ルドルフはそれは意外な反応だとでも言いたげに、不思議そうに首を傾げた。私はニコリと微笑み返し――。
「他の子は貴女が来ないと予定が狂って焦るでしょうね。ルドルフをマークする気満々だろうから、マークが外れたり、レースプランを混乱させる事が出来ます。その『詰んだふり作戦』は良いと思いますよ」
「はは、詰んだふり作戦のネーミングは良いね。勝った後会見で使わせてもらう。しかし、意地悪な作戦を思いついた瞬間の君の表情に新たな一面を見た気がするよ。そんな顔も悪くないね」
どうやら相当な悪人面をしていたらしい。鏡を見ると私は物凄くわるぅーい感じの表情をしている。
「えー……それは褒めてるんですか?」
「ふふ、大変魅力的だと思って褒めてるつもりだよ」
ルドルフは『さて、支度に移るまえに一息入れないかい?』といってハーブティのティーパックを紙コップに入れた彼女は、控室にある電気ポットからお湯を注ぎながら休憩するように促してきた。
作業を終えたので彼女の隣の席に座って待ち、目の前に差し出された紙コップをお礼を言って受け取った――。
◇ ◆ ◇
――20××年+1 5月27日 15時20分前後――
――東京レース場 スタンド正面 ゲート裏――
スタンドを見ると子ウマ娘――私の権限で関係者席に入れたトウカイテイオーが、トレーナー君の横から大はしゃぎでこちらに手を振っている。それに手を振り返してバ場の内側を見るとズタボロに芝が剥がれていた。これでは例年通りのセオリーは通用しない。
気温も先月よりプラス10度と一気に上がり24度~25度前後かつ、ここ1か月府中にまとまった雨は降っていない。それを表すかのように風の中に土埃っぽい乾いた砂と芝の匂いが混じっている――。
『快晴に恵まれた府中東京レース場、第9レース芝2400m左回りはGⅠ東京優駿、日本ダービーの開催です!』
場内に飄々とした実況をすることで有名な若い男性アナウンサーの声が響き、会場も大いに盛り上がる。3番人気以下が続々とゲートインし――自分の番がどんどん近づいていく。
『――3番人気はこの子! 快速ウマ娘ラッシュソルティ! 内枠の強みを生かし今日も余裕の逃げ切り勝ちか!』
4月末に東京で行われた日本ダービー指定のOPレース、青葉賞を逃げ切り勝ちしたウマ娘が先に入場していくのを見送り――。
『2番人気はこの子! 短距離から中距離なんでもござれのマエツニシキ! 気合いは十分! 日本一となりカチドキを上げるのは彼女か!』
マエツはこちらを一度も振り向かずゲートイン。それだけ勝利を得るために集中しているのだろう。皐月賞のあと彼女は東京2000mのGⅡJHK杯を快勝しているため未だに油断ならない。
『1番人気はこの子! 常勝無敗のウマ娘シンボリルドルフ! まさか今日も勝ってしまうのか!』
ひときわ大きな歓声がいつも通り上がり、尾の先の毛にその振動が伝わってくるのを感じる。乾いた地面を踏みしめゲートに静かに入り態勢を整え――。
『ゲートイン完了 出走準備が整いました――スタートです!』
ゲートが開いたと同時に乾いた地面に蹄鉄を叩きつけて前に出る。
抑えめにしているため前を塞ぐように視界の中にいるだけでも8人ほどのバ群が前方を覆っていく。
『内から好スタートを決めたのは13番キタノカミカゼ! しかし内も外も負けじと前に出る!』
足場を確かめる様に走り、前から7~8番目くらいの位置に控えながら2と書かれたハロン棒の横を先頭が通過。タイムは13秒。
わざと後ろに下げているため叩き上げられ宙に舞う土埃が入らない様目を細める。それらが鼻腔を抜け喉にも張り付きそうで前に行ってしまいたくなるが、今は我慢だと自分自身に言い聞かせる。
視界のすぐ右側にはマエツがチラつく。彼女は私より内側スタートだった者たちの後ろにつけようと行き脚を使っている。
――その時だった!
そのマエツの更に大外側から左の内ラチへ向かい斜めに駆け抜ける何者かが目の前を横切っていく!
『内側から先頭フジミフウウン、それに並ぶようにラッシュソルティがハナを取る勢いだが! その横に大外からの突っ込んできたベルマッハ! 一気に外に並びもつれ合いコーナーに突っ込んでいく!』
20のハロン棒を通過――タイムは24秒。
『第1コーナーのカーブ、ハナをもぎ取ったのはなんと19番ベルマッハ1番手! その後ろに6番フジミフウウン、その外並んで9番ラッシュソルティが2番手争い、少し下がったその後に並びその外ライトドレーク! 3人並んでベルマッハを追い、その先行団子3姉妹の後ろ内から8番ウエストライデン、その外11番イグニカメルン、更に外に人気のマエツニシキはいつもより前目の位置取りだ!』
1コーナーを抜け私の位置は左手内ラチ側にベルパレード、私、そして右手の外にヒマラヤイブキと2人に挟まれ、前列の右斜め前にマエツニシキを視界に収めている。
『内にベルパレード、その外まわって10番シンボリルドルっルドルフここにいました! 現在8番手で先頭からは7バ身の位置、その外にヒマラヤイブキ。そしてこの列の後ろに13番キタノカミカゼとテューダーキングがバチバチと火花を散らしあいながら並んで進む!』
右手外ラチ側に東京1800mで使うポケット側からの合流地点が過ぎていくのが見え、さらに18のハロン棒が左端の視界から消え2コーナに入っていく。
先頭までは目測で8バ身。1バ身下がった2番手争いの横並びは外側から大きく垂れ、横に広がっていた先行バ群は1バ身ほど距離をあけて外にずれはじめた。そしてカーブを抜ける頃には並んでも2人程度のほぼ一直線に。1800m通過時点のタイムは36秒。
"――ここから12、3秒でラップを刻んでいくのであれば、まだ無理に位置をとる必要は無い――"
右斜め前にいたマエツが私の右側に少し下がり、それに伴い左側にいたものが後列に垂れていった。12秒刻みで16のハロン棒を通過していく。
『第2コーナー! 少し下がってクラウンパーソロン、その外まわって中団にイーストカムリと更に外にテューダーキングが並んで追走!』
視界がゆったりとした大きい東京のコーナーをぐるりと左側に旋回――2コーナーを抜け向正面と前を行く者の背が一直線上に広がった。
『第2コーナーを抜け後方集団は2番ダイアミリオン、その外大きく回ってアローシラオキ、少し下がってグリーンイメージ、少し下がって内にサドンタイフーン、その外並んでサンプライド追走! そしてメグロクレイバー、最後方はビゲイサーペン』
向正面の足元の芝は『ここで勝てねば欧州は遠い』そんな現実を私に突きつける様に、ダートコースと言っても差支えが無いほど荒れていた。
12のハロン棒こと前半の5Fを通過。
タイムは1分1秒前後。ミドルペースより少し抑えめの12秒刻みのまま。
"――位置取り開始は大ケヤキ手前で決まりだ――"
次のコーナー前までに前を取ろうとする者たちにどんどん包まれ、出来上がった3人ほど横に並んだバ群の壁。そして振り向かなくとも後ろにも数人以上前を狙って並んでいるのが予想できこれ以上下げると抜け出せなくなる。
右の外に並んでいたはずのマエツも1バ身ほど前、前列の外に進出。そして向正面の坂を登り切り、3コーナー手前までの下りに転じたのが足元や身体に掛かる重力から感じ取れた。
3コーナーの入り口――10のハロン棒を12秒か11秒後半くらいかで先頭が通過。現在地から前方まで10バ身ほど。そろそろ大ケヤキだしある程度前に出たい。縦長になって空いた右側から外に進路を取った!
『3コーナー先頭はベルマッハが軽快に飛ばし3バ身リード! 外を回ってフジミフウウン2番手、ベルパレード3番手、その外まわってマエツニシキ並んで来た! 少し下がってライトドレーク、その内を狙ってニシノライデン。少し下がって大外からシンボリルドルフやっときた! 一気に外から前を狙っていく! その内――』
8ハロン棒の横を過ぎタイムを数えるのを止め、じわじわと速度を上げ大ケヤキの右を横切ったころにはライトドレークを外から捉え先頭までは4~5バ身! 先行集団はベルマッハ以下が団子でこのままいくと4コーナーで4人が並んだ壁になる! コーナーで前が開けば僥倖だが――!
"――この4人はそんなミスはしないはず! ならば!――"
『残り600! 先頭内からベルマッハ、フジミフウウン、ベルマッハ、マエツニシキが半バ身ずつズレながら斜めに並びながら4コーナーに突っ込んでいく! 』
――好位をとるために準備をした瞬間、全身にチリチリとした電流が走ったような感覚が駆け巡る! それは闘志か、高揚感か何ともつかないその勝利への衝動が全身を更に熱くさせた!
4コーナーのカーブを抜け切る瞬間を狙って先頭に並ぶ4名の外を狙おうとしたその時! 私の右視界の外からカミカゼイチバン! そしてマエツと私の間の左からはクラウンパーソロンが突っ込んできた!
右はかわし切ったが、左側の勢いが思いのほか強かった! 私はその勢いに押されるかのように進路を外に取り回避したため膨らみ、最終直線のほぼ中央に進路を取る羽目になるも――。
目の前に広がるのは荒れた内側とは違い、青々とした野芝のターフのバ場がまっすぐ約500mの直線上にびっしりと生えそろっている!
"――予定は狂ったが、いける!!――"
最内ラチ側にウエストライデン、間にマエツ、すぐ傍にクラウンパーソロンと並び残り400!
『東京の長い直線勝負! 心臓破りの坂を上っていくがベルマッハがまだまだ逃げる! 8枠のジンクスを覆し前残りで逃げ切りか!? それとも並ぶフジミフウウンとベルパレードのいずれかが捉えるか!』
前方3名との距離を詰めるために溜めた脚を使ってゴール手前の坂を歯を食いしばり駆けあがる!
ひとり――
ふたり――
両サイドの視界の外に横に並んでいたもの全てが流れ――!
そして坂を越えて一気に目の前が開けた!
そのまま真っすぐターフの外――最終直線の中央を貫く気持ちで前に前に前に!
全てを、全身全霊を以て前を、勝利を目指し大地を搔き込んだ――!
『残り200! 先頭は依然ベルマッハ! フジミフウウンとベルパレードの2名が食い下がっている! デットヒートな3人を外から紫電一閃の勢いでシンボリルドルフが一気に距離を詰めて来た!』
先頭の横並びの3人まで2バ身!
『シンボリ来る! 前の子達も必死で逃げる! 残り100――っ!』
ゴールをめがけ乾いた地面に蹄鉄を叩きつけストライドを伸ばしさらに追う!
残り100で視界の左端に前方3名すべてが並び!
そして――!!
『シンボリルドルフきた! シンボリルドルフ差し切ってゴールイン! 現在6連勝! そしてマロンフラワーと並び最小キャリアでダービー制覇だぁぁぁ! 1着シンボリルドルフ! 2着ベルマッハ! 3着フジミフウウン!』
飛行機のジェットエンジンの目の前に立ったかのような音の質量がターフの上の私達へと降り注いだ。そして減速し終えた後観衆の前に立ち、紙吹雪降り注ぐ中その空に向けて2本指を立てて左腕を伸ばした――!
◇ ◇ ◆
――20××年+1 5月27日 午後22時頃――
――オルドゥーズ財閥所有 リムジン――
「ライトアップ綺麗だったなぁ――あんな催しがあったのは知らなかったわ」
「ああ、我々が行くと目立つ故に、車内からの案内で物足りないかもしれないが早く見せたくてね」
「そうだったのね。ありがとう、とても素敵な光景でした」
都内某所の有名なイルミネーションスポットに、本日はダービーで勝者となった者を象徴する色が1週間ほど灯される。今年は私が勝ったので深めの緑にライトアップされており、その光景をライブを終え制服姿に戻った私はトレーナー君と車窓越しに眺めて楽しんだのが30分ほど前の事――。
そしてイルミネーションを窓に張り付いて無邪気に見入り、喜んでいたトレーナー君は私の左隣で先ほどから頭を時々ふらつかせて夢の中へと舟をこぎ始めている。うっかり転倒して額をぶつける前に肩を貸して寝かせてしまおうと思い立ってしまう程に、それはそれは眠たげで危うい様子だった――。
「君の仕事は終わったから寝ても大丈夫だよ?」
「お気遣いありがとう、しかし、引率ですから……頑張り、ます」
レースの後は私のケア、マスコミ対応、トウカイテイオーの面倒を見つつ、会見前の迎えと会場にいる保護者への見送り。今日はいつにも増してトレーナー君の業務量は多かった。気遣って眠る事を勧めたものの、職務だからと眠れないとして断られてしまった。どうやら私と同じで彼女も相当頑固なようだ。
そしてトレーナー君は『ぼーっとしてて忘れる所だった』といい、手で隠しながらあくびをひとつした。釣られて私もあくびを浮かべている中、彼女は左前方に伸びるリムジンの収納から何かを取り出しそれを私に差し出した。
「2冠目おめでとう」
トレーナー君がそっと両手で差し出したのは、手のひらサイズの木製の台座の上にガラスのドームが乗ったおしゃれな置物だ。中にはアンティーク調の金メッキが施された小さな蹄鉄が中央に配置され、その周りには深紅のバラ2本を中心とした、ブリザードフラワーのアレンジメントがセンス良くあしらわれている。
その蹄鉄の手前側には蹄鉄と同じ色合いの金属フレームがつけられた漆黒のプレートが配置され、『シンボリルドルフ日本ダービー勝利記念』と日付と共に鮮やかな金の文字が刻印されていた――。
「……! これは素晴らしい頂き物だ。素敵な贈り物をありがとう――日本ダービー制覇で2本のバラかい?」
即興のジョークを飛ばすとトレーナー君は困った様な呆れたような表情を浮かべた。
「えっと……反応に困るタイミングだけど、ジョークは絶好調ですね」
「ふふ、すまない。このタイミングではジョークは微妙だとわかっていたが嬉しくてつい。勝利を信じて用意してくれてたのか……君の育った米国のダービーでは勝者にバラを贈る。そこで私にもバラをということで用意してくれたのか」
「ええ。――知り合いに依頼して同じ薔薇で作ってもらいました」
それはとても名誉なことで、そんな由来のあるバラを用意してくれたトレーナー君の気遣いに心の中に温かい気持ちがじんわりと広がっていく――。
「――少し目をつぶっててくれ」
「へ? 何ですか?」
「いいから閉じて」
眠そうだった瞳が驚きで一瞬丸くなったトレーナー君は、『一体何? 何?』といった声が聞こえてきそうな様子でそわそわしながら私の指示に従い目を閉じた――。
ガラスドームを一旦私と彼女の間に置いてから、そっと左前のリムジンの収納に近づく。
その上に乗った白とピンク、そして赤のバラの花が活けてある花瓶がある。
帰ったらトレーナー室に活けておくために買っておいたその花の内、純白のバラを1本抜き取る。そして適当な長さに茎を指で切り、彼女の三つ編みカチューシャシニオンヘアの右耳側のカチューシャ部分に差した。
「目を開けて。――互いに協力して勝利を掴んだのだから、君にもダービーの花が必要だ」
トレーナー君は私の言っている意味が分からずキョトンとしてしまった。そこで制服のポケットに入れていた丸いシンプルなコンパクトを取り出して開き、花が差してある部分を鏡に映して見せたところ――。
「! なんだか照れ臭いですね。――でも……ありがとう――!」
素直な気持ちなのか敬語が崩れ、照れくさそうに頬を染めたトレーナー君の表情と共に、
美しい夜景に、そして勝利。今宵はなんとよい夜なのだろう――。
そんな満ち足りた気分に浸りながら目を車窓の外に向ける――スモーク越しに見た景色は現在地が学園に近い事を示していた。
◇設定と改変箇所◇
?????さんの正体と思われる??????選手と彼女のキャリアは皆さまの御想像にお任せしたいと思います。
最終直線の進路取りを史実の流れとは変えました。
思考回路が人に近いウマ娘のシンボリルドルフさんだと、外に出ちゃったらそのまままっすぐ走りそうな気がしたのが理由です。