トレーナー君視点から始まり、ロンドン入りからルドルフ視点です。
――20××年+1 7月2日 午前2時頃――
――オルドゥーズ財閥専用機内――
昨日夏合宿に皆を送り出し私たちも英国に向けて出発した。
到着した空港には深夜だというのに沢山のメディアが押しかけていて大変な賑わいを見せおり、集まった人々の数で私は軽く酔いそうになるほどの状況だ。
久しぶりに海外に打って出るウマ娘が出たのだから無理ないかなと思いつつ、出来る限りルドルフとインタビューに答え、眠そうな秋川理事長とたづなさんに見送られながら日本を発ち、今現在ラグジュアリーな内装に囲まれた機内のソファーで寛いでいた。
ルドルフを先に別室のベッドで寝かせ、私はというとまだ情報を精査している。
出走者情報をタブレットで見ると、
"――やっぱりというかそりゃ来るよねぇ――"
逃げに近い位置に居て先行しさらに突き放せる。こんなウマ娘がヨーロッパでの相手だったら嫌だなって思っていたところにこんなトンデモウマ娘が来たのだから、やはりルドルフの行き先は一筋縄ではいかなさそうだ。そして今回しかも
今の所それなりの数が集まっているが、おそらくここから当日回避がでて14から10名程度にまとまるだろう。
そして、かつてこのレースに日本から挑戦したある偉大なウマ娘がいた。その時の資料や独自分析したデータを揃え、こちらの準備は整っている。1か月前までに学園の対欧州向けの特設コースで目いっぱい作り込んで、7月頭からニューマーケットに入り、そこで最終調整をかけてマッチョでタフな女子だらけのヨーロッパでルドルフを勝てるように仕上げる予定だ。
きっと間に合うはず――間に合わせなきゃいけない。
ルドルフにヨーロッパの先頭の景色を見せるために私は来たのだから。
◆ ◇ ◇
――20××年+1 7月2日――
――現地時刻 午前9時手前――
――英国 時のはじまりの都 ロンドン――
ロンドンの空港に足を踏み入れたのが早朝午前7時頃。メディアはまばらで、そんな様子から私はまだ遠征のスタート地点にいることを認識させられた。
しかも数少ないメディアがいると思ったら、やはりトレーナー君目当てで前のウマ娘の話ばかり聞かれるのを見て、むっとしてしまったのは私だけの秘密だ。彼女の今現在のパートナーは私だと言ってしまいたかったが、その気持ちはそっと仕舞い今はロンドンの街並みを進む。
私が後に遠征にくる子達の為に資料を残したいと頼むと、頭に黒いウィッグを被り、瞳をコンタクトで茶色に変装したトレーナー君が、軽い足取りでロンドンの歩き方をかれこれ1時間教えてくれている。来たこと自体はあるのだが私が幼少期過ぎて、情報量は彼女の方が圧倒的に上だった。危険な所の基準や日本からの滞在者向けの食事処、そしてどの辺りが学生の滞在先に良いかなどだ。
『視線を浴びることが無いって久しぶりだわ』
『そうだね。私も久しぶりの感覚だ』
『そういえば幼いころに来たことあるけど回ってる所はダブってないですか?』
『前は幼過ぎてじっくり見れてないから新鮮そのものだよ。お気遣いありがとう』
『ならよかったです』
河口域英語で話すつばの広い白い女優帽をかぶったトレーナー君は、時折カジュアルな若草色のワンピースの裾をはためかせて少し前を歩いている。そしてスラックスにシンプルで大人なイメージの緑のトップス、そして色違いのグレーのつば広の帽子をかぶった私が後を追う。トレーナー君がスーツだと追われると思った我々は、空港を出る時にこっそり私服に着替えて出ることにしていた。
例年より雨が少ないと言われる今年のロンドン。
その乾いた風が頬を撫で首の両側面を通り髪を持ち上げるようにして流れていく。気温は高いが湿度がない。そのため風は涼しく感じ、飛行機での移動の疲労もない私の身体には寧ろ軽い運動が心地よい。
時々風景の中にトレーナー君の護衛が居るのが見え隠れしている。日本より少し彼女たちとも距離間が近い所に、ここが異国で環境が違うということを示していた。
そして誰かが水をうっかり零したらしく小さな水たまりが出来ている。
その近くを通ると、ロンドンの香りと言われるコンクリートの匂いが強く立っていた。その水たまりを通過した右手には壁が白い石材で出来ていている大きなホテルが1軒
この橋の真ん中に差し掛かった時、学校のチャイムのような鐘の音が響き始めた。まるでこの町がいまも時計台に刻まれた、かの女王の時代が息づき続いている事を示すかのように――。
『聞いた事あるでしょ? このメロディ』
トレーナー君がクルリと振り返りニコリと笑って音の出所を指さして私に語り掛けた。
『ああ。小学校のチャイムの音色と同じだね? 祖父と幼いころ訪れた際に聞いて驚いたが、曲名まで走らないな。なんという曲なんだい?』
『うーん。曲名って言う程なのか謎だけど、ウエストミンスター・クウォーターとかウエストミンスター・チャイムとか呼ばれてますよ。前者の名称が示す通り15分で1回、30分に2回、45分に3回で60分に4回鳴って1時間を表すそうです』
日本にはイギリスに倣った文化が数多く散見されるが、まさかこんな所にも影響があるとは初めて聞いた時は思いもよらなかった。そう感心しているうちにウエストミンスター宮殿――英国国会議事堂に付随した建物こと、先ほどのチャイムの音の元である『ビック・ベン』の目の前で立ち止まった。ネオゴシック調で作られた大きな文字盤の大時計は、大空を背景に天高くそびえ立っている。
しばらくじっと無言でお互いそれを見上げていると、トレーナー君の方が先に口を開いた。
『やっぱりじっと見ちゃいますよね。この大きな時計――』
『ああ、作った方々は凄いね。そしてこの議会所からいろんな物事が決まり、世界史に大きな影響を与えたとは感慨深いものがある』
『――他にもし見たいところがあったらあと1か所くらいなら回れますよ?』
一緒に時計台を観上げながらどこにしようか考えるように唸る。
『こことは逆だが今は資料館になっているという船が見たい』
『ああ、あの船ですね。いいですよ。バ道でいきますか?』
『折角のロンドンだから歩いていきたい』
『ふふ、わかりました』
私たちは見上げるのを止め来た道を引き返す様にまた橋を目指す。その途中日本からの修学旅行生と思われる学生の集団がバスから降りてくる横を眺めて通り過ぎ、のんびりと景色を楽しみながら他愛のない話を続けた。
『――今日のロンドンはいかがですか?』
『そうだな。まず色々と厚みを感じるよ。今からこの国の積み重ねてきた歴史に挑むのだという気持ちになり、身が引き締まる』
『そうよね。私もそんな緊張感を感じています』
追いつけ、追い越せと数多の国々が英国が作った道の続き目指し、そんな国々のひとつだった私の国の先駆者たちもこのような気持ちだったのだろうか……。そんな重圧が我々を包み、今月末にはこの国に勝負を挑んだ決着を見ることになる。
『勝ちましょう。近代レースの原点となったこの国で』
『そうだな。絶対に勝って帰ろう』
今少しだけ目の前のトレーナー君の心がより強く成長している気がした。
そして白い個体を含む鳩の群れが我々の近くを舞い飛び去っていった――。
◇ ◆ ◇
――20××年+1 7月2日 20時頃――
――ニューマーケットの借家 書斎――
夕方にすでに荷物が運び込まれた滞在先の
妹がここに居たらきっと大はしゃぎするだろうなと思いながら、それからすぐに衣類をクローゼットに仕舞ったり、魔女が箒で宅配する映画などに出てきそうな内観のキッチンで一緒に夕飯を作った。
それから入浴して私は深い緑のナイトウェアに着替え、お互い書斎にこもって私は生徒会、トレーナー君は財閥の仕事をこなし、先程『紅茶が飲みたくなっちゃった』といって彼女はキッチンに向かっていったのが30分前になる。
読みかけの本に栞を挟み、背中を伸ばす。自分もコーヒーが飲みたくなったのでトレーナー君を追ってキッチンに向かうべきかと思案していると――。
『ルドルフー。開けてくださーい』
ドアの向こうからトレーナー君の声がした。本を椅子に置いて出迎えると、引き立ての良い豆の香りがするブラックコーヒーと、ミルクティの香りと共にトレーナー君が顔を出した。どうやらお盆を持っているためドアを開けられなくて困っていたようだ。
「休憩にと思って持ってきたんです。どうかな?」
「気遣いありがとう。丁度コーヒーが飲みたいなと思っていたところだから助かるよ」
白いナイトワンピースに薄手のショールを纏った彼女が入室し、テーブルとソファーが置かれたスペースにテキパキと配膳をしてく。
食器類は『不思議の国のアリス』のような絵柄揃えられ、お茶請けとしてニンジンチョコチップクッキーが皿の上に綺麗に並べられていた。
トレーナー君がソファーの隣に座るのを待ってから、『いただきます』と述べてからコーヒーに手を付けた。
クッキーをかじると軽くトーストしなおしたのか、サクサクと軽い口当たりに少し柔らかいチョコが口の中でさっと溶けていく。そしてコーヒーを一口飲むとチョコレートによってよりコーヒーの美味しさが引き立っていく。
「レースについて何か新しい情報はあったかい?」
「予想通り
「ありがとう。マークしている相手と同じ場所にいるということは、敵状視察には丁度いいね」
力量の差はあるだろうが、それに追いつけなければ勝利はない。目の前に越えなければいけない相手が居ればそれはより具体的なヴィジョンに繋がるだろう――。
「そうですね。あともしかしたらルドルフのお祖父様の知り合いも訪ねてくるかもしれませんね? 以前伺った貴女のご家族に関する話から察するに、こちらの関係者にもお顔が広そうですし」
「ふむ、知り合いが多い祖父ならば、そういった人脈を持っていてもおかしくはないか。君が作ってくれた貴族と資本家リストは暗記済みだし、あとは来訪者のためのマナーも再度見直しが必要か」
彼女が言うように私の祖父は幼いころの私をよく海外に連れ出して大舞台を見せてくれていたし、そんな祖父の知り合いが応援がてら訪ねてくる可能性は非常に高いだろう。
ティータイムを終えた後2人で片づけて歯を磨き、読みたいが言語が古過ぎてわからないレース史の本をトレーナー君に渡し、解説付きでそれを読んでもらい、眠くなったところで同時に床に就いた。
警備の対象が分散しないための都合上、隣のベッドで寝ているトレーナー君は瞳を閉じて3秒以内に寝落ち。相変わらず夢の中へのスタートダッシュは私よりも早いなと思いながら、ベッドライトを完全に消して翌日へとコマを進めた――。
◇ ◇ ◆
――20××年+1 7月3日 11時頃――
――ニューマーケットの借家――
翌朝、隣家に住む大家さんが昨日食べたクッキーの差し入れに来てくれた。
大家さんは世界一過酷なレースで有名な
大家さんはニンジンチョコチップクッキーを焼くのがうまく、『クッキーおばあさん』と近所では呼ばれているらしい。忙しい時に我々の為に夕食を作りに来てくれるそうで、トレーナー君曰く『クレアさんの料理は味もバランスもいい』そうだ。そしてイギリス料理の洗礼は受けないだろうと断言された。得意料理は先述のもの以外だとビーフシチューだそうだ。
ここに出入りするのはこの大家と料理以外の家事をしてくれる使用人のフリをしたトレーナー君の護衛が4名。護衛達は同じ家の中に交代で詰めているようだった。
大家さんが帰った後、広い庭で軽くストレッチと運動をして指定時刻内に戻ってくると、トレーナー君がキッチンでお昼ご飯を作っており、その入り口から声をかけると彼女は作業の手を止めてこちらに微笑んだ。
「おかえりー。ご飯前にシャワーどうぞ。天気がいいしお庭でランチはどうですか?」
「そうだね、そうしようか。お言葉に甘えてシャワーを頂いてくる」
硬水で髪が痛むかと思いきやシャワーにはミネラル除去装置がしっかり備え付けてあったらしい。試しに腕をドライヤーで乾かしてもこの地域の水質特有の白い粉が浮き出ることはなかった。それに安心して髪の毛を乾かしていると、時刻は12時を少し過ぎたあたりとなっていた。シンプルなトップスとゆったりしたボトムに着替えて窓から庭を覗くと、トレーナー君がこちらの視線に気づいて手招きをしている。
古めかしい木製のドアを開け家を出て庭に出ると右端に低い赤レンガの塀が連なっている。その先には元々ここが2世帯住宅だったため似たような外観の大家さん宅の様子が見え、その庭にはテニスコートが増設されている。そしてそこで孫と思われる小さな子ウマ娘達が、はしゃぎながらテニスをプレイしているところだった。
トレーナー君の居る地点まで数歩という所まで近づくと、ケヤキのような枝葉の広がり方をしているオークの巨木の元に、絵本の挿絵に出てきそうなピクニックスペースが出来上がっていた。そしてその隅に涼し気な水色のカジュアルワンピースの裾を広げて、髪を軽く低い位置にシュシュで結っただけのトレーナー君が座ってカラトリーの準備をしている
「食事の準備をありがとう。気温は高いが木陰は涼しいな」
「意外にも湿度はないですからね。今年は特にからりとしているらしいですし」
「そうだね。君が2度あることは3度以上あると言っていたのは大当たりだ。さて、お昼のメニューはサンドイッチかい?」
「ええ、ローストビーフのサンドイッチとタラのフィッシュサンド、そして生食オッケーな鶏卵で玉子サンドを作ってみました。あとはコールスローサラダに、フルーツ盛り、大家さんおススメの葡萄ジュースです」
この国で伝説となったウマ娘が立ち上げた食器ブランド特有の、ジャガイモの花や実があしらわれたの大皿の上にはサンドイッチがこれでもかとてんこ盛りになっている。
「なんだか海外のドラマみたいな豪華な食事だね」
「折角なので雰囲気を出すために頑張ってみました。投稿用の写真は撮りますか?」
「そうだね。折角だしHorsebookにあげておこうか」
「あれ? いつの間にSNSを替えたんですか?」
「色々試してみたのだが、億劫だししっくりこなくてね。かといって仕事柄全く発信しないのは痛手なので君と同じHorsebookに落ち着いたよ。公開範囲も選べるのがいいね」
ウマッターにある生徒会用の広報アカウントとは別に作ったHorsebookには、日々の大切な思い出を日記のように記録している。以前はSNSは億劫で仕方なかったのだが、残したい大切な思い出が増えてこうして投稿も自然と増えるようになった。『無事拠点の準備が終わってこれからお昼だ』という内容を投稿し、スマートフォンを閉じて用意されていたおしぼりで手を拭く。
「ところで君はいつもの飯テロとやらの投稿はしないのかい?」
「ふふ、すでに撮影済みです」
「抜かりはなかったようだね」
トレーナー君の投稿の大半はセレブっぽい豪華な暮らしぶりではなく、主に食事の事が綴られている。お菓子が美味しいというのならまだ可愛いが、深夜に夕食時に肉を焼いていた動画を投稿するというイタズラが殆どだ。その所為で減量したいウマ娘たちから彼女のHorsebookは発禁モノ扱いを受けている。
そして料理の写真を撮影しHorsebookにあげていると、トレーナー君はガラスのピッチャーから赤ワインの様に芳醇な香りのする葡萄ジュースと、水を別々のガラスコップに注いでくれていた。そしてお互いに食前の言葉を交わし目の前の馳走に手を付ける。
まず味の優しそうな玉子サンドを口に頬張ると、粗めに潰した白身と細かい黄身の触感。程よい塩加減とマヨネーズの酸味が疲れた身体に染み渡る。
これを食べ切り水で口の中をリセットし、今度はタラのサンドイッチに手を付ける。玉葱の触感が残るタルタルソースにサクサクしたきつね色の衣の白身魚、それらが新鮮な野菜の旨味とパンの甘みと合わさり、味と共に鼻腔に最高に香ばしい香りが広がる。また水でリセットしてぶどうジュースを飲み、今度は西洋絵画のように盛り合されたマスカットを食べようと手を伸ばしたところ――。
「お、大家さんVSお向いさんだ。これは面白い試合になりそう」
トレーナー君の視線の先を追うと、ふたりの高齢なウマ娘がラケットを片手に子供たちと選手交代をしてテニスコートに入っていくのが見えた。
「ふむ。それはどういった意味で言っているんだい?」
「ふふ、見てたら分かりますよ」
答えを教えてくれないトレーナー君は優雅に葡萄ジュースをあおった。不思議に思いながらもコートに視線を戻す。そして先攻となった大家さんがサーブをしようとボールを上げ――。
そして考えられない勢いでラケットを振り降ろした! とんでもない速度でボールは相手コートに飛び込み、お向いさんもすかさず打ち返すがどちらも高速かつ激しい打ち合いだ。まるで少年誌のスポーツマンガのような様相を醸し出している。
目の前で繰り広げられるバトルアニメのような光景が、あまりに衝撃的過ぎてマスカットの粒を落としそうになる。そして視界の端でクスクスとトレーナー君が笑いをかみ殺していた。時間指定したことや、この様子から察するに――。
「トレーナー君。はじめから展開を予想して庭に出ようとしたんだね?」
「ええ、大家さんが今日テニスをすると知っていたのでわざとです。この方がヨーロッパが魔境だとひと目でわかると思ったもので。大家さんの経歴は既にお話ししましたが、お向いさんは英国3冠キャリア持ちです。ここ一帯に住んでいる住民のほとんどは元レジェンドばかりなので、世間話でも参考になるのでおススメですよ」
「なるほど。それは良い事を聞いた。しかし本当にすごい身体能力だ」
一体どうトレーニングしたらあんな身体能力になるんだと、思っていると視線の先の庭の端にある茂みの下にタワシのようなものが数匹動き回っているのが目に入った。思わず目を丸くして耳がピンとなってしまうほど驚いた私は耳と尾の毛を逆立てながら見つめていると――。
「ええ。皆さん生半可な鍛えられ方をしてませんから。明日からはウォーレンヒルでトレーニングって……ルドルフ?」
「ああ、すまない! タワシのようなものに気を取られていて」
トレーナー君も私の視線の先を見て、ああと微笑んだ。
「ハリネズミさんですね。本来夜行性なのですが、ここの近所ではハリネズミさん達を可愛がっている方が多く、警戒心が薄れて昼間でも偶に動いているそうで」
「そうだったのか。ふふ、可愛らしいお客様だね」
よく目を凝らしてみると確かにハリネズミだ。その小さな住民たちはツンと尖った鼻先で一生懸命昼食を探して動き回っている。
「ええ、近くで見るとクリクリのおめめがとても可愛いんですよ。先程の話に戻りますが、明日はウォーレンヒルという坂のコースでトレーニングをします。しっかり鍛えて仕上げて本番に臨みましょう」
「世界一と言われる坂のトレーニングコースと聞くし楽しみだ。そこで心身ともに鍛え抜いて、今日までの
そしてまたお互いに食事に集中することにした。
その後一緒に食器類を片づけてハリネズミを観察したり、本を片手にのんびり過ごし、隣に座っているトレーナー君はタブレットで飛び入りの仕事をこなしている。
時折顎に手を添えて考えるその横顔、大財閥の幹部に相応しい彼女の姿を見ているのはとても好きだ。自分もいつかこんな風に働けたらなという、そんな憧れにも似たその気持ちで見つめていると、視線に気づいて彼女が困ったようにはにかんだ。
「そんなにじっと見てどうしたんですか?」
「いや、何。仕事をしているときの君の表情はとても様になっているなと」
「ふーん。皆同じこと言いますけど、そんなに仕事中だと私の雰囲気は違うんですね」
そういってまたタブレットに目を落とし、その筆1つで
その横で私は周りの景色に目を移す。すると小鳥の水飲み場に鳩サイズのオレンジの嘴に黒い体、白いアイラインで囲まれた目が印象的なブラックバードが止まり身体を洗った後に囀りだす。
そして本を脇に置いて瞳を閉じ、耳から入る情報に意識を集中させる。葉のすれる音、様々な鳥たちの声や生活音に耳を澄ませてからごろりと寝転んで上を見上げると、木漏れ日が枝葉の間から輝き何とも美しい。
ウサギを追いかけてはじまる不思議な世界の物語も、こんなまどろみの中が始まりだったかなと考えている内に欠伸が出てやがては微睡んで――。
次に目を開けたときは陽の光がさらに強く、時刻は体感的に15時ごろくらいだろうか? まぶしさに瞼をいったん閉じて、もう一度ゆっくり開けて光に慣らしてく。
"――うっかりうたた寝してしまったか――"
いつの間にかタオル生地のブランケットがかけられており、視線の先には借家を背景に草地に座り込みトレーナー君が小難しい顔をしながら、シロツメクサを編み込んで花冠のようなものを作っているのが見えた。
日に当たって青みががった黒髪の煌めきが強く輝いている彼女に対し、何だか別世界の者のような雰囲気を感じてしまう。それは彼女がトレーナーをやっていなければ、出会う確率が低い存在だからこそ強く感じるのだろうか――。
自由かつ大抵の物事を実現できる力と実力があり、私が欲しいものを全て持っている。そんな彼女をどうにかして卒業後にも自陣へ引き入れ続ける事が出来ないか? と考えてしまうが今の所その方法は見当たらなかった。
彼女はただ『外野に邪魔されずに家族と一緒に居たいだけ』『自分を育て、慕ってくれる者たちのため』だと欲のない事を思っているのみで権力に執着が無く、それがかえって利用しようとする野心家から身を守る鉄壁の盾となっている。
そうなるとビジネスを引き合いに出さねばならないが、その交渉カードを今のところ私は持ち合わせていない。
そして私が
"――そして自分の覇道に本当の意味で巻き込めば、彼女を悲しませることも増えるだろう――"
本当の意味での支援者になってもらえれば、確実に夢が実現するだろう。けれど、きっとその道半ばで沢山傷つけてしまう。以前の自分なら躊躇なく声をかけていたが、今は違う。自分の所為で心を曇らせたり、余計な心痛をさせたくない。内心は複雑だ。
やっとできた! といった表情をしたトレーナー君の手に、少しだけガタついた花冠が完成していた。こちらに戻ってきそうな気配を感じたため、寝返りを打ち狸寝入りを決め込んだ私はまた瞼を閉じていると――。
左の耳を中心に何かが頭の上にのった。多分花冠を乗せたのだろう。その温かな心遣いからくる行動を受け、良心が強く咎めてくる気がした。
そして、何となくくすぐったい気持ちになった私が起き上がる。すると、トレーナー君は両肩を跳ね上がらせて目を丸くした。
「あ、ごめんなさい! 起こしました!?」
「いや、少し前から起きていたよ。君がどうするか見ていた」
「あちゃー……それはお恥ずかしい」
耳に引っかかるように斜めに掛かっていた花輪を手に取ると、かなり不器用な仕上がりで思わず笑みがこぼれる。
「花の冠か。子供の頃に作ったきりだが、昔は姉や妹たちとよく作ったものだ」
「そうなんですね。シロツメクサを見て懐かしくなって作ってみたけど、上手くいきませんでした......」
「なるほど。では気分転換に私も作ってみるから、もう一度作らないかい?」
「そうですね。折角ですし」
立ち上がってトレーナー君の手を取って立たせてシロツメクサが多い部分に座り、作り方を教えながら編み続ける。時々四葉のクローバーを見つけては編み込み、満足のいく仕上がりの花輪を彼女より先に完成させた。
「やっぱり仕上がるの早いなぁ」
「ふふ。続けていれば上手くなるさ」
完全に引き入れてしまえば、こんなにも穏やかな時を過ごせなくなるのも惜しい。
そして何となく完成したそれをトレーナー君の頭に被せ――。
「こういったものはやはり君のほうが似合うね」
「そうですかー? でも、ありがとう」
歴史上、美しき者に狂わされた為政者は数多くいる。彼らも今の私の様にただ安らかな日々を手放すのが惜しくて壊れてしまったのかもしれない……。
トレーナー君の整った横顔を眺めながらそんなことを考えていると彼女が作っていた花冠も遂に完成した。そしてそれを胸の前に両手で持って私に微笑みながら――。
「さっき私のほうがってルドルフは言ってたけど、私は知ってますよ。貴女が笑った顔ってとっても可愛いんです。だから似合わないなんてことはありません。それに皇帝なんだから冠はなんだって似合うはずですよ」
恥ずかしげもなくそうトレーナー君は笑みをうかべ、私の頭にそっと最初にできた冠と合わせて2つの花冠をかけてくれた。
「君は本当に何のためらいもなく照れるような事を言うね」
「えー。貴女も私をからかって恥ずかしいこと言うじゃないですか。お互い様ですよー!」
そしてこの様な軽いやり取りが少しずつ得意になっていくのも、レーナー君のお陰なのかもしれない。
片手で額を押さえて胸中からあふれ出る照れ臭い感情を隠したいが、思わず笑みを浮かべてしまう。褒められたのが嬉しくて、なんだか照れ臭くて、そんな気持ちのままポケットのスマートフォンに手を伸ばした。
「折角だし非公開の写真を残してもいいかい? 帰ったら印刷してアルバムに張ろう」
「いいですね。普段とまた違った感じの写真があるのもいいかもしれません」
そうやってまずトレーナー君の写真を1枚、私の写真は2人でインカメラで撮影し終える。
またひとつ、大切な思い出が増えた――。
今回のレースを勝ってヨーロッパの中距離王の座を手に入れて、彼女の代表ウマ娘だときちんと西洋に認識させる。既に先頭を走る君に少しでも届くようにやはり手を伸ばしたい。
協力者に引き入れたとしても、絶対に不幸な目に合わせたり悲しませることが無いように力をつければ問題ない。
そう、――私が強くなれば問題はないはず。
結局私は欲張りなんだ。この大切な時間も、力も全てが欲しい。恐れる事よりも先に出来る限り実績を積み重ね、それから財閥令嬢としての彼女に声をかけることを考えよう。
「ルドルフ? なんだか真剣な顔しているけれど、どうかしましたか?」
私の心から波立つ気配を素早く察したトレーナー君は困った様な表情を浮かべていた。
「ああ、少しレースの事を考えていたんだ。さあ、夏とはいえイギリスの夕方は日本よりも涼しくなる。環境の差で風邪をひくまえに中に戻ろうか」
そういって本心を誤魔化し、私の言い訳にすんなり納得した彼女と室内に戻ることにした――。
次はレース回となります。
頑張って1週間以内でいきたいですね。
資料の入手に苦戦しましたが、雰囲気出せるように構成頑張ります。