スタートから8月末日(◇◆◇)までがトレーナー君視点。
8月末日(◇◆◇)以降ルドルフ視点です。
いつも通りやばそうだなと思う名詞は置き換え作戦でGOGOです。
それではどうぞ
それで―――と思っていた。
―――だと、――――――。
――20××年+1 8月1日 午前5時――
――日本トレセン学園合宿施設――
薄手の夏布団を蹴り上げて跳ね起きベッドに身体を起こした私は布団を握りしめる。
そして生暖かい海水に浸かっていたような不快感が、額、背中にと神経を逆なでながらつたっていく――。
「…………」
それがタダの夢だという状況を把握し、次に沸いたのは理不尽な夢見に対する沸々とした怒りだった。
"――っ! 冗談じゃないっ!――"
とても嫌な内容だ。
何のレースかはわからないが、大事なレースの直前にルドルフが体調を崩し、結果奔走するという不吉すぎる上に妙に鮮やかな映像。
まるで最初から定められた運命に翻弄されていたかのようなそれらの流れを思い出し、歯が擦れて音が出るほど噛み締める。そして制御をはずれた感情が暴れまわるまま拳を壁に叩きつけようとした。
しかし感情の激流の中に引っかかって残っていた僅かな理性で踏みとどまり、肺の中に一呼吸。大きく吸い込んでは吐いて、吸い込んでは吐いてそれを冷ます。
私の引き攣った感情のままの喉はやや過呼吸気味に音を立てつつも、少しずつ少しずつ感情の波を押さえる。そして精神内の深い部分までを抉るように突き刺さった記憶の楔をそっと引き抜いて、その痛みによって失われた冷静さを取り戻してゆく――。
レースには絶対などない。落ち着け、落ち着けと、暗い淀みから水面に向けゆっくりと上がっていくように掛かり気味の自分の心に強く言い聞かせる。
胸糞悪いその余韻が、そしてその痕から流れ出る感覚が無くなるのを待っている間に呼吸もやっと心に追いついた。
落ち着いた所でベッドサイドに置いてあったタオルで軽く額の汗をぬぐい、ベッドの頭側についた緑のデジタル時計は午前5時半を示していた。早すぎる起床だがでは二度寝できるかといえば、今はそんな気分には到底なれなかった。
そしてベッドから降りてふすまを開け、前元号の残り香を思わせる内装の室内を進み、入り口脇にある冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。
それを一気に持ち上げ、さっきまでのふがいない自分に浴びるせるように飲み干して、ボトルを冷蔵庫の脇にあるごみ箱に、そっと片手で放るように捨てた。
ベタ付いた汗ごとすべて流してしまうため、シャワーを浴びて切り替えよう。
備え付けのユニットバスに向かう前に、着替えを取りに寝室へと戻っていく――。
◆ ◇ ◇
――20××年+1 8月1日 午前9時半――
――日本トレセン学園合宿施設周辺――
イギリスからとんぼ返りしたルドルフは身体を休めつつ生徒会の仕事をこなしている。
私はというと彼女が休んでいる間明日から追加の仕事が入っており、その下準備の作業をする間に楽しむための飲み物を買いに外出していた。
合宿寮のある方向の海辺を背にまっすぐな道を歩く両サイドには森が広がっている。
そして目の前にはまだ午前中だというのに、アスファルトの上には湯気のようなモヤがかかり、道路に汗が滴れば即乾いてしまう有様だ。
夏合宿でのトレーナーの服装は暑さのため私服またはクールビズでいいらしく、私の本日の服装は髪はポニーテールにまとめ、ジーンズのショートパンツにタンクトップ。そして日焼け止め用にシースルーの白シャツを羽織ったコーデにしている。靴も海辺にも近づくため濡れてもいいマリンシューズといった具合だ。
そしてイギリスでのレース後にふらつくルドルフに慌てて駆け寄ろうとし、派手に転んで作った痣の上には
"――こんな環境でも問題なく歩けるのには感謝したいわね――"
流石に仕事があるときは車を使うが、砂漠暮らしに特化したアハルテケ由来の体力によって私はこの環境でも少し暑いかなくらいの感覚で過ごせている。
そして前世の世界の馬たちは暑さをあまり好まないはずなのだが、この世界のウマ娘は人に近いのか比較的暑さにも耐性があるようだ。こんな最強生物と共同生活をこなしているこの世界の人類のコミュニケーション能力は、私のいた過去の時代よりも卓越しているのではないだろうか? あるいはウマ娘達が基本的には平和主義なのが幸いしたのであろうか、いずれにせよ両ご先祖様たちの努力は並大抵のものではなかっただろう。
"――まあそれでも今年の熱波は要注意なんだけどねぇ――"
春先の寒波を過ぎ、イギリス同様日本も少雨かつ猛暑日が続いていた。
特に北海道の網走では5月から少雨が続き、7月後半から深刻な干ばつ被害が出ている。このまま同地に雨が降らなければ農作物は深刻な打撃を受けるだろう。国内では夏をまたぐ米や果樹などが不作になることが大いに予想される。
そのさらに北方に位置するロシアも深刻な高温と乾燥に晒されており、今年は世界的に雨が降り過ぎたり降らなさすぎたりといった具合らしい。
そんな過酷な環境のように引き受けた業務内容もまた難儀なモノだった。
それは選抜レースで選ばれていない子達の内、『最下位』6名を引き受けこの子達が合宿を終えるまでに目に見える形で競争成績を向上させるというミッションだ。
海外遠征後とはいえ帰ってきたからには仕事をしなければならない。休んでも良いとは言われたが、これは逆に『たまたま良いウマ娘に巡り合った』と侮られている実力をきちんと示す機会となるだろう。私を連れて来たルドルフの為にもその評判は早めに潰しておきたい。
月末の残り1週間からルドルフが合流するのでどちらもこなさなければならないが、ルイビルではディーネ以外の子達の健康管理も引き受けていたのできっと大丈夫だ。
それに引き受ける生徒たちは『競争成績不振』だとしても、そもそも中央に来れるだけの実力が確かにある。ならきっとそれを引き出すための突破口があるはずだ。その成績不振の原因を探るために午後からは6人分のデータサルベージを行わなければならない――そんな感じで中々に骨が折れる状況だった。
夏の深い緑に染まる森林を背景に、道路脇へと設置された赤白赤という風に3つの自動販売機が並んでいる。そのうち右端の赤い自販機の前に立ち小銭を金属音を立てながら3枚投入した。
レモンが大きく印刷された銀色の缶が特徴的なレモンサイダーをひとつ買い、次に部屋で飲むためのコーラのボトルをと再び小銭入れを覗き込む。
その時だった――。
「オイ」
あまり聞き覚えのない声が私を振り向かせる。
右に視線を移すと学園の生徒と思われる赤い体操服姿の、ルドルフより少し身長の高いウマ娘が寮の方向の道路の端っこに立っていた。
その容姿は外はねの黒髪に特徴的な分け目、ロングのウルフカットだろうか? 眉は細くその端がまばら――その上には何やら金属の丸いアクセサリーが向かって右側に2つ。そしてやや細めのウマ耳とロックな空気の漂う眉の上のそれによく合う耳飾り――。なんとなく気難しさというか、威圧感は感じるものの顔つきはとても可愛い子だ。マリーゴールドを思わせる黄色い眼もパッチリしていて……。
"――確かこの子は――"
「貴女は確かよくファインモーションとラーメンを食べに行ってるのを見たことがある様な? ……あれ? 光ってるのも見たことがあるけど、確か初めましてな様な……? うーん……」
「ったく、殿下サマとダチなだけあって妙な覚え方してンな。――エアシャカールだ。初めましてお嬢サマ」
私が首をかしげて尋ねると、エアシャカールはめんどくさそうに視線をそらし片手で後頭部を搔きながらそう述べた。
「直接話すのは初めましてですね。――私に何か御用ですか?」
「話が早くて助かる。単刀直入に言うとアンタの持っているアスコットのデータが欲しい」
「あー。そういう事でしたか」
「支払いはアンタ相手じゃデータじゃ無理そうか。いくらなら取引に応じてくれるンだ?」
そういえばよくアグネスタキオンと、ああでもない、こうでもないと昼休みに議論する風景を見かけているからこの子はデータから入るタイプなのだろう。
シースルーシャツのポケットにジュースを入れて私はスマホの電卓で相場通りの値段をわざと出してみる。何故そうするのかは、この子に大切な情報を与えるに値する判断力があるか、そこを見極めるためどのような反応をするか知りたかったからだ。
「――ではこのくらいで如何ですか?」
クイクイと小さく手招きをしてそれを寄ってきたエアシャカールに見せる――当然学生では払える値段ではない事で、彼女のウマ耳は士気が落ちて前に下がり頭を抱えた。
「――やっぱ高っけェ……」
「編集前の全データとなればこんなものでしょう」
「違いない。想定が少し甘かった……予算が微妙に足りねェ」
「おいくらくらいですか?」
「諭佶がこンくらい足りねェ」
"――お? 大体相場通り用意してたんだ――"
指で足りない数を示す彼女が用意していた予算はほぼ相場通りで諭佶数名程度の範囲内だった。
貸しを作っておこうと考えた私は、この勉強熱心な学生に向け笑みを浮かべ返事を返した――。
「――ですが。バイトをしてくだされば、全てタダで差し上げてもいいですよ?」
そう伝えると片手を頭に当てて俯いていたエアシャカールの耳が期待しているのか大きく動き前を向いた。目は見開き希望に満ちた顔をこちらに向けて食いついてくる――。
「いいのか!? で、どンな内容のバイトだ?」
「ええ、忙しくて誰かの手を借りたかったところでして。貴方に依頼したいのは数名のデータサルベージです。ある6人のウマ娘のレースデータを出来る限り集めてください。この子たちなんですが――できますか?」
そういって私はスマホを操作して明日から夏季集中トレーニングを担当する子達のリストを表示した。するとエアシャカールは拳と手のひらをばしっと合わせて気合いを入れ。
「問題ねェ――学園に居るやつの分なら全てある。半人半バのアンタが学園で激走したのも含めてな」
「あー……あれですか。それは覚えてなくていいんですよ?」
クツクツと笑いをかみ殺すエアシャカールによって、今度は私が恥ずかしい暗黒史を掘り出されて頭を抱えた。その様子を見て彼女は鼻で軽く笑った後――。
「走れないより走れた方がカッコイイし気にすンなよ。――納期は今日の夕方までにいける。夕飯時に引き渡しでいいか?」
「ええ。それだけ早いなら簡単な解析メモ等をつけます」
「いいネェ! 自分でデータは吟味する派だが、アンタが分析したっていうんなら参考になる。欲しい」
「ではきまりですね。では緊急連絡用にLEADは交換しておきましょうか」
私がスマホからLEADを開きQRコードを出して、エアシャカールがそれを彼女のスマホで読み取らせた。そして彼女が登録操作している間に自販機でコーラの缶を買い『いる?』と尋ねると、彼女は小さく『おう、サンキュ』といってそれを受け取った。
そして『約束忘れンなよ!』といって私に背を向けて合宿寮の方に駆けて戻っていく。その背中を見送ったあと私は自販機にお札を入れ、ボトルコーラのボタンを押した――。
◇ ◆ ◇
――20××年+1 8月末日 午後17時50分頃――
――合宿施設近所の夏祭り会場――
月末の夏祭りに向かった生徒達のうち、トレーナーが帯同していない者はきちんと門限通りに帰るよう促すためジャージ姿でこの祭り会場を見回っていた――。
そんな私の次走は9月末に行われる菊花賞の前哨戦『GⅢ セイクライト記念』で、その翌日からフランス入りして『凱旋門賞』に挑む連闘。その準備のために8月半ば過ぎから慎重に始動し始めている。
レースに出る我々の脚はガラスによく例えられる。そして身体の方も競技やトレーニングで酷使すれば、免疫力という意味での『防衛体力』が落ちていく。――適度な運動は防衛体力を高めるが、過ぎたるは猶及ばざるが如し。
トレーナー君はこの難局を上手く乗り切るため、実家の医療スタッフにセカンドオピニオンを出し十分な対策を打っているようだが……。
ひとりでいる時の彼女の横顔に何か強い懸念の陰が見えた――それは気のせいだろうか?
ネガティブな思考を振り払うため私は辺りを見回した。まだ薄い水色の夏空には夜の影が少しかかり始めている。その空に屋台や提灯の朱のコントラストがにじみ出てることで、どことなくハレの漂う気配を醸し出していた。
右を見れば屋台の赤いりんご飴に私の顔が反射しており、左を見れば鉄板で良い音を立てて焼かれる焼きそばの屋台。
その少し先ではこの祭りの空気を祝うかのように瓶がぶつかり、乾杯するかのような良い音を響かせていた。瓶入りのサイダーが次々と売れ、
そして頭上の両耳には祭囃子やはしゃぐ者たち。
"――トレーナー君がこの光景を見たら新年の時の様に、きっと心を奪われているのだろうな――"
ふと新年に感動の音を心に強く響かせたような彼女の姿を思い出した。白い息を吐き、エメラルドが零れ落ちてくるよう瞳を見開いていた姿が印象的だった。
空をそのままリフレクションした湖のように、全てを心に素直に映し受け取っているかのように見えたあの様子。――その爽快な感情の波打ち際に立ってみている私の心も洗われるようであった。
しかし残念ながら今回はトレーナー君側の都合が合わず共に祭りを楽しめない結果に。寮でいまも頑張っている彼女へ何か差し入れでも買っていこうかと思案していると――。
「――」
何か聞こえた気がして振り返ると、ブライアンとエアグルーヴの2人がいた。
「すまない、少し考え事をしていてね――呼んだかい?」
「ええ、こちらの見回りはほぼ完了しました」
「こちらも終わったよ。2人は先に帰っていてくれ」
「わかりました。ではお先に失礼します。お疲れ様です」
エアグルーヴは先に会場の出口へと向かっていき、その後をブライアンがゆっくりと着いていくのかと思いきや、長細い茎のついた葉っぱをいったん口元から外して私の方を向いた。
「――土産を買うならお嬢様はりんご飴とラムネがいいそうだぞ?」
「? ブライアン、何故君がそんなことを知っているんだ?」
ブライアンは普段誰ともつるまず一匹狼なきらいがある。しかし、トレーナー君とは姉のビワハヤヒデとの交友関係がある故に冗談を言ったり比較的距離は近い。そして面倒見のいいブライアンは、私やトレーナー君の様子を実は何かと気にかけてくれていることが多い。だがそれでも一定の距離感がある。
なぜトレーナー君が欲しがっているお土産をを知り得たのか、ふと気になって尋ねてみた――。
「施設を出るときに独り言が部屋の窓から駄々洩れしていた。声、位置と内容からしてあのお嬢様以外ありえない」
「なるほど。ありがとうブライアン」
「大方さっきもお嬢様の事を考えていたんだろう? ――そんなに大切なら早くいってやれ」
ブライアンは呆れたように軽く眉を寄せてから片手を上げる。そして葉っぱを咥え直した彼女は祭りの通りに溶け込んでいった。どうやら先ほど思案していた内容がばれるほど私の顔にそれが出ていたらしい。
そんな自分に対して『困ったな』と独りごちり、気を使ってくれたブライアンに感謝した。そしてトレーナー君への土産を買うため屋台を巡りはじめた――。
◇ ◇ ◆
――20××年+1 8月末日 午後19時半――
――日本トレセン合宿施設 宿泊棟――
土産の入った袋を片手に玄関で靴をスリッパに履き替える。廊下の突き当りを曲がるとひとり掛けのソファーと椅子が並ぶ大広間に出た。
すると館内着の浴衣と羽織姿のトレーナー君が、その広間で夏合宿の後半に担当した生徒たちにA4くらいの茶封筒に入った何かを配布していた。
『はい。これは引継ぎ資料です。もし正式な担当トレーナーが決まって、そのトレーナーさんが望んだら渡してください。成績向上おめでとうございます』
『――ありがとうございます! これで少しは姉に顔向けできるといいな……』
いい報告ができると嬉しそうにする生徒達とトレーナー君を遠巻きに、そっと聞き耳を立てる。
トレーナー君はGrand Trainerとしての先日の模擬レースで才気を発揮しており、それは彼女が金で地位を買ったとか、お飾りだという良くない噂を全てを一掃したのだった――。
参加者は全員トレーナーが居ないウマ娘とはいえ、競争成績が振るわないメンバーのチームを率いての上位通過。個人成績も躓いていたところを全て指摘して直させ、いい所まで走れるところまで持ち直させたのだ。それは最早教え上手という領域を超えている。
さらに日本トレセンに来た当初から育てている医療スタッフ達は技術が格段に向上している。そしてオルドゥーズ財閥に発注した基幹システムにより、作業効率が上がり充実した日々を過ごすスタッフも増えていた。
現在学園の士気は我々の海外勝利を受けて非常に高く、まさに繁栄の絶頂と言ったところ。土の名を冠するGrandのトレーナー君は、この学園に日々大きな実りをもたらしている――。
トレーナー君は胸の前で手を軽く2回叩いて鳴らし、はしゃぐ生徒の注意を自分に向けさせた。
『諦めない限り道は続きます。日々の積み重ねを忘れずに、ですよ。さあ、あともう少しで花火が見られます。遅れないように解散しましょう。1ヶ月間の強化合宿お疲れ様でした』
『お疲れ様でした!』と威勢のいい返事が数人の生徒達からあがり、話が終わって私に気付いた生徒たちはこちらに微笑んでから『会長が待ってますよ!』とひとりがトレーナー君の肩を叩いて楽しげなステップ踏みながら去っていった。
「おかえりルドルフ」
「ただいま。休憩にいかがかな?」
そういって私は袋に入ったラムネとりんご飴を出して見せる。するとトレーナー君は瞳を見開いて瞬きをした後首を傾げた。
「欲しいものがピンポイント過ぎてびっくりなんですが……」
「実は最近君が食べたいものが分かる超能力とやらを怪しいサングラスの女性から頂いてね?」
校内で最近目撃されるという不審者のせいにしてふざけていると、トレーナー君ははっとしたあと眉をハの字に寄せて慌て始めた。
「……え。それは困る! 困ります! おやつ用に買ったカップ麺の2杯目を私が食べたいなと思ってるときに、貴女にばれちゃうじゃないですか……!」
「まさかと思うがダメだよ? 気持ちは分かるが1日1杯までのルールは厳守だ」
「うう、手厳しいです。――それで本当の所は?」
「君のボヤキが外に駄々洩れしていたのをブライアンが聞いていた」
「……うわぁ……それは恥ずかしいですね。そんなに大きな声だったかなぁ」
「声の大きさというよりは我々の耳が良いからというのが原因だろう。とりあえず君の部屋でこれらを賞味しないかい?」
「そうですね。移動しましょう」
しょげてしまったトレーナー君を促しスタッフが宿泊している棟を目指す。
木製の古い校舎のような合宿施設の廊下を進み、真ん中が通路としてコンクリ張りになっている渡り廊下を通る。その途中祭り会場の方向を見ると、夜の帳が完全におり切りそうな群青の空に向かい、祭り会場の明かりがにじみ出てとても綺麗だった。
虫の音が響く中、本館と同じような建物の廊下を進んでいく。そして木製の階段を3階まで上がってシンプルな白い合板で出来た扉の鍵をトレーナー君が空けて少し待っているように言った。
彼女が入っていったあと部屋の中からは紙のすれる音、本を重ねていると思われる音が響いている。きっと引継ぎ資料を作るために奮戦した惨状が広がっていたのだろう。1分ほどして音が止み、最後にカーテンを開けるような音がした。そして私に入るよう促す彼女の声が響いた。
スリッパを脱ぎ揃えて上がると、部屋の明かりが筒抜けな開けっ放しの襖が見える。そこを通って入った6畳ほどの部屋。その奥に窓、右手前にベッドがひとつあり、畳の床には座椅子とちゃぶ台のようなレトロなテーブルとその正面の左壁面に薄型の小さいテレビが一つ。すぐ戻ることを見越して室温は空調を点けっぱなしだったのか、全く蒸し暑さを感じない。
ノートパソコンや資料類は隅っこにまとめて置いてあり、大き目の窓のカーテンはやはり開け放たれている。そしてトレーナー君は座椅子を窓の方に向けて配置を調整していた。
恐らく窓の向きが花火が見える方向なのだろう。そう察して座椅子の前のテーブルにラムネやりんご飴、そして焼きそばを2つ配置。トレーナー君に促されて右側に着席し、左隣にトレーナー君が座った。
「いただきます! 丁度集中力が切れてお腹空いてたところだから助かりました」
「どうぞ召し上がれ」
トレーナー君がプラスチック容器の輪ゴムを外すと、香ばしいソースの香りとカツオぶしの香りがふわりと立ち昇る。私はラムネの栓を開け、水色のガラスボトルを傾けてビー玉を転がす音を響かせそれに口をつけた。舌の上にまずピリパチっとした炭酸のはじける感覚が広がり、サイダーの甘みがひろがっていく――。
そして彼女と私が焼きそばを食べ終えたところで、花火が始まるまでに時間はまだある事だし雑談を始めた。
「本日中の作業というのは引継ぎ資料だったのかい?」
「それもありますけど、メディアとの調整担当の方からスケジュールの打診があったのを整理していたりとか色々ですね」
「なるほど。前走の勝利以降格段に取材が増えていたし、それで激務になったというわけか」
スケジュールは過密過ぎないように調整はしているものの、英国で勝ち星を上げた結果取材の申し込みが増えすぎて学園のスタッフからも悲鳴が上がっていた。
当然トレーナー君にもその負荷は掛かっている。そしてそれを本人が愚痴を言わないので他のスタッフ経由で聞いていた。
「そんな所です。――そろそろ花火が上がる時刻だから照明を落としましょうか」
「そうだね。なら私がやるよ」
「お願いします」
私は立ち上がって部屋入り口にあるスイッチを押し明かりを消した。トレーナー君はりんご飴の包装を外した。そしてりんご飴の棒を手に持って少しずつ齧って美味しそうに食べている。私も同じようにリンゴ飴を楽しみながら窓を見ていると花火が上がる。
しばらく眺めたのち、そっと隣を見ると彼女は宝石のような瞳に花火の光を反射させながら、じっとそれに見入っていた。そして、しばらくしたのち空から目を離さないまま――。
「職人の腕が光ってますね――素晴らしいです」
「ふふっ。そうだね。――ところで職人と言えば君が1ヶ月受け持った子達の成績は素晴らしかった」
「ありがとうございます。とりあえずフォームの修正とか技術的なモノを指摘するだけで何とかなる範囲でよかった。折角中央に来たのだからこれで自信をつけてくれたらよいのですが……」
「君が方向性を示しきっかけを作った事で、迷っていた状態から道は定まっただろうしきっと大丈夫さ。――しかし常々思うのだが君は相手の変化に敏感だね? 何か秘訣でもあれば教えて欲しい」
今月の半ばを過ぎた頃にトレーニングに合流した際、私はトレーナー君の
――すると彼女は腕を組んで小首をかしげ、思い悩むような表情を浮かべた後こう答えた。
「うーん。秘訣って言われると言い表すのが難しいかもしれません」
「では質問を変えようか。具体的にどうやって見ているんだい?」
「――他の人に言わないでくれるなら。そう約束できるなら教えます」
これは随分と
「自分のすべてをかけて君の秘密を守ると約束するよ」
「――言いましたね? 破った時の代償は安くはないですよ」
「それはまた恐ろしい事を――そんなに重要な事なのか?」
願いをかなえる魔法使いは時として呪いをかける魔女となる。
そんな雰囲気すら感じ取れる物騒な物言いをしたトレーナー君は、喉が渇いたのかラムネを一口飲みからりと音を立ててテーブルの上にラムネ瓶をそっと戻した。
「そうですね。あまり知られたくない私の体質が原因ですので。私は身に降りかかった事だけでなく、覚えたことを全て正確に記憶することが出来、そして忘れる事が出来ないんですよ――」
「それは所謂完全記憶といわれる『
以前書籍で読んだその記憶能力者は、それ故に強迫観念を持ったりすると聞いたことがある。前々から妙に記憶力が良いとは思っていたがこれには脱帽した。まさか金曜日に放送されている映画で見られるような力を持った者がこの世に実在するとは――私は息をするのも忘れかけるほど衝撃を受けた。
冗談かもしれないがトレーナー君があれだけの前置きをしているのだ。彼女の性格上それはあり得ない。
知ってしまうと引き返せなくなるかもしれない。しかしどういうことなのか知りたい己もいる。そしてその続きを語る権利は彼女にあり、私は全身を好奇心で満たし硬直させて息を飲みその先が紡がれるのを待った。
「いえ、自伝記憶は本来『何年何月何日にどこに散歩した、何を言われた』とか、自己を中心とする出来事に対し記憶力を発揮するケースが一般的です。そして学習能力には影響を出さないはずなので、私はそれの変わり種ですね。何でもスポンジみたいに覚えられてしまう少し便利な特徴が追加されています」
「そうなると語順や日付などで整理しないと頭がパンクしそうだね」
そうなのだ――私が科学雑誌で見た情報でも自伝記憶にそんな能力の記載はなかった。
だとしたら突然変異なのだろうか? 奇々怪々な情報が次々に押し寄せる両耳に意識を集中し、あり得ないと切り捨てたくなる自らの固定概念から湧き出る内なる声を一切無視する。
そして一言一句噛み締める様に彼女の言葉に傾聴を続ける。
「そうですね。頭の中の片づけだけは面倒でもやらなければ、いくら長期記憶の量がほぼ無限であっても、それだけに探す時が大変です」
「すると君はその正確すぎる記憶力を使って差異を見抜いていると?」
「そうです。まずサルベージしたデータを頭にすべてストック。そして脳内で見比べる、重ね合わせてみるてるだけなので、案外単純なんですよ。そして見るだけでなく触った感触からの状態、五感に関する事まで細かく覚えているので診断にも重宝します。それで些細な変化も見逃さないという訳です」
きわめて原理はシンプルながら使い勝手の良さそうな才能だ。私も記憶力には自信があるがこれは自分が参考にするのは難し過ぎる。
上には上がいて海の向こうには様々な才能を持った者も多くいるのだろうが、これはあまりにも珍しい――ただの賢者などではなく遺伝の気まぐれで産まれた
踏み込めば踏み込む程彼女の底を見抜けていないことに気付き、ウマ娘と人間――人類全体の可能性の深さを改めて思い知り、その深淵を覗き込んでしまった私は思わず息を飲んだ。
「なるほどすごく便利だ――しかしそれが冗談ではないとしたら、日頃君がどうでもいい事を忘れたような態度を取るのは――」
探究心からくる興奮から一旦頭を冷やして思い返すと、トレーナー君は時々物忘れをしているような様子が見受けられた。であるならば矛盾しているはずだが、彼女はそんな虚栄心など持ち合わせていない。だとすると可能性は1つだ――既に頭までどぶりと浸かりきっているが、止まらない興味から私は更にその奥深くに触れるような質問を向ける。すると彼女は申し訳なさそうな表情をして顔を俯かせてしまった。
「定期的にどうでもいい事を忘れたふりをしているのは、体質がバレない為の演技です。――身を守るためとはいえ癖になっていました。騙すようになってしまい申し訳ないです」
あまりに不可思議の連続だったものだから注意が向いていなかった故に、そこまで聞いてやっと私ははっとした――。
我々も人間もすべての生き物は忘れることでストレスから逃れる術を持っている。となるとそれを持たないトレーナー君が何らかのきっかけで受けた苦痛はどうなる――?
それはずっと記憶の片隅に残り癒えないものが燻ぶり続け、遅効性の毒物のようになるのではないだろうか?
子供の頃に読み聞かせてもらった童話に手に触れたものを全て黄金に変える王が登場するものがあった。
それは他人には有益だが食べ物が食べられず、愛する者にも触れられないなど本人を苦しめるようなそんな展開の話だったか?
それに似たこの能力は祝福というよりむしろ、生涯を通じて精神を蝕む呪いに近いのでは――。
どんな気持ちで今までそれに耐えて生きてきたのだろうか? これはあまり重く惨い運命だとも感じる。一体彼女が何をしたからこのような試練を受けなければならないのだ?
――そんな理不尽に対する怒りによって、憂鬱さを招く鈍い灰色の空にも似た気分が胸の内に広がっていく。
「構わないよ。そんな状態でよく今まで無事だったというか何と言うか……君が身を守るために隠したがる気持ちもわかる。しかしそれでどうやって今まで過ごしてきたんだい?」
「最初は散々振り回されましたが、その内許したり受け流すことを覚えました。そうやって波間を漂うクラゲの様に生きているくらいが調子が良いんです。それに――」
花火の上がったその青い光で彼女がどんな顔をしているか見えた。俯くのをやめて私の方をゆっくりと向いたその横顔は、何年も酸いも甘いも嚙み分けて生きてきた大人のように安らかで険のないものあった。
「この記憶力によって齎されるものは悪い物ばかりではありません。例えば貴女が今日りんご飴やソーダを買ってきてくれたことや、私にしてくれたことも全部覚えていられるんです。その時感じたそのままの感情がずっと私の中には残っています。春には眺めた満開の桜を、夏には花火を、秋には美味しい食べ物と紅葉を、冬には雪空を――そして出会った素敵な方々との出来事を――それをいつでも鮮やかなものとして思い出せます。それが出来るのは素敵だと思いませんか? 大事な記憶をこの世を去る瞬間まで忘れていかずに済みます」
『そしてトレーナーとして活躍するにも、何をするにも便利な能力ですしね』と付け加えて片手に持っていたりんご飴の残りを彼女は食べきった。
「だから心配しないでください。そしていつも素敵な思い出をありがとうございます」
花火がまた上がりみえたトレーナー君は何の後悔も悲しみの陰も映していなかった。強がりでもなんでもなく今の発言は本心で、本気でそれを言っているのだという事に私は驚嘆した。
「君にはいつも色々頂いているからね。それに対し何が出来るか考えたことを喜んでもらって何よりだ」
「学生さんなんだから気にしなくていいんですよ。その分大人になった時誰かが困ってたら助けて下さいな。あ、私でもいいんですよ? 違法じゃないのが大前提ですが、ビジネスのお話を持ってきていただけたりしたら嬉しいです」
「今の一言で君に対する色々なものが大幅に吹き飛んだよ」
ちゃっかりしたことを言って笑わせようとしに来る彼女の額をつんと押すと、『そのまま感動しててください』とまた一言追加してくる。
"――全くそうやってすぐはぐらかす。困った方だ――"
こんな風に学生である私に必要以上に気負わない様に仕向けるトレーナー君に対し、領分以上の事をしても今は立場上たしなめられるだけなのだろう。
素直に私から色々と受け取ってくれる日はきっとまだ先になる――。
ではそうくるのなら我儘を言うのは年下である私の特権だ。
一つ一つの思い出をまるで宝石箱にでも仕舞って大事にしているのならば、私が行きたいという事にして色々な場所に連れまわそう。そうやってこちらのペースに巻き込んでしまえばいい。
これから勝ち星を重ねながら沢山の冒険をして、その心に鮮やかな思い出を届け続けよう――。
――私がいつか大人になって、大切な君に何か返せる立場になるその日まで。