前半トレーナー君視点、後半ルドルフ視点です。
――20××年7月22日 午後15時半頃――
――新潟レース場併設 関係者宿泊施設内403号室――
"――最悪だわ――"
新潟レース場併設のURAが関係者のために用意した宿泊施設。
その4階の女性スタッフ及び、女性トレーナーエリアの403号室――内装はどこにでもありそうなシングルベッド付きのビジネスホテルのような部屋に私はひとり泊まっている。
スーツは脱いで簡易クローゼットに直ちに収納。シンプルな白Tシャツ、そして青のシンプルなジャージのスウェットパンツに着替え終わったのは、ルドルフとの昼食から帰った後――12時半頃だった。
その後ビジネスホテル風のベッドの上に思いきり、資料や新聞紙やらを広げてかれこれ3時間。枕側から見てベッドの左サイド中央に腰かけ、実に様々なことに対し頭を悩ませていた。
"――勘弁してよー……"
ひとしきり唸ったあと、ベッドサイドに腰かけて座っていた状態から、両手で持っていたシルバーのタブレットの画面を切り、ぽいっと自身の右に軽く放った。それと同時にもはやお手上げかもしれないという心境を絵にしたような、両手を万歳ー! の状態を華麗に決め――時間差で仰向けにベッドに倒れ込んだ。
そしてクリーム色の室内用スリッパを足で払って脱ぎ散らかし、足を曲げてベッドの上に引っ込めながら体全体を左にひねる。軽く左向きに丸まるような姿勢で寝返りを打ち、左腕を軽く曲げて頭の下に置いた。そのまま視線の先――散らかしていた新聞紙の束のひとつを右手で取る。
4つ折りにされたまま片手でとった面から見える新聞のタイトルはこうだ。
2XXX年7月23日
『前線北上! 島根など山陰一帯に断続的な雨』
『―河川今夜から明日未明にかけ、危険水域に到達か―』
今私とルドルフが居る新潟よりもやや南方。
21日頃の福井県や石川県の24時間あたりに降った雨量は福井約66mmと石川約73mm。
今年の本州の梅雨入りは6月半ば。
そして7月の頭に日本の南海上に停滞していたその梅雨の前線が北上。その際九州を中心に各地で大雨が降りがけ崩れも発生していた。
更に6月から今にかけて北日本では、オホーツク海側から例年以上に寒気こと『やませ』がなだれ込んだ。そのため今年の新潟は例年よりもずっと涼しく、若干肌寒い日があるほどであった。
それを示すかのように、ここ3日の新潟市における平均気温は約25.6度で平年と比べればおよそ4度ほど低い。
7月の7日から14日。北日本が寒気の影響で寒くなった事により梅雨前線は日本の南海上に一度引っ込んだ。そしてレース予定地である新潟における一般的な梅雨明け時期は、7月20日~21日頃、遅くとも22日頃だった。
予定していたメイクデビュー新潟には梅雨は開ける――私もルドルフもそう思っていた。
"――そういうのって、フラグなのよね――"
ふう――と、ため息をつき新聞をポイっとまたベッドの枕の方に軽く投げた。
仰向けになり自身の甘さを悔やみ、軽く歯をかみしめながら結んでいない髪の毛――耳の上あたりの毛をくしゃりと両手で軽く掴む。
太平洋高気圧――その高気圧は東京から見て南東あたり、つまり天気予報全国マップ上だと画面右下のはるか洋上に存在する。いわゆる夏特有の"蒸し暑い晴れ"を連れてくる空気の塊のことだ。
その真夏の空気の塊が15日ごろから"よっこいしょ"と言わんばかりに勢力を拡大。それに伴いこの梅雨前線はこの高気圧から下から持ち上げるように押し上げてられてしまう。
晴れをもたらすその高気圧が今回ばかりは余計なお世話をしてくれた。おかげで前線が再び本州に向かって北上してきてしまった。このため今年の梅雨は寒気を伴い、かつ長梅雨、その最後は"暴れ梅雨"とならんとする勢いである。
"――まるで東京を何回も上陸して襲いに来る、あの"デッカイ黒い恐竜"みたい――"
髪を軽く掴んでいた両手の力を抜き、今度は右向きに身体を軽く曲げる姿勢で寝返りを打つ。
そしてルドルフと私のいる新潟でも今月の14日から天気がぐずつきはじめていた。
20日から同地は雨は降ったりやんだりを繰り返し、1日当たりの雨量は20日には24時間で約41mm。21日に約26mm、本日22日に1mmといった一見すると大したことが無いように見てしまうが……。
"――本州の真ん中あたりを横切る梅雨の停滞前線。この前線を洋上の太平洋高気圧が予想を超えて押し上げた場合、前線の位置が今より北上してくるはず――こちらの寒気の強さを考えると、今夜中にそれが押し負けていきなりの北上は無いとは思いたいけれど、それはあくまでも"願望"でしかない――"
もし仮に太平洋高気圧が寒気を打ち負かし梅雨前線が急速に北上してきた場合、23日は断続的に雨が降り続く中でのレースになるのは目に見えている。
最悪の場合集中豪雨になる可能性も考えなくてはならない。
天気に"絶対"はないのだから――。
"――災害クラスの豪雨ともなると、全国トップの水捌けを誇る新潟競技場でも厄介か――"
そんな災害に匹敵する冷たい雨の中を走らなければいけないルドルフの体調が何よりも心配だ。
しかしその雨の中でも走らねば、競わねばならないのが"ウマ娘"という"アスリートたち"だ――それを止めるということがルドルフの誇りを傷つけるであろうことを、わかっている私にはその選択を選ぶことは難しい。
それに後先への思慮を放棄し、ルドルフの安全のみを考えて止めてみたとしても……きっと彼女は己の戦場に向かうだろうから見守ることしかできない。
多少の豪雨ならば開催もあるが災害級となり観客や選手の安全が確保できない場合、URAやさらに上の国の判断次第ではレース自体が行われないこともあり得る。そうなった場合北海道の函館か、秋の中山でのメイクデビューに切り替えることも考えなくてはならない。
"――この土地の武将、直江兼続も引用してる言葉だけれど、"天の時。地の利。人の和。"という戦略成功の為の三要素。そのうち天の時と地の利が、規格外の梅雨で押し流されるように全てひっくり返ってしまいそうね……――"
一旦放心したかのように天井を10数秒ほど見つめた。
そしてゆっくりと肺に空気を送り、吐きだし…それを静かに……静かに繰り返した。
室内には壁掛け時計の秒針がカチカチと響き渡るのみとなる。
迷走から瞑想へ。私の意識は思考の階層の深みにゆっくり歩みを進めた。
そして思考の回廊の中を立ち止まったかの感覚を受け、その回廊の深みに向いていた視線を、ゆっくり現実に向けて振り返るように向ける――意識はゆるゆると現実に浮上し、迷走していた思考が一瞬クリアとなる。
そして、その解となるものを吐いた。
"――残るのは人の和。ルドルフと私、お互いのチームワークと地力のみ――"
大きく長い溜息をついてもう一度軽く唸りながら体を軽くばたつかせた。そして足をのばし両腕をお手上げ万歳にして背中を伸ばす。
"――夕飯後のミーティングで相談してそれからかな――"
私は考えるのをやめ一旦完全に脱力して寝ころんだ。
どうにもならない天気の事を考えすぎて疲れてぼーっとした頭で、その体勢でのまま――軽く左右に首を傾けつつ、瞼を開くのも億劫になってきた両目でゆっくり見まわした。
"――派手に散らかしちゃった。片付け面倒だなぁ……――"
そんな面倒な現実から目をそらすように、また右を向いて手足を軽く投げだし軽く背を曲げ楽な姿勢で横になる。
そしてしばらくもしない内――シンプルながら寝心地の良いベットに沈む右半身、その沈み込む感触がまるで沼地に沈み込んでいくようなものに思えるほど、まどろみの先に誘われかける――。
強烈なまどろみがこのように迫り来るのも無理はない。
東京のトレセン学園を8時に出て、午前9時台の東京駅発の上越新幹線を利用し、新潟駅まで1時間半ほどの旅路。そしてその後駅からタクシーでここについたのが午前11時頃。先発して送っておいた隣の部屋にある荷物確認を1時間で済ませる。
その後ルドルフの食事のため施設内のレストランに向かい――帰ってきて今まで唸り倒していたのだから。
"――16時まであと……15? ふ……ん?――"
身体を軽く起こすように動かして、左ベッドサイドから正面に見える壁掛け時計を見やる。
時刻は15時45分ごろを示していた――ここで寝てしまうと18時の夕食に遅れてしまう可能性がでてくる。
しかし抗えないほどの睡魔が迫る状況で、私は再びベッドに右向きに寝転がってしまう。
じわじわと意識に疲労からくるそれが滲み、浸透してくる眠気から無意識に瞼を閉じようとしてしまう――。
瞼を軽く閉じる度の暗転との数回以内の攻防の後、結局――私は画面の電源を切られたタブレットのように、プツリ――と意識を落とした――。
◆ ◇ ◇
――7月22日 午後16時半頃――
―― 新潟レース場併設 関係者宿泊施設内6階 607号室――
トレーナー君と昼食を共にした後宿泊施設内併設の屋内設備で、試合前日の軽いウォーミングアップ程度のメニューをこなし終わったのは今からおおよそ1時間ほど前のことだ。
ひとりでそれらをこなしたのは特段トレーナー君を付き添わせる理由もないのと、彼女にも仕事があるだろうという配慮で決めたことだった。
そんな軽いメニューを終えウマ娘用の宿泊エリア6階の607号室に戻ってきたのは55分前。
汗を流すためにシャワーを浴び――館内着として持ってきたお気に入りの"アジダース"の黒いダジャレTシャツと、洗い替えの学園仕様の赤ジャージのスウェットパンツに着替え、髪を乾かし終わったところだった。
洗い物はできれば部屋にため込むよりも洗ってしまいたいため、汗にまみれた洗濯物のうち小物類はランドリーネットに入れる。それらをビニール素材で出来た小さ目の、トートバックタイプのエコバックに近い形状のランドリーバックに詰め込んだ。
そして持っていこうと予めベッドの上に置いておいた、茶色い琥珀の美しい皮が特徴的な長財布を右手に持つ。ベッドの左隣にあるサイドテーブルの上に置いておいた、タッチ式ルームカードキーの入った透明無色のビニール素材で出来た、カードホルダーの黒いネックレスストラップ紐を首にぶらさげた。
ドア付近50センチくらいの位置で、クリーム色の室内用のスリッパを脱いだ。
そして館内用の
フロアの左手にある601号室方面に、赤い絨毯に白い壁の――量産型のビジネスホテルのような内装の廊下を進むと、突き当りでランドリーコーナーへと行きついた。
設置された洗濯用の設備のうち空いているところを探し自分の洗濯物を放り込んだ。
見たところ10個ある洗濯用のみの設備のうち、既に7つほど先客で埋まっていた。
"――ふむ……皆真剣そうで何よりだ! その熱意に負けぬよう私も明日は結果を残さねば――"
感心した気持ちで口元に軽い笑みを浮かべ腕を組み、軽く頷くよう頭を動かした。そして、そうしながらも壁に貼られたランドリー設備の使い方の説明に軽く目を通す。どうやら柔軟剤や洗剤類は自動で追加されるらしく硬貨を投入口に入れて設定し――そのまま回した。
水音が響き洗剤も投入され――ゆっくりと、自身が持ってきた洗い物が洗濯されていくのをしばし眺める――。
"――ふふっ。動く様がなんとも面白くてつい、いつも見てしまうな――"
そんな子供染みた事をしてしまった自分自身の態度を鼻で笑いながら、取り出し口のドアの左にある――ランドリーバックをひっかける金具にそれを引っかけた。
"――もうこんな時間か――"
ランドリーコーナーの黒縁のシンプルな壁掛け時計の時刻は16時42分を指していた。
18時にはこの施設の2階にある食堂でトレーナー君と夕食を共にする約束をしている。
そしてその約束相手のトレーナー君はというと、本日の昼食時の様子がここ数日内で一番のうわの空だった。それでもこなすべき役割をきちんと果たし、仕事の方はできているので特段の問題は無いのだが――。
"――今日の昼食時、食事量が明らかに少なすぎた――"
6か月接してみてわかったことがある。
トレーナー君は信頼を置いた相手の前では
しかし、そんな信頼を置いた状態でも今度は心配させまいと隠し事をし、それが分かる癖がある。
今日共にした昼のように"食事量がぐっと減り、食べなくなってしまう"事だ。
それでも人間よりはたくさん食べるはずなのだが、何か抱え込んだり、何らかの研究に没頭している場合は人間の1食分以下にまで落ちる。
つまるところ
3日3晩食べず飲まず、砂漠すら超えるという半分入ったアハルテケのウマ娘の血筋からくる、規格外のステイヤーとしての底なしの体力――そのせいかトレーナー君は無茶が利き過ぎてしまう。
"――体力の持ちが桁違いなせいで、色々と感覚が狂いやすいのだろう――"
様子を窺えば心配させないように隠そうとするので余計に気になってしまう。
しかし、普段トレーナー君は私に対し、私が踏み込んでほしくない所に踏み込まないでいてくれている。だからこそ様子を見ながらに留めてきたのだ――それが私なりの誇り高くあろうとする、範を示そうと必死に頑張るトレーナー君への敬意だった。
しかし――。
"――昼の様子はどう見ても深刻そうだった――"
『困った……どうしよう』そんな声が聞こえてきそうな雰囲気が、思いっきりトレーナー君の顔に張り付いていた……やはり表情だけは通常運転で非常にわかりやすい。
"――夕食前だが少しトレーナー君の様子を見てこようか。ばれていないと思い今回も隠そうと頑張っている君には悪いが――"
ランドリーコーナーの奥にある自販機で自分のために冷たいビックボスのブラックのコーヒー。そしてコーヒー党が多いことで有名なアメリカ育ちなのに、何故か紅茶が好きなトレーナー君への差し入れに、冷たい紅茶香伝のミルクティーをひとつ買った。
歩行中両手が塞がれるのはあまり好きでないため、財布と缶コーヒーををジャージのポケットにしまって、この場を離れフロア真ん中にあるエレベーターの前に歩みを進める。
"――またしても間の抜けた一面が掘り起こされ、少々可哀想な事になるかもしれないが……隠した君が悪い――"
エレベーターの前について下向きの三角形のボタンを押す。
私の事を信頼してないわけではない。それはわかってはいるがもう少し私を頼ってほしいものである。以前エアグルーヴに対し過保護が過ぎて叱られてしまったことがあった。あの時私に対して激しい怒りをあらわにした、あの時のエアグルーヴの気持ちが少しわかった気がした。
エレベーターの到着音が静かなフロアに響き両開きの銀色のドアが開く。
私はエレベーターに乗り込みカードキーをタッチで読み込ませ、移動制限のロックを解除し4階と書かれたボタンを押した。
◇ ◆ ◇
4階のトレーナーエリアにつき403号室をノックをしても返事が無い。
"――居ないのだろうか?――"
中にいる気配はしていた為、耳をそばだてもう一度ノックした直後だった――。
――ゴンッ! ゴツ
何やら派手に鈍い音がした……。
なんというか、差し詰め慌てて飛び起きて落ちたようなぶつかった様な音だった。
そして痛みで悶絶したような声までもが聞こえる。
"――慌てさせてしまったか。可哀想に……音からして大丈夫なんだろうか……?――"
歩幅の乱れた足音がドアの向こうで数歩したあと、また目の前のドアに軽く激突する音がした。流石に大丈夫かと声が出そうになったと同時に部屋のドアが開く。
青ジャージのボトムにTシャツ姿。やや寝ぐせがかった髪のトレーナー君がゆっくりと外開きの扉を開け、ふらりと倒れ落ちるように目の前に現れた。
「あっ!」「おっと!」
ドアが開いたのはいいが今度は外に零れ落ちそうになるトレーナー君。
私は一瞬慌てつつも何も持っていない左腕で抱え支えてキャッチ! おそらく3回目であろう床との激突は避けられた。
「ごめんなさい――! 支えてくれてありがとう、ルドルフ」
「構わないよ――休憩中に起こしてしまったかな? 何回か室内でもぶつけていた様だが大丈夫かい?」
寝ぼけ気味のトレーナー君の体勢が落ち着くまで支えた後、きちんと立ったのを確認して彼女の身体から腕を離した。
「軽い痛みの余韻は感じますが、何ともな……って!」
寝ぼけ気味だった緩い空気から一気に覚醒した後――。
「――まさか私、約束の時間に遅刻しましたか!?」
一瞬で『やらかした!?』と言わんばかりに真っ青になるトレーナー君。
その様子から寝落ちだったのだろう。
「遅刻ではないよ。夕食前に雑談を来てみたんだ――だめかい?」
真っ青かつ我々のように尻尾や耳があれば、毛が逆立っていそうな様子からほっとした雰囲気に戻ったトレーナー君。しかしそれもつかの間――今度は3秒もしない内に部屋を振り返った後、左に視線が泳いだ。そして、軽く部屋を見やりながら凄くばつの悪そうな表情を浮かべ――。
「――途中で寝ちゃってたから資料で散らかっているんです。それでも良ければ……」
どうやら散らかした部屋を私に見られたくなかったらしい。
先ほどの表情はそういう事かと納得と同時に、ふと微笑ましくなり笑みが漏れてしまう。
「突然来てしまい寧ろ申し訳ないことをしたね。一生懸命やっていたのだろうから私はそれでも気にしないよ。君こそ良ければ、お言葉に甘えてお邪魔させてもらってもいいかい?」
「――大丈夫です。すぐ片づけますね。どうぞ、入ってください」
私がドアの内側に手を付けるとトレーナー君はドアから手を離した。入り口から少し離れたところで彼女は、フロア用の
そして室内用のクリーム色のスリッパに履き替えた後、私の分もすぐ左隣の外套などをつるすスペースの、ウォークインタイプのようなクローゼットから出してくれた――。
【解説や考証的な設定】
◇気象状況モデル『昭和58年7月豪雨』『山陰集中豪雨』
1983年7月20日~23日にかけての洪水。
史実馬のシンボリルドルフ号がデビューした当日周辺に起きた凄まじい暴れ梅雨。
挿絵素材元 かわいいフリー素材集 いらすとや様
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※利用規約範囲内での利用です。以降近況記載の紹介とさせていただきます。
2021/06/21