やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
濃密であった4月が過ぎ去り、そして待ちに待った5月がやって来た。目にも鮮やかな新緑が顔を覗かせ、気温は夏日にも到達しそうな程である。
今年の俺のゴールデンウィークは1日から5日までのカレンダー通りの休暇となっている。社会人になってからの5連休は非常に有難い存在である。これだけ長い間休めるのは、お盆と年末年始とこのゴールデンウィークぐらいでなのだ。大学生の頃は60日近くも夏休みがあったりしたのにね、悲しいね。
そして今日が5連休の初日であり、一色が提案をしてくれた温泉旅行の出発日となっている。1泊2日の箱根旅行らしいのだが、詳しい内容は聞いてはいない。今回は一色たっての希望により、彼女に任せ切りにしている。
「比企谷君は目玉焼きは半熟で良いかしら?」
「あ、うん……それでよろしく」
フライ返しを握り、エプロン姿で俺に微笑みかけるは雪ノ下である。俺は今、彼女の家で朝食を作ってもらっている。
「……では、頂きましょうか」
「悪いな、わざわざ俺の分まで作らせちゃって」
食卓にはトーストと目玉焼き、生野菜のサラダ、コンソメスープが並んでいる。普段はカップラーメンで済ませているため、こんなに色鮮やかな朝食は久しく見てすらいない。ご機嫌な朝飯だ。
二人で手を合わせて、いただきますと口にする。取り敢えずトーストにバターを塗ろうかと思い、バターナイフを取ろうとしたのだが、雪ノ下が先にそのナイフを手に取ってしまう。
「謝罪をするのであれば、昨晩の謝罪をするべきではないかしら。ね、比企谷君?」
ナイフを片手に謝罪を求めてくる、字面だけを見ると恐ろしいものだ。だが、実際に目にすると、目が一切笑っていないのに口角だけは完璧な笑みになっているため、マジで怖い。字面だけの方が幾分かマシである。
ちなみに、昨晩においたをしてしまったとか、そういうことは一切ありません。
「昨日は急にキャンセルして悪かったよ。……俺だって行きたかったわ」
「……それなら行ってくれれば良かったじゃない」
彼女はナイフを置き、拗ねるように横を向いてしまう。彼女が機嫌を直してくれるかは分からないが、ちゃんと理由を話そう。
「一色がな、今日は出発が早いから前日の予定はキャンセルしろってうるさくてな……」
一色は大学時代に寝坊したメンバーが居た所為で、旅行の計画が滅茶苦茶になってしまった過去を引きずっているらしい。
彼女に計画等を全て任せている以上、キャンセルの件についてはあまり強くは言えなかったのである。
「一色さんのお願いなら、何でも聞いちゃうのね」
「いや、雪ノ下ならまだしも一色の頼みなんて基本は聞かないぞ」
昨日が特別だっただけである。まぁ、最近はその特別ってのが多い気もしなくはない。
言い訳を聞いて納得してくれたのか、雪ノ下は相槌をしてパンに齧り付き始めた。頬を少し赤く染め、小さな口で食べ進める姿はとても愛らしく見える。
それにしても、雪ノ下さんは結局パンに何も塗らずに食べるんですね。
「昨日は悪かったけど、今日こうして雪ノ下の作った朝飯を食べさせてもらえて嬉しいわ」
「……私から誘ったのだし、それにこんなに朝早くから迎えに来てくれるのだから当然の権利よ」
そう、今朝の朝食は雪ノ下からの折衷案だった。晩御飯がダメなら朝御飯を食べに来てね?という彼女の返信を見て断れる男なんて居ないだろう。
今日は朝9時に新宿駅西口に集合の予定なのだが、現在の時刻は7時を少し過ぎたところである。ちなみに俺は5時起きです。
「こんな権利が手に入るなら早起きなんて苦にならんな」
そう言ってスープに口を付ける。ベーコンに玉葱にキャベツと具沢山のコンソメスープは具材の味が溶け出しており、その温度も相まって非常に美味であった。
「……早起きなんてしなくても、食べさせてあげることもできるわよ?」
いつもの揶揄いの眼差しが向けられる。最近はこの手の揶揄いが増えてきている気がする。冗談でも軽い返事なんて出来ないので、黙ることしか出来ていない。
俺にとっては軽い気持ちではないし、冗談では済ませたくはないから。
今はただ、上気してしまったこの頬を、熱いスープのせいにすることぐらいしか俺には出来そうにもない。
俺と雪ノ下は約束の15分前に西口に到着し、現在は由比ヶ浜と一色を待っている。
ゴールデンウィーク初日の新宿駅は大盛況であった。俺たちと同じく、どこかに出掛けに行くのか、キャリーバッグを片手に持っている人々が多く見られる。
「ゆきのーん!ヒッキー!」
薄桃色のニットに黒のスカートを合わせたお団子ヘアーの元気っ娘、由比ヶ浜がぴょんぴょん跳ねながらこちらへ向かって来ている。相も変わらずの元気さに嬉しくなってしまう。自然と吸い寄せられるその笑顔と胸部には安心感すら覚える。
「先週ぶりね、由比ヶ浜さん」
「……1年ぶりだな、由比ヶ浜」
「…うん、ヒッキーはホントに久しぶりだね!」
由比ヶ浜に会うのは大学の卒業以来である。社会人になっても変わらずのお団子ヘアーなのだが、この髪型で出社しているんだろうか。まあ似合っているからいいのだろう。
「おい、由比ヶ浜」
「……ん、どうしたのヒッキー?」
俺は由比ヶ浜からどうしても聞きたいことがあった。別に今じゃなくてもいいのだが、折角だからこのタイミングで聞かせて欲しかった。
「おはよう、由比ヶ浜……」
きっと彼女ならば気付いてくれるだろう。いや、気付かなくても彼女なら聞かせてくれるかもしれない。
由比ヶ浜は頭に疑問符を浮かべつつも、自然と笑顔でこう返してくれる。
「やっはろー!」
そこから5分が経過した頃、上は白いシャツ、下にはエメラルドグリーンのスカートを履いている一色がこちらに向かって来る姿を確認できた。雪ノ下と由比ヶ浜はお喋りに夢中になっているようで気付いていない。二人に声を掛けようと思ったのだが、一色が人差し指を口に立てるポーズをしているので黙っていることにした。
一色はバレないように二人の背後に回り込み、そして二人に腕を組んでご挨拶をする。
「お久しぶりですね、結衣先輩!雪乃先輩!」
まず最初に反応したのは由比ヶ浜だった。腕を組んだまま、くるっと反転をして一色に勢いよく抱き着く。
「いろはちゃん、会いたかったよ……」
「……ゆ、結衣先輩、く、苦しいです」
感動の再会シーンの筈なのだが、一色が普通に苦しそうなのが笑える。抵抗しようにも両腕を使ってしまっているので、されるがままである。助ける気はない。それだけ会いたがってくれていたのだから。
由比ヶ浜が抱き着くのに満足して離れると、次に雪ノ下が一色をゆっくりと抱き締める。その目尻には薄らと涙が溜まっていた。
「……また会えて嬉しいわ」
「…………雪乃、せ、せんぱい」
雪ノ下の涙につられ、一色までもが涙目になってしまっている。それを優しく見守る由比ヶ浜も同じみたいだ。ここに居る全員が静かに涙を流していた。
由比ヶ浜は鞄から何かを取り出すと、抱き合っている一色の後ろに立ち、丁寧に彼女の首にそれを掛ける。
「こ、これって、ネックレス……?」
「そうだよ、もう逃げちゃ嫌だからね、いろはちゃん……」
シルバーで形成されているハートの中には、猫とピンクカラーのトパーズが彩られている。4月の誕生石であるダイヤモンドも用いられており、そのネックレスは正にこの三人のイメージにピッタリに思えた。
「私たちからの再会を祝したプレゼントよ」
「ちゃんと大事にしてね!」
二人の優しい笑顔に挟まれた愛すべき後輩は、嬉しそうに涙を拭いながらゆっくりと頷いていた。
「では早速ですが、箱根に向かいましょう」
「行くよー!」
何事も無かったかのように振る舞う後輩に対して、ノリ良く反応する由比ヶ浜。雪ノ下も口元に笑みを浮かべてそれを眺めている。しみったれた雰囲気は終わりにして、旅行を楽しみますかね。
箱根までの移動手段は小田急ロマンスカーのスーパーはこね号を使用するらしい。使ったことがないので知らなかったのだが、四人席用の個室があるらしく、今回はそれを予約してくれているらしい。
予約までの時間もさして無かったため、俺たちは急いで乗り場へと急いだ。
サルーン席と呼ばれる四人席は、ブラウンのツーシートが車窓を挟んで向かい合わせで設置されている。席の間には少し細いがテーブルもあるため、1時間ちょっとの旅路ぐらいでは不便はしなさそうだ。
まず由比ヶ浜が窓側の席に座ったので、雪ノ下がその隣に座るのだと思っていたのだが、意外にも一色がその隣に座った。由比ヶ浜は一色の肩に手を置き、楽しそうにはしゃいでいる。その後に雪ノ下が窓側の由比ヶ浜の対面に座り、俺はその隣に腰掛けた。
「わたし、ロマンスカーのこのシートで箱根に行くの憧れてたんですよねー」
「なんか女子旅って感じで凄くいいね!」
「ふふ、今回は女子旅を楽しみましょうね」
テーブルには由比ヶ浜の手作りのクッキーが置かれ、女子たちはワイワイと楽しんでいる様子である。自然と俺という男の存在が無視されている気もするが、楽しそうでなによりだ。
この席のシート間には肘掛けが無いので、電車の揺れなどにより、時たま雪ノ下の腕と接触してしまうが、彼女は気にした様子はない。だから俺も顔に出さないように、彼女たちの会話を邪魔しないようにしよう。今はただ、この姦しい言葉のやり取りに耳を傾けていたい気分なのだ。
「そう言えば、雪乃先輩のそのワンピースすごく似合ってますね、上品な清楚って感じで」
「ねー、私もずっと思ってた!ヒッキーもこういうゆきのん好きでしょ?」
「……どう、比企谷君?」
聞き専に徹していたかったのだが、急に話し掛けられる。そもそも、そのワンピースは俺の趣味で選んだので好みに決まっている。どうして雪ノ下もまた感想を求めてくるんですかね?
2人の前だと正直に言うのは恥ずかしいので適当にお茶濁しをして逃げよう。俺は腕を組み、目を閉じて発言する。
「……まぁ、控えめに言っても世界一可愛いよな」
小町なら、うわぁー適当だなーとか、気持ち悪いなーで終わる発言をしてターンを終了する。
なかなか突っ込みが来ないので、目を開くと、由比ヶ浜が口を開けて驚愕の表情を浮かべていた。え、真に受けられてません?
一色も同様に口を開けているが、そこにあるのは驚愕ではなく、うわぁーというドン引きの表情であった。いや、口に出してね?突っ込んでくれないとボケにならないじゃん。
助けを求めるために左に座る雪ノ下の方を向くと、彼女もまた真に受けてしまっているようだった。
窓側に顔を背けてしまっているのだが、残念なことに、その窓に反射する顔までは隠せていなかった。
「あのー、そういうのは二人きりの時にしてくれません?」
求める突っ込みではなかったが、一色の発言によって気まずい雰囲気は少しずつ消えていった。
その後、無事に電車は箱根湯本駅に到着した。そして、旅館のある小涌谷駅に向かうために箱根登山線に乗り換えをする。
都会でストレス社会と戦っている俺たちには、自然に囲まれた道中は最高の癒しであった。
旅館のチェックインまでには時間があったので、ロープウェイに乗って大涌谷観光なんかも楽しんだ。名物の黒たまごは絶品であった。
んで、旅館に着いたのでチェックインをする。代表者の一色が受付に行って手続きを行ってくれる。成長したその背中には安心感すら覚える。今回の旅行については一色に感謝しかないね。
手続きが終わったのであろう、一色がこちらへと戻ってくる。気まずそうな顔を引っ提げているのは何故なのだろうか。
「……えーっと、部屋割りってどうします?」
「は?一人部屋と三人部屋じゃねーの?」
「いやー、ここって三人部屋がないので、ツインを二部屋取っちゃってて…女子旅気分で計画していたので……」
申し訳なさそうにしている彼女に文句を言うのも気が引けるので、黙ってどうするかを考える。ここら辺にカプセルホテルや満喫はなさそうなので、別の部屋を取るのが無難だろうか。少し値が張るだろうが、致し方ないだろう。
「ここって大人気の旅館なので、他の部屋は空いてないんですよね……」
「マジかよ……」
既に受付には確認済みだったらしく、一色は項垂れてしまった。そんな彼女をフォローするかのように由比ヶ浜が明るく提案をしてくれる。
「私は別にヒッキーと一緒でいいよー。いろはちゃんはゆきのんと一緒に寝てね!」
「は?」
「はい?」
大したことないかのように凄い提案をしてくる由比ヶ浜に、俺と雪ノ下が驚愕する。一色は由比ヶ浜の発言を聞き、嬉しそうに由比ヶ浜に抱き着いて喜びを表現している。
「結衣先輩、気持ちは嬉しいんですけど、私が先輩と一緒の部屋でいいですよ。元はと言えば私の責任ですし……」
「いろはちゃん、いいの?」
「はい!」
なんか二人で百合百合し始めているのは大変によろしいのだが、それ以外は大問題なんだよなあ。ねぇ、雪ノ下さん?
隣の雪ノ下を見ると、顔を赤くしているので、怒っているようだった。当たり前ですね。
「わ、わ、私がひ、比企谷君と同じ部屋になってもいいわよ……」
「いや、そうじゃないだろ……」
ゆきのん、そういう問題じゃないでしょ?旅行気分で雪ノ下までアホになってしまったのだろうか。っていうか本当にどうしようね。
「じゃあ雪乃先輩よろしくお願いしますねー」
「ゆきのん頑張ってねー」
「はい?」
じゃあこれ鍵なので、と鍵を渡して仲良く腕を組んだまま二人は去ってしまった。いや、ダチョウ倶楽部のノリかよ。急に梯子を外すのやめてあげて。ってか一色、ここまで全部計算通りだったりするの?
「では比企谷君、私たちも行きましょうか」
「いやいや、お前はいいのかよ……」
「ふふ、比企谷君なら構わないに決まってるじゃない」
そう言って笑って腕を組んでくる。俺は諦め半分、嬉しさ半分で笑ってしまう。いや、真面目な話をすれば嬉しさ9割はあるのだろうが。
初めての彼女との腕組みの感触を味わいつつ、取り敢えず部屋に向かおう。荷物を置いたら早く温泉に入ってしまいたい。汗で汚れてしまった身体と汚れた煩悩を温泉で綺麗にしないといけないのだ。
今夜は俺にとってはきっと長い夜になるのだろう。隣で咲いている無防備な稚い笑顔がそんな未来を予見させる。
まぁ、これからは慣れていく必要があるだろう。何時までも逃げるわけにはいかないし、現状逃げられなくなってきているしね。
彼女との関係がまた少しずつ変わり始めたのはこの日からだった。
温泉旅行回前編でした。
毎度の事ながら、感想ありがとうございます!!