やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
和洋折衷、畳には卓袱台と座椅子が設置され、フローリングにはベッドが並んで置かれている。パッと見15畳程あるこの部屋は二人用にしては少し広いのではないだろうか。
雪ノ下は興味津々とばかりに部屋を見て回っている。目の前に緑が迫るテラスに一緒に出た際には、その瞳に映る景色の優美さに感動の声が自然と同時に漏れてしまっていた。一色が張り切って選んだだけあって、温泉宿の部屋としては非の打ち所がなかった。
「あら、部屋風呂も露天になっているのね」
テラスの端の方にはそれほど大きくはないが檜風呂が設けられており、目の前の木々や流れる水の音を静謐に楽しむことが可能だろう。温泉旅行初心者としては、この部屋は敷居が高いのでないだろうか。しかし、誰にも邪魔されずにゆっくりと檜風呂を味わうのも乙なものであろう。元ぼっちとしてはポイントが高い。
「ほう、入るのが楽しみだな……」
「そ、そうね……、えっと、タオルは巻いて入ってもいいかしら」
タオルを湯につけるのはマナー違反だと耳にするが、部屋風呂なら問題はないだろう。誰に迷惑をかけるわけでもないのだから。
いつもであれば、ここで軽く「良いんじゃね?」と返答するところなのだが、高まっている警戒心が俺を再度思考の海へと誘った。
今日の、いや今さっきからの雪ノ下さんは攻め攻めなのである。その攻ノ下が何やら恥ずかしがりながら発言をしているのだ。つまり、これは攻めのん状態の彼女でもかなり恥ずかしいことを言っていると推察ができる。……まさかとは思うのだが、先ほどの俺の発言が一緒に入る提案だと思われているのだろうか。
「さ、流石に二人で入るには狭いんじゃね、はは……」
さも広ければ入る、みたいな言い方になってしまった気もするが、勘違いであるならギリギリ気持ち悪いボケで済むだろう。久しぶりに罵倒を聞きたいまである。
「別に問題はないと思うけれど、確かに少し狭い気もするわね……」
その綺麗な頬に手を当て、浴槽を見ながら思案する彼女は知的な淑女にしか見えない。しかしその実、今の彼女は温泉旅行にはしゃいでいる可愛らしい女の子なのだろう。俺としてはもう少し危機感を持って欲しいと思ってしまうのだが、楽しそうにしている彼女を見ていると何も言えなくなる。
仕方がないので、今はただ穏やかに、由比ヶ浜たちの温泉への出立の連絡を二人で待つことにした。
サウナこそなかったものの、小涌谷温泉と宮ノ下温泉の両方を楽しむことができる旅館の温泉はとても良いものであった。やはり露天風呂はいいね、男一人で1時間も入浴してしまった。
風呂上がりは備え付けの浴衣に着替え、コーヒー牛乳を購入する。この湯上がり直後のコーヒー牛乳の美味しさは異常である。フルーツ牛乳やいちごミルク派もいるらしいが、俺は断然コーヒー牛乳派である。
この後は夕食になるらしいのだが、雪ノ下たちはまだ時間が掛かりそうなので、俺は先に部屋に戻ってゆっくりしている。外泊特有の固さが絶妙な枕とふかふかのベッドがとても気持ち良い。
テラス側から聞こえてくる風の音、水の音を聞いていると、やがて俺の意識は深いところへと落ちていった。
…………コンコンとドアがノックされる音で目が覚める。雪ノ下が戻ってきたのであろうか。彼女を待たせてはいけないという想いから、急いでロックを解除してドアを手前側に開く。
「あら、寝ていたのかしら」
「少しだけ、な……」
雪ノ下の湿った髪、瑞々しい肌、そして浴衣姿に俺は言葉を失う。浴衣美人という枠組みなどでは到底収まらないその容貌に、俺はただ見つめることしかできなかった。彼女もそんな俺を見つめていてくれる。
「ほらほら、晩御飯食べに行くよー」
「はぁ~~……」
由比ヶ浜の言葉でビクりと我に返る。もし、由比ヶ浜が居なかったらこのまま雪ノ下を見つめて余生を過ごしていたかもしれない。あと、一色はそのクソデカため息をやめなさい。
ふと、由比ヶ浜と一色を一瞥すると、少しだけ幼い印象を受ける。浴衣姿がとても似合っているので、大人の女性としての佇まいはあるのだが、顔が若く見える。それこそ、高校生の頃のような。これが湯上りマジックかな?と温泉の力を過信していると、一色が本当の理由の片鱗を教えてくれる。
「未だにノーメイクでそれとか頭おかしいんですよ、雪乃先輩は……」
「……頭は関係ないんじゃないかしら」
さも不服と言いたげな雪ノ下だったが、優し気な声音からして一色の真意は分かっているのだろう。由比ヶ浜はそんな雪ノ下の頬を指で撫でるように触って感触を楽しんでいる。なにそれ俺もしたい。
戯れは終いにして、夕食の会場に移動し始める。伝えるタイミングは逃してしまったのだが、このまま言わないでおくのはバツが悪い気がする。
勇気をだして、前を歩いている二人には聞こえないように雪ノ下に静かに耳打ちする。
「その、浴衣似合ってんな……」
「ふふ、とても嬉しいわ。……それと、比企谷君も似合っているわよ」
耳朶を打つのは甘い声、目に映るは屈託のない笑顔。湯上がりの香りも相まって、彼女に惹き込まれそうになるのは不可抗力であった。
夕食の会場は旅館内に専用スペースが用意されており、全席掘り炬燵形式でゆったりと食事が楽しめそうだった。当たり前のように雪ノ下の隣に座ると、旅館のスタッフが飲み物のオーダーを取りに来てくれる。
「お飲み物は如何いたしましょうか?」
「とりあえず人数分の生でお願いします!」
流れるように生ビールを注文する一色。湯上りに生ビールを飲みたい気持ちは分かるけれど、女子力はどこへ行ったんだよ。雪ノ下も由比ヶ浜も特に気にした様子はないので、きっと三人の間では既定路線だったのだろう。俺の要望としても、雪ノ下が代弁してくれたことは想像に難くない。
「ちなみに今日のメニューって何なんだ?」
「メインはお鍋で、後は海鮮のお造りとかですかね。ちなみにお鍋は豆乳鍋ですよ」
「豆乳はお肌に良いから、温泉旅行にはぴったりだねー!」
そうね、イソフラボンがね、すごい効果だよね。俺は対角線上で揺れる景色を見てその効き目を再確認する。正面からは蔑みの目が、隣からは冷気が向けられ、居た堪れなくなる頃には救いの生ビールが到着してくれた。
全員がグラスを手に取り、今回の企画者である一色が乾杯の音頭を取り始める。
「ではでは、改めてになりますが、私たちの再会を祝してー」
「「「「乾杯」」」」
鯛をはじめとした刺身の数々、黒豚を使用した豆乳しゃぶしゃぶ鍋は非常に美味だった。特に鍋は豆乳自体にしっかりと味付けがされており、コンソメやバター、塩胡椒が効いた汁でのしゃぶしゃぶは男の俺でも満足感が大きかった。
食べ物が美味しければ、お酒も進むのは必然である。このメンバーでは初のお酒を飲む機会という喜びと、帰る必要が無いという安心感から、由比ヶ浜や一色が勧めてくるままに飲酒をする。
最近はセーブして飲んでいたので、久しぶりにかなり酔った状態になってしまった。
「ではでは、そろそろ部屋に戻って寝ましょうか」
「だね、明日の朝御飯は8時から予定だから、ゆっくり眠れそう……」
飲み放題の時間も終わったので、本日は解散になるようだ。由比ヶ浜も随分と眠そうに見える。俺は先ほど少し眠ったので、まだ眠気は来ていないが、アルコールを摂取して満腹になれば眠くなるのは当たり前だろう。
部屋に戻る際、前方で歩いている由比ヶ浜が雪ノ下に何か耳打ちをすると、雪ノ下の肩が僅かに震えていた。気になるのでボーッと様子を見ていたのだが、後ろからの一色の声に遮られてしまう。
「雪乃先輩も酔ってるみたいなので、転ばないようにベッドまでは支えてあげてくださいね」
「おー、善処するわ」
素直ですね、と笑って由比ヶ浜の方にそそくさと歩いていってしまう。よく分からないけれど、彼女なりに心配してくれているのだろう。優しい後輩を持てて嬉しいものである。
先に由比ヶ浜たちの部屋に到着したので、そこでおやすみの挨拶をして二人とは別れた。
こちらの部屋に到着したので、鍵を開けて扉を開く。雪ノ下が入りやすいように、扉を手で押さえて入室を促した。擦れ違う際に彼女の頬や耳が赤くなっていることに気付く。やはり結構酔っているのだろうか。
「雪ノ下、結構赤くなってるけど大丈夫か?…寝る前に水とか飲んだ方がいいんじゃね」
「……席を立つ前に飲んだから平気よ。その、気遣ってくれてありがとう」
彼女の表情には確かにまだ余裕がありそうだった。それならもう寝るだけだろうと思い、雪ノ下に近づく。少しアルコールの匂いはするけれど、清涼感のあるサボンや独特な甘い香りの方が強く、鼓動が早くなる。
「……もう寝るだろ、ベッドまで連れてくわ」
「えっ?!」
彼女の肩を抱き、転ばないようにゆっくりと歩き出す。手に伝わる温度がいつもより高いのはアルコールのせいなのだろう。歩き方がぎこちなくなっているところを見るに、転ぶ危険性は確かにありそうだ。一色のアドバイスには感謝しないといけないな。
ベッドは入口から近い方を選び、そこに雪ノ下を丁寧に座らせる。肩から離した手がまだ熱いのは俺のせいであろう。今の状態でベッドに座る彼女を見てしまうと、俺の残されている理性が崩れる可能性があるので、振り返らずに自分のベッドへと向かった。後ろからか細い声が聞こえてくるが、今だけは気付かない振りをさせて欲しかった。
「それじゃあ、おやすみ」
「……ええ、比企谷君もおやすみなさい」
部屋に設置されているリモコンを使用して明かりを落とし、おやすみの挨拶をする。当初は雪ノ下と二人きりの部屋で眠れるとは思っていなかったが、アルコールの力で案外眠れるかもしれない。……そう思えていたのも始めの数分程度であった。
僅か1mちょっとの距離から聞こえる衣擦れの音、彼女の呼吸音、これを聞いては正気を保つのが精々であり、眠れるような精神状態には到底なれなかった。横を向けば彼女が寝ている、触れようと思えば触れることができる。お酒を飲んだのは間違いだっただろうことに、この時になって俺は漸く気付くことが出来た。
どうせ眠れないのだ、せめて彼女の綺麗な横顔でも覗き見くらいはさせて頂こう。そう考えて彼女の方を向く。そこで見たものは期待していた横顔、ではなく、彼女のこちらを見つめて微笑む表情であった。
「ふふふ、やっとこっちを見てくれたわね……」
「……お前はいつからこっちを見てたんだよ」
最初からよ、と悪戯が成功した少女のような笑みを浮かべる。理性を言い訳にして、彼女を蔑ろにして見ないようにしていた自分が恥ずかしくなる。彼女はずっと俺のことを気にしてくれていたというのに。
「……正直、眠れる気がしない」
「それはあなたが夕食前に寝ていたからでしょ……、私もまだ眠くはないけれどね」
彼女の声音とその表情は、さも眠れないことを喜ぶようであった。彼女は布団から右手だけを出し、口元を隠すように笑っている。そんな幼さを残した彼女の様子を見ても、俺の中にある欲望は燻り続けてしまっている。
今が丁度いい距離感なのだとは思う。俺が限界まで手を伸ばしたとしても、彼女には触れることができない。けれど、彼女も手を伸ばしてくれたなら、その手を掴むことができる。自分だけではなく、彼女にも同じ気持ちがあるのなら。
「まだ寝ないのなら、一緒にテラスに出ない?少し夜風に当たりたいのだけど…」
「……眠れそうにないし、俺は構わないぞ」
この火照ってしまっている身体を冷ませるには良い機会だろうと思い、彼女に同意した。
テラスに出ると、少し肌寒さを感じる。5月とはいえ、こんな山奥の夜では16℃を下回っていそうだった。隣に立つ彼女も同じなのだろうけれど、触れようすることが少しだけ怖かった。
何も話さずにただ月を見ていた。風が吹き、木々の葉が揺れ、彼女の目が細められる。月明りに照らされる雪ノ下の繊麗な横顔には儚さすら感じさせる。彼女は今、何を考えているのだろうか。
その口が開かれるまで、俺はずっとその横顔を見ていた。
「……今日はここに来れてよかった。由比ヶ浜さんや一色さんと一緒に温泉にも入ることが出来た。そして何よりも、あなたとこうして過ごせるのだから」
俺の目を見ながら幸せそうに話すその言葉をゆっくりと咀嚼する。正しく、間違わないように、その意味を飲み込んでいく。自身のことはまだ信じられないけれど、彼女は、彼女だけは信じることができる。
時間はかかったけれど、彼女の与えてくれた言葉に俺の想いを返そう。
「……俺もここに来れてよかった。雪ノ下とここに来れて、こんな風に過ごせて本当に」
「またこんな風に何処かへ連れてきてくれる?」
「……雪ノ下が望んでくれるなら」
彼女が望んでくれるのなら、喜んで何処にでも連れ出そう。俺が動くための必要十分条件はそれだけなのだから。
「ふふ、では次はここよりも大きなお風呂付の部屋にしましょうね」
「ここよりも豪華な部屋ってなると、探すのが大変そうだな」
「別に大変でもいいじゃない、……二人で一緒に探していければ」
その時の彼女からは儚さではなく、ただただ温かさを感じるだけだった。
思えば、雪ノ下は常に二人で過ごすことを意識してくれていた気がする。逃げ出さず、投げ出さず、誠実に。そんな彼女の想いが俺の情けない心に火を入れてくれる。身体を温めてくれる。
きちんと返していこう。言葉も想いも、この温度も。
心なしか眠たげになった彼女の肩を抱き、テラスを後にする。少しだけ冷えてしまった身体を温められるように、先ほどよりもずっと近くに抱いて。
きっと今ならば眠ることができるだろう。
同じ部屋で、同じ想いで。
温泉旅行編後編でした。
感想を頂けることが本当に嬉しいです。いつもありがとうございます。