やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
次の週の天気予報が全て雨時々曇りと表示され、雨が降らなければ嬉しくなってしまうし、降れば予報通りだと納得せざるを得ない……そんな季節が今年もやって来ようとしている。
温泉旅行に始まり、添い寝、ハグ、ラッキースケベとイベントに富んだ5月も終わり、色の少なかった道端に紫陽花が鮮やかな彩りを添えてくれる6月に入った。
雪ノ下との関係はハグをしてしまったあの日から無事に、そう無事に特に変わってはいない。毎週のように晩飯を食べに行き、休みには何処かへ出掛けたり、彼女の家で過ごしたりしている。幸せと言っていいだろう。
そもそも、あんな勝負で勝ち取った権利で一度ハグが出来たとしても、次に繋がる筈も無かった。
本日は土曜日なので、当たり前のように雪ノ下のマンションに来ている。慣れ過ぎて無意識に来れるレベル。もし記憶を失っても帰巣本能だけで辿り着けるかもしれない。
雪ノ下さん特製のデミグラスオムライスを完食し、幸福指数が著しく高まったタイミングで、彼女から本日の行動指針を提案をされる。
「……その、今日は比企谷君の家を掃除しに行きたいのだけど」
「いや、それは流石に悪いからいいわ」
雪ノ下の家で美味しいお昼をご馳走してもらった挙句に、自分の家を掃除させるのは申し訳が無さ過ぎる。どんな立場の人間ならそれが許されるのだろうか。俺なら絶対に許さない。
俺がお断りしたことが意外だったのか、雪ノ下は顎に人差し指を立てて下を向き、何かを考え始めた。いや、本当に申し訳なさで断ってるだけだからね?言葉足らずだったのだろうか。
「毎週のように美味しいご飯をご馳走になってるし、家の掃除までやってもらったら何を返せばいいか分からなくなるんだよ……」
少しは俺の気持ちが伝わったのだろうか、彼女は少し明るい表情になってこちらを見つめてくれる。
「私は美味しそうに食べてくれるのが嬉しくて作ってるだけだから、貸し借りは無しで良いわよ。それにあなただって、お皿洗いとかお風呂掃除とかしてくれるじゃない」
明らかに俺の方が受け取り過ぎているのだが、雪ノ下の好意を無下にするのは気が引けてしまった。何か別のことできっちりと恩返しをすることにして、今回は掃除を手伝ってもらっても良いのではないだろうか。
「……じゃあ悪いんだが、手伝いを頼めるか?」
「ええ、構わないわ」
俺の申し出に対して、雪ノ下は了承の言葉と共に小さく拳を握っている。ガッツポーズにも見えるが、恐らくやる気を出しているだけだろう。この部屋を見る限り、部屋の掃除は間違いなく得意そうだしね。
そんなこんなで、雪ノ下の家から俺の家へと向かうことになったのだが、雪ノ下が持っていくために用意していた鞄がそこそこに大きい。彼女曰く、掃除道具とかが入っているらしいのだが、旅行にでも行くのかというサイズである。彼女クラスの掃除スキルを持っていると、場所によって洗剤とかも変えたりするのだろうか。
それにしても、事前に掃除道具の用意までしてくれている彼女には感謝しかなかったので、その大きな鞄を持つことへの憂いは一切なかった。
雪ノ下が我が家の敷居を跨ぐのは、およそ2ヶ月振りであろう。あの頃から部屋の内観や備品は特に変わってはいないのだが、彼女が俺用のスリッパを用意してくれていたことを考えると、俺も何か用意した方が良かったのだろうか。
そんな少しの申し訳なさを玄関に入って感じている間に、雪ノ下はそそくさと洗面所へと向かってしまった。
我が家の洗面所は普通に狭い。同時に二人入ると手狭になってしまうので、廊下の少し手前で待機をする。水の流れる音が止まり、少ししてから雪ノ下が廊下へと戻ってくる。その頬が少し赤くなっているのは何故なのだろうか。洗面所に入り、自分の手を洗いながら考えたのだが、その理由についてはちっとも浮かばなかった。
「……結構埃が溜まっているわね」
専門家が俺の部屋に入ってすぐに問題点を挙げてくれる。確かに、壁際や窓ガラス、ベッドの下等は普段掃除をしていないので溜まっているかもしれない。
昨年度であれば、暇を持て余していたので定期的に掃除をしていたのだが、今年度に入ってからは、まぁ、その、結構充実していたので疎かにしてしまっていたのだ。逆に雪ノ下はいつ掃除をしているのだろうか、俺の部屋よりもずっと広い彼女の部屋を掃除するのには時間が掛かっているだろうに。
「あー……、すまん。雪ノ下が来てくれるんだったらちゃんと掃除しとけば良かったわ」
「それだと、今日私が掃除しに来た意味がないじゃない。……もし、これからちゃんと掃除をするのであれば、次に私が掃除をしに来るのはあなたがこの部屋を出る時かしらね」
「俺がこの部屋を追い出される前提で話をするのはやめろ、俺はこう見えて近隣には迷惑を掛けないように気を付けているんだぞ」
あら、ゾンビが住んでいるだけで迷惑をかけているじゃない、とでも思っているのだろうか。しかし、近隣の方にはそんな風には思われていない筈だ。だってほとんど顔を合わせたことないしね。理由が悲しい。
「家具も多くはないし、これならすぐに引っ越し出来そうね……」
雪ノ下さんは俺の言葉を無視して引っ越しを想定しているようだった。え、本当に俺はこの部屋を追い出されてしまうのではないだろうか。急に不安になってきたんだが。
用意していた鞄から掃除道具である洗剤スプレーと何枚かの厚めの布、そしてゴム手袋等を取り出して掃除の用意をしてくれる。ゴム手袋は青とピンクの2セット用意してくれており、彼女の気遣いに嬉しくなる。
また、汚れてもいいようにだろうか、オーバーサイズの青色のTシャツを上に重ね着している。少し違うが、彼シャツみたいな感じでとても可愛らしく見える。思わず見惚れてしまったのも仕方ないだろう。
雪ノ下の指示で床を拭き、壁を拭き、窓ガラスを拭いていく。拭き掃除をする箇所によって、手法を変えながら綺麗に磨かれていき、2時間が経過する頃には一通り綺麗になったように見られた。
「水回りの掃除は後でやるとして、……その、一つ勝負をしましょうか」
休憩がてら、俺のベッドに並んで座っていたところ、雪ノ下が俺の顔を覗き込むようにして挑戦的なその表情を見せてくれた。
勝負と聞き、前回のハグを思い出してしまい少し赤面してしまっている気がする。それに気付いたのであろう、雪ノ下のその可愛らしい表情に揶揄いのアクセントが追加される。
「……別に構わないが、その、あんま重い内容はダメだからな。その、人生とか」
今回の雪ノ下さんは間違いなく勝ちに来ているだろう。その表情を見れば火を見るよりも明らかである。別にあげたくない訳ではないのだが、勝負とかではない形にしたいとは思っている。
「ふふ、重くないし、片腕……いえ、片手間で出来ることぐらいなら構わないかしら?」
「まぁ、それくらいなら全然構わんぞ。……勝負内容はどうするんだ」
彼女は楽しそうに条件を話しているのだが、逆に片手間で可能なお願いごとって何があるだろうか。俺が勝つ可能性もあるので、一応考えておいた方が良いだろうか。いや、皮算用になりそうなので、勝ってから考えることにしよう。まずは勝負内容を気にするべきだろう。
「私はこれからスーパーに買い物に行くわ。比企谷君は今晩の料理のジャンルを予想して、当てることが出来たらあなたの勝ち、外れたら私の勝ちにしましょう」
なるほど、中華とかイタリアン等を予想すればいいのか。メニューを当てろだったら難しいけれど、ジャンルだけならそこまで不利じゃない気がする。我が家にある調理器具では作れる料理の幅も広くないだろう。
「趣旨は分かったんだが、俺はその予想を何時言えばいいんだ?買い物後だったら食材で予想出来るだろうし」
「……そうね、私が買い物に行っている間に部屋で考えてもらって、私が戻ってきたタイミングで発表にしましょうか」
その料理を作るのだと分かる食材を買ってくるから、と話してくれる雪ノ下。彼女の話を聞いていると、一人で買い物に行くつもりなのだろうか。
「おい、もうすぐ暗くなる時間だし、一人で行かせねーよ。今から適当に紙に書くからちょっと待っててくれ」
ベッドから立ち上がり、仕事用の鞄から紙とボールペンを取り出す。その紙に ”中華”と書き、折りたたんでからパンツのポケットへと仕舞った。
準備が出来たので、雪ノ下の方へと身体を戻すと、口をもごもごさせて頬を少しだけ赤くしている姿が目に入った。そんな彼女と目が合うと、もごつかせていたその口を開き始める。
「……その、ちゃんと予想しないで勝てると思っているのかしら?」
「お前を一人で行かせて危険に晒すくらいなら俺の負けでいいわ」
この辺りの治安は決して悪くはないのだが、雪ノ下を一人で歩かせるのは躊躇してしまう。そもそも、彼女なら普通に迷子になる可能性もあるんですよね。危険が危ないのである。
そんな守るべき彼女はやる気満々なようで、急ぎベッドから立ち上がり、洗面所の方へと歩いて行ってしまった。その大きいTシャツとか脱がないといけないもんね。可愛いからまだ見ていたかったので少し残念な気持ちになる。
買い物を済ませて、雪ノ下が調理を開始してから数十分が経過した。俺の部屋にはとても美味しそうなカレーの匂いが充満している。そう、買い物時点で分かってはいたのだが、今夜のメニューはカレーらしい。普通に中華からは遠いメニューだったので当たり前のように敗北してしまった。
大盛りの炊き立てご飯の横には美味しそうなポークカレーが添えられており、色の対比が食欲を推進させる。実は昨日のお昼にも会社の食堂でカレーを食べたのだが、それよりも圧倒的に美味しそうなので不満は全くない。何なら涎が出そうまである。
頂きますをして、ご飯とカレーを掬い上げて口へと運ぶ。溶け出した野菜の旨味と豚肉の脂がカレーのスパイシーさと合わさって堪らない味になっている。美味すぎて大盛りにしてくれたのにお代わりしちゃうかもしれない。
忙しなくスプーンと口を動かす俺を見て、微笑む雪ノ下。俺がお代わりをするまで、俺たちの間に会話は特にはなかった。
「それで、比企谷君の予想は当たっていたのかしら?」
「……いや、中華って書いたから外れだな。正解はインドなの?和食なの?」
カレーと言えばインド料理なのだが、日本のカレーは本場とは異なる進化をしているので、実質和食とも言われている。そのため、どちらが正解なのかは少し気になるところだった。
「ふふ、外れているのであればどちらでも構わないわよ」
雪ノ下は何やら意味深に微笑んでいる。もしかしたら、前回負けたのが悔しくて、絶対に勝てる勝負を吹っかけてきたのだろうか。狡い気もするが、大食い勝負を吹っかけた俺が非難できる筈もない。それに、負けて落ち込む彼女を見るよりも、勝って笑っている彼女を見ている方が俺としても嬉しかった。
綺麗に完食をした皿を洗う勢いで、シンク周りの掃除を行う。雪ノ下は風呂場の方をやってくれるらしく、大きい鞄を持って風呂場へと向かってくれている。
シンク周りが終わったので、手伝いに行きたいのは山々なのだが、少し前に起こしてしまった事件があるので風呂場へ行くのは憚られてしまった。
半刻ほどの時間が経ち、途中から聞こえてきていた水の流れる音が止まり、風呂場の扉が開かれる音がした。随分と丁寧に洗ってくれていたのだろう。俺は労いの気持ちでグラスに水を注ぎ、彼女に渡す準備をしていた。しかし、雪ノ下は一向に現れず、気が付けばドライヤーの音が聞こえてくる。
………まさか湯浴みをしていたのだろうか。いや、普通に考えて掃除途中に濡れてしまった髪か衣服を乾かしているのだろう。そんな俺の予想はいとも簡単に崩れ去った。
「悪いとは思ったけれど、先にお風呂に入らせてもらったわよ」
この前見た白色のパジャマとは違い、ボタンの付いたシャツタイプの水色のパジャマを着て彼女は洗面所から出てきた。何で風呂入ってるのと突っ込みたい気持ちはあるのだが、視覚的情報に俺の思考が阻害されてしまって言葉が出てこない。
言語中枢が回復する頃には、雪ノ下に洗面所へと押し込まれていた。
自分の家の浴室に嗅ぎなれない匂いが充満している。雪ノ下の家では非現実感で思考をぶっ飛ばして何とか平静を保っていたのだが、自分の家となるとその手法も使えないだろう。
髪を洗おうとシャンプー置き場を見やると、見慣れない小さなボトルが幾つか並んでいる。同棲したらこんな感じなのだろうか…………。
何とか風呂場から出ると、洗面台には着替えが用意されていた。見覚えのない紺色のそれは、きっと彼女の着ていたパジャマの色違いなのだろう。嬉しくない訳がなかった。
パジャマに着替え、髪を乾かしてから雪ノ下の元へと戻った。色々と言いたいことはあるのだが、まずは感謝の言葉だろう。
「……着替え用意してくれてたんだな、その、助かったわ」
「ふふ、とても良く似合っているわよ」
彼女が嬉しそうに笑う姿を見てしまったら、先程まで言いたかった言葉が出てくることはもうない。今日は負けっぱなしである。
「今日はもう寝ましょうか。比企谷君が奥側に行ってもらえるかしら」
寝るにはまだ少し早い時間なのだが、雪ノ下さんはもう眠りたいようである。小さなポーチを持って洗面所から帰ってきた直後に睡眠を所望してきたのだ。きっと掃除で疲れたのだろう、体力の無い彼女に無理をさせてしまったのかもしれない。
と言うか、雪ノ下さんは至って真面目そうに話しているのだが、こんなセミダブルのベッドで並んで寝る気なのだろうか。広かった雪ノ下の家のベッドならまだしも、これは流石に無理でしょ。
「いや、あんまベッド広くないし、俺は床で寝るから……」
この家の主は俺なのだが、奴隷根性が身に付いているので固い床を選択する。座布団を敷けば何とか眠ることは出来るだろう。
「……そう、なら私も床で寝るわ」
いや、身体痛めちゃうからベッドで寝た方がいいですよ、と説得を試みたのだが、彼女の了承はなかなか得られない。次第に俯いてしまい、拗ねるような声音で小さく呟く。
「隣で寝ないと今日のお願いができないのよ……」
そんな可愛い声で言われてもどうしようもない。ないのだが、横になって悶える必要があるのでベッドに横になりますね。はい、ギリギリまで詰めました。
微かに笑う声が聞こえ、部屋の電気が落とされる。背後から甘い香りとベッドが軋む振動が伝搬され、俺の身体がそれを受信する。視覚的情報が無い分、より他の感覚が鋭敏になり、普段以上に彼女の存在を感じ取ってしまっている。彼女の呼吸音さえも今は鮮明に聞こえてしまう。だから、彼女が何かを口にしようとする前触れすらも分かってしまうのだった。
「……とりあえず、仰向けになってもらえる?」
言われるがままに身体を倒して、天井を見上げる。なるべく腕を縮こませて彼女に触れないように努力をしたのだが、それでも当たってしまい、彼女の熱を感じてしまう。
「…えっと、次は腕を真っ直ぐ伸ばしてもらえるかしら」
やはり腕が身体に当たってしまっているのが不快なのだろうか。俺は彼女に当たらないように左腕を天井へと真っ直ぐ突き上げる。しかし、苦笑する音が聞こえ、彼女にその腕を掴まれてしまった。
「違うわよ、横に真っ直ぐに伸ばしなさい」
言われるが儘に左腕を横へとゆっくりと倒していく。間違っても雪ノ下の顔にぶつけてしまわないようにゆっくりと。
無事に下まで倒したその腕に、温かな重みが加わった。
俺の左腕には彼女の柔らかな笑みが乗せられ、こちらを見つめていた。
「これが今日の勝ったお願いよ。……その、重くはないでしょう?」
………重いです。
その行動が重いし、俺には荷が重いし、責任も重い。軽いのは物理的な重さぐらいである。確かに片手間なのかもしれないが、これはレギュレーション違反ではないだろうか。
しかし、彼女から伝わってくる温度が、想いが嬉しくて、そんな悪言は口から出てこない。それに片腕が動かせない方が俺にとっては都合が良いだろう。両腕が自由だったら何をしてしまうかは分からないのだから。
「………文句はないから早く寝てくれ」
「ふふ、いつもありがとう、比企谷君……」
雪ノ下はそう言葉にして、その熱を持った瞳を綺麗に閉じていった。
本当に疲れていたのだろう、あまり時間も経たずに規則的に胸が小さく上下し始める。
彼女の感謝の言葉にはどういった意味が籠められていたのだろうか。家の掃除までしてもらったのだから、俺の方がずっと感謝をしないといけない筈だろうに。
そんな感謝の気持ちが寝ている彼女にも伝わるように優しく頭を撫でていく。他の気持ちも全部を籠めて、ゆっくりと丁寧に。言葉ではまだ伝えられそうにはないから。
眠りに落ちる前に見た彼女のその表情は、優しく笑っているようだった。
毎回になりますが、感想を頂けて本当に嬉しいです。やる気に直結しています。