やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
「……俺はお盆休みに実家に戻ろうかと思ってるんだけど、雪ノ下も来るか?」
私が実家に帰る予定は特にないことを彼に伝えると、自然と彼の口からそんな言葉が紡がれた。
一瞬、婚約でもしていたのかと錯覚を覚えそうになるほどに彼の口振りは自然であった。
その錯覚を差し置いたとしても、私の心は弾むようだった。少なくとも、彼に実家に呼んでも良いと思われているという証拠であり、私にとっても好機であったからだ。
それに、あの誕生日の夜から然程時間が置かれてはいないことも大きな要因だろう。
彼の問いには二つ返事で了承をし、本日に向けて準備を進めてきた。手土産の選択のために、さり気なく彼の実家で出される菓子の種類について聞き取り調査を行ったり、第一印象を良くするための服装を選んだり等だ。ただし、彼の口からは基本小町さんの情報しか引き出せないから、そこからの類推にはなってしまったけれど。
彼が迎えに来るまではもう少しだけ時間がある。もう一度不備がないかを確認しましょう。
本日4度目の最終確認が終わる頃、彼からの到着の連絡が届いた。
小町に会いたいという一心で実家へと帰省する。手土産に雪ノ下を連れて行けばポイントカンストして、また気軽に連絡してくれるようになって欲しいなというほんの僅かな下心と、雪ノ下が実家に帰らないのであれば、なるべく一緒に居たいという大部分の想いから彼女を誘うことにした。
結果としては無事に来てくれることになったので嬉しい限りである。きっと小町とカマクラを可愛がってくれるのだろう。
炎天下の中、彼女の手荷物と柔らかな手を握って実家へと到着した。インターホンを鳴らすと、握った手の平から震えが伝わってくる。隣に立つ彼女を見やると、目を閉じて深呼吸をし始めていた。別に猫も小町も逃げないぞ。
「お兄ちゃんおかえ………えっ?!」
扉が開き、小町がその可愛らしい姿を見せながらも若干の気怠さを隠し切れずに出迎えを始める。だが、俺の隣に立っている手土産を確認した途端にその態度は一変した。
しゅばばと擬音が聞こえてきそうな軽快な動きで急ぎ玄関から外へと飛び出し、開けた扉を手で押さえながら頭をペコペコと下げる。
「雪乃さんも来てくれたんですか! いやー、外は暑いですから中へどうぞどうぞ……」
「ええ、ありがとう小町さん」
実の兄との対応の差が気になるところではあるのだが、雪ノ下のことを恭しく出迎えてくれることには感謝するしかない。雪ノ下は久方振りに会う小町に少し緊張しているようにも見えたけれど、これでもう憂いは無くなったのではないだろうか。今となっては兄妹揃って彼女の笑顔に見惚れてしまっているのだから。
俺はそんな雪ノ下の後に続く形で、久し振りに我が家の敷居を跨いだ。
「……比企谷君、今はその、いらっしゃらないのかしら?」
リビングへと足を踏み入れると、雪ノ下は小声で俺に耳打ちをしてくる。懐かしい我が家の匂いとは異なる優しく甘いサボンを香らせている彼女の表情は少し不安げに見えた。ちゃんと居るから安心して欲しい。
「小町、早速で悪いんだけど連れてきてくれ」
了解であります、とポーズを取って階段を昇っていく。大学生にもなってその仕草が似合っているのだからやはり小町は小町である。大学生どころか、来年には社会人なんですけどね。
暫くしてパタパタと階段を降りてくる音が聞こえ始めると、雪ノ下は目を閉じてゆっくりと息を吐く。そして瞼を上げ、開かれるであろう扉を真剣な眼差しで注視していた。
やがてその扉が開き、小町の笑顔が輝き、腕に抱かれたカマクラが「にゃー」と鳴いた。
「お待たせしました……ってお兄ちゃん、どうして雪乃さんを立たせたままなの?」
「……猫に対する意気込みが凄くてな、ソファーに座れって言うのも憚られたんだよ」
俺は呆けている雪ノ下の腕を取ってソファーへと誘導し、小町は座った彼女のその膝の上にカマクラをそっと下す。比企谷兄妹のコンビ打ちに、然しもの雪ノ下も目を丸くしてされるが儘である。
雪ノ下の匂いを頻りに嗅いでいたカマクラが彼女のお腹を枕にこてんと寝転がったのを見て、彼女はその口角を上げて笑顔を見せてくれた。
カマクラを撫でる彼女の優しい笑みを中心に、この空間には優しい時間が流れ始めていた。
「両親は今、父方の実家に帰省してるので、かーくんと遊んだり、お兄ちゃんで遊んだりしてゆっくり寛いで下さいね!」
カマクラを撫でる彼女の笑みを中心に、この空間の時間が一瞬停止した。
「………そう、ではお言葉に甘えてあなたのお兄さんで後で遊ばせてもらうわね」
「どうぞどうぞー」
「えっ、待って?」
小町は雪ノ下の急変に気付いているのか分からないが、兄を生贄に捧げることに躊躇いが一切ない。兄の事など見向きもせずに雪ノ下の荷物の整理に取り掛かろうとしている。
「……あれ、もしかしてこれってお土産ですか? ありがとうございます、雪乃さん」
小町のその言葉で、雪ノ下の恐ろしい笑みは影を潜め、そわそわと可愛らしい雰囲気へと変貌する。今日の雪ノ下さんはどうしちゃったのだろうか、そして俺は助かったのだろうか。
「………ええ、小町さんとご両親にと思って」
彼女のその言葉を聞いて小町は少し息を漏らすと、とびっきりの笑顔で口を開いた。
「ありがとうございます、雪乃さん! それと、両親は雪乃さんのことを充分に知っていますし、間違いなく良く思っているので固くならなくて大丈夫ですよー」
本当かと俺を期待の眼差しで見詰める彼女に首の動きだけで肯定する。
大学生になり、お酒を飲める歳になってからは親父と一緒に晩酌を交わす機会も少なくはなかった。その際に俺から話す内容なんて、今も近い距離に居てくれる彼女たちの話が主に決まっていた。
始めは俺の言葉に猜疑心を持っていた親父だったが、愛する小町の言葉も合わさると信じてくれるようになった。捻くれた息子と仲良くしてくれる女性が二人も居ることに涙された時には少し苛立ちを覚えたけれど、両親は彼女たちのことを女神か何かだと認識するようになっていた。
安心してくれたのか、彼女にしては珍しく背筋を少し丸めて息を吐いていた。比企谷家の末っ子のカマクラは雪ノ下を見上げて優しい声で鳴いている。カマクラだって家族なのだから、きっと同じ認識なのだろう。
再び撫で始めた雪ノ下を横目に見ながら、俺は小町と共に荷物の整理をし始めたのだった。
夕飯の買い出しに向かった小町を見送った俺たちは、雪ノ下の希望で俺の自室へと移動していた。カマクラはリビングで寝ているので、正真正銘二人きりになっている。
ベッドに座って肩を寄せ合い、外から聞こえてくる騒がしい蝉の合唱を背景音にして俺たちは静かに言葉を交わし始める。
「ねぇ、ご両親が不在なら普通は教えてくれると思わない?」
「……言ってませんでしたっけ」
隣から発せられる熱で額から汗が滴り落ちる。
おかしい、この状況で甘酸っぱい雰囲気にならないのは間違っている。
隣の彼女は確かな熱を持ちながらも、冷ややかな視線でこちらを伺いながら言葉を続ける。
「実家の状況について訊いても小町さんの情報しか話してくれなかったじゃない」
「……いや、小町しか居ないから話す必要ないかと思って」
小町が居る以上の情報が必要なのだろうか、いや要らない。比企谷家男子の共通認識まである。しかし、彼女とは認識が違っていたようで、久々にお怒りモードを相手することになってしまっている。
ここまで怒るってことは、何か強い思い入れがあったのかもしれない。手土産に高そうなどら焼きを用意してくれていたり、暑いのにジャケットを羽織っていたりしたことには彼女なりに考えがあったのだろう。
「俺が悪かった。きっと色んなことを考えたり、準備してくれてたんだよな」
「……嫌われてしまったら困るもの」
彼女は不機嫌さを残しながらも、気弱そうに呟く。
その心配は確実に不要なので、訂正しておこうと少し強気に言葉を投げる。
「比企谷家で雪ノ下を嫌う人間なんて居る筈ないだろ……カマクラだって即堕ちしてたぞ」
久し振りに帰ってきた俺には見向きもせずに雪ノ下の匂いだけで懐いてたからね。気持ちは大変よく分かるのだが。
何時の間にか目尻を下げて、優しい目をした彼女が問い掛けてくる。
「……ご両親にも好かれていると思っていいのかしら?」
「小町も言ってたけど、気に入ってると思うぞ」
「……小町さんとカマクラさんにも好かれているのよね?」
「下手をしなくても多分俺よりも好かれているまであるな」
小町には長年付き添った兄の方が慕っていて欲しいとは思うけれど、雪ノ下への態度を見ると怪しいどころか、答えが出てしまっている気もする。カマクラに至っては俺は好かれていない自信があるので明らかだろう。
雪ノ下はそこまで聞くと、頬を赤く染めて俺を上目で見詰め始める。ベッドに置いていた手は重ねられ、太腿にもその柔らかな手が置かれてしまい鼓動の動きが速くなる。
蠱惑的な表情で心の奥まで見透かされそうなほどに深く見入られ、その薄桃色で柔らかな唇を咲かせ始める。
「もう一人にも好かれているってことでいいのかしら?」
「…………嫌いなやつを実家に招待したりはしないだろ」
小町から実家に帰って来るか確認の連絡を受け、最初に思い浮かんだのが雪ノ下の予定だったのだから考えるまでもない。無論、招待することへの抵抗など皆無だった。
高鳴る鼓動を抑えるように口にしたその言葉を、彼女はただ静かに聞いてくれていた。
蝉の声よりも煩い鼓動が収まる頃、やがて揶揄うような口振りで彼女は言葉を紡ぎ始める。
「……そう、なら今度は私の実家に来てくれるのであれば今回の事は不問にしてあげるわ」
「それってご両親は居ない時にってことですよね?」
「ふふっ、必要ない情報らしいから言わないでおくわね」
男と女では両親に会う難易度は段違いだと思うのだが、そこら辺の理解はしてくれませんかね。
厳しい和解の条件に焦っている俺を差し置いて、彼女は心底楽しそうに笑っていた。
折角帰ってきたからには小町の料理を食べたい派閥の俺と、雪ノ下の料理が食べたい派閥の小町の熾烈な争いの結果、女性二人の共同作業による晩御飯が完成していた。
「美味い、美味すぎるぞ小町……」
「それ作ったのほとんど雪乃さんだよ」
「………」
小町からの視線が痛い、隣からの視線は生暖かくてむず痒い。ただ、この生姜焼きは美味しい。
この雰囲気を有耶無耶にすべく、俺は一度箸を置いて小町に気になっていたことを訊いてみることにした。
「にしても、最近連絡しても返事をしてくれないのは何か理由があったのか?」
就職するまでは気軽に連絡してくれていたのに、就職を機に一人暮らしを始めてからは殆ど連絡は来ないし、こちらから送っても既読スルーされてしまっていた。こちとら悲し過ぎて有給を取ったこともあるんだぞ。
小町は隣に座っている雪ノ下に視線を動かして微笑むと、箸をゆっくりと置いて背筋を伸ばして俺の目を見詰める。大人になった彼女の優しい瞳で俺を見てくれていた。
「……お兄ちゃんの小町への愛情を少しでも他の人に向けて欲しかったからだよ」
「おい、小町への愛を他のやつに向けるわけないだろ。小町の代わりなんて居る筈ない」
「相も変わらずシスコンだなぁ…………ポイント高いけど」
小町は苦笑しながら少し紅潮している頬を指先で搔いている。どうやら小町からの愛の試練に合格したみたいなので、再び仲睦まじい千葉の兄妹に戻ることが出来るのだろう。俺はもう千葉在住じゃないけれど。
こほん、とお隣さんから咳払いが聞こえてくると小町は顔色を戻して話を続けた。
「小町の代わりは居ないかもしれないけど、代わりに使える時間とかお金とか色々あるじゃん? 去年はあんまり成果無かったみたいだけど、今年はバッチリみたいだしねー」
言い終わる前にニヤリとした表情へと変わって、俺と雪ノ下を交互に眺める。
フォローを求めて雪ノ下の方に目線を動かすと、同じようにこちらを見ていた彼女と視線がぶつかった。動揺を誤魔化すようにお椀を持ち上げるタイミングまでもが同時になってしまい、目の前の小町に揶揄いの表情で笑われてしまった。
「これは今夜の雪乃さんのお布団はお兄ちゃんの部屋に用意しても良さそうですねー」
「あら、別に布団を用意してもらわなくても結構よ。同じベッドで眠るから……ね?」
完全に揶揄している小町に対して、雪ノ下さんが強気に反撃している。完全に巻き込まれて事故ったのだが、最後の確認が可愛すぎて反射的に首を縦に振ってしまった。
「雪乃義姉ちゃんとお呼びしても……?」
反撃を受けた小町は完全に堕ちていた。こんな兄より雪ノ下みたいな姉が欲しかったのだろう。
「……そういうやり方は狡くないかしら、比企谷君」
「ふっ、小町に文句があるなら俺に言っても無駄だぞ」
小町の狡いほどの可愛さは俺には制御不能である。可愛くない部分も合わせて、俺が制御出来た時代は遥か昔だろう。今も昔も変わらない小町然とした彼女に無性に懐かしさを覚えながら、俺は箸を握り直して食事を再開した。
順番に風呂に入って、就寝のために各々の部屋へと向かい始める。
結局、雪ノ下の布団は小町の部屋に敷かれることになった。これは小町の希望で、色々話したいことがあるからだそうだ。小町に昨夜はお楽しみでしたねと言われてしまう朝を回避出来ることは素直に喜ばしい。
ソファーで隣に座っていた雪ノ下は小町がうきうきでリビングから出ていくのを確認すると、俺との空いた距離を静かに埋めて耳元で甘い声で囁いてくる。
「……その、寂しくなったら呼んでもいいわよ」
「…………呼ばないから安心しろ」
一瞬で眠気を剥ぎ取られながらも、彼女の口撃をなんとか回避する。
寂しくならないと言えなかったのは、きっと噓をつくことになるからだ。
満足そうに微笑んでリビングを出る彼女の背中を眺めながら、俺は様々な感情を押し出すように溜息を長々と吐いていた。
俺が自室へと向かうことが出来たのは、彼女の足音が聞こえなくなって暫く経ってからになるのだった。
ベッドが軋む音が聞こえ、背中には温かな感触が添えられる。やがて肩に柔らかな手が添えられると、俺の瞼は次第に開かれていった。
目の前には少し驚いたようにその瞳を大きく開けている雪ノ下が存在していた。暗がりでもその頬が紅く染まっていることを確認することが出来る。めっちゃ可愛い。
「……ん、呼んだつもりはなかったんだが」
「……その、布団をカマクラさんに取られてしまったから」
カマクラはたまに布団の真ん中で丸くなることもあるし、トイレにでも行く際に居場所を取られたのだろう。朝起きたらカマクラにチュールでもあげようかなと考えながら、俺は反射で腕を横に伸ばしていた。
腕に乗せられた体温がいつもよりも熱く感じる。一人で眠ってしまって俺自身が冷めていたのだろうか。その温もりを求めるように彼女の背中へと手を伸ばすと、同じように彼女の腕が俺の方へと伸びていく。彼女の手は俺の背中ではなく俺の頭へと着地し、好き勝手に動き回される。
「比企谷君だって私の頭を撫でているのだから、私だってしてもいい筈よね」
文句はないので黙って撫で回されることにする。俺も彼女が寝ている間に好き勝手に撫でているのだもの。
「ふふ、少しカマクラさんに似た触り心地かもしれないわね」
「……飼い主に似るって言うしな」
主かと言われると間違いなくノーなのだが、家族で同性だから似る部分もあるのだろう。
「……それならもう少し私に似た部分があっても良いと思うのだけど」
頭の撫で方が雑になっていく。相変わらず俺のことをペットだと思っているのだろうか。
まだ家族でもないし、性別も違うのだから似てないで当然だろうし、何なら似てない方が良いに決まっている。
「………悪い、少し眠るわ」
眠い頭で考え事をするのも限界だったので、一言呟いて瞼を閉じていった。
撫でる動きが静かで丁寧になったことで、意識を保つことが難しくなる。とても心地が良くて幸せな気分になっていく。
一人で寝ていた時には無かった落ち着く香りと自分よりも高い彼女の温もりに包まれながら、少しずつ深いところへと落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと。
彼女の甘い優しい声が耳朶に響き渡ると、俺の意識はそこで途切れる。
「……本当に幸せそうな顔で眠るのよね、あなたは」
夏のお話はこれで終わりになります。
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