やはり俺の社会人生活は間違っている   作:kuronekoteru

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やはり俺の社会人生活は間違っている #24

 

 未だに厳しい残暑の残る9月へと突入し、現在はその下旬へと差し掛かり始めている。

 台風は夏が終わる前に需要も無いのに駆け込みとして何度も訪日し、都心の交通機関に平気で影響を与えてくれる。早朝から電車が止まってくれたら休めるかもしれないのだが、大体は努力すれば通勤可能に調整されているためにストレスと疲労が溜まった状態で仕事をする羽目になるのだ。これが本当に辛いから勘弁して欲しい。

 台風が水不足の解消に役立ったりすることは百も承知しているのだが、そう何回も来る必要はないのではないだろうか。あと、可能でしたら夜中に来ていただけると助かります。

 

 会社までの行程が厳しい季節なのは仕方ないとして、現在弊社では新製品のリリースによる影響で業務が逼迫されてしまっている。普段は定時退社を余裕で決めている俺なのだが、上長命令で残業指示が出ている現在においては一日数時間程度の残業を強いられていた。

 残業代が出ないということは一切ないので給料面的には悪くはないのだが、退社する時間が不明瞭なことが唯一で大きな問題となっている。

 

 

「………金曜日に雪乃先輩とご飯食べに行けないだけじゃないですか?」

「ばっかお前、俺が一週間何の為に働いてると思ってるんだよ」

 

 八幡は怒っている。目の前のあざとい後輩にではなく、繁忙期の弊社の業務状況について怒りを感じているのだ。9月頭から所謂繁忙期と呼ばれる時期に突入し、もう2週間も連続で雪ノ下とのご飯イベントがキャンセルされてしまっているのである。

 1週目は忙しいのであれば仕方ないわね、と流してくれていた彼女だったが、2週連続となると明らかに残念さを醸し出してしまい、挙句の果てには今日で3週連続記録を達成してしまいそうになっている。残業が確定してしまったら連絡してと言われているので、本日も後にキャンセルのメッセージを送信する必要があるのだろう。

 

「あ、今は食事中なのでその続きは食べ終わってからでお願いしまーす」

 

 俺が怒りを吐き出そうとしていると一色からストップ指示が出る。そうだよね、愚痴聞きながらご飯食べたくないよね、ごめんね。黙って食事を再開した一色を見習って、俺もスプーンを握り直してカレーを食べる態勢に移行する。やはり金曜日にカレーは鉄板だ。

 

 先に完食したので、時間潰しのためにスマホを取り出して画面を表示させる。そこに映っている愛らしい笑顔には常々癒されているのだが、きっと今日も曇らせてしまうことを考えると気が重くなる。どうにかしたいとは思うけれど、現実的な解決策は浮かんでこない。非現実的な案としては、さっさと仕事を辞めることだろうか。

 

 一色は食事を終えて丁寧にごちそうさまと合掌すると、次の瞬間には嫌そうな表情を隠そうともせずにこちらに目線を移して口を開き始める。

 

「で、雪乃先輩のために働いている先輩は何が言いたいんですか?」

「そんなことは言ってない、俺は一週間の勤務に対する褒美が欲しいだけだ」

 

 健康的に働くためには適度な疲労回復とストレス解消が必要になる。毎週金曜日の食事会もその一環なのだから本当に勘弁して欲しい。それに雪ノ下が送ってくる落ち込んだ猫のスタンプも見たくはないのだ。

 

「……何が違うのか全く分かりませんけど、それなら簡単な解決方法があるじゃないですか」

 

 そこまで口にすると、彼女は頬杖をついて勿体振るように一呼吸を置いた。小馬鹿にするような表情で、けれど優しい声音で一色は言葉を繋げてくれる。

 

「同棲すれば毎日のように雪乃先輩とご飯食べられますよね、せんぱい」

 

 

 

 上司から帰宅するように指示が出され、今週のお勤めが終了した達成感よりも疲労感がどっと押し寄せてくる。項垂れた視線で腕時計を見やると、二つの緑の針は定時から3時間が経過していることを物語っていた。

 疲れた身体に鞭を打って残りの体力を絞り出し、何とか帰り支度を済ませて退社する。今週も結局、彼女との約束を駄目にしてしまった。

 

 改めて雪ノ下に謝罪文を送るためにスマホを開くと、彼女から数件のメッセージが来ていることが通知されていた。中身はきっと、残念そうなスタンプと仕事が終わった俺を労う優しい言の葉なのだろう。

 

 そう予測して開いた彼女とのトーク画面が目に入った途端、俺の足は気が付けば駅へと全速力で駆け出し始めていた。一秒でも早く彼女の元へと辿り着くために。

 

『仕事が終わったら、私の家に来てくれないかしら』

『遅くなっても構わないから一緒にご飯を食べましょう』

『来るまで待っているから』

 

 

 彼女の部屋の前に到着し、まだ落ち着いていない呼吸を整えながらインターホンを押下する。

 数秒の後、期待していた彼女の微かな足音を聴き取る前に目の前の扉が開かれた。

 

「……お帰りなさい、比企谷君」

 

 シャンプーの香りを纏う部屋着の彼女に優しい笑みで出迎えられる。高鳴り続けている心臓が再び加速していくのを感じながら、お詫びと感謝の気持ちを伝えるために口を開いて静かに言葉を紡いでいく。

 

「遅くなって悪かった。……それとありがとな」

 

 雪ノ下は俺の言葉を聞くと困ったような、呆れるような表情で首をゆっくりと左右に揺らす。

 

「相変わらずコミュニケーションが下手ね、たった四文字の返事も言えないのかしら?」

 

「………ただいま、雪ノ下」

「ふふっ、お帰りなさい」

 

 彼女の愛らしい笑みと自分の発言で顔が次第に紅くなっていく。それを誤魔化すように彼女が開いてくれた扉を潜ると、オフィスとは全く異なる甘い空気と食欲を刺激する香りが鼻腔をくすぐった。

 ここが俺の帰るべき家ではないけれど、無性に安心出来るのはきっと彼女が居るからなのだろう。そんな彼女は両手をちょこんと差し出して、何かを求めるポーズをしている。

 

 次こそは間違えないようにと、そっと彼女の手に自分の手を重ねていく。空いている方の手で、彼女の温もりと優しさに触れるために。

 

「お手ではなくて、その鞄を渡しなさい」

「………」

 

 死にたくなる気持ちを抑えながら黙って鞄を手渡すと、雪ノ下はその鞄を腕で交差するように抱いて肩を震わせて笑い始める。そこまで笑わなくてもいいじゃん、可愛いから文句は言わないけど。

 

 

 手を洗って、リビングの方へ向かうとテーブルの上には美味しそうな料理が並べられていた。メインはロールキャベツのようで、一瞥しただけで胃袋が早く食べさせろと文句の音を放つ。

 

「食事の前にジャケットを脱いでもらえるかしら」

 

 雪ノ下の言葉に反応し、走った影響で少し汗で濡れてしまったジャケットを脱ぐ動作に入る。すると、ぱたぱたと急ぎ足で後ろに回り込んだ彼女が、スーツの襟と片側の袖を掴んで脱衣の補助を行ってくれた。非常にむず痒い気持ちになるというか、甘やかされている感覚が強い。

 

「……その、ネクタイも外す?」

 

 外さない理由も特にないので、ネクタイを緩めてから一気にするりと抜き取って結び目を解いていく。綺麗に畳んでから、ぼんやりとしている雪ノ下の差し出している手にネクタイを置いて声を掛ける。

 

「雪ノ下も疲れているのに色々とありがとうな」

「………疲れの方は少し休んだから平気よ、席に座って少し待ってもらえるかしら」

 

 またしても、ぱたぱたと音を鳴らして去っていく雪ノ下を見送り、お言葉に甘えて先にテーブルの方に着席する。久しぶりの仕事終わりの彼女との食事に胸を躍らせていたのだが、美味しい料理の前になかなか戻ってこない焦らしを味わうことになるのだった。

 

 

 大満足の夕食を食べ終え、追い炊きされた浴槽に浸かって身体の疲労を回復させていく。風呂は命の洗濯というのは有名な言葉だが、こう汗水流した後に入るとその意味が良く分かるというものだ。涼しいオフィスで働いているのだから、汗水流した大半の理由が仕事ではないことはこの際置いておこう。

 

 風呂から上がり、見慣れたパジャマに身を包んでリビングの方へ戻ると、雪ノ下が楽しそうに電話をしている様子が目に入った。相手が由比ヶ浜なのは話の内容を聞くまでもないだろう。

 彼女は俺が戻ってきたことに気付くと、少し名残惜しそうに感謝と別れの言葉を告げて電話を切っていた。そして、ソファーから腰を上げて俺の方へと微笑みながら近付いてくる。

 

「お風呂上りにビールでも飲まない?……あなたがお湯でお腹を一杯にしていなければだけれど」

「俺がお前の残り湯を飲んでる前提で話をするのはやめろ、それと折角だから頂くわ」

 

 由比ヶ浜効果で上機嫌な彼女にビールを注いでもらう。グラスを使うだけで見栄えと泡が格段に楽しめるのが嬉しい。

 軽くグラスを接触させて乾杯の音を響かせ、喉を潤すためにビールを流し込んでいく。キンキンに冷えている最初の一口の美味しさは別格だ。

 

 隣からも勢いよく液体が喉を流れる音が聞こえてくる。彼女にしては珍しい光景だったので、少し惚けてその綺麗な喉元を眺めてしまった。

 

「相談というか、お願いがあるのだけれど……」

 

 雪ノ下は口を付けたグラスを静かにテーブルに置き、両の手の指先を合わせながら控えめに言葉を続けようとしている。頬を朱に染め、上目でこちらを見る彼女に抗うことなど出来るのだろうか。

 俺は照れを誤魔化すようにグラスを呷り、空になったそれをテーブルへと置いてから彼女の言葉を待った。

 

「これから金曜日には、なるべく私の家に来てくれないかしら。……その、一緒にご飯を食べられないのが嫌なのよ」

「俺も雪ノ下と一緒に飯を食べたいと思っている、んだが………」

 

 願ってもない話に飛びつくように乗り掛かろうとしてしまったのだが、雪ノ下の負担を増やしてしまうのではないかという不安が胸の内に現れる。きっと彼女はその負担を苦にならないと言ってくれるだろうし、実際にそう思ってくれるだろう。

 けれど、それに甘え切ってしまうのは男として許容出来ないし、したくない。ただでさえ、彼女には返しきれない量の恩や想いがあるのだから、これ以上は甘受する訳にはいかないだろう。

 

「……最近は何時に仕事が終わるのかも分からない。それに、そこまでしてくれる雪ノ下へのお礼も思い付かないから」

「私に対しての返礼があればいいのよね?」

 

 俺の言葉を遮った彼女へと視線を戻す。そこには頬の色はそのままに、見慣れた挑戦的な微笑が浮かんでいた。

 

「それなら、比企谷君には私のストレス解消と安眠性の向上に役立ってもらおうかしらね」

「……あまり乱暴にはしないで欲しいんだが」

 

 安眠の方はまあ何となく恥ずかしい内容だと予想が付くのだが、ストレス解消の方は某作品のせいで兎の人形を殴る女性が思い浮かんでしまう。決して雪ノ下さんに殴られたい願望がある訳ではないことだけは信じて欲しい。踏む程度にして欲しいものである。

 

「ふふ、それは比企谷君次第かしらね」

 

 彼女はそう楽しそうに笑うと、両の腕を俺の方へゆっくりと、そして真っ直ぐに伸ばしてくる。何事かと見守っていると、彼女の腕はそのまま俺の後ろへと回されようとしていた。

 ……素直に伝えてくれたらとは思うけれど、それはきっとお互い様なのだろう。だから、彼女が俺に触れるよりも先にその身体を抱き寄せた。

 

「………もっと強くして」

 

 力を入れて彼女を抱き締める。匂いも体温も溶け合って、混ざり合って、どちらが発している鼓動なのかすら曖昧になっていく。今はっきりと理解できることは、リラックス効果があるのは間違いだろうということだけだ。

 

 彼女が僅かに身を捩るだけで、自分の身体とは異なる柔らかな感触が触れている面全てに再送信される。意識しないようにするにも限度があるのだが、彼女はお構いなしに居心地の良い場所を探してその身をずらしていく。

 

「……何時までこうしていればいいんだ?」

「そうね、落ち着くようになるまでかしら」

 

 揶揄うような熱い吐息を擁した言葉が耳元に吹き込まれる。一生離せそうにもないなんて、そんな軽い言葉を口にする余裕も俺には残ってはいない。

 

 結局、落ち着くことがないままに彼女の希望で二人の身体は離れていく。少し汗ばんだ彼女の姿はとても煽情的で、彼女を想う気持ちだけが俺の理性を保ってくれていた。

 

 

 

 パジャマに着替えた雪ノ下と同じ寝床に並んで寝転がる。この感情には未だに慣れないけれど、片腕を彼女の方へと伸ばす行為には慣れたものである。

 普段よりも少し近い位置に咲いている彼女の笑顔に向かって、もう一つのお礼について訊くことにした。

 

「さっきのはストレス解消として、安眠の方は何をすればいいんだ?」

「……それくらいは比企谷君に考えて欲しいのだけれど」

 

 高いハードルに苦笑してしまいそうになるが、彼女が落ち着いて眠れるようになる行為など多くは思い付きはしない。取り敢えずは真っ先に浮かんだ頭撫でを実行しようと考えたのだが、雪ノ下の期待するような瞳がこそばゆく感じる。思えば、俺が撫でようとするタイミングは彼女が寝ている時だけだった。

 

「……少し、目を閉じてくれないか?」

「……………うん」

 

 やけに幼さを感じる返事を聞き届けると、彼女はゆっくりとその瞳を閉じ始める。

 俺は彼女が顔を少し上げてくれたお蔭で撫で易くなった後頭部へと手を動かし、大切な物を愛でるように丁寧に指通りの良い艶髪を梳いていく。

 

 再度その目を開いた彼女は、笑顔で左手を俺の頭へと移動させて撫で返してくる。移動途中で頬が抓られたことを除けばただのお返しなのだろう。

 

「地味に痛かったんだが、撫でるのはお気に召して頂けませんでしたかね……」

「……撫でるの自体は良いのだけれど、私もしてあげたのだから別のことをして」

 

 おまけで抓ってきたのは、やはりストレス解消の一環なんですかね。

 僅かに痛みが残っている頬を指で擦りながら、次なる安眠方法を検討する。雪ノ下がわしゃわしゃと撫で続けてくるせいで全く集中は出来ないのだが、不意にその動きは止められてしまった。

 

「もっと他にすることあるでしょう……」

 

 消え入りそうな声でそう口にした彼女の、止まってしまったその手を優しく掴んで顔の前へと持っていく。自分の手で、指一つ一つで綺麗な細い指を搦め捕っていく。彼女の求めている行為かは分からないけれど、繋ぎ留めておきたかったから。

 

 雪ノ下は黙って俺の目を真っ直ぐに見詰めてくれている。彼女に伝えたかった言葉は自然と口から零れ落ちるように空気を揺らした。

 

「これから先もよろしく頼むな、雪ノ下……」

 

 彼女は軽く息を吐いて少し苦笑すると、搦めた指に力を入れて晴れやかな笑顔を見せてくれた。

 

「あなたがもし離れようとしたって、もう離してあげるつもりはないわよ」

 

 痛い程に握られる感覚に笑いがこぼれる。もう一生離すつもりもない大切な指先にお返しをして、二人で暫く笑いあった。

 

 熱いほどの体温で湿度が上がり始めた手のひらですら、もう離れる理由には及ばない。

 固く繋いだ手は移ろい、今は腰の方へと位置している。視界から外れても尚、確かな繋がりを感じることに安らぎを覚えていた。

 

 

 小さな呼吸音だけが聞こえる暗闇の中で瞳を閉じる。

 俺の網膜には幸せそうに眠る彼女の優しい寝顔が焼き付いて離れないでいた。

 




前回も感想ありがとうございます!
お気に入り数や評価も増えているのを見ると嬉しくなりますね。
これからもよろしくお願いします。
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