やはり俺の社会人生活は間違っている   作:kuronekoteru

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やはり俺の社会人生活は間違っている #25

 

 心地の良い秋風が金木犀の香りを運んでくれる季節になった。

 10月の中旬にもなると、夏の気配は完全に消え去っており、音も匂いも気温も全く異なった色を見せてくれている。春に次いで人気の季節だけあって、非常に過ごし易い時期である。

 

 年がら年中美味しい雪ノ下の料理によって、馬でなくとも肥えてしまいそうになる。食欲の秋だから一杯食べてねと勧められては断ることも出来ない。旬の食材を使った美味しいおかずが目の前にあるのだから、余裕で毎度白飯をお代わりしてしまっている。

 

 業務の方も秋の訪れと共に落ち着きを見せ始め、現在では残業無しで帰ることが出来る日も少なくない。それでも金曜日には彼女の家で食事をご馳走になり、少々の心ばかりのお礼を返している。お礼ですらも俺の方が得をしている状況には些か申し訳ない気持ちがあるのだが、彼女の表情からは不満の色は見えないので深くは気にしないことにしている。

 

 そんな順風満帆な社会人生活を送っていた平日の水曜日のことであった。

 

 

 ディスプレイと睨めっこしながら、カタカタと音を鳴らしてキーボードを打鍵していく。次こそは要修正箇所のない完璧な資料を作成するべく、文字抜けや数字の打ち間違いにも注意を払って臨んでいる。

 

 時折振動するスマホを横目に、腕に巻かれた時計で現在時刻を確認する。ディスプレイやスマホにも時間の表示はされるのだが、業務中には基本的に腕時計を眺めるようになっていた。

 昼休みまで残り1時間、他に急ぎの仕事でも来なければ定時に帰れそうな状況に安堵していると、癒し機能付きのスマホが珍しく頻繁に振動を繰り返していた。流石に気になるので通知を見ると、雪ノ下からのメッセージが届いているようだった。

 

『お仕事頑張ってね』

 

 最後に彼女から送信されたメッセージにはそう記されていた。上の履歴を辿ってみると、猫のスタンプを片っ端から貼り付けて送ってきている。暇ノ下さんは何をしていらっしゃるのだろうか。

 

『今日は会社は休みなのか?』

『ええ、有休を取っているわよ』

 

 即既読、即返信の早業に苦笑してしまう。有休は年間5日の取得が義務付けられているので、俺も年始の連休でも伸ばすのに使おうかなと一応は考えている。

 それにしても、彼女がこんな平日の真中を休みにするのは少し意外だった。計画的に取得するにしても、年末年始辺りに利用すると勝手に想像していたからだ。年始には誕生日もあるし、実家の方の行事も何かと忙しいだろうに。

 

 ……本日の彼女の奇怪な行動に思い当たる節があったので、最後にこれだけは訊いておこうとフリック入力を開始する。

 

『もしかして、体調が悪かったりするのか?』

 

『問題ないわ』

 

 先程とは違い、少し時間が置かれてから返信が表示される。その内容を一瞥して、仕事へと急ぎ戻ることにした。俺には今日中に終わらせなければいけない業務が残っているのだから。

 

 

 

 また私の悪癖が出てしまった。

 素直に体調を崩していることを伝えたら、彼は来てくれただろうか。

 仕事を投げ出してまで来てくれることは期待し過ぎかもしれないけれど、会社帰りにお見舞いに来てくれるくらいには気を使ってくれた筈なのに。

 

 昔と比べたら幾分も想いを口にすることが出来るようにはなった。けれど、本当に伝えたいことに関しては素直に言葉を紡ぐことが出来ていない。

 この前の彼へのお願いだって、お酒の力を借りなければ、素面ではきっと口には出来なかったと思う。何時まで経っても彼に対して素直になれない自分が嫌になってしまう。

 

 返事の来なくなってしまった携帯を握りしめて、私は一人で瞼を閉じる。冷たくなった布団には彼の残り香すら存在してくれていない。

 

「比企谷君…………」

 

 せめて夢の中で会えたら、そんな想いから彼の名を呼び掛けてしまう。

 私の独白は誰の耳にも届くことなく、私だけが存在するこの部屋の中で静かに消えていった。

 

 

 

 平日の真昼間にお天道様の下に居ることに後ろめたさを感じながら、俺は手に複数のビニール袋を引っ提げて彼女のマンションを訪れていた。

 勘違いなら別にそれで構わない、寧ろその方が嬉しいまである。急に暇になった目の死んだ男が平日の昼間に一人暮らし女性の部屋を訪れているだけの問題で済むからね。うん、通報されても文句は言えそうにありませんね。

 

 エントランスに入って呼び出しを行うと、寝惚けた声が俺の来訪を喜んでくれていた。こういう時に合鍵でもあれば起こさずに済んだのだろうか、そんな大層な空想で胸を躍らせてしまう。

 

 エレベーターで6階まで昇り、彼女の部屋のインターホンを鳴らした。

 パタパタとスリッパが床を叩く小気味良い音が聞こえてくると、目の前の扉が一息に開かれる。

 

 扉の先で微笑む雪ノ下は見慣れたパジャマを身に纏い、顔だけでなくデコルテまでも朱で色付いている。普段は白磁のような肌色なので、こういった事態の時には分かり易くて助かる。

 

「お帰りなさい、比企谷君」

「……ただいま、じゃなくて大丈夫か?」

 

 少しふらついている雪ノ下に急ぎ近付くと、彼女は倒れるように正面からもたれ掛かってきた。ワイシャツ越しに触れている彼女の体温が普段よりも高く感じる。やはり季節の変わり目に風邪を引いてしまったのだろう。

 

 彼女を支えるために細い肩に手を添える。彼女を真っ直ぐに立たせると、まるで夢から覚めていくように段々と朧気だった瞳が改まり始める。先程までよりも更に紅潮した彼女は慌てて口を開いた。

 

「………は、ハロウィンにはまだ少し日があったと思うのだけれど」

「残念ながらこの目はノーメイクなんだわ」

 

 毎年恒例のハロウィンジョークには一切覇気がない。例年であれば渋谷か池袋に行った方が良いと勧められ、行きもしないイベントの撮影ルールについて教授してくれるんですけどね。

 そんな可愛らしいトリックを後日の楽しみにしつつ、俯いてしまった彼女の様子を見守る。

 

「………お仕事はどうしたの?」

 

 消え入りそうな彼女の声が俺の鼓膜を確かに揺らす。体調を崩している彼女に気を使わせるのも忍びないので、なるべく明るい口調で言葉を返していく。

 

「急に午後は休みになってな、暇だから雪ノ下に相手してもらおうかと思って」

 

 賢い彼女を騙せるとは微塵も思っていないが、少しでもその遠慮を振り払いたかった。

 彼女はゆっくりと顔を上げると、いつものような優しい笑みを向けてくれた。

 

「……相変わらずね、けれどありがとう」

「感謝は今はいいから、取り敢えずベッドに連れてくぞ」

 

 無抵抗な彼女を支えてベッドへと連れて行き、買ってきた食材を冷蔵庫へと詰めてから彼女の元へと戻る。彼女は俺の顔を見て嬉しそうに微笑んでいるのだが、力ない表情では体調の悪さを隠し切れてはいない。

 

「起きてから熱は測ったか?」

 

 彼女はゆっくりと首を振って否定する。体温計自体は持っているようだったので、場所を教えてもらい彼女に手渡す。

 雪ノ下は俺の目線を気にもせず、無防備にシャツのボタンを一つ外して脇に挟み込んだ。その様子を眺め続けることに疚しい気持ちが芽生えたので、測り終えるまでは目線を外すことにした。

 

 ぴぴぴと高めの電子音が鳴り、体温の測定が終わったことを告げられる。

 視線を戻して、彼女の脇から取り出された体温計を覗くと37度8分と表示されていた。

 

「微熱だな、風邪引いた時ぐらいは頼ってくれていいんだぞ」

「……迷惑じゃない?」

 

 彼女の言葉に自然と溜息が零れる。俺がどれだけ彼女や小町達に迷惑を掛けて生きいると思っているんだろうか。俺はもう少し恥じるべきだが、彼女に頼られることを迷惑だと思う筈はない。

 

「体調が悪いのを教えてもらえない方が困る。常日頃から雪ノ下の体調が気掛かりで仕事も手に付かなくなるわ。……だから、俺の為にちゃんと教えてくれ」

 

「…………うん、ありがとう」

 

 そんな可愛らしい返事をした彼女の目から下は布団で覆い隠されてしまったけれど、今の心情を読み取るにはその目尻だけで充分だった。

 

「そう言えば、ゼリー買ってきたけど食べるか?」

 

 俺の言葉に反応して、彼女は布団からひょっこりと顔を出すと、控えめに首を縦に振った。そんな稚い動きから目を逸らし、コンビニ袋から買ってきた蜜柑ゼリーを取り出す。

 ビニール蓋を剥がし、スプーンも包装から取り出して彼女に手渡そうと近付ける。しかし、不満気な口元を作った彼女は手すらも動かしてはくれず、目線だけで何かを訴えてきた。

 

 仕方がないので、プラスチックのスプーンで一口分だけを掬って彼女の口元へとゆっくりと運ぶ。嬉しそうに頬張る彼女の咀嚼に合わせて、もう一度とその行為を繰り返した。彼女への献身的な行動だと考えれば、気恥ずかしさは鳴りを潜めてくれる。

 

「こういう時ぐらい素直に甘えてくれてもいいぞ」

「………素直な方があなたには良いのかしらね」

 

 空になった容器を処理しながら口にした何気ない言葉、それが精神まで弱っている彼女には響いてしまったらしい。普段ならきっと気にも留めない内容だった筈だが、彼女は俯き気味になって暗い顔をしている。

 

 こんな事を話すのは柄ではないけれど、彼女の不安を取り除くには正直に伝えるしかないのだろう。知らないことはきっと、不安でしかないのだから。

 

「別にどっちでも構わねーよ。素直に言われても裏があるんじゃないかと疑うし、回りくどい言葉でも本音を読み解こうとするしな」

 

 ただ静かに俺の言葉を聞く彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でながら言葉を続ける。

 

「それに俺はこういう面倒なやり取りが存外に気に入ってるんだよ。無くなったらきっと寂しく感じると思う。でも、弱っている時には優しくしてあげたいからな、希望を言ってくれると助かったりする」

 

 結局、彼女が考えた末での行動をしてくれるならば、どのような対応でも俺は受け入れてしまうだろう。結果ではなく、その過程にこそ意味があると思うから。

 

 俺の拙い言葉を聞いて、彼女はゆっくりと顔を上げる。少し潤んだ瞳がこちらを見詰めていた。真っ直ぐにこちらを見て、真っ直ぐに言葉を伝えてくれる。

 

「一人で寂しかったから、眠るまで手を握ってもらえるかしら」

「それぐらいは喜んで、ただその前に冷えピタな」

 

 彼女のおでこに冷えピタを貼ろうと、その艶のある黒い前髪を捲り上げる。高めの熱を保有している肌に触れながら、普段は見れない彼女の一面を覗いていることに心音が変化を見せる。

 貼った瞬間には、その冷たさに身を捩らせて反応する彼女をくすりと笑ってしまう。文句代わりに放たれた彼女の軽いパンチを受け、大袈裟に後退して二人で笑い合った。

 

 改めて彼女の傍へと近付き、その小さく細い指を優しく握る。

 彼女もその熱を伝えるかのように、俺の指を強く握ってくれた。

 

「ふふ、もう夢を見る必要もないわね」

「おう、ぐっすり寝ていいぞ」

 

 夢を見ている間は眠りが浅いと聞いたことがあるので、夢入りせずに彼女には深く眠って疲れを取って欲しいと思うのは間違っていないだろう。

 やがて安心して眠りに就いた彼女のその手を、俺は優しく包み込むように握り続けた。

 

 

 

 日が落ちてから間もない頃に雪ノ下は目を覚ました。片手で読書が出来る時代だったので、時間を過ごすことには苦労をしなかったけれど、座り続けていた為に腰が少し痛い。もう片方の手を握り直して嬉しそうに微笑む彼女が見れたので、その痛みも直ぐに吹き飛んでしまったけれど。

 

「晩御飯用に饂飩の食材を買ってきたから作ってくるな」

「………ん、ありがとう」

 

 手を離すのは名残惜しいけれど、実は昼も食べていないので胃袋がそろそろ限界である。彼女もお昼はゼリーだけだと思うので、さっさと作ってしまおう。

 

 キッチンを借りて早速料理を始める。料理といっても、お湯を沸かして葱を切って、調味料と合わせて麺を煮込むだけの簡単な手順である。拘りとしては、彼女が早く治るようにと願いを込めて生姜を擦ったことぐらいだろう。

 

 10分程度で出来上がったので、雪ノ下をリビングへと連れ出して一緒に食べることにした。ベッドで食べるには些か危険な食べ物にしてしまったのは減点対象かもしれない。お粥の方が無難だっただろうか。

 

「……美味しい」

 

 れんげを用いて淑やかにうどんを頬張る彼女に続いて、自分も麺を啜って口へと放り込む。

 ……うーん、美味しくない訳じゃないが、雪ノ下の料理を食べ続けてきた俺からしたら大した味ではない。俺の舌はハイエンドに完全に染まり切っていた。

 

「本当に美味しいわよ、ありがとう、比企谷君」

「………どういたしまして」

 

 彼女が美味しそうにしてくれているのが救いである。それにしても、自分が作った物をそんな表情で食べてくれると非常に嬉しい気持ちになる。今度はもっと気合の入れた料理を作ってみようかとすら思ってしまうのだった。

 

 

 夕食とその片付けが終わり、この後はどうしようかと思案する。朝早く起きて、彼女が治っていれば急いで家に帰って出社準備、治っていなければそのまま看病をする。常識的に考えたらこれが無難だろうか。

 

 風呂の湯張りが完了したので、雪ノ下に着替えを用意してもらい風呂場へと連れて行く。流石に下着まで用意することは出来ないので、彼女に無理をさせてしまったかもしれない。

 

 彼女が浴室に入っている間は、その扉の前で待機をしていた。もし突然倒れた時に対応出来るように、彼女が寂しくならないように。裸体の状態で俺が近くにいたら落ち着かないだろうが、お互い様なので許して欲しい。

 聞こえてくる音で中の様子を想像しないようにするのと、変な音が聞こえたらすぐさま行動出来るように気を張ることの両立は困難を極めた。

 

 途中からは危機感知を優先し、両立を諦めました。ごめんなさい。

 

 

 その後は特に問題もなく、いつも通りにパジャマへと着替えて彼女の待つベッドへと向かう。寝る前にもう一度彼女の体温を測ると、37度まで下がっていたことに安堵した。

 

「このまま休めば明日には治っていると思うぞ」

「………その」

 

 こちらを見上げ、口を開いた彼女の歯切れが悪い。どんな無茶難題なお願いをされるのかと気が気でなくなる。素直に甘えて良いと発言した手前、断ってしまうことは出来ない。自分の発言には責任を持つべきだろう。

 

 緊張した空気の中、やがて意を決した彼女の口が開かれる。

 

「移してしまうかもしれないけれど、一緒に寝てもらえないかしら……」

「……移されると少し困るけど、寝るのは別に構わんぞ」

 

 俺まで風邪を引いてしまうと看病に支障が出るのは困る。移して治るのであれば喜んで引き受けるのだが、医学的根拠は無い筈だ。そんな迷信が出回った理由はきっと、移されるほど熱心に看病してくれた相手が居たというだけなのだろう。

 一緒に寝ることに関しては、逆に他の選択肢があったことに少し驚いている。泊まり客用の布団が実は何処かにあったりするんですかね。今更なので要らないですけど。

 

 嬉しそうに微笑む彼女を横目に、俺は部屋の明かりを消してベッドへと向かうのだった。

 

 

 

 彼の優しい匂い、そして温かい腕と布団に包まれている。

 枕は少し硬いけれど、寝心地は不思議と悪くはない。私専用の特注品だ。

 

「…比企谷君」

「……なんだよ」

 

 彼の優しい瞳が私に向けられている。私をちゃんと見ていてくれる。

 それが本当に嬉しくて、我慢出来ずに彼の胸に思い切り抱きついてしまった。

 

 抱き枕になっている比企谷君の顔は真っ赤になっている。心臓の音も私と同じか、それ以上に早くなっている。何度も抱き合っている筈なのに慣れない彼を愛おしく感じる。意識してくれていること、大事にしてくれていることが鮮明に理解できるから。

 

 そんな彼から求められることが、私の密やかな目標になっている。

 

 真っ赤になった彼から差し出された手を、指を握っていく。彼の手は私と変わらない程の熱を持っていた。

 目を閉じて少し経つと、彼は枕にしている手で私の頭を優しく撫で始めてくれる。私はこの感触をとても好ましく思っている。私が目を開けている時にもして欲しいけれど、これ以上は高望みだろうか。

 

 彼が眠りに就いた後に胸元へとそっと移動する。今日は風邪を移さないように気を付けて。

 彼の鼓動を聴きながら眠るのも悪くなさそうだ。これからは時々こちらにお邪魔しようかなと、起こさないように声を抑えて笑ったりしていた。

 

 

 私は彼の存在で満たされた空間で意識を少しずつ手放していく。

 彼の手を握って、夢の中でも会いたいなんて素直な気持ちに身を委ねながら。

 




前回も多くの嬉しい感想をありがとうございます!!
やる気はあるのですが、忙しくて日が空いてしまいました……。

最終回までは書き続ける所存ですので、次回もお読み頂けたら幸いです。
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