やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
冬の朝、冷え切った気温が大気中の水蒸気を霜として降ろし、乾いた空気を緩やかな風で運んでいく。そうした控えめな自然からの挨拶が部屋の窓を小さく叩いていた。
視界を閉じたままに息を吸うと、ツンとするような冷たい空気に混じって冬の匂いが鼻腔に辿り着く。それに加え、痺れて感覚が薄くなっている二の腕からでも確かに伝わる、愛おしい体温が俺の瞼をゆっくりと開かせていった。
「……ん。おはよう、雪――雪ノ下」
朦朧としていた意識が段々と覚醒してくると、少し乱れたと表現出来る程度に整え直されている寝間着、歳を重ねる毎に美麗さを増す相貌が視界に映し出される。
終わりと始まりを告げる鐘の音が新しい年を連れて来てから早二日、今日も贅沢極まり雪乃の柔らかな笑みから一日が始まろうとしていた。
昨年末に仕事納めをしてからは、彼女の家に泊まり込みで生活させてもらい、おはようからおやすみまですっかり雪乃三昧。連休明けに社会復帰が可能なのか、これが俺の中で著しく大きな問題になりかけている。
ここで用いた彼女は三人称の意味だけではない。嬉し恥ずかしガールフレンド。いや、雪乃に恥ずかしい所など存在していない。恥ずかしいのは俺の存在と思考回路であろう。なんかもう舞い上がり過ぎて色々とおかしなことをしている自覚しかない。
その異常的な行動のツケを払うべく、今日こそはと気合いを入れるスイッチを模索する。何せ初詣にも行かずに大晦日からずっと引き篭っているのだ。外に出ずともお腹が空けば雪乃謹製のお節に舌鼓を打ち、食欲を満たせば愛しの彼女と三大欲求の残りを制覇。もう本当にダメかもわからんね。
だがしかし、今日は是が非でもこの幸せスパイラルから抜け出す必要がある。何と言っても本日は雪乃の生まれてきてくれた大切な日なのだから。眼前で転がっている祝うべき対象は、昨日までと変わらず稚さを感じさせる微笑でこちらを見つめていた。
暖房の加熱に負けずと張り切る冬の朝、その冷気を言い訳に彼女を抱き寄せる。小さな笑い声が耳朶を打つ頃には、彼女の温もりが俺の身体を包んでくれていた。
「もう、こんな調子じゃ今日も外に出れなくなっちゃうじゃない……」
私は彼、比企谷君を少し強引にベッドから連れ出すと、お気に入りのエプロンを身に付けて静かに微笑む。年の瀬からのここ数日は本当に幸せな日々だった。そうした日々を反芻しながらも私は朝食の準備を進めていく。彼が好きだと言ってくれた、この雑煮も今回分で無くなってしまいそうだ。
加熱始めの鍋に二人分の角餅を入れ、ふと後ろを振り返ると通知を知らせる明滅が目に入る。ひんやりとした画面を表示させると、私の誕生日を祝う多くのメッセージが届いていた。一番初めに送られたであろう親友のストレートな文字列が私の心をじんわりと温めてくれる。
私が"おめでとう"という言葉を素直に受け止められるようになったのは間違いなく彼女のお陰。ただの年始めにある行事だと感じていたけれど、形式的でも裏があるでもない由比ヶ浜さんの振る舞いが私を変えてくれた。そんな彼女に返す言葉はたったの五文字、それだけできっと分かってくれるだろう。また一つ歳を重ねても、依然と彼女に甘えてしまう私は変わってはくれない。
十分に煮えた雑煮を器に装い、そろそろ寝巻から着替えて身嗜みも直したであろう、愛する彼を迎えに洗面台へと向かう。ぱたぱたと鳴らすスリッパの足音が私の今の気持ち、幸せを奏でているようで心地が良かった。
洗面台へと近付くと、私の奏でる足音に彼の柔らかな声が混じる。最近はただでさえ上がり気味な口角がまた一段と上向きになり、温まり切った心が彼の下へと急かしていた。
もしかしたら私の名前を呼ぶ練習なんてしているのかもしれない。行為中は呼んでくれることもあるけれど、それ以外では恥ずかしがってか全く呼んではくれないから。私も人のことは言えないのだけれど。もし本当にそうだったなら、彼の背中に思いっきり抱き着いて耳元で名前を囁こう。普段はここまで幸せな頭にはならないのだが、初めて過ごす彼との二人きりの誕生日なのだからと期待は留まるところを知らない。
幸せの絶頂を噛みしめるように辿り着いた先には、これまた都合良く彼の背中が向けられていた。けれども、彼の口からは期待した名前が紡がれることはなかった。
「…………まぁ、その時は宜しくお願いしますね、
どうして、ねぇどうして? 何故私じゃなくて姉さんの名前を呼んでいるの? 変じゃない、可笑しいじゃない……だって今日は私の誕生日なのに…………。
「馬鹿、ぼけなす、八幡」
昔に小町さんに習った彼に対する最大級の罵倒。三段活用で段々と酷い言葉になっていく最終段に彼の名前を置く手法、習った当初に呟いた際には堪え切れずに笑ってしまったが、今は微塵も笑える気持ちではない。
不機嫌全開の私が目に入ると、比企谷君は怪訝そうな表情で一瞬固まった。しかし、直ぐに私の頭へと手を差し伸ばすと、髪を撫でながら優しい口調で言葉を放つ。
「陽乃さんが雪ノ下に代わってくれってさ、相変わらず見てるのかと思えて普通に怖いわ」
又もや姉の名前を平気で呼ぶことに少し苛立ちを覚えたが、彼の撫でてくれる感覚が私を平常へと立ち直らせてくれようとしていた。
「……それで何かしら、姉さん」
幸せに満ち足りていたはずの朝、時間的にはお昼を邪魔され、私は無意識に低めに声を発していた。そんな私を見兼ねてか比企谷君が再度私の頭に手を置くと、耳まで優しく愛撫するよう丁寧に指先を擦ってくる。
少し声が出そうになるのを我慢していると、彼の顔が眼前へと近付いており、私はゆっくりと瞼を閉じて唇を迎え入れた。今日だけでも何回目になるのか分からない接吻、それが去年の彼に贈った二つ目のプレゼントに対するお返し。伝えていない、内緒でしてしまっていた分の返済も程無くして終わってしまいそうな勢いだ。
そうした幸せな時間は私たちにとっては一瞬の出来事だったけれど。
「――――あのー、そろそろ私の話聞いてくれるかな?」
「…………そ、それで何かしら、姉さん」
先程と同じ台詞を少し上擦った声で繰り返す。
「あはは、先ずはおめでとうね、雪乃ちゃん」
「……毎年になるけれど、ありがとう」
姉からの祝いの言葉に対して私は素直に感謝を伝えた。陽気さを感じる朗らかな声色が先程の失態を引き摺らせないように導いてくれる。私の返事を聞いた姉は笑いを含んだままに言葉を続けた。
「ふふっ、折角だし、ちゃんと会ってお祝いしたいからこの後に外出られない? とびっきりのプレゼントをあげられると思うから」
「そうね、無理ではないけれど……」
姉の勿体を付けた物言いが気にはなるけれど、今日は比企谷君と一緒に過ごすことしか考えていなかったので返答に困ってしまう。そういった私の考えを見抜いているのだろう、彼女はカラカラと笑いながらこんな提案をしてきた。
「あ、もちろん比企谷君と一緒に来ていいよ、ってか連れて来て。あんまり長くならないと思うから、終わったら序でに初詣にでも行ってくればいいんじゃない? どうせ外にも出ずにイチャコラしてたんでしょ」
「…………んんっ、それなら行こうかしらね」
否定できないから否定はしない。どうせ
時間と場所は後でメッセージで送ると伝えられた後に通話は切れ、ツーツーと規則的に鳴る音が聞こえると、肩に入っていた力は途端に抜けていった。祝ってくれる気持ちは嬉しいのだけれど、相も変わらず台風のような存在。
「幾つになっても妹が可愛くて仕方ないんだろうな」
シスコン代表みたいな男が苦笑交じりにそっと呟く。妹側には決して分からない感覚を、二人は生まれながらに共有しているのかもしれない。私はそんなむず痒い気持ちを、静かな問い掛けで誤魔化した。
「……ところで、どうして私に直接ではなく、比企谷君に掛かってきたのかしらね。何か思い当たる節はある?」
「さっきからちょくちょく目からハイライト消すそれやめて」
指定された千葉の店先に定刻数分前に到着する。その場所は格式のある料亭であった為に、格好にはある程度の気を使った。ストールを羽織り、コートの内側には爽やかな緑色のプリーツドレス。そしてデコルテには、彼からのクリスマスプレゼントとしてもらったネックレスが煌々と鎮座していた。
由比ヶ浜さんと一色さんに事の顛末と共に自慢気に話したら、独占欲丸出しだねと揶揄うように笑って祝福してくれた。その大切なネックレスを身に纏い、私が首ったけなスーツ姿の彼を隣に連れて門戸を開く。受付に名前を告げると、物腰柔らかな仲居の方に二階の角部屋へと案内して頂いた。
三つ指ついて失礼しますと襖が開かれた先には、お猪口片手に酒盛りしている姉の姿。ライトベージュのタートルネックニットに黒のロングスカートとカジュアル寄りの恰好ではあるのだが、どこか気品のある雰囲気を纏っている。
私と比企谷君は羽織っていた外套を預かってもらい、部屋の入口側の席の方へと並び歩いた。
「久しぶりだね。改めておめでとう雪乃ちゃん……、それに比企谷君も」
「ああ、明けましておめでとうございます」
特に何てことない社交辞令的な挨拶、しかし目の前の酔っ払いは簡単には終わらせてはくれなかった。私たち二人を上目で眺めてニヤリと意地の悪そうな笑顔を見せると、姉の視線は隣の彼一人に向けられる。
「そっちじゃないって。あれれ、君はもしかして私の雪乃ちゃんをゲットしておいて、めでたくないって言うのかなぁ?」
「…………大変至極光栄でございます」
「あははは、苦しゅうない。おっと、ほらほら二人とも立ってないで座りなよー」
頬を掻いて恥ずかしがる彼を見て、姉妹共々満足そうに笑みを浮かべる。照れ隠しに比企谷君の服を軽く摘まんで姿勢を戻し、姉の言葉のままに対面へと並んで座していった。
「それで、プレゼントにご馳走してくれるってことでいいのかしら」
着座して尚も変わらずにやけている姉に粛々と用件を切り出すと、私の言葉を皮切りに姉の表情は豹変する。
久しぶりに見た、本気で揶揄いをする際に見せる嗜虐的な口元に、私の身体は否応なしに身震いが起こる。隣からはゆるゆると温かいお茶を啜る音が聞こえてきたので、彼は異変に気付いてはいないようだ。
「あれ、私言わなかったっけ……、
直後、廊下からは聴き馴染みのある二つ並んだ足音が聞こえ始める。姉の言葉に疑問符を浮かべる彼を横目に、私は奥で閉ざされている襖を唯じっと見つめていた。
起こりうる事態に対して、何の準備もしていないことを悔やみながら。
こんにちは、比企谷八幡です。隣に座っている見目麗しい可憐な女性は雪ノ下雪乃さん。木机を挟んだ向こう側に座っている御三方は雪ノ下御一行様のようです。対面にはオールバックの渋めの男性、俺が最も恐れるべき存在である恋人の父が神妙な面持ちで鎮座している。
そのお隣、雪乃の対面には美しい瑠璃色の着物に身を包んだ彼女の母親が微笑を浮かべ、更にその隣には陽乃さんがお腹を抱えていた。度々、隣に座る母親に注意されるも、周囲を見渡すとまた同じように笑い始める。混沌とした状況に出口へと逃げ出したい気持ちが湧き出でてくるのが止められない。
新年早々に雪ノ下家総出のお誕生日会はなかなか……、いや俺の人生史上最重量イベントではないだろうか。正直に言って、陽乃さんだけで緊張感マックスだったのに、母マシ父マシトッピングは胃袋に収まり切りそうもない。胃に穴が空きそう。
そういった重々しい場を繋いでくれたのは、運ばれてくる色華やかな蟹料理たち。しかし、並べられた数々の御立派な身剥きの蟹を見ても一向に食欲は湧いては来なかった。丁寧な料理の説明の言葉も左から右へとただ流れていく。
気が付けば、自身の近くに藍染水滴の徳利が置かれていた。俺は大慌てで対面の相手、彼女の父親へとお酒を注ぎ始める。
「…………ありがとう」
感謝の言葉と共に雪ノ下父は口元を少し綻ばせると、すぐさまにお猪口を傾けては一息で飲み干してしまう。そしてまた、俺は自然な流れで小さな器に液体を流し込んでは一杯にしていく。
その様なやり取りを三回ほど繰り返しただろうか。満たしたお猪口を口へと運ばず、ゆっくりと細めていた目を開いては娘である雪乃を見やった。
「……誕生日おめでとう、雪乃」
「え、ええ。ありがとう……、父さん」
何だか少し気恥しい家族のやり取りだ。県議員と会社の経営を両立している堅物の印象から程遠い、そういった言葉の柔らかさに重圧が軽くなっていくのを感じる。卓上では大きなズワイな蟹もブイサインで場を温めてくれているじゃないか。
「それに明けましておめでとう、……比企谷君だよね」
「……え、あっはい。明けましておめでとうございます」
そうした心の余裕も視線がこちらへと向けられると一瞬で失せてしまった。気まずさから隣の雪ノ下母に目を逸らすと、畳んだ扇子を口元に当てながら、にっこりとした笑顔で首を小さく傾げる。…………なるほど、雪乃の母親だけあって現役で可愛い。軽く見惚れていたことを誤魔化すように、俺は首肯で新年の挨拶を彼女の母親にも伝えた。
「あなた、今日は大切な日なんですから、お酒の量は考えてくださいね」
「ああ、……うん、分かってはいるよ」
そんな綺麗なお母さまは優しい口調で夫を心配し始めていた。二十代中頃の娘が居るとは思えない美貌に、雪ノ下父も秒でたじたじになっている。朱色が差していた顔色も何故かすっかり元通り。これが長年の夫婦の愛の力なのだろうか。お猪口にお酒を注ぎ直しながら何度も目配せをしているのも、きっと健康や体調を気遣ってに違いない。
雪ノ下父は注がれた日本酒を一気に
「君のことは二人から随分と聞いていたけれど、実際に会えて良かったよ」
「……こちらこそお会いできて光栄です」
話し始めたと同時に、お猪口の中身を補充しにいくお母さまの動きに目を奪われそうになるが、理性でそれを封殺する。
それほど遠くない未来を考えると、目の前の父親に気に入られなくとも嫌われないことは肝要だ。ただ真っ直ぐに彼の瞳を見据えて言葉に耳を傾ける。
「娘には高校の時から良くしてもらっていたのだろう? 雪乃が私たち家族としっかり向き合ってくれるようになったのも、きっと君の影響が大きいんだろうね」
そこまで言い終えると、雪ノ下父はお酒を口にしようと一旦顔を伏せた。その僅かな時を使って俺は返答する内容、話す言葉を纏める。決して難しくはない、ただ当たり前に思ったことを素直に話せば良い。
「いえ、それ程のことはないと思います。私なんかよりも他の友人たちの方が」
「――そっ、そうだよね、…………いやごめんなさい」
お母さまがいつの間にか開いていた扇子を閉じた音が室内に響くと、何故か一瞬破顔しかけた雪ノ下父の表情は元に戻る。
またしても空っぽになった器を静かに卓に置くと、長めに息を吐いた後に言葉が発せられた。その表情は何かを観念したかのような、そういった男の様相に見えて仕方がなかった。
「友人の影響も勿論あるだろうね。でもそれよりも…………」
「…………雪乃とは、付き合っているんだろう?」
何よりも大事な自分の娘との関係、父親の立ち向かうべき責務に彼は向き合っていたんだ。そうした男の決意に対し、隣の雪乃にアイコンタクトで了承を得ると、俺は目を閉じ背筋を正し直した。
「……はい、娘さんとお付き合いをさせて頂いております」
「…………だろうね。雪乃から好きな人が居ると聞かされた時は、初めは戸惑ったというか、頭が真っ白になったというか、怒りが沸いて出てきたものだけれど、まさかその相手が交通事故で迷惑を掛けた男の子だっていうから本当に驚いた記憶があるよ」
途中から語気が強くなったり、握りこぶしが作られたりしていたけれど気にはしない。あれ、もしかして怒ってるのかな、とか思ったけれど気にしてはいけない。
「今更だけれど、事故に遭わせてしまって本当に申し訳なかった……」
「……いえ、私が飛び出したのが悪いですし、気にしていません。昔のことですしね」
あの車を運転していたドライバーからしたら、避けられない完全に不幸な事故であろう。由比ヶ浜の飼い犬を助けるためとはいえ、当たり屋もびっくりな飛び出しに遭遇してしまったのだから。それに、あの事故のお陰で奉仕部に出会えたことを考えれば、俺にとっては良い思い出でしかない。
「そう言ってもらえると助かるよ。けれど、私が本当に感謝したいのは、その様な出会い方をした君が雪乃をずっと大切にしてくれたことだ」
「こちらこそ、雪乃さんには本当に良くして頂いています」
出会った当初こそあれだが、お互いの存在を許容してからは悪くない関係を築けていただろう。今では本当に夢心地な扱いになっていることは口が裂けても言えない。未だに固く握られている拳が顔面に飛んでくることが想像に難くないから。
「……これからも雪乃を支えてあげてくれるかい?」
「はい、こんな私で良ければ、これからも雪乃さんの傍で支え……、いえ、これまで以上に寄り添い合っていきたいと思います」
俺は言い終えると同時に必死になって頭を下げていた。ただ、許しを請うように。雪乃とのお付き合いを許してもらえるように。東京湾に捨てられてしまわぬように。
そして再び顔を上げ、目の前の力強い双眸に改めて向き合った。
「…………本当に、ありがとう。これからも雪乃をよろしく頼む」
今にも感涙してしまいそうな面持ちでそんな言葉を口にしてくれた。父親の解かれた手の平が許してくれたことを物語っている。まさか付き合って十日やそこらで、別れを強制される事態にならずに心底安堵していた。諦念している父の背中にそっと手をまわす雪ノ下母、この落ち着いた夫婦の情景が今回の幕切れであろう。
乾いた喉を潤すように、温かさの欠片も残っていないお茶を口へと流し込んだ。勝利の美茶なのに、妙に苦味と渋味が後を引いている。やはり彼のように美酒を飲むべきなんだろうな、そう考えて人数分用意されているお猪口の一つを手に取ると、既に注ぐ姿勢に入っている彼女の母親が目に映った。
感謝を告げると、香りの良い透明な液体が並々に注がれていく。表面張力がしっかり仕事をしているが、俄然身動きの取りづらい状況となり、緊張感のない自らの笑みが水面に浮かんでは揺れ始めている――その直後だった。
「それで、二人の式はいつ頃に行いましょうか」
耳を疑うような発言に身体も口も反応することは出来ない、溢さぬように慎重に口元へと運ぶまでは。だが、そんな事情とは関係なしに話は進んでいく。
「今年の六月に間に合わせるのは少し大変だと思うけれど、お父さんも協力してくれるし、その辺りにしましょうか。あなたもこの時期なら予定を空けられますよね」
目線を向けられた男は溜息と共に項垂れてしまう。しかし、俯きながらもお猪口に手を伸ばして飲み干すと、威厳のあるオールバックの強面を上げて渋々と口を開いた。
「その、場所とか希望はあるかい? そもそも式は教会式と神前式……」
これは何だ、何が起こっているんだ……。未だ頭の整理が追い付いていかない状況に、隣の雪乃に助けを求めようと首を回していく。行き着く先には、夢を語る幼い少女のような表情で両親と向き合う彼女の姿があった。
「……私はやっぱりウェディングドレスを着たいわね」
あーうん、僕も見たいよ。純白のドレスを着た雪乃を両親にも見せてあげたいよね、うん。
この再び這い寄った混沌を打破すべく、最後の神頼みとして、不自然な程に黙っていた陽乃さんにアイコンタクトを試みる。瞬時に目線がぶつかると、彼女は小さく頷いた。そして、口角を上げ、ちらりと舌を出してウィンク。
「八幡はもしかして、雪乃ちゃんのウェディングドレス姿見たくないの?」
「…………あー、めっちゃ見たいです、はい」
漸く到達した器を一息で飲み干して、自棄気味に希望を吐露した。その直後、向かい側に座る女性二人は徳利を笑顔で近付けてくる。先程までに何度も見ていた、空いた傍から注ぎ直される光景が何故かフラッシュバックした。
「んんっ、は、八幡は六月で大丈夫……?」
もう何が大丈夫なのか一切分からないけれど、照れている雪乃が可愛いことだけは分かる。
耳まで赤くして問い掛けてくる彼女への返答を考えている合間に、視界の端には優し気な表情をした姉が小さく口を開いていた。
「…………誕生日おめでとう、雪乃ちゃん」
家族とも別れ、料亭の近くに境内を構える神社にお参りをした駅への帰り道。三箇日の落ち着いた交通量のお陰で静寂にも近い、清閑とした並木道が続いていた。
ふと空を見上げると真暗な夜空から、はらはらと雪の結晶が舞い落ち始める。瞳に映る初雪とは真反対に、依然として昂っている身体には寒さなど気にもならなかった。
姉の計略により、一番の障害だと考えていた両親への挨拶があっさりと終わりを迎えた。姉の誕生日には何をお返ししたら良いのだろう、何なら喜んでくれるのだろうか。こう頭を悩まされている時点で、姉の術中に嵌っている気がしないでもない。いや、近いうちに彼の両親にも挨拶に伺う必要があるのだし、姉へのお返しはまた今度考えよう。
同じ歩幅で同じように空を見上げ、白い息をのぼらす比企谷君。その袖を軽く引っ張り注意を引くと、疲れを感じさせる濁った優しい瞳が私に向けられた。そんな彼に遠くはない未来の軽い相談を持ちかける。
「ねぇ、役所にはいつ提出する?」
「…………その、ちょっと待ってもらっていいですかね」
私の言葉を聞き、段々と苦い顔になった彼は答えを保留したいと口にした。流石にそうは思っていないけれど、少し大袈裟に拗ねるような口調で不平を漏らす。今日は甘えても許される筈だから。
「……なによ、もしかして私とは結婚したくないって言いだすのかしら」
「ちげーよ、こういうのって順序とか色々あるだろうが」
順序、その言葉で浮かんだのは、お世話になった数多くの方々への報告だった。決して私たち二人だけの問題ではないことは分かっている。考えたくはないけれど、比企谷君の家族に反対される可能性もあるだろう。
横断歩道の信号待ちに、足元のレンガ調の舗装路をぼんやりと見ていた。やっと目標の地に届いた雪が積ることなく消えていく。そんな事象に私の心を重ね合わせようか、何て馬鹿げた考えが浮かびそうになってしまう。
――嫌に長く感じていた沈黙を、不意に乾いた音が切り裂いた。
私は小さく肩を跳ねさせ、恐る恐る音の発生源に顔を向けていく。そこには、コートから手を出している比企谷君の姿。
「……この後、一回俺の家に戻っていいか」
何故かと問いかけると、僅かに頬を腫らした彼は気まずそうに口籠る。慎重に言葉を選んでいるようにも見えるけれど、私には己が羞恥心と向き合っているだけだと分かっていた。
「…………実はあるんだよ、プレゼント」
「そうだったのなら、言ってくれたらいいのに……」
誕生日プレゼントは、年越し前から離れず私と居たので買えておらず、正月休み中にでも私の気に入る物を一緒に選びに行こうと話をしていた。私としては、本当に欲しかったプレゼントは既に沢山受け取っているから不満は無かったのだけれど。
「…………色々、早まり過ぎたかなって思ったから置いてきた」
「何かしら、この流れなら指輪でも貰わないと私は満足しないわよ?」
本日に限っては、勿体を付けた贈り物に対して期待が高まり過ぎているせいで、つい冗談めいた言葉を振り
自分でも分かる意地悪な笑みを比企谷君へと向けた。彼の後方では、疾うに青へと変わっていた信号の光が点滅を始める。聖夜に見た光景と重なる彼の震える唇に、私は今日も変わらず心を奪われていた。
「まあ、その……、期待には沿えると思う」
紺色のマフラーに顔を埋め、そっぽを向いた彼の背中に私は堪らず抱き着いた。そして、光と同じ色に染まる彼の耳元へと顔を近付けて名前をそっと囁く。
私が持てる最大級の愛をこめて。
「――――ばか、大好き、八幡」
二人で手を繋いで駅に、彼の家へと向かう。彼の左腕に両の手と頭、心までもを纏めて預けて。
あの日と同じように私たちの間に言葉はないけれど、今は五月蝿い心臓の音を聴いていたいから丁度良かった。それに未来の私に愛を伝えようと必死に考えを巡らせている、彼の横顔を唯じっと眺めていたかったから。
ゆっくり歩いても、駅まではもう少しだろう。
いつの間に彼の頭に残った白い結晶が、街灯に照らされて綺麗に反射している。届いて、留まりたかった場所に想いは積もってくれていた。それが嬉しくって。
どうせ時が来れば、私自らの手で払ってしまうけれど、今はその光輝く華を名残惜しんでいたい。だって、大切にしていた私の一部なのだから。
一歩を、一日を噛みしめるように。
もう残りも短くなった、雪の下で。
明けましておめでとうございます。
そして、ゆきのん誕生日おめでとう……!!
更に何よりも、……投稿が遅れ過ぎて申し訳ございません。
様々な理由が重なってしまい、去年の投稿に間に合わせることが出来ませんでした。
投稿していない間にも読んでくれている方が居ることは本当に嬉しかったです。
最終回も頑張って投稿しようと思いますのでお待ち頂けたら幸いです。