やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
映画館を出る頃には空は少し赤みがかっていた。夕暮れが少しずつ近づいていることを知らせてくれる。隣に居る彼女の顔も少し紅潮しているように見えるが、これは空色の影響なんだろうか。
一応今日の予定としては終わってしまったのだが、この後はどうしたいのだろう。
自分の考えすら纏まっていないのに、彼女に委ねてしまうのは甘えだろうか。
甘えと言うなれば、俺は今までずっと彼女たちに甘えてきたのだろう。今日のデートも雪ノ下に誘ってもらえたから実現したことだ。自分から誘うなんてこと、ほとんどしてこなかった。いや、できなかったのだ。
社会人になってから1年間も彼女に会えなかったのは、自分が誘う勇気を持てなかったことに原因があると分かっている。いくら忙しいとは言え、会おうと思えば時間くらい作れたはずだ。俺も誘われたら何が何でも時間を作っただろう。
同期の吉田に誘われたあの日も彼女たちを、いや彼女を強く思い浮かべていた。会えなくなってから、彼女への気持ちは嫌というほど理解してしまっていた。あとは誘う勇気さえ持てれば良かったのに、その最後の一歩が踏み出せなかった。
だからあの日、彼女に、雪ノ下に会えたことは本気で嬉しかった。運命なんて言われて気持ちが昂ってしまった。
でも運命なんかじゃなくても構わない、偶然なんかじゃなくて、努力して必然にしてしまえば良かったんだ。
故に、今日からは神様頼りにするのではなく、自分で掴みにいこう。最後の一歩どころか、これからは歩むようにその行為を繰り返していきたい。だったら、こんなところで立ち止まっている訳にはいかないのだ。
「……その、なんだ。この後は飯でも食べに行かないか?」
「え、ええと、喜んで」
彼女は夕陽を背に笑って応えてくれた。その頬は先ほどまでよりも更に紅に染まっている。ああ、そうだったんだな。雪ノ下はいつだって俺の自身が傷つかないように張った予防線を無駄にしてくれる。
今も先ほども、彼女が顔を赤らめてくれるのは俺のせいだった。
そして、俺の一歩が勇み足にならないように彼女はともに歩いてくれるのだ。
無事に晩御飯に誘えたのはいいのだが、時間はまだ5時前といったところだ。流石に早すぎると思われる。昼食のオムライスでさえまだ消化しきっていない現状。雪ノ下も同じだろうし、一体全体どうするべきなのだろうか。
俺がこの後のスケジューリングについて必死に頭を悩ませていると、目の前の彼女は何かを思い付いたようで口を開き始める。
「まだ晩御飯には早いし、丁度いいから食材を買って私の家で食べない?」
「………はい?」
あっけらかんとした彼女の提案に俺の理解が追い付くことが出来ない。気の抜けたような返答をしてしまったためか、彼女は少し不満げに言葉を紡いだ。
「なにかしら、私の手料理は食べたくないのかしら。それとも昨夜みたいに外で酔わせて私を帰れなくしようとでも画策しているのかしらね。それも悪くないけれど、帰る時間を気にせず一緒に居れる方が嬉しいのだけれど」
早口で罵倒し始めたのかと思ったらデレのんになっている。なにこの子、本当に可愛いんだけど。お持ち帰りしてもいいですか?ダメですよね、はい。
「昨夜はちゃんと帰れるように送っただろうが。あと俺はお前の手料理食べたいからそれでいい」
「最初からそう言えばいいのよ、……じゃあ行きましょうか」
彼女は弾むように歩き出す。その背中が遠ざかってしまわないように、彼女のいつもより早い歩調に合わせて歩こう。それだけで俺の心は満たされるのだから。
場所は変わり、現在地は雪ノ下の住むマンションの近くにあるスーパーである。彼女は普段ここで買い物をしているのであろう。さほど迷わずにここまで案内してくれた。え、さほど……? まぁ、深くは追求しまい。
「比企谷君は何かリクエストはあるかしら」
「いや、なんでもいいぞ」
これは嘘偽りのない本心である。雪ノ下の作る料理なら何でも食べてみたいのだから。
しかし、問うてきた本人は困った感をジト目で表現してくる。
「何でもいいが一番困るのだけれど……」
雪ノ下のこの反応は作る側からしたら当たり前なのかもしれない。それじゃあ何か案を出そうと思案し始めてみよう。……えっ、本当に何でも食べたいんですけど?
雪ノ下に毎食作ってもらえるのであれば、その時に食べたい料理を伝えるであろう。しかし、こんな機会が何度もあるのか分からない以上、絞るのは非常に難題である。
パッと思いつく料理はいくつかある。肉じゃが、ハンバーグ、唐揚げ、ビーフシチュー、カレー等々。お昼が洋食だったことを考慮すると和食が無難だろうか。字面にして初めて気づいたが、"雪ノ下のお手製の肉じゃが"こんなの食べてみたいという感想しかない。
「……じゃあ肉じゃがってできるか?」
「誰に聞いているのかしら、至高の肉じゃがを食べさせてあげるわよ」
ふふんと、自信満々に言い放つ雪ノ下さん。しかし、次の瞬間には少し恥ずかしそうに、自信なさげに言葉を紡ぐ。
「比企谷君は……その、私に胃袋を掴んで欲しいってことなのかしら」
上目遣いでそう訊く彼女に対抗できる男が居るのだろうか。俺は一切できない。対抗どころか、口をパクパクさせるだけで何も言えなくなってしまった。
彼女はそんな俺の姿を見て、口元を手で抑えて笑っている。考えてみれば男の胃袋を掴む料理の代表だった。無意識に胃袋を掴まれる期待をしていたのかもしれない。
「そういうつもりじゃなかったが、まぁ……その、期待してる」
絞りだすようにそう小さく返すと、彼女は笑顔を見せてくれた。その頬は赤くなり、細めた目でこちらを見つめてくる。彼女にそういった意思があるかは分からないが、その表情はとても蠱惑的であった。
肉じゃがの材料を買っていく。牛肉の切り落とし、人参、玉葱、じゃが芋、さやいんげん。さやいんげん以外はカレーと同じ材料だ。昔に学習教材の宣伝として付属されていた漫画を思い出す。校外学習でカレールーを忘れてしまったグループに所属する主人公が機転を利かせて肉じゃがに変貌させるストーリーだった。
今思えば、肉じゃが用の調味料がどこかにあるのであれば、カレールーもあってもいいんじゃない?とか他の班から少しずつだけルーを分けてもらうとかの方が現実的なのでは?とか考えてしまう。あとさやいんげんって肉じゃが以外でほとんど見ない具材だけど、需要ってどうなっているんだろう。
下らないことを考えていると、雪ノ下さんが他の食材をカゴに入れていることに気付いた。
カゴは俺が持っているので中身を一瞥したところ、ベーコンやらチーズやらが入っていた。これは何に使うんでしょうね。私気になります。
「お酒のおつまみに丁度いいでしょ?余ったら朝ごはんにも流用できるし」
いつものようにタイミングよく彼女に答えを教えてもらった。考えていることが筒抜けになっている可能性があってこわい。というか雪ノ下さん今日もお酒飲む予定なんですね。じゃあお酒も買わないといけないな。
「酒はどうするよ。酎ハイでも適当に買っていくか?」
「私の家に日本酒とワインがあるから買わないで大丈夫よ」
ほぉ、家にお酒の在庫があるのか。チョイスも雪ノ下のイメージ通りではある。雪ノ下にワインが合わない訳がない。日本酒をお猪口で飲むのもいとおかし。いいね、すごくいい。
しかし、雪ノ下さんって一人でお酒飲んだりするんですかね。意外と会社のストレスの発散のために毎夜晩酌するタイプなのだろうか。
「実家に帰ると偶にお土産に持たされるのよ。一人ではあまり飲まないし、結構余っているから比企谷君が飲んでくれると助かるわ」
「ほーん、それなら遠慮なく飲ませてもらうわ」
結構いい値段のするお酒なんだろうけど、雪ノ下を助けるためなら張り切って飲んじゃうぞーと言いたいところなのだが、別に俺はお酒が強いわけでもないので、そこまでの量は多分消費できない。雪ノ下の前で粗相するわけにもいかないしね。
あとアルコールを摂取すると自制心が揺らぎやすくなるのが怖い。理性の化け物と言われたこの俺も、お酒を飲めば一般人レベルにまで落ちてしまう。
「ふふ、沢山飲んでくれるならおつまみも作ってあげましょうかね」
雪ノ下さんが嬉しそうに張り切っている姿を見て、既に自制心を失い始めている気がする。
そもそも雪ノ下の家で2人きりで飲むとかハードルがやばい。俺はちゃんと紳士的に振舞えるのだろうか。頼むぞ未来の俺。
買い物を終え、スーパーの袋に購入物を詰めていく。雪ノ下さんの詰め方綺麗ですね。こんな些細なことに胸がキュンするのはおかしい。
詰め終わった2つの袋を左右の手で持つ。雪ノ下が何か言いたそうだったけれど、すぐに感謝の言葉を伝えてくれた。
店の外に出て、それじゃあ雪ノ下宅へ向かいますかね、と気合を入れていると隣に立つ彼女に声をかけられる。
「……その袋、どちらか片方持つわよ」
「いや、別に持てるから構わんぞ」
特段強がった訳じゃないが、雪ノ下さんは少し不満顔である。え、どうして。お得意の負けず嫌いが発動しているのだろうか。
困惑してしまった俺を見て、彼女は溜息を吐くと後ろを向いて歩きだしてしまった。この件はもう終わりにして、もう彼女の家に向かうのだろう――そう思っていたのだが。
彼女は数歩だけ歩くと立ち止まる。背を向けたまま、右の手のひらを俺の方に向け少しだけ指の間を広げた。
俺は左手に持っていた袋も右手で持つと、彼女の元へ急いだ。
雪ノ下は俺が横に並び歩くと、その手を少し揺らして無言で訴えかけてくる。
俺は手汗を服で拭い、彼女の手と自分の手を繋いでいく。スーパーの冷房のせいだろうか、彼女の手は少しだけ冷たくなっていた。だが、もっと早く温めてあげることができた筈だろう。
「ふふ、じゃあ行きましょうか」
「お、おう」
見るからに上機嫌になった彼女のその手はすぐに火照り始めていた。安心感と充足感を感じながら、握る力を少しだけ強める。
彼女もそれに呼応するようにギュッとその指一つ一つに力を入れてくれる。
もう簡単には離れそうにない。この心も。
いつも感想くれる方がいて嬉しいです。
今の投稿ペースを維持できるように頑張ります。