やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
雪ノ下の住むマンションに到着する。駅から徒歩5分程度の8階建てのマンションのようだ。いや、結構な高級マンションですね。
昨夜来た時は真っ暗だったので分からなかったが、外観からして相当お洒落である。建物全体で弧を描くような造りになっており、各部屋が平行に並ぶのではなく、少し角度がズレるように設計されているようだ。よく分からんけど凄い。
オートロックの入り口を開けると、中は黒を基調としたシックなデザインのエントランスになっていた。大きいドーナツ型の白いソファーの中心には観葉植物が置かれている。いや、無駄にお洒落過ぎませんかね。
「そういや雪ノ下が住んでるのは何階なんだ?」
「6階よ。……その、ちゃんと覚えてね?」
すぐ隣に立っているのと身長差の関係で、こちらを見上げる形の彼女に見つめられる。これ狙ってやってるんだとしたら、とんだ悪女だぞ、雪ノ下さん。素なんだろうけどね。
当たり前のようにしどろもどろにしか返せなくなる俺。重くもないのに、右手に持っている荷物を握り直して心を落ち着かせようとする。しかし、左手がそうさせてはくれなかった。
エレベーターに乗り、6階まで上がった俺たちは遂に彼女の家の扉前にたどり着いた。心の準備ができていない俺は緊張でどうにかなりそうだった。
大きな緊張源の一つである左手に握られていた彼女の手が離れる。淋しさよりも安堵の気持ちの方がまだ大きいのは慣れのせいであろうか。
「比企谷君には悪いのだけれど、少しここで待ってもらえる?流石にもう”待て”はできるのかしら?」
「おい、犬扱いはやめろ。ちゃんと待ってるから」
「ふふ、それでは忠犬のように待っててね、ハチ君」
揶揄うように笑う彼女のその言葉に、別に自分の名前ではないのだが気恥ずかしくなってしまった。
買い物袋は雪ノ下に回収されたので、久しぶりに両の手が自由になった。自由って素晴らしい。まぁ、軽くなった側はともかく、もう片方は不自由でも良かったけどね。
手持無沙汰になったため、スマホを確認する。数時間振りのため、いくつか通知が来ていた。ソシャゲの全回復通知にLINEが数件来ていた。
LINEを開くと、同期の吉田からのメッセージが届いているようだ。正直、めんどくさそうなのでスルーしたいが、昨夜のお礼もしたいので既読を付ける。
『昨夜は雪ノ下さんと上手くいったかい?』 13:40
『今度お礼に昼飯奢ってくれよな』 13:41
余計なお世話だが、感謝しているのは確かなので、適当にお礼を返す。
18:15 『うるせぇよ』
18:15 『飯は今度おごるわ、ありがとよ』
そこから数分すると、雪ノ下宅の扉が開かれる。開ける前に解錠音が聞こえなかったので、鍵はかけていなかったようだ。ちょっと警戒心足りてないんじゃないんですかね、雪ノ下さん。
「あら、ちゃんと”待て”できるじゃない」
にこりと笑う彼女は服の上にエプロンを装着していた。それはいつだったか購入していた黒い薄手の生地の、胸の部分に猫の足跡があしらわれたエプロンだった。
当時に思ったよりも幾分も似合っている。あの頃よりも年を重ね、大人らしくなっているせいだろうか。見ている側のバイアスについては測り兼ねます。
「やっぱり、すげえよく似合っているな」
「………覚えていてくれたのね」
驚きからか、目を少し大きくした後に笑う彼女。先ほどの笑顔と違い、その笑顔は少し涙ぐんでいるように見える。
その涙にはきっと悪い意味はないだろう。だから別に気の利いたことは言わなくていい。普通に返せればそれでいい。
「まあな、記憶力には自信あるんだよ」
「忠犬としては必要な能力よね。じゃあ次は”ハウス”よ、できるかしら?」
「だから犬扱いはやめてね?ってか……」
まるで犬のように躾られている。しかも”ハウス”は彼女の家に入ることらしい。
……これは飼ってくれるってことでいいんですかね。最後まで責任持ってね?
「早く入りなさい、近所迷惑になるじゃない」
「あ、はい。お邪魔します」
突然の正論に思わず反射で入室してしまった。入った瞬間にサボンの香りを感じる。彼女の匂いを嗅いでしまったようで恥ずかしい気持ちになった。
「いらっしゃい、比企谷君。まずはそこを右に曲がって手を洗ってもらえるかしら」
雪ノ下の指示に従い、まずは洗面所に入室する。
そこには大きな洗面台鏡は当たり前として、丸めのガラス瓶に植物が入った置物や幾つかの化粧水などのボトルが置いてある。こんなところもお洒落なんですね。
手を洗いながら、洗面台の端に歯ブラシが置いてあるのを見つける。2つ置いてあったりはしない。分かっている筈だったが、こういう部分を見ると安心してしまう。
リビングに入ると、右手にはアイランドキッチンが配置されており、正面手前には、二人用のテーブルと椅子が置いてあり、奥手にはブラウンのL字ソファーと黒のローテーブルが置かれている。ソファーの向かいには60型くらいの大きなテレビも置かれている。
……滅茶苦茶良い部屋ですね、雪ノ下さん。ここに住みたいです。
というか雪ノ下は何処に行ったのだろう。見当たらない彼女をキョロキョロと探してしていると、左側にあった扉から凛とした顔で登場する。
彼女は先ほどまでとは少し異なる髪型をしていた。後ろ髪を下の方で纏めて横に垂らしていた。その彼女の髪を纏めているのはあの時のピンクのシュシュであった。
久しぶりに見た、昔にプレゼントをしたそのシュシュと彼女の今の姿を見て俺はどう思ったのだろうか。答えは簡単である。えっ、雪ノ下さん可愛すぎませんか? その髪型はもう新妻のそれじゃん。俺はいつの間にか雪ノ下と結婚していた。それと、まだそのピンクのシュシュ使ってくれてたんですね、嬉しすぎて軽く死ねます(早口)。
そんな俺の馬鹿みたいな感想は彼女には伝えられそうにもない。しかし、彼女にはその一端が伝わってしまったようで、今の俺と同じくらい赤面してしまっていた。
彼を家に入れる前にすべきことがあったので、少しだけ時間を貰うことにした。それはリビングに置かれている数点のパンさんグッズを寝室へ回収することだ。
しかし、片付けをしていただけと思われると、普段片付けていないと誤認されてしまう可能性があった。それは癪なので、少し私の様相に変化を加えようと考えた。その結果、あのエプロン姿を披露することにした。
彼に似合うと褒められただけで購入してしまった黒い生地のエプロンを私は未だに使っていた。彼からすれば些細なことだと思うし、覚えていないかもしれない。それでも構わないと思っていた。
その時は、また似合ってると思わせればいいだけだと。
けれど、彼はちゃんと覚えていてくれて、また同じように褒めてくれたのだ。彼は私が思っている以上に私とのことを記憶していてくれてると舞い上がってしまった。
だから私は宝物のシュシュを彼の前で身に着けようと思った。この宝物はエプロンとは違って、彼が選んでくれた物だから、忘れ去られてしまっていたらショックを受けてしまうと思う。
見せつけるように胸の前に垂らした髪を束ねたシュシュを、そして私を見て、彼は目まぐるしい程恥ずかしい感情をその表情で、目で示してくれた。
彼を知らない人では分かりづらい彼の澱んだ目でも、私にはもう澄んでいるように読み取れるのだ。
漸く、調理に取り掛かろうという流れになったので、手伝いを申し出る。しかし、彼女は難しい顔をしてしまった。やはり素人がキッチンに入ると邪魔なのだろうか。
少し考え、何かを決断したらしい彼女は米研ぎだけお願いとのことだ。刃物を持たせるにはまだレベルが足りないと判断されたのだろうか。
「今日はちゃんと私の手料理を食べて欲しいからこっちは手伝わなくていいわ」
そういう趣旨だったのか。俺は分かった、と平静を装い返答する。
「…その、次は一緒に料理しましょうね、比企谷君」
優しく微笑んだ彼女の追撃により、張りぼての平静状態はあっさり崩壊させられてしまった。
雪ノ下の横に立ち、お米を2合ほど研いでいく。炊飯ぐらいは一人暮らしでも行うので慣れたものである。彼女にも悪くないわね、とお褒めの言葉を頂いた。
炊飯器にセットし、俺のキッチンでの業務は終了となる。が、彼女の調理を横に立って見るぐらいは許されるだろう。
彼女は手際よく包丁を使い、下ごしらえをしていく。じゃが芋は皮を剥き、一口大にカット。人参は皮を剥いて乱切りに。玉葱は手で皮を剥き、くし形切りにしていた。
その後、大きめのフライパンで食材を炒めていくようだ。ごま油を敷き、玉葱から炒め始める。次に人参、じゃが芋と加えていく。既に美味しそうな気がする。
最後に牛肉を炒めた野菜の上に置き、醤油等の調味料を混ぜ合わせた液体をフライパンに注ぎ、蓋を締める。
「あとは焦がさないように加熱していくだけよ。見てて楽しかったかしら、盗み見谷君」
「堂々と見てただろうが。あと、結構新鮮で面白かったわ」
彼女の髪を結んでいるエプロン姿と合わせて、本当に新鮮で良い時間だっただろう。これから偶には見せて頂きたい光景だ。
何故か照れてしまった彼女にキッチンを追い出される。変なことは言ってないはずなのに、どうしてだ。
仕方がないので、少し離れてしまうが、テレビ前のソファーに座らせて貰おう。
ソファーの座り心地が非常に良いのはこの際置いておこう。今は雪ノ下が楽しそうに調理している姿を目に焼き付けるのに必死だった。
気が付くと部屋には出汁のいい匂い充満していた。手元は見えないけれど、恐らく汁物を作ってくれているのであろう。
いつかこの光景を日常的に見られる日が来るのであろうか。その為ならばどんな努力も厭わないだろう。そう思ってしまうほど、この彼女との空間は幸せに満ち溢れていた。
炊飯器の炊飯完了を知らせる音が鳴る。結構時間が経っていたみたいだ。色んな料理の匂いが鼻腔に入り、堪らずお腹が悲鳴を上げる。
聞こえていたのであろう雪ノ下さんはくすっと笑いながら配膳を始めていた。俺が手伝おうかと立ち上がると、食卓の方へ座るように誘導される。
「もうすぐ食べられるから座って待っててね、腹ペコ谷君」
完全に甘やかしモードである。こちとら甘えることには慣れ切っているので普通に着席してしまった。
そして目の前には、白米とお味噌汁、ほうれん草のお浸し、そしてメインの肉じゃがが置かれる。対面に雪ノ下が着席すると、こちらに目配せをしてくる。食べていいのかな?
「……いただきます」
「ふふ、どうぞ召し上がれ」
待ちきれないと言わんばかりにまずはメインの肉じゃがを一口頂く。煮崩れは一切しておらず、味付けもしっかり付いているじゃが芋は絶品だ。あの短時間でこんなに味が付くのか。
次にほうれん草のお浸しを口にする。丁度良い茹でにより食感はシャキシャキ感が残っていて素晴らしい。味も醤油ベースで生姜と胡麻の味わいが何とも言えない美味しさだ。
そして最後にお味噌汁を飲む。鰹節と昆布による合わせ出汁とお味噌の風味がたまらない。具材には豆腐と葱が使われており、オーソドックスだからこそ出来の良さが際立っていた。
いや、全部美味し過ぎるでしょ。炊き立てご飯もおかずのお供に最高である。夢中で箸を、口を動かして食べ進める。これは食べ終わるまで止まれる気がしない。
「お代わりもあるから、欲しかったら言ってね」
「じゃあ肉じゃがとお味噌汁を頼む」
数分もせずに空になってしまった器を彼女に手渡す。呆れるように笑う彼女の視線は綺麗になっている食器に向けられていた。
お代わりを貰い、それでも忙しなく食べ進める俺。だって美味しいんだもの。
「そんなに美味しいかしら?あまり気合の入った料理ではないと思うのだけれど」
「まじでめっちゃ旨いぞ、毎日食べたいくらいだ」
箸も口も大変に軽くなっているせいで本音が駄々洩れになる。しかし、食事に夢中な俺は全く気にしていない。視線も料理に集中させている。
この時、雪ノ下は顔を真っ赤にしていたというのに。
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