やはり俺の社会人生活は間違っている 作:kuronekoteru
金曜日、それは社会人の希望だ。今日さえ乗り切れば安息の休日が手に入るのである。
終わることを恐れてしまう休日よりもある意味では優しいのではないであろうか。まぁこれは完全週休二日制の会社で働いていないと同意は貰えないだろう。
そう、本日は金曜日、華金なのである。雪ノ下を焼肉に誘い、無事に了承を得られたその当日なのだ。
土日の誘いはどうしたのかって?取り敢えずは土曜日のスケジュールを抑えて貰ったので、実質既に誘ったと言っても過言ではない。
内容はまだ決められていない。雪ノ下さんからは今日までに決めてくれれば問題ないと言われているので、ギリギリセーフではある。
ところがどっこい、もう定時なのである。つまりもう休みだぞ、やったね!
明日の予定は店までの移動時間を使って捻り出すしかない、と決意を胸に退社を決め込もうとしていた俺を引き止める声がする。
「比企谷、もう帰るのか?」
「……吉田か、用事があるからもう帰るわ。無くても帰るけど」
同期でイケメンの吉田だった。というか気軽に声を掛けてくるのは吉田ぐらいである。戸部みたいな同期と話すのは稀だ。
「はは、相変わらずだな。来週には新人が配属になるんだから手本になるような先輩になれよ?」
その役目はお前だけで充分じゃないですかね?俺は寧ろ反面教師的立ち位置で良いんだが……。
「それはお前に任せるわ、んじゃ」
「……お疲れ様、楽しんで来いよ」
別れの挨拶を交わし、会社を出る。労働からの解放感を噛み締めつつ、足早に店に向かおう。
俺は雪ノ下を待たせたくはないのだから。
店の前に約束の15分前に到着する。流石にまだ彼女は来ていないようだった。来ていたら周囲の騒めきで分かるからね。ちなみに店は駅の改札から見える位置にあるので、迷わないように配慮してあります。
そして当たり前のように、この場所に来るまでには捻り出せなかったので、この待ち時間に何とか決めてしまいたい。やはり猫カフェが「比企谷君」無難だろうか「ねぇ、比企谷君?」…はい?
「何をぬぼーっとしているのよ、比企谷君」
「……その表現も懐かしいな。ってか早いな雪ノ下」
気が付けば目の前に雪ノ下が立っていた。相も変わらず凛とした出で立ちで、スーツ姿も随分と様になっている。
「先に来ている貴方には言われたくないわね……」
彼女は呆れ顔で微笑んだ。一週間振りに見たその微笑に思わず嬉しくなってしまう。
そして俺は気付くのだった、結局決められなかったことに。
席は個室を予約しておいたので、店奥の個室に案内された。
「雰囲気の良いお店ね、個室なのも嬉しいわ」
「何となく個室にしたんだが、それなら良かったわ」
偉いぞ過去の俺、八幡的にポイント高いぞ。お店は内装がお洒落で食べログで評価の高いお店をチョイスしました。
雪ノ下の反応が悪くなさそうで安心したからか、空腹感がひょっこり顔を覗かせる。さて、注文しますかね。
「注文はどうする、最初は俺が適当に頼んでいいか?」
「そうね、サラダは欲しいけれど、後は任せようかしら」
サラダは大根サラダにするとして、肉は取り敢えず上葱タン塩とカルビ、ロース、それとハラミを塩でいいかな。あとはご飯と飲み物ですかね。
ご飯は俺が中サイズで雪ノ下が小サイズ、飲み物は二人ともレモンサワーに決まった。
注文した商品が届いたので、先ずは乾杯でもしようかとグラスを右手に持つ。雪ノ下を見ると既に両手を使い上品にグラスを胸の高さまで持ち上げていた。
「……じゃあ、今週もお疲れ様ってことで」
「ええ、比企谷君もお疲れ様」
乾杯も済ませ、お待ちかねの焼肉タイムだ。俺がトングを持つと、雪ノ下は少しだけ驚きの表情になる。こいつ実は俺が働いていることを信じていないのでは?
まぁそれは置いといて、俺の焼肉スキルを魅せつけてやろう。
焼く順番だが、タン塩から焼いていくのは常識だろう。ここで八幡流テクニックだが、タンを焼く前にレモンを使い、汁を網の表面にサッと塗っていく。これにより、タンが網に引っ付かないようになるのだ。
準備も終わったので、タンを網の中央に乗せていく。最初は雪ノ下の方に一枚、次にこちら側に一枚。ここのタンは葱乗せの薄めカットなので片面をじっくり焼きだ。ひっくり返せないので、ここぞというタイミングを見計らって引き上げる必要がある。五感を研ぎ澄ませ、その機を伺うのだ。
俺の考えるベストなタイミングで雪ノ下の肉から引き上げ、彼女の取り皿にサーブした。そして次に自分の皿に取り上げる。
まずは雪ノ下に食べて頂きたい。その意を察して頂けたようで、彼女は頂きますの声の後に、小さな口を開けてその肉を味わい始めた。……お、悪くない反応に見えるぞ。
「……美味しいわ、貴方もお肉なら上手に焼けるのね。世話や土下座はあまりだけれど」
「偶に来るからな、それなりに極めたつもりだぞ。あと世話はともかく、焼き土下座は勘弁してくれ」
俺のその言葉を聞くと、彼女はいつもの挑戦的な表情を見せる。
「そう、それなら後でどちらが美味しく焼けるか勝負しましょう。……あと、焼肉にはこの前の会社の知り合いと来るのかしら?」
「すぐ勝ちにくるのやめろ、今回は負けるつもりはないが。あと焼肉は無論一人で行ってる」
最近は一人用焼肉店なども出店しているので、お一人様焼肉もアウェー感が弱くて助かる。雪ノ下はあまり焼肉の経験も無さそうだし、今回は勝てるだろう。大学の頃も行った記憶ないしね。
雪ノ下は俺の返事を聞くと、何故か安堵の表情を浮かべていた。それよりも肉が冷める前に俺も食べてしまおう。いや、マジで旨い。最初の肉の有難味は計り知れん。
次も二枚ずつ焼いていく、別に急いではいないからだ。ゆっくりと肉も、彼女との時間も味わっていたい。
「では、次のカルビで勝負しましょうか」
タン塩を全て平らげた瞬間に雪ノ下から宣戦布告をされる。彼女にしては珍しく、少しテンションが高いように見えた。まぁ焼肉だもんね、テンション上がるよね。っていうか、雪ノ下が肉の部位を声に出すの何か良くないか?イチボとか声に出して欲しい。頼もうかしら……。
「じゃあお互いに二枚ずつ焼いて、お互いの肉を食べて審査するってことでいいのか?」
「それで問題ないわ。ふふ、比企谷君に美味しいカルビと敗北を味あわせてあげるわ」
テンション高いのんが見られただけで既に勝利している俺に敗北はあり得ない。焼肉勝負にも負ける気はしないがな。勝利を前にワクワクで胸が踊り始める。
勝負が始まり、まずはお互いに肉二枚を網の自陣側にセットした。しかし残念ながら、もう既に勝負は決まっている。何故なら俺の自陣側の方が火力が高いのだ。
カルビの焼き方は強火でサッと片面ずつ焼き目を付けるのがベストな筈。つまり、火力を制する者がカルビを制するのだ。勝ったなガハハとほくそ笑む。
さて、雪ノ下の焼き方も一応見ておこうと彼女のトングの動きを観察する。なんと、何度か裏返しながら焼いているみたいだった。おいおい、肉はあまり返さない方が肉汁を無駄にしない分美味しいという初歩すら知らないのだろうか。これは万に一つも負けはなさそうだ。
お互いに焼き上がり、それぞれの取り皿に肉を取り分けた。では判定しますかね、と箸を持とうとする俺を雪ノ下が声で制止する。
「より味わうために、目を閉じて貰えるかしら。そう、その腐った目よ」
「いや、腐った目でも閉じると肉掴むの難しいんだが……」
まぁ肉掴んでから目を閉じればいいかと考えていると、雪ノ下が焼いたカルビを近づけてくる。ああ、そういうことか。
恥ずかしいが、目を閉じる分まだ耐えられる。ばっち来い、と口を開けてそれを迎い入れ「あーん」る。
ん、これは俺の焼いたカルビだな。カリッとした食感の後、適度な香ばしさと肉汁、そして脂が口に広がる。やはり旨いな。至高である。
「今のは俺の肉だよな、普通に旨いわ」
「そうね、じゃあ次は私の焼いたカルビね……あーん」
無抵抗に口を開けて、それを迎い入れる。食感は柔らかめみたいだ。……んんん?!香ばしさは俺の方が勿論強い、だが肉汁の溢れ方が圧倒的に雪ノ下の方が多い。しかも後味も比較的さっぱりしていて幾らでも食べられそうだ。ゆっくりと味わい、飲み込んだ後に目を開く。
「え、めちゃくちゃ旨いんだけど」
「ふふふ、そうでしょう?表情の変化が面白かったわよ」
そんなにじっくり見られていたのかと恥ずかしくなるが、その前に何故あんなに美味だったのかの説明を求めてしまう。
「カルビは脂が多い部位だから、何度か返すことで無駄な脂を落とせるのよ。それと最初に軽く両面を焼くことで、肉汁を内部に留めることもできるわね」
「それと私の焼いたお肉は少し休ませていたのよ。だから食感が柔らかめだったでしょう?」
なるほど、食べる順番すら計算の内だったわけだ。これは俺の負けだと納得してしまった。
「……勝手に勝負を終わらせようとしてるみたいだけれど、まだ私が食べていないわよ」
敗北感で項垂れていたのだが、雪ノ下さんはまだ勝利したつもりではないらしい。え、どうして?
顔を上げると、雪ノ下は目を閉じてその薄くて血色の良い唇を少し開けて待っていた。その唇は普段よりも脂で艶めいている。ちょっと、雪ノ下さん無防備だし煽情的じゃないですかね…。
勝負云々のせいではない胸の高鳴りに支配されつつも、ゆっくりと雪ノ下を汚さないように彼女の焼いたカルビを箸でその口へと運んだ。
彼女は目を閉じたままゆっくりと咀嚼している。ずっと見ていると少し変な気分になってくる。
「……ん、美味しいわね。じゃあ次は比企谷君のを頂戴」
そう口にすると、また彼女はその口を小さく開ける。俺は気付かれないように小さく深呼吸をして、変なことを一切考えないように肉を丁寧に彼女の口へと運んだ。
先ほどよりも楽しそうに噛みしめているように見える彼女は、やがてその口を開いた。
「正直、好みの範疇ね。私は比企谷君の方が好きだわ」
「引き分けじゃねーか」
引き分けな筈がない。こんな気持ちにさせられた時点で俺の完敗に決まっている。
彼女の言葉と、そして彼女の笑顔で俺の鼓動はこんなにも速くなっているのだから。
「ところで、明日は何をするのか決まっているのかしら」
あの勝負の後は普通に焼肉を楽しみ、デザートでも頼もうかというタイミングで彼女はそう問いかける。
あ、タイムリミットでしたね……。これはもう土下座を焼いて披露するしかないのだろうか。
「すまん、結局決められなかったわ」
頭を下げて謝罪する。彼女はきっと悲しい顔になっているだろう。もしかしたら怒らせたかもしれない。どんな言葉を投げられるかが少し怖くなる。
だが、彼女からの返答はあっさりしたものだった。
「それなら好都合ね。実は明日は買い物に行きたいと思っていたのよ。えっと、付き合ってくれるわよね?」
「……元々俺が誘ってたんだ、行くに決まってるだろ」
気を使って案を出してくれたのかもしれないが、願っても無い話だった。
俺は安心して顔を上げて彼女を見て少し驚く。何故なら、彼女が想像とはかけ離れた表情をしていたのだから。
とても優しい笑みをしていた。
「……そうね、誘ってくれてとても嬉しかったわよ、比企谷君」
もしかしたら、土曜日に遊びに行こうと誘った時点で彼女には充分だったのだろうか。俺に求めるハードルが低すぎると悲しんでも良いのかもしれないが、結果オーライだろう。
次こそは内容も考えたいと思う所存ではあるのだが、無理して誘えなくなるよりは、内容未定でも誘える方がずっと良いのかもしれない。
少し自分に甘い気もするが、彼女がこの笑顔を見せてくれるならそれで良いのだろう。
「また内容は決められないかもしれないが、その、次も誘ってもいいか?」
「そうね、比企谷君が決められないなら私が考えるからいいわよ」
「……また今日みたいに食事でもしながら一緒に決めましょうね?」
その言葉で漸く俺は理解したのだった。今日の雪ノ下のテンションが高かった理由を。
「食事もまた誘うわ、んじゃそろそろ会計するか?」
「折角だし、デザートも頼みましょ。私はこのジェラートにしようかしら……」
最後まで楽しそうな彼女と一緒にデザートを選ぶ。別に帰りが遅くなっても問題ないだろう。
この後は彼女を家まで送るに決まっているし、明日も俺が予約させて貰っているんだ。
誰にも邪魔はされない、俺と彼女だけの大切な時間なのだから。
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