■樫本理子は困った
樫本理子は困っていた。
原因ははっきりしている。
あの夜に後輩の男から自らの組織に関わるとんでもない火種を譲られたからだ。
彼はこの火種を「薪」と呼んだ。
しかし詳細に読み込んでみれば、それは過小な表現と言わざるを得ない。彼女にとってみれば薪どころか人道的に使用が躊躇われる、途上国やならず者国家が国民の生活を犠牲にしてでも開発に邁進してしまうあの兵器のようなものだ、と表現すれば不謹慎であろうか。
もっとも、客観的な世間一般には薪かもしれない。しかし樫本理子の所属する組織にとってはとてつもないレベルのインパクトはあるはずだった。
正直、握らされた情報のあまりの重さに薪の使い方を考えるどころか、持っているだけでも胃が痛くなる。
しかし薪は薪でもこの薪には鮮度というモノがあり、使わなければ時間とともに腐り、価値がなくなってしまうこともわかっている。使う前に標的の任期が満了してしまい、そのまま退任されてしまえば元も子もない。
樫本理子は虚弱な身体の代償に神が彼女に与えた明晰極まりない優れた頭脳を用い、難しさを感じる感情とは別の回路で冷徹に、この薪の活用法を探し続けていた。
■樫本理子は考えた
理事会を構成するメンバーを社会的に抹殺することができるこの薪に、わざわざ火を点ける必要はないのではないか。
持っている、ということを相手に知らせるだけで十分な抑止力になりうる。
彼女の冷徹な頭脳はそのような可能性に気が付いた。
そう思い至ったところで、薪の提供元である装蹄師の男の後輩に相談したところ、微妙な顔をされてしまった。
後輩の男は理子に任せるとは言ってくれたものの、派手に炸裂させることを期待していたらしい。
彼と自分の性格の違いなのだろうが、理子はあくまでも冷静であり、彼のようなお祭り志向ではなかった。
第一、派手に燃やしてしまえば理子自身が所属する組織にまでダメージが及ぶし、面倒事が多くなりすぎる。
ウマ娘たちへの愛情に不足がないどころか満ち溢れているが故に、個人的にも将来の競走ウマ娘を養う身である彼女は、組織そのものが燃え尽き、ウマ娘たちの活躍の場さえ失うかもしれないリスクは冒せない。そのように装蹄師の男の後輩に告げる。
樫本理子の理路整然とした話を無駄口を叩くことなく聞き切った後輩の男は、彼女の言い分ももっともであることを認めた。そしてその上で、それではこういうのはどうだろう、とひとつの提案をした。
見せしめにひとりだけ、ということでどうだろうか。
樫本理子はそれならば、まだ…なんとかなるかもしれない、と思う。そして頭の片隅の冷徹な部分がさらに活発に働き、後輩の提案を実行することで残りの手持ちの薪の価値が上がることも認識した。
こうして、薪の使い方、その方針は決せられた。
■後輩は暗躍する
樫本理子に渡した薪の活用方針が決まってからというもの、後輩は予め予備的に行動させていた関係者を集めてこちら側の対応策を達することにした。
関係者といっても、彼の運転手兼実務担当者の男と、自社が抱えているハウスエージェンシーたる広告代理店の担当者、気心の知れているフリーランスのウマ娘系ライター、そして業務を委託している弁護士法人と税理士法人からひとりずつ。
樫本理子の動きに呼応してそれぞれが動き出す手筈になっている。
具体的には今回の事態の発端となったメディアへの裁きが、後輩サイドの主目的だった。
ハウスエージェンシーの担当者が大手広告代理店を通じて業界の風聞を収集したところによれば、件の弱小媒体は今回の件でこれまでの取材対象であるURAに対し存在感を上げ、かつ同業者からの評価も上がり、これまでよりも2ランクほど広告単価もあがるという業界内での小さなシンデレラストーリーを実現した存在として扱われているという。
彼らメディアはそれが商売であるから、かれらの行ったことに対しては殊更どうの、という感想は後輩の男にはない。
しかしある意味で後輩の男が崇拝すらしている装蹄師の男をこのような事態に追い込んだこと、つまり彼らの扱った事象については感想を異にする。
それ自体は交通事故のようなものだ、と言ってしまえばそれまでではある。
しかし交通事故であったとしても過失割合は算出されるものであるし、その割合に応じた責任は果たさねばならない。それができない人間に、天下の往来で文明の利器を操る資格はないのだ。
後輩はその点において、寛大な処置を認めるほど達観した人間ではなかった。
全く。何のために保険がこの世に存在していると思っているのだ。あれこそ持たざる者のためのセーフティーネットだというのに。
仮にも中立であるべきメディアが特定の、悪意のない個人を叩くのであればそれなりの正義がなくてはならない。
しかし彼らはそれを怠った。
自分たちの商売を優先するあまり、やり過ぎたのだ。
そのような相手に掛ける慈悲を持ち合わせてはいない。
畜生、きっちり教育してやる。
後輩の男は信頼している彼の私兵たちを前に、改めて決意を固めていた。
■樫本理子は狙いを定める
樫本理子はじっくり資料を読み返しながら、不幸なひとりを探す作業を夜な夜な行っていた。
それは自らが神にでもなった錯覚を呼ぶ。
気が付けば彼女の暗い部分は、その作業に興奮すら覚えるようになっていた。
そんな時にふと、頭を装蹄師の男のことがよぎる。
過去に僅かな時間とはいえ暮らしを共にしていた、この件の被害者たる装蹄師の男が、この姿を見たらなんというのだろう。
そんな悪魔みたいな真似はやめておけ、とでも諫めてくれるのだろうか。
あの不器用な男が自分の許に身を寄せていた時期が懐かしい。
そして自ら居場所を見つけ、出ていったときは随分と寂しい思いをしたものだ。
彼は自分自身で選んだ道を自分自身の力で歩き、幸運にも才能もありそれが認められ、もちろん彼自身も努力をしたのだろう、この世にひとつしかないトレセン学園お抱え装蹄師という地位にたどり着き、活躍し、目覚ましい功績を残した。
彼の人生と最も近づいた時期から、離れ、また近づきつつあると樫本理子自身が思っていたその時に、今回の事件が起きてしまった。
これは個人的な復讐ですね、と樫本理子は呟く。
やがて彼女は、ひとりに狙いをさだめた。
■樫本理子はリークする
樫本理子が休日の日。
彼女は普段ならあまり近づかない街の喫茶店に身をおいていた。
街に集う年齢層は若く、ちょうどトレセン学園にいるウマ娘たちくらいの年齢の男女が溢れかえっている。
その街中にある比較的落ち着いた雰囲気の店構えが特徴のコーヒーチェーンの一隅に、樫本理子は居た。
狙いを定めた樫本理子は、昨日の夜、電話で後輩にそれを告げていた。
一番デカいとこ選んだなぁ、と後輩の男は嬉しそうに呟いていた。
そしてこれから彼女が手を染める行為は自らの所属組織に対する反乱であり、表立って話すこともできないし、成功したとて褒められることでもない。
それでも彼女は自らが決めたことを粛々と行っていく。それが装蹄師の男への自分のできることだと思っていたし、これからも続いていくウマ娘たちの世界へ対しての、今現在大人である自分が果たせる責任だ、とも思っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
不意に声がかけられる。
樫本理子の前に現れたのは乙名史悦子であった。
トレセン学園やレース場、時にはURA本部に現れる神出鬼没の雑誌記者。彼女の所属する月刊「トゥインクル」はレース界の発展を願い、堅実な誌面づくりで業界では評価が高い。
それを支えているのが彼女のような、地道な取材を欠かさずこの世界の表も裏も熟知している存在だった。
「いえ、こちらこそお呼びたてして申し訳ありません」
樫本理子は慇懃に頭を下げる。
乙名史はウェイトレスにコーヒーを頼むと、いつものようにノートとペンを取り出した。
そして好奇心の塊のような瞳を理子に差し向ける。
樫本理子は乙名史の好奇心の瞳、その奥にある僅かな狂気に内心気圧されながら、それを気取られぬように二つの無地の封筒をテーブルの上に差し出した。
ひとつの封筒は薄く、もう片方の封筒はそれよりも明らかに厚い。それは中に収められた資料の情報量に差があることを意味していた。
「こちらの薄い封筒を、例のメディアに。こちらの厚い封筒は月刊トゥインクルさんで。ただし、トゥインクルさんは例のメディアが一報を出して、少し間をあけて続報という形で追随してください。まぁ、匙加減はそちらの編集長さんなら読み誤らないでしょうが」
乙名史はごくり、と息を吞んだ。
「情報の出所についてはお答えできませんが、裏付けの取材は自由にしていただいて結構です。トゥインクルさんの資料はそれが可能なようになっています」
そこまで言うと樫本理子は自らを落ち着けるために、コーヒーに口をつけた。既にぬるくなってしまっている。
乙名史のコーヒーが届けられたのはその時だった。
「資料を…ここで拝見しても?」
乙名史が問う声に樫本理子は答えずに、伝票を手に席を立つ。
「…ごゆっくり」
樫本理子は背を向けると、会計を済ませて店を出た。
これ以上乙名史と同じ空間に居れば、いずれ自らの心のうちまで見透かされてしまう。これが個人的な復讐であるということまで。樫本理子はそれを恐れた。
しばらく歩いてタクシーを捕まえ、車内に乗り込んではじめて、樫本理子は一息ついた。そして後輩に電話をかける。2コールも鳴りきらないうちに彼は出た。
「…賽は投げられました」
いつもと変わらぬ硬い声音で樫本理子は伝える。
いいねぇ。スパイ小説みたいだ。
彼女の言葉に応える後輩の男の声はどこまでも明るく、まるで状況を楽しんでいるかのような声であった。