■乙名史悦子は妄想する
樫本理子がいなくなったあと、乙名史悦子は好奇心に負けてその場で資料を読み込みはじめた。
途中で、この内容を不特定多数が出入りするこの場で読むことの危険さを理解し、身の竦む思いがした。
しかし一刻も早くこの資料の全容を掴みたいという好奇心が勝ってしまった。気が付けばコーヒーのおかわりは2杯目に突入している。
途中までノートにメモを取り、整理しながら読んでいたが、あまりの内容であるため万が一メモを紛失し、誰かに拾われでもしたら困ったことになることを考慮に入れ、彼女が操ることのできる言語の中で一番日本と縁の薄い言語でメモを取っている。それほどのものであった。
樫本理子から渡された資料は二種類。
ひとつは装蹄師の男の騒動、その発端となった弱小WEBメディアに乙名史の持つルートで情報をリークしてほしいと言われている。
そちら向けの資料はあくまで速報用の表面的な事実関係と、いくつかの裏側につながる未確認情報がちりばめられている補足資料で構成されていた。
そして月刊トゥインクル用に用意された資料はそれにプラスして、全体的な実情が把握できるように網羅的に作成された資料である。
渡された資料は、URAのナンバー2、副理事長がURAに対し背任行為を働いている、というものだった。
出所は分からないが、あらゆる角度からの証拠が揃えられており、これが出れば背任を働いていた副理事長はひとたまりもなく逮捕されるような出来だ。
一体誰がどのような目的でこれを調べ上げ、樫本理子に託したのか。気にはなったが、この圧倒的な資料の前では二の次以下の話であるように思われた。
IP戦略を担当する副理事長はレース場などで販売されているグッズ関係などを一手に握っているが、それらの製作にあたり業者からバックリベートを得ており、その額は火遊びというには過大な金額となっている、と資料冒頭にある。
本来、グッズの売り上げはURAに入った後、他の売上金も含めて収支が合わせられ、利益の一定割合を国庫に納入した残りは、ウマ娘社会の振興などに役立てられていく。
その上前をかすめ取っているとなれば、正義を振りかざすには十分であり、またしても例のメディアは大いにPVを稼ぐネタとなるであろう。
例のWEBメディア向けに用意された資料はここまでだ。
だが月刊トゥインクル向け資料には続きがある。
副理事長がある意味では横領していたその資金の行く先と使途であった。
WEBメディアへリークされる内容がすべてであればURA自体は大ダメージを受けるし世間的にもバッシングを受けるであろうが、それだけだ。
副理事長がお縄になるだけで、この間の装蹄師の男と同じように蜥蜴の尻尾を切り落とすだけで終わる。
しかし今回はそれでは終わらないように仕掛けられている。
月刊トゥインクルが手にする情報は、その資金の流れる先が副理事長個人の懐に収まらず、その出身母体であるURA監督省庁、つまり国家公務員の人間へ流れていることまで証拠付きで収められていた。
つまり、URAは表舞台に過ぎず、さらにその奥にある政治的な利権構造までをもごっそりと告発できる内容となっている。
危険という一言では言い表せない、下手に関われば命の危険すら覚悟せねばならない情報といえた。
樫本理子とは浅からぬ付き合いだが、なぜ彼女がこんな情報を2番手以降に公表できる条件付きとはいえ、私に寄越したのか。
乙名史悦子はいつもの爆発的な妄想力を以て、その意図を理解しようと試みた。
そして樫本理子とは方向性は違うながらも、負けず劣らずの聡明さを持ちあわせている乙名史悦子の頭脳は、たちどころに意図を理解する。
(これは…装蹄師の先生の…弔い合戦、ですね…)
さらに妄想を爆発させる。
(そして樫本さんは…これで一気にURAの浄化を目論んでいる…これを糺せば、ウマ娘たちのために使われるはずだった資金まで、取り返すことができる…それは…ひいてはウマ娘たちに還元されることになる…)
乙名史悦子の資料を持つ手が震える。
そして我慢しきれなくなった彼女は、小さく呟いた。
「…素晴らしいですっ!」
■後輩は延焼させる
樫本理子が賽を投げたと同時に、後輩は自らの私兵にあらたな指示を飛ばす。
検察への告発だ。
とはいえ、表立ってできることではない。
これも私兵集団の中にいる、彼の会社の法律事務所が実務を担う。
完璧な書式・体裁を持ちつつ、告発者は不明の投げ込みとして情報を検察に放り込む。同時にいくつかのルートで検察に話を流し込んでおけば、彼らは静かに動きだす。
そのうち、例のWEBメディアがこちらから情報を掴まされたことも理解できず、正義感で嬉々として特ダネを放つ。
もちろん、本音は装蹄師の男の件で上がった立場をさらに上に押し上げるためだ。彼らは純粋に、彼らの欲望に忠実だ。
各メディアが装蹄師の男を叩いたように追随すれば、否が応でも世間はまた、騒ぎ出す。そして検察もそれを無視はできない。なにせ内容が内容だ。
特ダネを放ったWEBメディアは取材でも先行しているはずだから、事件の背後にあるカネの行先情報を掴んでいると周囲から思われる。そして副理事長の後ろにいる監督省庁で甘い汁を啜っている連中からも目を付けられる。
おそらく彼らの口を封じようと様々な手を使って、WEBメディア対役人の暗闘という構図が出来上がる。
いや、この段階では後輩の男が暗躍してそのような構図を創り出す。もちろんURAも巻き込まれる。タダでは済まない。
そしてその構図の中で、例のWEBメディアを広告代理店も動員して揉み潰しにいく。
週刊文〇でもあるまいし、権力と戦う気骨があるわけでもない彼らはたちどころに干上がりかける。どこの誰に追い詰められているかもわからぬまま、だ。
そして、頃合いを見計らって月刊トゥインクルが独自取材の結果を公表し、横合いから殴りかかる。司直が先か月刊トゥインクルが先かはわからないが、彼の知る月刊トゥインクル編集長、そして乙名史悦子であればそうなるはずだ。
検察は既に動いていたわけだから、月刊トゥインクルが先手を打ってしまっても、最終的には問題ない。その先の手続きを彼らの手で行っていくだけだ。確実に検察の得点になる。なんならもっと積極的にこちらから検察に情報を流し込んでやってもいい。
かくしてURAの理事会からは装蹄師の男を葬った主要人物のひとりを血祭りにあげることができ、コトの発端となったWEBメディアには責任を取らせる。
残った理事会のメンバーも、残りの任期を怯えて過ごすことになる。
しかし問題がないわけではない。
件の副理事長に装蹄所の設立の件で後輩の男自身も接待攻勢をかけている。その過程でこの壮大な背任話を掴んだのだ。もちろん自社の情報網とそれなり以上の費用をかけ、その全容を把握する労力を傾けた。
そして彼自身も装蹄所の件で食い込んでいくために、副理事長に賂いを積んでいる。
副理事長が手を染めていた背任に比べればささやかなものだが、それでも罪は罪だ。余罪が追及される過程で、それも明るみに出る可能性は低くないと考えられた。
だが、そうであるからこそ、この情報の出元として疑われる可能性は低い。
損得勘定としては難しいところだった。
ビジネスに携わる者としては失格であろう。
なにせ賭け金の一部は彼自身ではなく、彼の家業とはいえそれなり以上に大きい会社なのだ。
後輩の男自身もそれを十分に認識している。
それでも、彼はこの賽を投げた。
個人的な動機ではあったが、少なくとも彼の崇拝する装蹄師の男の仇を討つことはできる。
そして彼の願った、ウマ娘たちのより良き未来、その一助になるはずだ。
後輩の男は自分の持つ様々な要素を天秤にかけ、そう結論していた。
■東条ハナは揺さぶられる
東条ハナは上機嫌であった。
彼女たちの棲む世界の上部組織であるURAでは、例のメディアから再び、今度は理事会をターゲットに据えた糾弾を受けつつあり、大きな騒ぎとなっていることは知っていた。
しかしそのような渦中にあってもトレセン学園の中は秋川理事長の統治の許に平穏を保っている。東条ハナ個人としては装蹄師の男が受けた仕打ちを考えればURAの上層部がダメージを受けることに関して、いい気味だとすら思っている。
報道の真偽は定かではないが、仮に本当だったとしても彼女たちが日々邁進している真剣勝負の世界は揺るがないし、それだけ真摯に日々のトレーニングに、そしてレースに取り組んでいる。
それだけの自負があった。
装蹄師の男が彼女の前から気楽に、と思えるほど簡単に姿を消し、しばらくは落ち込んだ日々を過ごした。
しかしこれではいけない、と奮起して日常を取り戻してからいくらか時間が経った。
装蹄師の男たちと近しかったウマ娘たちに続々と蹄鉄が届きだすと、彼女の知らないところで、装蹄師の男が順調に仕事をしていることが知れた。それは東条ハナ自身もさらにトレーナー業を邁進しなければならない、と励みにもなった。
一方で、装蹄師の男が消えた夜、あれほどのアピールをしたというのに自分には何の便りもないことに、一抹の寂しさを感じていたことも事実であった。
そんな複雑な心境ながらも、全般的には前向きに過ごしていたなんでもないある日。
見慣れない会社名の発送元から小さな小包みが届いた。
その日のトレーニングを終えて一人きりのトレーナー室。届いてそのままにしておいたのを思い出し、何の気なしに開けてみれば、中に収められていたのは蹄鉄をモチーフに造られたプラチナ製と思しきピアスであった。
精巧につくられたそれは、蹄鉄の頂点に小さなものではあるが彼女の誕生石であるダイヤモンドらしきものが嵌められている。
そして明らかに装蹄師の男の手によるものとわかるのが、蹄鉄がプラチナとゴールドの木目金となっている点だ。
装蹄師の男がサイレンススズカのために創り上げた技術が、彼女の許に届いたピアスにも活かされていた。
それに気が付いた時、東条ハナの鉄面皮がこのときばかりは赤らみ、そして緩む。
一人の時で良かったと東条ハナは何かに感謝しながら、いそいそとそれを右耳に着けていた時、トレーナー室でつけていたテレビがニュース速報の電子音を鳴らした。
地震でもあったかしら。私はなにも感じなかったけれど。という気持ちでそれを見る。
[ URA本部に強制捜査 幹部らに背任行為の疑い ]
目を疑った。
URAとは。
私たちの、URAなのだろうか。
あまりの衝撃に、東条ハナはピアスを取り落としてしまった。
ほどなく彼女のスマホが鳴動する。
それは理事長秘書である駿川たづなからの緊急招集通知であった。
■何も知らない装蹄師の男
今日も今日とて山奥の工房は平和である。
後輩がどこからともなく受注してくる開発案件をこなしつつ、余暇として軽トラをいじりつつ。
ダメ人間にならずに過ごせているのは、やはり適度に「やらなければいけないこと」が入ってくる効果が大きい。
その日も適度の業務を終わらせて、部屋でゆっくりとしていた頃。
そろそろサイレンススズカも復帰に向けてトレーニングを始める頃だろうか、などと考える。それならまずはリハビリ用の蹄鉄でも打ってやろうか、そんなことを考えながらテレビを眺めていた時だった。
鋭い電子音が、ニュース速報の発信を告げる。
内容が表示された瞬間、装蹄師の男は言葉を失った。
画面には、彼がつい先日まで所属していた組織、その本部に強制捜査が入ったことを伝えていた。
いったい何が起きているというのだ。
装蹄師の男は煙草を口に銜えたまま、火を点けることも忘れ、暫し茫然としていた。