■父親の矜持
後輩の会社が入るビルの最上階のひとつ下。そこにはいわゆる役員室があるフロアだ。
そのフロアの最奥の部屋で、時代を経てすっかり眺望の悪くなった外界を眺めている、老いつつはあるが風格を感じさせる男が居た。
この会社の社長を務める、後輩の父親である。
先ほどまでこの会社の番頭であり、彼の片腕でもある専務取締役から、彼の息子である後輩の男の暴れっぷりについて報告を受けていた。
会社の代表であるという立場から、専務の報告に対しては厳しい表情で臨んだ。
しかし内心の、父親としての彼は全く逆の感情を持っている。快哉を叫びたい気分だ、といえばわかりやすいだろうか。
彼の息子が、動機はどうあれここまで世の中をかき回してみせたその手腕。それに父親としての喜びを感じていたし、男子たるものかくあるべし、と社長としての立場でも、そう思われたからであった。
後ろ暗い行いをしてきたことも含めて、そのくらいの気概がなければ切り拓くことのできないことは多くある。
それはこの会社をここまでの大きさにした代々の先代たちを見ても同様だったし、今社長の椅子に座っている自分にも、目の前で行状を説明している専務にも、そのような行いも含めて商売を拡大してきた、という自負も負い目も併せ持っている。
勿論、彼の息子の行いは今の世相では褒められることではないことは承知している。法律に照らしてみても、かなり黒寄りのグレーであるという判断もしている。
しかし商社の商売というモノは綺麗ごとだけでは収まりきらない。清濁併せ呑んでこそ、目的を達することが出来る。
後輩の父親は自らの経験からも、そう考えていた。
しかし、と思い返す。
大学時代の先輩に、これほどまでに恩義を感じていたとは。
息子が在学中にレースで怪我をし、後遺症が残ってしまったことは、親として忸怩たる思いがある。
だが、彼個人の認識としては大学生であれば既にほぼ大人であり、部活の競技中の出来事であるのだから、誰の責任でもない。
彼の息子が選択し、行い、その結果起こってしまった事故だと考えている。
そしてその事故で、息子の先輩だというひとりの男は、責任の在りかは自分にあると言い、彼なりの責任を取ったことははっきりと記憶に残っていた。
思えば義務教育の頃から、少々どころではない跳ねっかえりであった息子。
甘やかしすぎたのではないか、と思うこともないわけではなかった。
高校時代は家にも寄り付かず、方々を遊び歩いていて警察から連絡が来たこともある。
しかしそれも大学に入ったあたりから少し落ち着いてきたか、と思ったところでの事故であった。
そんな息子も、このときばかりは素直に実家を頼った。
そしてそこから障害が残る身体ながらも周囲の支えを得てなんとか大学を卒業し、家業においてもイチから謙虚に修行を重ねていった。息子は人が変わったようだ、と思ったものだ。
この大学時代の経験が息子を変えたのだ、と理解したのは、だいぶ時間が過ぎてからのことだった。
だとすれば、父親の自分は、事故の責任を取った息子の先輩とやらに、彼が取った責任以上の恩義を感じるべき立場だった。
最近になってその先輩との交流が復活したことを嬉しそうに話す息子の表情は、ここのところ社長と従業員としての会話しかしていなかったことを反省するほどに生き生きとしていた。
そして、今。
自分が父親として息子に何かをしてやることのできる最期の時期に差し掛かっていると自覚しはじめていたときに、今報告を受けているやんちゃでは済まされない騒ぎである。
これまでの経緯はかなり早い段階から専務を通じて把握していた。
公人としての自らの立場は勿論あったが、私人としての彼はハラハラしながらも息子の行動を見守り、父親としての責務を果たすべく、出番を待っていた。
専務の報告を一通り聞き終えて、外を眺めている後輩の父親でありこの会社の社長は、自らの手をどの段階で差し伸べるべきか、それを考えていた。
それをどこかで観察していたかのようなタイミングで彼の机の内線が鳴る。
専務が受話器を取り、一言二言応答すると、受話器が差し向けられた。
電話をしてきた相手は、昔から馴染みのある与党の代議士であった。
■密談は料亭で
後輩の父親は電話を受けた晩、赤坂のはずれにある隠れ家のような料亭、その一番奥の間に足を運んだ。
「お待たせして済まない」
後輩の父親は先に来ていた相手、先ほど電話をしてきた男に頭を下げる。
「いやいやこちらこそ。お忙しいところ急にお呼びたてしてしまって…ご足労いただき恐縮です」
てらてらと脂光りする坊主頭をハンカチで拭う大黒様のような男は、赤紫のモールに金色の菊花模様を配した議員バッジをつけていた。
後輩の父親は、議員がまだ独り立ちする前に議員秘書をしていた時代から付き合いがある。
年齢はいくらか後輩の父親のほうが上で、昔はよく連れだって飲みに出かけたものだ。接待に役立つ店も、夜の街の作法も教えた、いわば東京の兄貴、弟といったような間柄だった。
それから年月が経ち、議員の方は順調に当選を重ね、今や政権与党でそれなりの要職を担い、大臣の椅子もそう遠くないと言われている。
勿論、彼が出世街道を駆け上がるにあたり、後輩の父親は有形無形の支援をしていた。人の好さそうな大黒様のような見かけだが、その見た目と違わぬ人柄から大変な艶福家でもあり、過去には彼の女性関係の始末をつけてやったことすらある。
「今日はうちの愚息の件かな?君の、ではなく。細君は息災かね?」
後輩の父親は先制攻撃を放つ。
「あぁ…ええ…その節は大変お世話になりました。お陰様でなんとか夫婦円満にやっております」
議員は当時の有力政治家の子女を妻として娶り、入り婿となっていた。
「…えぇと…あぁ…そうです。御子息の件で。URAのほうで、色々とあるようで、その件でご相談したかったのです」
初っ端から過去の女性問題を絡められては、当代の大物議員もさすがにたじたじとなっていた。良くも悪くも新聞記者に愛人の数を問われて一人少ないことを指摘し、記事は正確に書くべしと宣った古き良き時代の政治家のようなおおらかさとユーモアとは無縁である。ある意味、現代的な感覚の持ち主ではある、と言えるかもしれない。
「…一体、御子息はどこまで情報を掴まれているのでしょうか?」
先制が見事に決まってしまって気勢を削がれた議員はおずおずと尋ねる。
「さぁ…どうでしょうな。どちらにしろ、既に司直の手に委ねるべき問題なのではないかな?」
後輩の父親はほぼすべて把握していたが、あえてそらとぼけてみせる。
「えぇ…確かに、すでにそのような段階ではあるのですが。このまま司直の面々が自らの職務に忠実に精励しますと、最終的にはおそらく二人ほど大臣のクビが飛ぶ、という次第でして」
後輩の父親はカラカラと笑い声をあげた。
「結構なことじゃないか。君がその、空いた席に座ることになるんだろう?」
議員はしきりに吹き出す汗をハンカチで拭っていた。
「いえ…そうなってしまえば、おそらく現政権は持たない、というのが我々の見立てでありまして…。またぞろ、あなたに選挙の資金協力をお願いすることになってしまいます。そして、その選挙で勝てるかどうかは…」
なるほど、と後輩の父親は内心、頷いた。
どうやら彼の息子の火遊びは想定していなかったような延焼の仕方をしてしまっているらしい。
議員の男は、おそらく今のあまり民衆に人気があるとはいえない政権中枢が遣わせた火消し役、そういう役回りのようだった。
「…私にどうしてほしいのかな?私は今までも、君には最大限、協力してきたつもりだが」
大黒様のような見かけの議員は、その柔和な瞳の奥にしっかりと芯を持った視線を後輩の父親に差し向けた。
「…御子息が、これ以上検察に情報を流すことを止めていただきたいのです。それさえしていただければ、あとはこちらで。御子息のURAへの工作も、こちらで不問に付します。御子息の目的はわかりませんが、それで納めていただけませんか」
後輩の父親は無表情のまま、しばらく議員を見つめ返す。
「…あれは、性根は優しい子なんだ。過去に受けた恩を忘れずに、それを今、あの子なりに返している」
議員はさらに汗の量を増やしている。
どうやら彼にとってこの話は相当に重要な任務のようだ。その証左に、座布団から降りて居住まいを正している。このまま放っておけば彼の得意技である土下座でも繰り出しかねない勢いだ。
「…私も…社長から受けたご恩を忘れたことはございません!それは…これからも…!」
後輩の父親は腕を組んで、考え込む風を装う。
「どうか…どうか…!」
ついに議員は畳に両手をつき、頭を傾け始める。
磨きこまれた球のような頭皮に、部屋の景色が映りこむようだ。
頃合いかな、と後輩の父親は思った。
「頭をあげて。わかりました。将来の大臣に土下座させたとあっては、私も立つ瀬がない」
ありがとうございます!と大声で感謝の意を述べる議員の頭は、既に畳についてしまっていた。
「この御恩は必ず…必ずお返しいたしますので!」
「なに、相身互い、という奴だよ。君も一度、時間を作ってレース場に足を運んでみると良い。若きウマ娘たちが真剣に走り、競う姿は、我々のような者にこそ背筋の伸びるような感動を与えてくれる。私の息子は、それらを護りたかっただけなのだ」
議員は再び、せわしなく汗を拭いながら、後輩の父親の話に耳を傾けていた。
■樫本理子は責任を感じる
樫本理子はURAに強制捜査が入った日からしばらくは、捜査のためにひっくり返されたオフィスの片付けに追われていた。
正直に言えば、今すぐにでも逃げ出したい気分であったし、もしそれが許されたならば、誰もいないところでひとりで泣き崩れたいほどの心境だった。
日が経つにつれ、つくづく自分の振った賽、その出目の大きさに身が竦んでいった。
そんな彼女の様子を電話口で察したのは、賽を握らせた張本人たる後輩の男だった。
彼女の精神状態を案じた後輩は、休日を合わせ彼女をドライブに連れ出した。
「…どこに、向かっているのですか…」
助手席に座る樫本理子の声よりも張りが失われている。
「まぁ…りこぴんをそう気落ちさせたままにもしておけないと思って。サイコロ握らせたのは、俺なわけだし」
後輩の男は首都高4号線から中央高速を西へ向けて走らせる。
道中、二人は言葉少なにやりとりを交わすが、盛り上がらない。樫本理子は後輩を責めることはしなかったが、自らが定めたターゲットが逮捕されるに至り、その是非というよりもURAが、ウマ娘たちが営々と築き上げてきた誇り高きエンターテイメントの世界が汚されてしまったことに責任を感じている、という様子だった。
後輩が操るクルマはいつしか高速を降り、山中深く分け入っていく峠道を登った。
途中で道を逸れ、未舗装路をゆっくりと進む。
山を切り開いて造られたと思われるその道は、わりと最近造られたものとわかる。道の両脇にある伐採された木の切り口がまだ真新しい生木の色をしていた。
しばらく行くと、広場のような場所に出る。
後輩はそこでクルマを端に寄せて止め、クルマを降りた。
広場からは遠く下に登ってきた峠道がところどころ見えており、その向こうには関東平野が広がっていた。
「いい景色だろう?」
煙草に火を点けながら後輩は樫本理子に声をかける。
山の空気は澄んで冷たく、長くクルマに揺られて火照り気味だった肌に気持ち良い。
「…ええ…とても良い眺めです」
ここのところ張りつめていた精神が、いくらか緩むような気がした。しかし一方で樫本理子の冷静な頭脳は、これが一時しのぎの現実逃避に過ぎないことも理解している。
「実はさぁ…りこぴんにサイコロ振らせた件、あっちこっちから怒られちゃって。まぁ、もとはといえば先輩の件のときに、もうちょっと俺が上手く立ち回れたら、りこぴんにもこんな苦しい思いさせずに済んだのかもしれないけど」
後輩の男と樫本理子は並んで関東平野を眺めている。
どこからか、峠道を登ってくるバイクの排気音だろうか、甲高いエキゾーストノートが遠くで響いていた。
「だからさ、お詫びってわけじゃないけど…ここに連れてきたんだ」
樫本理子は怪訝な表情で後輩の男を見る。
「ここが…お詫び…とは…?」
甲高いエキゾーストノートが山々のこだまでなく、近くまで迫っていた。
後輩の男の向こうに見える、ここまで辿ってきた未舗装路から、土煙が上がっているのが見える。
バイクのようなエキゾーストノートの正体が、姿を現す。
派手な排気音と車体に不釣り合いな大径タイヤを履いた、バギーのように改造されつくした軽トラだったものが、ドリフトしながら蹴り上げた小石を後輩のクルマにぶつけながら、真横でくるりと回って止まった。
「…?」
呆気にとられる樫本理子と、苦笑いの後輩。
中から降りてきたのは、フルフェイスヘルメットを被った作業着姿の男。
ヘルメットを被っていても、樫本理子には誰であるかがわかった。