不思議な老紳士との出会い、慣れぬ街で居心地の良い食事処を見つけてから、しばらくの時が経った。
トレセン学園 学園管理本部 施設統括部 史料課に勤める下っ端研究員の男は、この一か月は資料目録の作成に追われる日々を過ごしていた。
トレセン学園においては、理事長直轄のメディア室という部門がメディアの一次対応を行い、資料が必要になった際に研究員の男が所属する史料課に問い合わせが来る仕組みになっている。
史料課はそれに効率的に対応するため、日々集まってくる雑誌などの刊行物や様々な資料などを一元的に管理、目録を作成しメディア室と共有することになっていた。
しかしそれは建前の話であり、実際のところは半期に一度程度の割合で半年分を一括で目録を作成し、提出している。
なにせ集まってくるものは膨大であり、それらを逐次処理していては日常業務が覚束ない。
そこで、月次での目録は簡易作成とし、集中的に処理する期間を設けることで対処する、ということになっていた。
いわば、情報の決算処理に下っ端の男は追われていたのだった。
研究員の男は陽が落ち、ひと気のなくなったトレセン学園の本校舎、その屋上にいた。
トレセン学園の敷地は来訪者向けに設けられたいくつかの喫煙所を除いて、禁煙である。
しかしその中でも例外的に喫煙が認められていたのが、生徒の使用が禁止されている本校舎の北側屋上であった。
夜風が心地よい季節から肌寒い季節に移ろいつつあるこの時期。
トレセン学園の練習用トラックはナイター用の照明が灯っている。その恩恵で校舎屋上も自前の灯りを必要としない程度には、ほのかに明るい。
屋上には、いつ置かれたか定かでない古ぼけたベンチがある。それに腰掛けると、研究員の男は煙草を銜え、火を点けた。一服吸い込むと、ここのところの激務による疲労の為か、頭がクラクラした。
半期に一度のとてつもなく激務な日々がようやく終わりを告げた。それを乗り切った自分へのご褒美として屋上にやってきて煙草に火を点けてみたが、些かご褒美が小規模に過ぎる気がした。
やはりここは自分を労うべく、あの喫茶兼スナックへ行くべきであろうか、と迷う。
おそらくあの妙齢なのに可愛らしく、面倒見の良さが母性とも姉感ともとれる、こなれた雰囲気が心地よいウマ娘が、落ち着いた笑顔で自分を癒してくれるだろう。
そう考えながらも妙に身体が熱いような寒いような、よくわからない体調の悪さを感じていたが、疲労の為だろうと無視を決め込む。
煙草の味も今一つおいしく感じないな、と思いながら、研究員の男はこのところ停滞していたライフワークのことを頭に思い描きだした。
エアグルーヴ理事長が暗示した資料にも蹄鉄が絡んでいたこと、正体不明の老紳士と博物館の蹄鉄コーナーで出会ったこと、そしてあの店でのナイスネイチャさん(名前は後日、調べた)との会話…と、自らの調べ物が一人の装蹄師の男に引き寄せられつつあるような気がしていた。
そしてここ1か月、別の業務に追われていたことで考察に冷静さが添加され、視野は広がっていた。
学園お抱え装蹄師が学園から消えてしばらくのち、URAは大規模な背任事件が発覚し、逮捕者をも出す騒ぎとなった。
社会的にもその名誉に著しく傷を付けてしまった結果、URAは体制を大きく変えての再出発をしている。ある意味ではウマ娘レース界が第二の揺籃期を迎えたと言っていい。
そう間をおかず、メディア主導のトゥインクルスタークライマックスという新たなイベントが施行され、そこからのURAの再生と復活、今日の隆盛。
その象徴となったのが、トゥインクルスタークライマックスで初代王者に輝き、それを潮に競走ウマ娘を引退したシンボリルドルフだった。
引退後、職員としてURAに入り、そのあとをエアグルーヴも追った。
シンボリルドルフとエアグルーヴは新生URAの象徴的存在として、内部の機構改革を推し進めた。そして彼女たちの名声と才能を存分に活かして世間を味方につけ、時間をかけた結果、URAの立て直しに成功した。
その努力の延長線上に結実した姿が現在のトレセン学園であり、彼の職場である。
老紳士と喫茶ブロンズとの出会いの後、彼が睡眠時間を削って捉えなおした現代に続くアウトラインは、概ねそんなところであった。
物思いに耽っていたところで、不意に顔面を眩しい光で照らされる。
「…なんだ君か。こんなところで何を黄昏れている」
フラッシュライトを光源として下っ端研究員の男を照らし出したのは、トレセン学園の理事長、エアグルーヴであった。夜の校内の見回りでもしていたのだろう。そのままこちらへ歩み寄ってくる。
「もう夜は冷える。そんなところに居ては風邪をひくぞ。それに、顔色も良くない」
言われてみれば夜風はそれなりに冷たいはずなのに、身体が熱い。
パンツスーツ姿のエアグルーヴ理事長は、屋上のほの暗さの中でも美しい。
下っ端研究員の男はそんな場違いな感想を抱いていた。視界がゆっくりと揺らいでいく気がする。
「おい、聞いているのか」
エアグルーヴ理事長の少し冷たい声も耳に心地よい。
疲れた身体に染み渡るようだ。
「おい。しっかりしろ!どうしたんだ…おい……!」
下っ端研究員は、エアグルーヴの声を聴きながらゆっくりと意識が遠のき、ベンチに力なく頽れた。
◆
下っ端研究員の男はとても暖かいものに包まれる夢を見ていた。
揺蕩うような揺れが心地よく、いつまでもここに居たいとすら思った。
ソファのような、柔らかくも安定したところにそっと降ろされたタイミングで、下っ端研究員の男は朦朧とする意識を取り戻しつつあった。しかし身体は鉛のように重く、身じろぎする気にもならない。
すぐ近くで、控えめに抑えられた声がする。
「…あら…その男の子は…どうしたの?」
「…学園の職員なのだ。見回り途中で私の顔を見た瞬間、倒れてしまってな。ここのところ彼は激務だったのは私も把握していたのだがな…対処が行き届かなかったようだ」
「大丈夫かしら…」
「これは私の出番かもしれないねぇ。どれ、ちょっと脈を診てみようか」
「妙な真似をして光らせたりするんじゃないぞ。大事な我が学園の職員なのだ」
「なに、ちょっとくらいはどうってことないさ。それで体調が回復するなら安い代償だろうに」
どうやら自分の身を取り囲むように会話が進んでいるようだ。
「ただの若者ではないぞ。先般、皆にシェアした研究の中間報告書、その執筆者だ」
「…私たちの日記から始まって、装蹄師の先生にたどり着きかけている、あの…?」
「そうか、あの報告書の彼なのか。ならば大事にせねばなるまいねぇ。先生の業績に光を当ててくれる若い世代が、ついに現れたのだ」
「そんな呑気な話でもあるまい。綺麗な話ばかりでもないのは皆、知っているだろう」
そこまで聞いて、下っ端の男は目を開いた。
下から見上げる三人のウマ娘と思しき影。
照明を背負っている為にシルエットとなっており、ひとりはエアグルーヴであることはわかるが、あとの二人は誰であろうか。
「お、気が付いたようだねぇ、青年」
ねっとりとした声音は、どこかで聞いた覚えがあった。ゆっくりと身を起そうとすると、エアグルーヴ理事長が身を支えてくれた。
「すいません理事長…お手を煩わせてしまったようで」
起き上がるとそこは、理事長室であると知れた。
エアグルーヴ理事長が心配そうに至近距離で顔を覗き込まれて、下っ端の男は体調ではない部分で心拍数が上がるのを感じた。
「構わん。気分はどうだ。顔色はだいぶ良いようだが」
気が付けば先ほどまでの暖かいものに包まれた感覚で、すっかり気分は良くなっていた。
改めて周りを見回し、研究員の男は絶句する。
彼を取り囲んでいたのは、彼がライフワークとして取り組んでいる研究の中に存在する対象、伝説の存在であるサイレンススズカとアグネスタキオンであった。
「おや…また顔色が白くなってしまったねぇ」
アグネスタキオンが視界の隅でククッと笑った。
◆
サイレンススズカが淹れてくれた紅茶が下っ端研究員の男に差し出される。
それをニヤニヤと眺めるアグネスタキオン。
エアグルーヴ理事長は腕を組んで未だ心配そうにこちらを見つめていた。
「ありがとうございます…」
ようやくのことで下っ端研究員の男が絞り出した声は弱々しく、かすれていた。
「ほらぁ、彼が怖がってるじゃないか…。その圧迫感のある態度を改めたまえよ」
エアグルーヴをからかうアグネスタキオン。エアグルーヴは虚を突かれたのか、慌てつつ赤面している。
サイレンススズカが淹れてくれた紅茶はほのかに甘く、冷えていた身体に染み渡るようだった。
「…今日の業務はもう、終わっているのだろう?付き添ってやるから自室に戻ってゆっくり静養するといい」
エアグルーヴは優し気な声で男に言った。
「…はい…いや…でも…ですね…ええっと…」
下っ端研究員の男は混乱し、ただパクパクと口を動かしているが意味のある言葉を発せない。
これまで、誌面や映像データなどでしか見たことのない存在が、倒れる前にぼんやりと考えていたストーリーの中の彼女たちが、実像として目の前にいるのだ。
こんなチャンスはそうそうあるものではない。
そう思う反面、自らの体調もよくわからず、置かれている環境も理事長室という非日常の空間であり、さらに見目麗しい伝説級のお三方に囲まれて…という状況は彼の冷静さを奪っていた。
「…どうした?まだ具合が悪いのなら、私がおぶって病院に連れて行くぞ。なに、現役を引いて長いとはいえ、脚の方はまだ錆びついてはいない」
エアグルーヴが研究員の男の内心とは別の方向へ爆走している気がする。違う、そうじゃない、と言いたいが、うまく言葉にできない。そしてエアグルーヴ理事長におぶられるという誘惑もさらに脳を混乱させる。
「なんなら私のラボで精密検査でも受けてみるかい?なに、そう遠くないし並みの病院より設備は整っている。ヒトのデータはそう多く蓄積されているわけではないが、そう大きな問題はあるまい」
アグネスタキオンがなぜか話を複雑にしてくる。
そしてサイレンススズカはその様子を微笑みとともに眺めている。
「ふたりとも、ちょっと待って…困ってるのよ、私たちに囲まれて」
そうでしょう?とサイレンススズカが柔らかく暖かな笑みを研究員の男に向ける。
その翠色の瞳はこれまで幾度となくモニター越しに眺めていた。見慣れているつもりだった。
だが、研究員の男はモニター越しのそれとは比較にならぬ美しさに、吸い込まれそうになる。
このまま倒れ込みたい、意識を失ってしまいたいと思う。
しかし、実体としての彼女たちと相対している今、この研究に着手した動機について、自らの最も恥ずかしく愚かな部分について話してしまうべきだ、と彼は思った。
「…最初は、興味本位でした…」
研究員の男はぽつぽつと話し始める。
「サイレンススズカさん、アグネスタキオンさん、シンボリルドルフさんの日記を、書庫で見つけて…」
この研究のとっかかりは、まさにその部分だ。最初に、彼女たちのプライベートを覗いたところから始まっている。
「ボクにとっては…貴方たちは、歴史上の…URAの歴史に輝く伝説の存在、そのように思っていて…興味本位で、その日記を読んでから、調べ始めたんです…」
静かで、弱々しく話す研究員の男を不憫に思ったのだろうか。
エアグルーヴがごとり、と灰皿を差し出してくる。
「…もし体調が良いのであれば、そして君が話しやすくなるのであれば、吸うといい。なに、君のことは彼女たちも先刻承知だ。話を聞いてやることも吝かでない。そのくらいの器量は年齢とともに備わってきている」
そう述べるエアグルーヴを観察していたアグネスタキオンは、ふふっと笑う。四角四面な物言いにサイレンススズカも苦笑いだ。
ありがたく差し出された灰皿を手に取った下っ端研究員の男は、そのまま立ち上がって窓際に寄った。
「座ったままでも構わないんだぞ」
そう言うエアグルーヴに軽く頭を下げ、窓際で下っ端研究員の男は煙草を取り出す。
「全く。気にしないと言うのに、律儀な男だな」
そういうとエアグルーヴも立ち上がり、下っ端研究員の男の傍らに立った。
そして研究員の男が手に持つソフトパッケージから、細く美しい指先で一本抜き取った。
「…ごくたまにな、吸いたくなるのだ、私も」
エアグルーヴはそういうと、下っ端研究員の手からライターを奪い、火をつけて深く吸い込む。
そうして、形の良い口元を僅かにすぼめるようにしながら、真っ直ぐに煙を吐きだした。
「…君と私の秘密、だぞ」
驚いたまま固まる研究員の男の手に差された煙草はじりじりと燃えて長い灰となり、ぽとりと落ちた。
アグネスタキオンとサイレンススズカはその様子を離れたソファで見届けながら、時に顔を見合わせ、苦笑いの表情を浮かべていた。
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皆さま完結お祝いのコメントを多数いただき、誠にありがとうございました。
改めて皆様にささえられて、一緒に最後まで走っていただけたからこそここまでたどり着けたんだなぁ、と感慨ひとしおでございます。
これまでロクに物語を書いたこともない私の、文章表現の品質も稚拙極まりない拙作を楽しんでいただき、励ましていただき、文字校正も丁寧にいれていただき、ご意見も頂戴しながらの有形無形のご支援いただきながらで、物語ひとつでこんなに様々な方に反応いただけるというのは本当に幸せなことだな、と改めて思う次第です。本当に皆様ありがとうございます。
さて、完結の舌の根も乾かぬうちに下っ端研究員編を投稿させていただきました。
例によって書き出すとあちこち寄り道したくなる性分でして、早速やや目標から逸脱し始めており、さらにこれのオチもまだ決めずに見切り発車でありますので右往左往して長くなるかもしれませんが、引き続きお付き合いいただければ幸甚です。
引き続きよろしくお願いいたします。