トレセン学園 学園管理本部 施設統括部 史料課に所属する下っ端研究員の男はその日、学園組織における命令系統、その遥かなる頂点である理事長から命じられ、外出をしていた。
勿論その業務命令は理事長自ら発せられ、学園管理本部を管掌する理事から学園管理本部長、施設統括部長、史料課長という歴々を経由したうえで本人に達せられた正式なものである。
正式なものであるからして、外出に当たっては学園の公用車の使用が許可され、命令を受けた当人が必要と思えばあらゆる便宜が図られる。
しかし何のことはない、業務命令書にあった行先は電車で二駅、駅前からは徒歩10分ほどの場所であり、下っ端研究員の男は必要以上の気遣いを見せる史料課長や施設統括部長からの勧めを断り、普通に電車で移動した。
行先は、URAの下部団体であるウマ娘総合研究所である。
下っ端研究員の男も知識としてそのような団体があることは知っていた。
しかし就職時に受けた説明によれば、URAの組織図に載ってはいるものの、その所在地等はほとんど秘匿されており、形式上はURA本部の中にあるということになっている、と聞かされていた。もちろんその組織の代表者の名前も明かされていない。
理由は様々あるようだが、特に聞かされていたのは膨大なウマ娘のデータを一手に預かり研究に供する場所であるから、ということであり、企業がデータセンターの所在を明かさないのと同じことであり、代表者を公表しないこともメディアの取材対象にされないため、という。
下っ端研究員の男は指定された最寄り駅で降り、教えられた住所に向かいスマホの地図に従い歩いていく。
どうやら目的の場所は大きな公園のような場所にあるらしい。周囲の住宅やらが密集している1ブロックを6つほども束ねたほどのひろさを持つ土地が、出発時に渡された住所そのものを示している。
果たしてこの広大な敷地のどこから入ればよいのだろうか。
着々と目的地に近づいていくスマホの地図を時折眺めながら、下っ端研究員の男は先の心配をしていた。
◆
「やぁ、遅かったじゃないか。どこかで迷子になってしまったかと思ったよ」
下っ端研究員の男は通された応接室で、アグネスタキオンと対面している。
どうにかたどり着いた研究所は、地図の印象通りの公園の敷地内にあり、その奥の管理エリアに紛れるように存在していた。
「…もう少し手が込んでいたら見つけられませんでしたよ」
公園の管理棟か何かかと思われた入り口には何の説明書きもなく、ただ普通の鉄扉があるだけであった。そのドアに、URAのウマ娘の横顔をモチーフにしたマークが小さく描かれていて、知らぬ人間であれば、見過ごしてしまうだろう。
「まぁそのほうが雰囲気があっていいだろう?」
ドアを開けると、少しだけ長さのある廊下と小さな無人の受付があり、URAのシンボルが大きく描かれたカウンターがある行き止まり。そしてそのうえにぽつんとボタンの無い電話が置かれていた。
受話器を取るとどこかに通じ、来意を告げればカウンター奧、一見ただの壁にしか見えない隠し扉から案内のウマ娘が出てくる、という仕掛けであった。
「それで、もう体調の方はいいのかい?」
アグネスタキオンは現役当時と変わらぬ照りの無い瞳で下っ端研究員の男を覗き込むように距離をつめてくる。ふわりと紅茶のような甘い香りと、微かに薬品のような人工物の香りを研究員の男の鼻腔が知覚した。
「ええ…お陰様で。その節はご迷惑をお掛けいたしました。なんだかみなさんの折角の時間のお邪魔をしてしまったみたいで…」
下っ端研究員が学園の屋上で倒れた晩、結局エアグルーヴ理事長付き添いのもと、下っ端研究員の男は部屋に帰された。
どうやら何らかの理由があってアグネスタキオンとサイレンススズカの両名がエアグルーヴの許に訪れていたようだったが、なんの会合かはわからずじまいであった。
「ふふっ…なに、大したことじゃあないんだよ。良い口実が出来たんで、旧交を温めようと集まっていただけなのだ」
良い口実、という言い回しが気になったが、それを問いただせるほどには下っ端研究員の男の肝は据わっておらず、アグネスタキオンにも慣れてはいなかった。
「まぁ、君もせっかくURAが誇る秘密研究所に来たんだ、私自ら案内しよう。そして見聞を広めてくれたまえ」
そう言うと袖が長すぎる白衣を纏ったアグネスタキオンは立ち上がり、ヒラヒラと下っ端研究員の男をいざなった。
◆
アグネスタキオンと下っ端研究員の男は研究所内をめぐる。
所内には普通に人間も居ればウマ娘も居て、それぞれが一体のチームとなって職務に精励しているのが見て取れた。人数はそれほど多くはないように思われるが、そもそもがこの研究所のワンフロアあたりの面積は不必要に思われるほどに広く、さらに取り扱い領域も広い。地上3階、地下3階の6フロアある案内板にはこうある。
3F 室内トレーニング設備 / 食堂・カフェテリア
2F VRウマレーター設備 / 機器開発本部
1F 執務フロア / 応接室・会議室
地下1F 駐車場・搬入口 / 医療・創薬研究本部
地下2F 身体検査設備 / リハビリ設備
地下3F BSL3実験・研究施設
さすがに地下3Fにあるバイオセーフティーレベル3規格の実験施設は立ち入りに関し厳格な制限があるため、地下2Fに存在する入り口までの案内であった。
地下1階の半分ほどは駐車場であり、スロープを使って外部から自走で入り、大型の機材なども搬入できるように各階へ車両用と思しき荷役用の大型エレベーターまで備えられている。
地下階はおおよそ医療・創薬に関わる必要な設備が並みの大病院以上のスケールで揃えられ、機器も最新鋭の設備を常に揃えているらしい。
そして高名天下に轟くアグネスタキオン博士の専門分野である医療・創薬に関する事柄だけが研究所の全貌かと思いきや、2Fに設置された機器開発本部においては工学的な研究・実験・試作設備までも揃えられ、スタッフの数も多い。
曰く、彼女のアプローチを外部的な機器を使って実現するための、新たな融合分野として成果を上げているという。
ウマ娘総合研究所という名に負けることなく、その研究領域はウマ娘の身体能力に対し総合的、網羅的であり、それぞれの領域の深耕に必要と思われるものが概ね揃えられている。そして驚くべきは先を見越して造られたこの研究所にさらなる拡張の余地がある、という部分だろう。
現在の敷地は公園として一般開放している部分も含めてすべてURAの所有であり、研究所のある立ち入り禁止の管理エリアの敷地も余裕があり、同じ建物をもう1つ建てられるほどだという。
アグネスタキオンから一通り案内され、ところどころにおいて詳細な説明も行われたが、その口調はとてつもなく早口であり、専門用語も多い。下っ端研究員の男はおおよそ話の半分程度理解できるかどうか、といったところであった。
最後に行きついたのは1F最奥部にある部屋だ。
いくらか上質感のある木製のドアには「所長室」とある。
「さぁ、所内ツアーは一通り終了だ。積もる話はここでしようじゃないか」
開かれた扉の先の部屋は、これまで案内されていた研究所内にある「未来感」や「清潔感」とは隔絶された世界であった。
◆
…とはいえ、所長室内が汚いとかそういうことではない。
広い空間に応接セットとアグネスタキオンの名が彫られた木製の名札に学園の理事長室にあるような重厚な机、そしてそれには似つかわしくないPCのディスプレイが4枚、アームに支えられて…と、ここまでは研究所の持つイメージ通りである。
しかしその脇には理科室のひと隅を再現して詰め込んだような空間があり、薬品棚がひとつの壁面を埋め尽くし、妖しく光る様々な蛍光色の液体が並べられている。
そして応接セットと執務机を挟んで反対側にはケミカルな雰囲気とは真逆の、暖色系でまとめられたカフェスペース。
ざっとみたところ40畳ほどもあろうかという広い一部屋とはいえ、3つのコンセプトが詰め込まれた部屋は、下っ端研究員の男を混乱させた。
「こ、この部屋は…」
アグネスタキオンはたじろぐ下っ端研究員の男を見て愉快そうに笑う。
「私がこの職を引き受ける条件だったのだよ、この空間は。まぁ若かりし頃への憧憬を再現したと言えば、些かセンチメンタルに過ぎるだろうかねぇ」
アグネスタキオンは妖しげな笑みを浮かべながら言った。
「まぁもうお分かりだろうが、もろもろが非公表になっているこのウマ娘総合研究所所長が私、アグネスタキオンだ。君が私たちの日記を起点に、あの時代のことを調べていることはエアグルーヴ理事長から聞いている。なんなりと知りたいことを訊くと良い」
そう言いながら腕を組んで胸を張るアグネスタキオンは、昏い瞳の中に何か面白がるような雰囲気を湛えて下っ端研究員の男を見据えていた。
◆
アグネスタキオンはエアグルーヴから、研究員の男について、依頼を受けていた。
おそらく研究員の彼は、現在の研究に対して方向性を見失っている、エアグルーヴは彼女から見た私見として、そのようにアグネスタキオンに告げていた。
エアグルーヴ自身は自らが方向を指し示してやることもできたが、それでは業務命令に等しく、彼の自由な発想と研究を妨げてしまうかもしれない。エアグルーヴは彼に対し、どのような方策を取るべきかを悩みに悩むことになった。
そのような時期に、理事長室に別件でアグネスタキオンとサイレンススズカが来ていた。そしてその時、旧交を温めるまえに、と日課の学園の見回りを実施した結果、研究員の男を文字通り、理事長室に担ぎ込むことになった。
その時の研究員の彼の表情を見て、エアグルーヴはひとつ、閃いたのだ。
十分に研究員の彼が当時の知識をため込んだ今ならば、当時の仲間たちの話を解することができるに違いない。
彼の研究に出てくる当時の仲間たちには以前に彼の報告書を共有していたから、エアグルーヴがしたのは彼の研究の助力を請うことだけだった。
それに面白そうだと最初に反応を寄越したのがアグネスタキオンである。
反応を受け取ったエアグルーヴは、アグネスタキオンならば、畑は違うが研究者であり、彼を導いてくれるかもしれない、そう考えた。
エアグルーヴはアグネスタキオンとスケジュール調整の上、研究員の男に業務命令を発したのだった。
◆
「君の研究の中間報告書はエアグルーヴ理事長から見せてもらったよ。我々の現役時代について、さまざまな角度から調べているのだろう?」
どのようなコミュニケーションが望ましいのかと頭をフル回転させている下っ端研究員の男を尻目に、アグネスタキオンは口火を切る。
研究員の男はアグネスタキオンに圧されるようにコクコクと頷いた。
「私の日記を見つけたのだろう?些か覗き見というのか…趣味的にどうかとは思うが…学園の書庫に残っていたとはね…さすがの私も過去のプライバシーに関しては抜かりがあったようだねぇ」
ニヤニヤとしたアグネスタキオンの視線を研究員の男は痛く感じ、苦々しい表情を浮かべる。
手に取ったこと自体はまだいいが、歴史上の偉人としてとらえていたがゆえに読むこと自体にはその当時、抵抗感を感じなかった。だからこそ研究員の男は報告書まで書くことができた。
しかしこうして現在、当人を目の前にしては本来保護されるべき彼女たちのプライベートを覗いてしまったという罪悪感からは逃れられない。
しかも彼女たちが当時の美貌を時間の概念を無視したかの如く保っているともなれば、その自らの行いに羞恥心はさらに募る。結果として下っ端研究員の男は自らの性癖が軋る音を自らの内部から聞いた。
「それについては…お詫びのしようもございません…」
アグネスタキオンは愉快そうにさらに含み笑いを大きくする。
「別に君を責めたりはしないさ。それにもうだいぶ昔の話だからね。実のところ何を書いたのかも朧げな記憶しか残っていないよ」
アグネスタキオンはそう研究員の男に言ったが、それは嘘であった。
かれが最初の報告書に転載した日記は、装蹄師の男と出会った当時のことが書かれていた。あの冊子自体にはそれほど恥ずかしいことを書いた記憶はない。しかしそれ以降の数冊は装蹄師の男と勉強会を通じてやり取りを重ねていた時期であり、さまざまな感情が渦巻いて、今にして思えばだいぶ正気を失っているような記述をしている。
もっとも、後年になってエアグルーヴが理事長となった時に無理を承知でトレセン学園にねじ込み、当該の部分が含まれる冊子は書庫を漁って回収していたから、アグネスタキオンとしてはこの報告書を見たとき、心底安堵したものである。
「エアグルーヴ理事長に最近提出した中間報告によれば、最初の報告書にあった読み解けない部分に装蹄師の先生が嵌るということに、確証を持っているんだろう?」
アグネスタキオンは下っ端研究員の顔色を面白がるような視線でなぞる。
「それはまぁ…エアグルーヴ理事長からの示唆もあって、大まかなアウトラインは認識しています。ですが、その裏にある一人一人の心情までは窺い知ることはできないんですよね…」
研究員の男は懊悩を表情に浮かべながら独り言のように呟く。
「ふむ…君はそのような、我々の機微まで研究対象としたいと?」
そう言われるとなかなかに繊細な話題である。
「まぁ…そういうことになります。ウマ娘の皆さんの感情の深さというのか…本能的な部分の強さというのは、今の社会での活躍においてもエネルギーの根幹の部分ではないかと思うので」
それを聞いたアグネスタキオンはほう、と表情の色を変える。
「なかなか鋭い指摘だねぇ…感情がどれだけ競走成績に影響するか、という形で私のテーマにもあるのだよ、そのような考え方は」
アグネスタキオンはにやりと笑う。
「…装蹄師の先生と私は、最初は最悪の出会いだったよ。もちろん、後から考えれば、アレは私が悪かったんだがね…」
アグネスタキオンは昔を懐かしむように話し出す。
「彼が造った蹄鉄を校内で着けていたウマ娘が居てねぇ。私の研究にきっと役に立つと思って、勢い込んで彼の工房に駆け込んだんだ」
ククッと彼女は笑う。
「彼の装蹄技術と私の知識を組み合わせれば、もっとウマ娘が速く駆けることも可能になる、私は熱にうかされるように、そう言った。彼はなんと答えたか、君は分かるかい?」
アグネスタキオンの視線は興味深そうに下っ端研究員の男を見つめてきた。男は少し俯き、じっと考える。
これまで調べてきたものの中に、直接的に装蹄師の男が出てきたものはごく少数しか存在しない。
それは装蹄師の男がトレセン学園から姿を消すことになったサイレンススズカをめぐる騒動、その発端となった蹄鉄のレクチャー記事だ。媒体によって筆致というか論調が異なるという珍しいものに仕上がっていたのが印象的である。
そこから推測される装蹄師の男のキャラクターを、研究員の男は脳内で組み立てて検討し、さらに蹄鉄やレースにまつわるレギュレーションの変遷も踏まえて、回答を出す。
「…怒られた、とかですかね…」
レースの高速化はいつの時代も難しい問題だ。
時代が進むにつれ彼女たちウマ娘側の肉体的、走行技術的進化が積み重ねられて高速化するのみならず、環境も良くなり、蹄鉄をはじめとした装具類も進化し…となれば、元が速さを追求する競技であるから、高速化を止めることなど出来はしない。
出来はしないのだが、それ相応の対策も同時にとられなければ、事故が起きた時の悲惨さはエンターテイメントとして許容できる枠を超えてしまうし、それはひいては彼女たちの世界、URAの死をも意味することになる。
直接走りに関わる部分を担当する装蹄師という立場では、安易な高速化は許容できなかったのではないか、そう下っ端研究員の男は推測した。
「…ククク…よく調べているねぇ。その通りだよ。怒られたさ。それはもう、こっぴどく。この私の浮かれたテンションを地の底まで叩き落とすような辛辣なものだったよ」
心底可笑しそうにアグネスタキオンは笑う。
「でもねぇ、彼はただ私を叱るだけではなかった。ちゃんと私を見て、私のしたいことを彼らが認められる形でならば手伝ってやってもいい、そう言ったんだ」
彼女は下っ端研究員の男を口角を上げながらも真剣な瞳で射抜く。
「…彼のその言葉が、この研究所となって結実していると言えば、要約が過ぎるかい?」
アグネスタキオンは妖しげな笑みを絶やさず、下っ端研究員の男を見つめている。その瞳は彼を通して、次元の違うどこかを見つめているかのように、研究員の男には感じられた。
皆様お久しぶりです。ご無沙汰してしまい申し訳ありませんでした。
まぁ本編完結してるからゆっくりやろうという甘えた考えと、迎えてしまった決算期の押し寄せる業務、加えてメジロ讃歌なる前から温めてたネタが活かせそうな公式からの燃料で別の話を書き始めたり(未完成かつ未公開)で時間が空いてしまいました。全て言い訳です。すいません。
で、今回の話も肝心なことが聞けてない気がするんですよねぇ…