払暁の朝靄の中、一人のウマ娘が駆けていく。
まだ陽が昇り始めたばかりの時刻に、地を蹴るリズミカルな足音はその音を耳にした者の目を奪う。
尤も、最速の機能美と謳われてレース界を席巻した、観る者を陶然とさせる走りを目にすることが出来た幸運なものは、朝が早すぎる老人か、近頃絶滅危惧職種となっている新聞配達員くらいのものであった。
河原の土手の上、よく整備されたランニングコースはサイレンススズカがトレセン学園の生徒であったころと少しも変わっておらず、朝の静謐な空気の中を駆けていけば、まるでタイムスリップしたかのような懐かしさを感じさせてくれる。
彼女がターフを去ってから長い時間が過ぎたが、走ることへの情熱は些かも衰えてはいない。
毎朝、夜も明けきらぬ時間からひとりでゆっくりと流すひと時は、モーニングルーティンとして定着し、彼女の幸せな日常の一部を形成していた。
明後日にはまた、今の棲み処である米国へ戻る予定にしている。
従ってこの懐かしさを味わえるのも、今日と明日のみ、ということだ。それに一抹の寂しさを感じるが、今は日々のスケジュールがどうにもならぬほど立て込んでいるという立場でもない。また来たくなったらいつでもここに来ればいいことだ。
一歩一歩を確かめるように走ると、しっかりと脚に馴染んだシューズが頼もしく反応を返してくれていることに満足する。
明るくなり始めた河原で、心地よい風に栗毛を靡かせながら、サイレンススズカは気持ちよく駆け続けていた。
◆
夜も明けきらぬ時刻、下っ端研究員の男は眠い目をこすりながら缶コーヒーと煙草という出で立ちで公園のベンチに居た。
昨日夜にアグネスタキオンから連絡があり、今のこの時間、この公園で煙草を吸って待つように、と一方的に用件を告げられ、電話は切れた。
訳も分からずにそれに従った理由は自分でも理解していなかったが、強いて言うならば今日が土曜日であり、彼は休みであったから、というところだ。
昨夜も遅くまで調べ物をしつつ、律儀にも指定時間に間に合うように目覚ましをかけ、そのまま机で事切れていた自分がここまでこられたのは幸運だったと言っていい。
アグネスタキオンの目的も不明なまま家を出、道すがら彼女に指定された煙草をコンビニで買い求めた。ついでに買ったブラックのコーヒーには目覚ましの効果を期待した。
しかし結局、その効果はあまり見られなかった。ほぼ徹夜明けといっていい下っ端研究員の男の頭はぼんやりとしたまま、指定された公園のベンチに腰掛け、ただ煙草の煙を空に立ち昇らせていた。
早朝の街もまた、未だ眠りから覚めやらぬといった雰囲気であり、人の気配はほとんど感じられない。
トレセン学園からそれほど離れていない、河川敷近くにある指定された公園は夜とも朝ともつかぬその時間、彼だけの独占物であるかのように思われた。
早朝の静謐な、密度の詰まったような空気の中で吸う煙草はとても美味しい。
アグネスタキオンから指定されたゆえに普段彼が吸っている銘柄とは違うものだが、その味の違いも新鮮だった。近年の煙草にはない、ずっしりと重いタールが心地よい。
耳をすませば、遠くに河川敷のランニングコースを走る足音が聞こえる。完璧に調律されたかのような一定のリズムは、だんだんと近づいてくるように感じた。
その足音がいくらかピッチが上がる。目を閉じて銜え煙草でそれを聞いていた下っ端研究員の男は、公園のすぐそばまで近づいてきた音を感じていた。
こんな朝早くに走っているウマ娘もいるのだな、とぼんやりと思った。
そしてそれは、彼の座るベンチの横を通り過ぎようとした瞬間、唐突にペースを緩め、止まった。
「…おはようございます」
「あぁ…はい……おはようございます」
声をかけられたことで初めてその存在を認識したかのように、下っ端研究員の男はそのウマ娘の顔を見た。
先ほど買い求めたのは酔うようなものを含まないブラックコーヒーであったはずだが、と手元の缶を再度眺める。
間違いなくブラックコーヒーを手にしていた。
となれば、目の前の光景は現実なのであろうか。
少し上気し、透けるような白い肌を赤らめて息を整えている目の前のウマ娘。
「…ふふ…会うのは二度目、ね。トレセン学園の研究員さんは、こんな時間に何をしてるのかしら」
サイレンススズカは艶然とした微笑みとともに、下っ端研究員の男を興味深そうに観察していた。
◆
「懐かしい香りがしたから、つい…引き寄せられちゃった…」
サイレンススズカは下っ端研究員の男に断りを入れ、隣に腰を下ろした。
彼女からはほんのりと、ここまで走ってきた熱を感じる。それは冷えていた朝の空気とは明らかに違う、ウマ娘の生の熱量を感じさせた。
「懐かしい香り…ですか?」
彼女はこくんと頷くと、研究員の男が手にしていた煙草を指した。
「昔…お世話になったヒトが吸っていたものだから」
微笑みながら話す彼女はすっかり息を整え、落ち着きを取り戻しているように見える。
以前生徒会室で見た時のままの、研究員の男が画面の中で見続けたサイレンススズカそのものだった。
「お世話になったヒトというのは…装蹄師の先生のこと、ですかね…?」
どぎまぎしながら研究員の男は話題を転がすことを試みる。
「そう…装蹄師の先生も、同じ煙草を好んで吸っていたわ」
研究員の男が手に持っていたパッケージに視線を寄せながら、サイレンススズカは答える。
「…そうだったんですか…」
アグネスタキオンからの煙草の指定の意味が、解けていく。
おそらく彼女はこの時間帯、サイレンススズカがこのあたりを走ることを知っていて、研究員の男と引き合わせるために煙草を指定したのだろう。
粋な引き合わせ方のような気もするし、偶然に頼り過ぎている心許ない方法のような気もしたが、そこに怒りなどは沸かなかった。
「…装蹄師の先生というのは、一体、どのような方なんですかね…」
研究員の男はぽつりと呟く。
それはサイレンススズカに対する問いというよりは、単純な疑問が口を突いて出た、という類の問いだった。
「…うーん…一言では、難しいのだけれど…」
彼女は形の良い顎に人差し指を当て、少し考え込んでいる。
「…私にとっては、神様のひとり、かしら…」
サイレンススズカはゆっくりと、言葉を紡いだ。
「…神様、ですか?」
あまりにも大きな存在を示す言葉に、研究員の男は思わず首を傾げる。
「えぇ…私の走りには、いつも先生の蹄鉄があったから」
サイレンススズカは穏やかな笑みを浮かべて話を続けた。
「先生が学園を…去ったあとのことよ。怪我で療養中の私に蹄鉄を贈ってくれたの。不思議な形の…すごく綺麗で、美しい蹄鉄」
指を胸先で組み、その時のことを思い出すように瞳を閉じて、サイレンススズカはゆっくりと語る。
「私のせいで、学園を追われるように去った後も…先生は私のことを案じて、私の脚を信じて…再起を疑う様子もなく、治った後の私に、期待してくれたの」
彼女の表情はどこまでも穏やかだ。
まるで祈りのように組んだ両手の内に、愛しい思い出を包み込んでいるような顔つきをしていた。
「私はその想いに応えたくて…治療もリハビリも、その一心でやり遂げることができたわ」
彼女はそっと瞳を開くと、その翠色の瞳で遠くを眺める。
「そして復帰して、レースに出て…前年、走り切れなかったローテーションを今度は全部、勝って…アメリカに渡ったの」
遠くを眺める彼女の瞳は、どこかに憂いがあるような気がした。
「私…許せなかった。自分だけレースの世界に戻って…悲劇から復活したヒーローのように扱われているのに…先生は、舞台裏に消えたまま…そんな世界も、その世界で走っている自分も許せなかった…」
研究員の男は煙草のソフトパッケージを無意識に握り込み、潰れかけたパッケージがかさりと音を立てた。
「…吸って、いいのよ?」
サイレンススズカは研究員の男に微笑む。その瞳は、むしろその煙草の香りを欲して、せがんでいるかのようだった。
研究員の男はその期待に応えるように、新たな一本に火を点けた。それを見届けて、彼女は目を細めてにこりとした。
「あの、ひとつ、聞いても…?」
研究員の男は煙を漂わせながら、口を開いた。
「なにかしら」
「その…アメリカでも、先生の蹄鉄を?」
彼女は頷く。
「私、日本から逃げ出したのに…先生は、アメリカのバ場データを取り寄せて、それに合わせたものを送ってくれたわ。信頼できる現地の装蹄師やアフターフォローをしてくれる蹄鉄メーカーの段取りも。それがなければ、アメリカで結果を出すことは、難しかったと思う」
サイレンススズカは視線を落とし、自分の膝元を見つめていた。
「……どうして、装蹄師の先生は、そこまでスズカさんのことを想っていたんでしょうかね……」
研究員の男は呟く。
「さぁ…私には、わからないわ」
彼女は小さく首を振ると、空を見上げた。
「ただ……そう思うと、やっぱり……神様みたいなヒトなのかしら……」
そう言いながら彼女は立ち上がり、軽くストレッチを始める。
「…そういえば」
サイレンススズカはふと思い出したように研究員の男に視線を寄せる。
「今、履いているこのランニングシューズにも、先生の手が入っているの。先生は引退した私の脚を、今も支えてくれているわ」
彼女は足元に視線を落とすと、足踏みをしてみせる。
それはまるで、装蹄師の男への感謝を全身で表現しているかのようにも見えた。
「…装蹄師の先生は、今はどこに…」
研究員の男がぽつりと漏らす。
彼は装蹄師の男について、あまりにも知らなすぎた。
しかし、サイレンススズカが装蹄師の男を語る姿は、彼が彼女に残した足跡の大きさを物語っていた。
サイレンススズカはふふっと微笑むと、少し照れくさそうに頬を染めた。
「…そうね。あなたになら、教えてもいいかもしれない」
サイレンススズカはそう言うと、研究員の男の耳に唇を寄せた。
「でも、今はまだ、ダメ。エアグルーヴに怒られちゃうわ」
耳打ちされた言葉に、研究員の男は目を大きく開く。
「…エアグルーヴ理事長に…?」
思わず漏れ出た声に、サイレンススズカがくすりと笑う。
「…そろそろ、戻らないと」
サイレンススズカは悪戯っぽく笑みを浮かべると、その場でくるりと踵を返した。
「また会える日を楽しみにしているわ、研究員さん」
彼女はそれだけを言い残し、美しい翠色の流し目を研究員に送ると、駆け出していく。
彼女の残り香は甘く、そして爽やかに彼の鼻腔をくすぐった。
サイレンススズカはあっという間に遠ざかっていき、その姿は見えなくなった。
残された研究員の男はひとり、ただぼんやりとしていた。
彼女の姿が視界から消えると同時に、煙草はフィルターまで燃え尽き、灰が地面に落ちた。