「お前さんかぁ、いろんなところで昔の話を掘り返してる酔狂な若者ってのは」
トレセン学園史料課の下っ端研究員の男は終業後、屋上の喫煙所で煙草を吸っていたところで妙に声の良い男に声を掛けられた。
振り返ってみると黄色のシャツに黒いベスト、髪を後ろで結んで束ねた姿で棒付きキャンディを銜えている男がこちらを眺めている。
時々校内で見かけることもあるし、資料でも何度もその姿を目にしているが、彼の風貌は30代の半ばで止まってしまったかのように若々しいままだ。
思わぬ有名人の登場に、研究員の男は固まってしまう。
「隣、失礼するぜ」
研究員の男が座るベンチの隣に腰掛けて足を組むと、トレーナーとして生ける伝説と化している男はじろりと研究員の男に横目で視線を寄越す。
「しかし今時珍しいなぁ、紙巻き煙草なんて」
そういうと羨ましそうに研究員の男の指先に視線を走らせる。
研究員の男は煙草を一本勧めてみることにした。
「いやぁ、あいつらが嫌がる…って、まぁ今日はもう帰って寝るだけだし、いいか。それじゃ、ありがたく頂戴するとしよう」
トレセン学園の生ける伝説トレーナーである沖野は研究員の男から煙草を一本受け取り、銜える。研究員の男はてのひらで風除けをつくりながら、ライターで火をつけてやった。
「…っくぅー…染みるなぁ…」
普段は香りに敏感なウマ娘に接する仕事だけに、煙草を控えているのだろう。沖野は実に旨そうに煙草をゆっくりと味わっていた。
「…で、今さら昔の話を掘り返してどうしようってんだ?まぁ、あれだけの成績を残したアイツ等のことだ。興味が湧くのもわからなくはないが…」
沖野は不意に視線に鋭さを宿し、研究員の男に問うた。
おそらくエアグルーヴ理事長から話を聞いたのだろう。いや、そういえばサイレンススズカのトレーナーは、沖野であったから、その線もありうるか。
「…誰から聞いたんだ、って顔だな。まぁ、スズカとは今でも行き来があるからな。この間帰国したときにチラっと聞いたんだ。あの頃のことを調べてる学園の職員がいる、って」
なるほど、と研究員の男は納得する。
「…最初は、あの世代のほとんど伝説になっている皆さんの戦績以外の面をまとめられたら、と思っていたんですけどね。調べていくうちに、彼女たちの裏にもっとこう、大きな存在がいたんじゃないか、と思うようになりまして…」
研究員の男は今の研究で行き詰っている部分について口にする。
「あいつのこと、だな…」
代名詞が指し示すのは装蹄師の男のことだ、と研究員の男は悟り、頷く。
沖野は深く吸い込んだ煙草をふぅっと吐きだした。
「まぁ、イイ男だぜ、男の俺が言うのもなんだが。ちょっと以上に世事や他人に疎いところもあるが。ああいうのを生粋の職人っていうんだろうなぁ」
沖野が率いていたスピカの隆盛期と、学園に蹄鉄の工房があった時期はほぼ一致している。ましてやサイレンススズカという優駿を通じて沖野も付き合いはあったことだろう、と研究員の男はひとり、納得する。
「俺はあいつらに夢を見て、あいつらの夢を叶えるトレーナーって仕事をやらせてもらってきた。あいつも立場は違えど、そういう男さ」
その語り口からして沖野自身も装蹄師の男とは関係がそれなりに深いらしい。
研究員の男は失礼とは思いながらもそのあたりに踏み込んでみた。
「まぁ、ほとんど同年代だからな。この学園に来た頃から良くつるんでた。サイレンススズカが途中でうちに移籍してきただろ。あれの仕掛けもあいつが関わってるぞ」
研究員の男は絶句する。
どうやら彼が調べている装蹄師の男というのは、相当に深くこの時代のウマ娘に関わっている、ということを改めて認識する。
「それからあれこれあって、スズカの天皇賞秋までの快進撃、そしてその後の復活劇…全部、アイツがいたからこそ、だろうな」
沖野は短くなった煙草を水の張られた消火バケツに放り込む。
「俺がスズカにしてやれたことなんて、大したことじゃない。スズカの走りを支えたのは間違いなく、アイツだ」
沖野は自嘲したような、少し憂いのある微笑を浮かべている。
「…頼んだぜ、若者。ちゃんとあいつの蹄跡にも光を当ててやってくれ」
沖野はそういうと研究員の男の肩をポンと叩くと、ごちそうさん、とベンチを立ち、後ろ手に手をひらひらとさせながら立ち去っていった。
◆
エアグルーヴからメールの添付で資料が届いたのは、少し前のことだった。
時間があるときに読んで欲しいと添付されてくるPDFファイルは、ルドルフやエアグルーヴ、サイレンススズカやアグネスタキオンの現役時代について調べたものらしい。
それから不定期に時々届くそれらを、装蹄師の男は夜の時間に読むのがささやかな楽しみのひとつになっている。
報告書の体裁を取り、トレセン学園の史料課研究員が記しているそれは、在りし日の彼女たちの現役時代や学園内での生活ぶりを淡々と描き出していた。
そして末尾に付加されている執筆者が遭遇したアグネスタキオンやサイレンススズカの近況の様子も、新鮮に感じる。
何を思ったか、執筆者の研究員は東京レース場の博物館にも訪れたようだ。そこで蹄鉄に関するコーナーを見つけたらしく、彼が書いた歴史的な側面から見た蹄鉄の考察はなかなか読みごたえがあった。
そしてその報告の末尾では蛇足として、装蹄師の男が良く知っている人物と遭遇した話も記されている。
どうやら執筆者をウマ娘がやっているスナックとも喫茶店ともつかぬあやしげな店に連れていったらしく、そこに記されていた店主のウマ娘の名前には記憶があった。
これを送ってくるエアグルーヴのメール本文には特に送付する旨以上の内容が記載されているわけではないため、何故この報告書が彼女から不定期に送られてくるのか、その意図についてはよくわからない。
ただ、共通の思い出となるような時代のことだからなのか。
それとも、彼女たちの輝かしい蹄跡の裏にあった物語について、今のうちに語っておくべきだ、という意図なのか。
装蹄師の男は医者から禁じられている煙草を手に取り、少し手の中で遊ばせた後、一本取り出して銜え、火をつけた。
一口吸い込むと、染み渡るような感覚がする。
そしてこらえきれずに、激しく咳き込んだ。
装蹄師の男は現在、山奥の工房はそのままに、住居は山から降った街中のマンションに移している。
数年前から体調を崩しがちになり、病院にかかることが多くなっていたことが理由だった。
山奥の工房の周りは移転してきた当時と比べれば、付帯設備やら温泉やらトレーニングコースやらができて様変わりし、賑やかになっている。
しかし基本的に人里離れた山奥であることにはかわりない。体調を崩しがちな装蹄師の男が山奥の工房で気侭な暮らしを続けて、もし倒れでもしたら救急車も早々来ないような場所であるから助かるものも助からない。
そのような装蹄師の男の体調は旧知であるアグネスタキオンを通じて関係の近いウマ娘たちに知れ渡った。
装蹄師の男を取り巻くウマ娘たちはそれを聞いて騒然とし、直接、間接を問わず、彼の今後の暮らしについての様々な申し出があった。
しかし装蹄師の男はそのすべてを感謝とともに断り、ビジネスパートナーである後輩の折衷案とも思われる提案を呑んで、棲み処を彼の会社が所有する社宅扱いのマンションへと移すことにしたのだ。
それからというもの、病院に通いながら仕事を続ける生活スタイルに変化している。
医者からは若いころからの不養生と過労を続けた結果としてのものと言われており、今のところ致命的な病は幸いにしてないものの、いくつかの臓器においては相当に弱っていると言われている。
これ以上悪化した場合は入院による身体管理が必要になる可能性がある、という脅しめいた言葉まで頂戴していた。
あれやこれやと厄介そうなことを言われた装蹄師の男は、つまり老化だよな、と単純に受け止めている。
とはいえ、それを理由にして療養に専念してしまえば暇すぎて精神的に良くないし、老け込むにはまだ早い年齢であることも確かであったから、住居こそ移したが仕事は体調の許す限り続けている。
尤も、蹄鉄も樹脂素材を活用した形に転換されてされて久しく、もはや鉄を鍛えることも打つこともない。
今はその過程で得た様々な素材の知見を横展開するような技術コンサルティングのような仕事が主である。
相変わらず個人事業のような形態ではあるが、後輩の商社を通じたネットワークのおかげで仕事の依頼は数年先まで埋まっているらしい。
そのあたりのマネージメントも含めて後輩の手のひらの上であるので、実際のところは装蹄師の男自身もよくわかっていなかったが、仕事が途切れることはないのは確かだった。
仕事に関する報酬は受け取っているのだが、興味がないので管理も後輩に任せきりである。
先だって一度、自身の持つ権利関係やそこから得られる収益に関して後輩に男が改まって説明されたことがあったが、やはりさほど興味は湧かなかった。内容についてはなんとなく聞き流していたが、どうやら老後の心配をする必要はなさそうで、それどころかその気になれば老人ホームそのものを建ててしまうことができそうなことが分かった時点で後輩の説明を止めさせた。
装蹄師の男自身はもとから金銭に興味はないが、その現実感のない数字は、自らの生み出したものの結果とはいえ、自分の稼ぎだとは全く感じられなかったからだ。
土台、後輩の会社が造った仕組みに乗ったおかげで益を生み出しているという自覚がある。
名実ともに装蹄師であった時代、自ら鉄を鍛えて蹄鉄を拵えていた時にもたびたび当たる壁として、作れることと量産できることは別の技術であることがあった。
つまりその延長線上で考えて、装蹄師の男の技術を金に換えるにはまた別の技術や努力を必要とする。
つまりは自分は周囲に恵まれたおかげで、後輩という優秀なビジネスパートナーに支えられた結果として、わかりやすくカネという形でその成果が見えているに過ぎない。
そして、カネという成果の形を装蹄師の男が求めたことはなかった。
思索にひと段落がついたところで、それを見ていたかのように手元のスマホがメッセージの着信を知らせてくる。
いつもの相手からの、いつもの生存確認といった趣だ。
装蹄師の男はいつも通りだという返信を打つと、瞬時に既読がつく。
近いうちに一緒に食事でもしたいという相手からのメッセージに、装蹄師の男は多忙の相手を慮り、余計な気は使わなくても大丈夫だ、と返し、その夜は床についた。
ご無沙汰しております。
気が付けば1か月ちょっと経ってしまいましたが更新させていただきました。
この1か月の間は本作の空いた時間軸で遊んでいる別作を訥々と書いておりました。
そちらのほうもどうにも更新ペースが上がらなくてもう少し自由な時間が欲しい今日この頃です。
もう一本のほうともども、引き続きよろしくお願いいたします。
「空を飛びたいウマ娘と山奥の装蹄師の話」
https://syosetu.org/novel/286483/