「たまにはこういった夜更かしも悪くないものだね」
夜更け、広すぎる自宅の居間で、気心の知れた友人たちと語らいながらシンボリルドルフはふっと言った。
「皇帝サマの気紛れに付き合わされるのは本意じゃねーんだがな…」
シリウスシンボリは昔と変わらず憎まれ口を叩きながらも、その表情は柔らかく、微笑みすら浮かべている。
いつものやりとりを見守っていたエアグルーヴは、ふっと肩の力を抜いた。
「しかし国会議員サマがこうしてだらけて飲んだくれてると知ったら有権者の皆サマはどう思うだろうねぇ」
「ハハハ…それを言われると痛いが、私だって聖人君子という訳ではないのはシリウスもよく知ってるだろう?」
ルドルフのその言葉を聞いて、シリウスはにやりと笑みを大きくした。
「あぁ…アンタはオッサンの寝床にモグり込んだりしてたなぁ…」
シリウスの言葉に、エアグルーヴはブッと噴き出す。
アグネスタキオンは仄かに赤い顔の口角をにやりと釣り上げた。
「あぁ…そんなこともあったね。そういうシリウスだって、毎日甲斐甲斐しく兄さんの食事を作っていたじゃないか」
「まぁ一宿一飯の恩義ってワケじゃないが、あの時はオッサンに養われているようなモンだったしな」
シリウスは挑発的に形を変えた笑みをルドルフに差し向ける。
歳を経て、彼女たちも私も相当丸くなったとは思うのだが畢竟、装蹄師の男をめぐる感情的なさや当ては今も変わらないのだな、とエアグルーヴはひとり客観的な立場で妙な納得感を得ていた。
そんなエアグルーヴの機微を感じ取ったかどうかはわからないがシリウスが挑発的な笑みのまま、振り向いた。
「オイオイ、女帝サマだって関係ないわけじゃないだろう?ホラ、今日も持ってるんだろ、出せよ」
アルコールのためかいつもよりもほんのわずかに目じりの輪郭が曖昧なシリウスシンボリがエアグルーヴに水を向ける。
「はぁ…持っているよ」
バックからライターと、装蹄師の男が好んでいる煙草を出してやる。
「オッサン恋しさに後生大事にこんなもん持ち歩いて…まぁ、気持ちはわからんでもないがな」
シリウスシンボリは立ち上がり、エアグルーヴの手からそれらを奪い取ると、ウッドデッキにつながる窓を開けて外に出、流れるようにパッケージから一本銜えて火をつけた。
薄く開いた窓からほんのりと香る煙の匂いに、シンボリルドルフが耳をピクリとさせる。
「匂いと記憶は結びつきやすいとはいうが、この煙草の香りは本当に先生のイメージそのものだねぇ」
アグネスタキオンはニコニコと上機嫌だ。
「今となっては街中で煙草の香りを感じることもなくなったが、それだけに余計にこの香りと、私たちの大事な記憶とは密接につながっているのを実感するな」
「何を持って回った言い回しをしてるんだねエアグルーヴ理事長…相変わらず君は素直じゃないねぇ」
間接照明で仄かに照らされた空間で、アグネスタキオンの普段は照りの無い瞳が妖しく、鈍く光った。
「じゃあなんだというんだ?」
問い返すエアグルーヴの瞳には、困惑と焦りのようなものが浮かんでいた。
アグネスタキオンの中にある言葉が、ここのところ自分の中で持て余した何かに答えをくれるような気がしたのだ。
「…今さら自明なことを。私たちそれぞれのここに至るストーリーは、必ずこの香りとともにあったのさ」
アグネスタキオンは濁りの無い瞳で、その奥に狂気ではなくある種の暖かみを宿していた。
「さすがアグネスタキオン博士。明快な分析だ」
ルドルフは琥珀色の液体を口にしながら微笑む。
「分析ですらない。ただの事実さ」
アグネスタキオンは普段の冷徹な奇人研究者然とした言葉を、その言葉の意味とは裏腹に情感のこもった声音で語った。
「科学の申し子たるアグネスタキオン博士にしては、妙に詩的な言い回しだな。感情的と言ってもいい」
煙草を楽しみ終えたシリウスはその残り香とともに話題に加わる。
「感情が不定形だからといって科学の対象にならない訳じゃないさ。むしろ不定形だからこそ、可能性を秘めていると思わないかい?」
いつもの白衣ではない私服姿のアグネスタキオンはやや色めいてしっとりとそんな言葉を口に浮かべ、淡く蛍光色に光るカクテルを呷った。
「まぁ、あの“求道者”めいた先生に、その不定形な何かを期待するのも空しいところがあるのは確かだがね」
どうにも救いのない結論。
だが、誰しもが同じ思いを共有できる結論でもある。
一同は力なく、しかし楽しそうに笑いあった。