男はその日、レース場にいた。
今日は平日だが、工房には本日休業の札をかけてきている。
生徒会のトップとナンバー2が来襲した次の週の平日、学園の所属部署を通して、URAの技術部会からの招集を受けたのだ。
学園の上部団体にあたるURAはウマ娘たちのレース興行を一手に担う団体で、成立背景は複雑だが、現在は政府の関与も受けるなどして、ただの興行だった昔に比べれば公的性格も有するようになっている。
今でこそ国民的エンターテイメントとして確立された感のあるウマ娘たちのレースではあったが、ここに至るにはさまざまな紆余曲折があった。
障害や問題が起こる度に何よりもウマ娘たちの本能を大切に考えた人々、さらには彼女たちの地位向上に資する仕組みとしてのこのレースという形態を生み出し、連綿とヒト、ウマ娘双方によって努力を続けられた結果が今日の隆盛である。
もっともURAをして、規模が大きくなるにつれて発生するさまざまな方面との調整と称した利害分配装置、という側面も否定できなかったが、利害がさまざまな軋みを生んでいるとしても、概ねうまくいっているということは全国にまるで空港のターミナルかのような巨大なスタンド施設を備えたレース場を建設し、維持していることが何よりの証明といえた。
平日でレース開催のない今日はこの広大で壮大な施設にも人影はほぼなく、施設の維持管理のための人員をまばらに見かける程度である。
その中を男はいつもの作業着ではなく、スーツ姿で歩んでいた。
グランドスタンドの上層階に設られた会議室へ向かうと、いくつかの会議室をぶち抜かれてセッティングされている会議場、と表すべき広さの空間に、ざっと100人は下らないだろう人の群れ。よく見ると同業の装蹄師たちの集団がひとかたまり。さらに見回すと、勝負服やシューズのデザイナーや縫製担当、コースや施設の設計や施工、整備担当など、およそ技術的なことを統括する主だった人物が来ているようだった。チラホラと大手どころのスポーツ用品メーカーの社員の姿も見える。
学園にいるとあまり人混みに出くわすことのない男は所在なさげに装蹄師のかたまりに近づく。すると男に景気良さそうに声をかけてきたのは、壮年期に入ろうかというがっしりした風体の、大黒様のような福々しい見かけの同業者だった。
時期は違うが同じ老公に師事し、男の兄弟子に当たる人物だ。
「ヨォ。元気そうじゃねーか。ちょっと老けたか?」
「ご無沙汰してます。まぁ、歳は皆平等に取りますから…そちらもお変わりなさそうで」
そう言って男は兄弟子の、以前会った時より後退したと思われる額に目線が引きずられる。
「おう。こっちはこっちでのんびりやらせてもらってるよ。最近のメーカー製の蹄鉄もだいぶ良くなったんで、手間がかからねぇ」
男の目線も気にせずカラカラと笑う兄弟子は、以前は学園の工房にいたこともあったが、今は彼の両親の介護など家庭の事情で、URAが管轄する地方のレース場を中心に現場装蹄師として活動している。
「しっかしまぁ、府中くんだりまで呼び出して、こんだけ色んな裏方集めて、今日は一体何が起こるってんだ?」
兄弟子の疑問は当然といえた。
技術部会からの呼び出しや会議は珍しいことではないが、大体が装蹄師単位だったり、広げても脚部課レベル、さらに上位の服飾部での会合に至っては年に1回程度だ。
「ちょっとねぇ…うちの生徒がご迷惑をかける話、かもしれません」
男はタキオンとエアグルーヴの話を思い出しながら、男は言いづらそうに言った。
「あ?学園の子たちが?ほぉーん。まぁいいじゃねえか。俺らは嬢ちゃんたちに食わしてもらってるわけだしな!」
男は先日のことを思うとキリリと胃が痛み、大黒様のご利益がありそうな笑みにも苦笑するしかなかった。
「失礼します」
会議開始時刻の定刻ちょうど、会議場の前部上手の扉が開かれる。
学園理事長である秋川やよい嬢が先頭を切り壇上に上がり、次にシンボリルドルフ、エアグルーヴと続き、最後に扉を開けていた緑のお姉さんことたづなさんが扉を閉め、上手側の司会ポジションにおさまる。
場内の照明が絞られ、壇上はスポットを強めて照らし出した。
「本日は急な招請にもかかわらず、多数お集まりいただき、誠にありがとうございます。本日、日本ウマ娘トレーニングセンター学園より、全国のウマ娘競技関係者の皆様にご協力のお願いがあり、ご参集をお願いいたしました…」
たづなさんの司会により会が始まっていく。
同時に裏手から学園の生徒たちが数人、会議場に入室し、三々五々に座っている参加者たちに資料が配られていく。
男の手元にも資料が手渡される。
題字は予想通り、以前に見たものだ。
「ウマ娘の可能性追求に関する合同研究プロジェクト(案)」
男は自然と厳しい表情となる。
「おっちゃん、今日はキマってんじゃねーか。このあとゴルシちゃんとデートでもいくか?おっちゃんのオゴリな」
耳打ちにはっとして資料を渡してきたウマ娘を見上げれば、神出鬼没珍行動絶対美女、ゴールドシップである。
しかめた顔がふっと緩む。男の緩んだ顔を見てゴールドシップはビシッと親指を立ててニヤリと笑い、資料配りに戻っていった。
壇上後方にルドルフと並んで立つ、エアグルーヴと目線が合う。
緊張からか地顔なのか、いつもの怜悧な表情を崩さない。
男は口角をあげ、ニヤッと笑ってみせた。
エアグルーヴは少し驚いた様子で、目線を逸らした。
壇上ではたづなさんの前口上が終わり、ちびっこ理事長…もとい秋川やよい理事長が中央に登壇した。
「発表!我々トレセン学園は、生徒からの自主的な発案による本プロジェクトの検討を始めることとする!」
いつもの達筆な扇子を拡げ、堂々たる宣言。
「本プロジェクトは日本のウマ娘の才を一身に集める我が学園の責務として、業種の垣根を越えた協力体制を得て、レースの振興を軸にしながらもウマ娘たちのより良い将来、より良い未来をつくるための研究として取り組むことで、業界全体の底上げをも期待できるものと考えている!どうか諸兄の叡智を、我々に貸して欲しい!」
そこまで言い切ると、壇上で理事長が深々と頭をさげた。
予想外の行動だったのか、ルドルフとエアグルーヴも慌てて頭を下げる。
関係者の視線はその異様な光景に一瞬、ざわめく。
男は理事長の頭上の猫が踏ん張って耐えている様子が可笑しく、つい吹き出しそうになった。
理事長の後を受け、シンボリルドルフが生徒会としての意義を説明し、エアグルーヴが本案の詳細を説明していく形で今回の案の全容が明らかにされていく。
男のところにきた資料は以前よりも遥かにブラッシュアップされており、より広範にリスクも含めて詳細に検討された痕跡が窺えた。
目指すべき成果と方向性は以前男の手元に来た時よりも明確化され、速さの追求もさることながらそれに伴うリスクに対する研究、それらを包括的にバランスをとりながら行っていくとされており、研究成果を得たとしても、それを実用に供するかどうかにも慎重を期すシステムが構築されている。
そして現状の目標としてはこれまで個々に散らばっていた運営要素、技術要素に横串を刺し、現状での最適解を検証するところから始めたい、とされていた。
よく言えばかなり地についた内容といえるし、悪く言えばドラスティックな変化を避けたともいえたが、学園がそれを発起した、という点が今回のポイントだろう。
会議場では、提案は驚きをもって迎えられ、概ね好意的といっていい反応を示した。
今日のところは主だった面々へ提案、という形で簡単な質疑応答を行い、各セクションへ持ち帰ってもらい正式な反応をもらっていくことを参加者が了承し、会議は終了した。
「…なかなかやるなぁ、学園の嬢ちゃんたちも。わしらもうかうかしてられんわい」
兄弟子は大黒様そのものの笑顔で話しかけてきた。
「また先輩の経験と知恵も貸してやってください。あの子たち、頭も情熱も、本物ですから」
男は大黒様に手を合わせると、鷹揚にうなづきながら
「まぁもう歳だし、今のうちにきっちり恩返しせにゃあと思ってたんだ。いい機会ってもんだよ」
じゃあまたな、といって飄々と兄弟子は去っていった。
1人残された男は人もまばらになった会議場で、各個の質問に対応し終わり手が空いたエアグルーヴと目があった。
手元を片付け、彼女に近づいていく。
エアグルーヴは真っ直ぐにこちらを見つめながらも、耳を絞り身構えているようでもあった。
「…よくやったじゃねえか」
男が声をかけると、彼女の鋭かった瞳がふっと見開かれ、尻尾がばさり、と揺れた。
「…理事長に頭を下げさせたのは、私としては痛恨だった…」
目を伏せながら、拳をぎゅっと握る。
「いいんだよそんなん。お偉いさんの頭は下げるためにあるんだ」
ふるふると弱く震えながら、彼女は弱々しく言った。
「私は…己を過信していた…今回の資料も、私一人ではできなかった…会長やブライアンの力も借りなければ、到底、完成させられなかった…今日も、そうだ…これだけの関係者に支えられていることを…私は…」
顔を上げた彼女の瞳は、充血し、うっすらと潤んでいるようだった。
「先日の非礼を詫びたい…許して、もらえるだろうか…」
彼女の意外な言葉に、男は驚いた。
「許すも許さないもないよ。よく筋を通したな。やっぱお前は女帝だよ」
男はそういって、少し油断をした。
エアグルーヴの頭がちょうどいい位置にあったものだから、慰める意味で、反射的に撫でてしまったのだ。
[カシャシャシャシャシャ!]
スマホの連写音が響き渡る。
音の主は、会場に紛れ込んでいたゴールドシップだった。
アグネスデジタルに高く売れるとほざき倒すゴールドシップにデータを消させるために、男は図らずも大枚をはたき夕飯をおごらされることとなった。
今週はちょっと仕事が忙しいので間隔が開くかもしれません。