工房での珍事をひとしきり楽しんだ後、エアグルーヴとサイレンススズカは寮に戻った。
エアグルーヴは自室で、明日朝に工房に持ち込む新品の蹄鉄を取り出す。
どのようなオーダーをするべきか、机の上の蹄鉄を眺め、思案する。
いくらか補強を入れてもらう方向で考える。
具体的な補強位置は男に任せるとしても、どのようなフィーリングを求めているかのイメージくらいは伝えないといけない。
しばらく思案に耽った後、ふと机に置いてある青いサルビアの小さな鉢が目に入る。
それは、男に鉢植えとして渡したサルビアと同じ株のものだった。
「…我ながら小賢しい真似をしたものだ」
そう独り言ちると、少し自分の気持ちに素直に向き合える気がした。
本当は蹄鉄に男の手を加えてもらう必要など、ないのだ。
男の指摘を受けたとき、彼女の聡明な頭脳はひとつの閃きを導いた。
男が手を入れた蹄鉄で、レースを走ることができる。
意味を認識した瞬間、それはとても魅力的で甘美な思い付きに思えた。
だからとっさに、手を加えてもらうことができるか、問うてしまった。
お勧めしない、という男の言葉も、少しだけだ、と押し切った。
エアグルーヴは戸惑っていた。
今までの自分であれば、このようなことを言い出すはずがない。
言い出すとしても、まずはトレーナーに相談して自分の状態とすり合わせ、次のレースへの戦略、戦術にどうプラスになるか、分析し整理してから決めるはずだ。
どうかしている。
いつから自分がそうなったのだろう。
男に自分のプライドを打ち砕かれて。
ひとつのケジメをつけて、頭を撫でて褒められて。
まるで子供のような、情けない姿を見せられて。
苦悩する男の姿を眺めて。
一般社会からは隔絶されたトレセン学園というひとつのちいさな世界の中で、異質な存在といえる装蹄師の男は、いつしか彼女の中の一定の場所を占める存在となってしまっている。
エアグルーヴは己の心の内を、はっきりと認識した。
しかしそれを一方で、否定し、追い出すべき感情だとも考える。
レースを戦う上で、このような邪な考えを抱いて勝利を掴めるほど甘い世界ではないと、彼女の冷静な部分が叱咤する。
いかに女帝と呼ばれて持て囃されようとも、勝負にストイックに向き合い、突き詰めて、自らを厳しく律していかなければすぐに足を掬われる。
己はなんのためにここにいる?
尊敬する母と並び、それを追い越すためだ。
尊敬するシンボリルドルフと志を共にし、実績でも並ぶような存在を目指すためだ。
ならばこのような己の児戯のような感情に何の価値がある?
エアグルーヴは闇へと引きずり込まれそうな思考を自らの頭を振ることで中断させ、気分を変えるために寮にある共用のリビングスペースへ向かうことにした。
他のウマ娘の気配が感じられるスペースに、伏し目がちに眉間を押さえながら入る。
「どうしたエアグルーヴ。顔色がずいぶん悪いようだが」
視線を上げればそこには、部屋着姿のシンボリルドルフがいた。
「会長…」
ルドルフはエアグルーヴの表情をじっと見つめる。
そうして、エアグルーヴのただならぬ憔悴を見て取ると、少し話をしよう、と自らの部屋へ誘った。
部屋の扉を閉じると、何か飲むか?とシンボリルドルフはエアグルーヴを気遣う。
エアグルーヴのいつもは凛々しく屹立している耳も今は力なく、まるで魂が抜けかけているかのようだ。
「申し訳ありません…会長を煩わせるようなことは…何も…」
いつものエアグルーヴらしくない歯切れの悪い物言いに、ますますルドルフの心配は募る。
「…エアグルーヴにはいつも負担をかけている。そんな君に困ったことがあれば、私はいつでも力になろう」
「いえ…会長のご心配には及びません。極めて個人的なことで…」
エアグルーヴは伏せた目をあげようとしない。
「…ふむ、私では力不足ということか…」
エアグルーヴははっとし、慌てて言葉を紡ぐ。
「決してそのようなことでは!そのようなことでは…」
ルドルフは眉を下げ、微笑む。
「…話してくれるな?」
「…はい…」
そこからエアグルーヴはぽつり、ぽつりと話していく。
尊敬する生徒会長であり、自らのチームの中心であるルドルフに、自分で邪であると理解している心情を吐露するのは相当に勇気がいることだった。
しかしエアグルーヴは、ここまで心を砕いてくれるルドルフに隠し立てすることこそが信義にもとると思いなおし、今日の練習後の工房での一連の出来事と、自らの心のうちを明らかにしていく。
この時、エアグルーヴの話を聞くシンボリルドルフの表情は、話が進むごとに少しずつ、難しく、硬く、ときに曇っていった。
しかし自らを表現することにキャパシティのすべてを使い果たしているエアグルーヴは、ついぞそれに気づくことはできなかった。
シンボリルドルフは適度に相槌を挟むことを忘れず、エアグルーヴの自室での葛藤までを聞き終え、自らの中にあるひとつのスイッチを切り、表情を切り替えた。
「…なるほど。つらい気持ちは、よく伝わってきたよ」
ルドルフは「理解したよ」という言葉を差し出してやれない自分の狭量さを自覚し、心の中でエアグルーヴに詫びる。
「次のレースに悪影響を及ぼす可能性があるのは、私としても不本意だ。だからひとつ、提案をしてみても良いだろうか」
エアグルーヴはいつになく気弱な表情で、尻尾すらも力なく下がった状態のまま、ルドルフの次の言葉を待っている。
「蹄鉄は加工してもらうといい。でももう1セット、新品を用意するんだ。どちらを使うかは、試してからでも遅くない」
エアグルーヴの耳に、わずかに力が戻る。
「今のような心情を落ち着けるのは難しいかもしれないが、少なくともひとつ、望んだものが手に入ると考えれば、少しは君の心のよりどころになるのではないか?気持ちの整理は、時間に追われてするものではないよ」
シンボリルドルフは言葉を紡ぎながら、思っていた。
うまく伝わっているだろうか。
うまく隠せているだろうか。
エアグルーヴの表情を読もうとする。
少し明るくなっているだろうか。
「…ありがとうございます。会長に、皇帝にこのような助言がいただけて、私は果報者ですね…」
どうやら試みはうまくいったようだ。
シンボリルドルフは安堵した。
エアグルーヴはいくらか生気を取り戻し、シンボリルドルフに礼を述べると、自室に戻っていった。
部屋に一人となったルドルフは緊張の糸を切らして、ため息を吐く。
ベッドに身を投げ出し、枕に顔を埋めて、自らに問う。
これでよかったのか?
学園の工房に棲まう、かつてより兄と慕う装蹄師の男。
それは彼女がルナと呼ばれていた時代から今まで、彼女の心の中で重要な位置を占め、揺らぐことのない、初恋の相手でもあるのだった。