宝塚記念の日。
男は朝からスタンド上部に陣取り、1Rからレースを眺めていた。
男はレースが好きだ。レースそのものが好きだ。
勝負が織りなす舞台が好きだ。
なんなら弱いウマ娘が好きだ。
伸びしろしかないからだ。
これから彼女たちが挑む道は、ドラマに溢れ、見るものの感情を揺さぶることになるだろう。
もちろんすべてのウマ娘たちが成功を掴めるわけではない。
だが、その過程で見出した様々なことが、彼女たちのその後の糧になるように、と男は願っている。
かつての自分がそうであったように。
その点で考えれば、今回の宝塚記念はまた違う趣がある。
ある意味ですでに完成された者同士の戦いだからだ。
選出基準がファン投票ということもあり、ファンに印象を残したウマ娘たちが出走することになる。
彼女たちが織りなしてきたドラマやファンに魅せた夢が、投票によってここで交錯する、というわけだ。
今回の出走者の中では、男が関わったサイレンススズカとエアグルーヴがいる。
サイレンススズカ躍進のきっかけに男は関わり、それが見事花開いた。おハナさんの道化だったとしても、男は役回りを演じきってみせた。
対してエアグルーヴはまた違う関わりだ。
叱咤して突き放すという最悪の出会いから、立場は違えど同じ目標を共有し、今は男の手の入った蹄鉄を履きこの闘いに挑もうとしている。
これまでも、今回ほどの関わりの濃さはなくとも、関わった娘たちがレースで戦うことはあった。
しかし今日のレースは何かいつもと違うものを感じている。
その正体はなんだろうか。
男の数少ない交友関係の中にいる沖野トレーナーと東条トレーナーが雌雄を決するレースという側面もあるだろう。
しかし直接的な原因は、今回のレースの一番人気と二番人気のふたりがこのレースを見据えて男の工房に来訪し、二人並んで蹄鉄のアドバイスを求めるということがあったからだろう。
あの時の二人はとても仲良く、お互いの情報を隠そうともせずにいた。
その二人が、今は同じレースの出走を待っており、これから雌雄を決するというのだ。
勝者はひとりしかいないのがレース。
この残酷さが彼女たちをより、輝かせるのだろうか。
この残酷さが、ファンを惹きつけるのだろうか。
男は正解のない思考をぐるぐるとさせ、正体のわからない感情を抱えたまま、ターフを眺める。
気が付けば今日のメインレース、宝塚記念のスタンド本バ場入場が始まっている。
視界の隅ではゴール板の前に陣取ったスピカの面々がわいわいとしている姿が見える。
男のここしばらくの騒動の裏に常にいるゴールドシップは、神妙な面持ちでルービックキューブをこね回している。
それはなにかを念じる美しい魔女のようなオーラを放っていた。
東条ハナはエアグルーヴの控室で、落ち着き払ったエアグルーヴとともに、呼び出しの時を待つ。
やれることはすべてやった、と思う。
タブレット上のチェックリストはすべてマーク済みだ。
直前の変更で懸念点だったシューズと蹄鉄の相性も問題なく、装着状態に関してもいつもの二重チェックを三重に増やし万全を期している。
繰り返して言うが、やれることはすべてやった。
しかしそれは「トレーナーとして」という但し書きが付く。
走るのは、彼女だ。
今私の目の前にいる女帝、エアグルーヴ。
懸念点としてはここのところの生徒会関係の業務の激増による調整不足だろう。
ここのところ、生徒会副会長として、彼女が主管となるプロジェクトも一定の成果を収めつつあったが、一方彼女自身の競技者としての仕上がりにはトレーナーとして一抹の不安があった。
だが、それが悪いことばかりとも言い切れない。
プロジェクトの活動を通して彼女の視野は間違いなく広がっていて、改めてレースで走ることへの意義と価値を高めることができている。
また、プロジェクトの過程で得た心理的な支えの効果は絶大だ。
エアグルーヴは、彼女と装蹄師の男でアイデアを出し合った蹄鉄を装着して、今回の宝塚記念を走る。
蹄鉄そのものの出来は私も納得するものであったし、フィーリングも想定通りのモノができあがっている。
そしてなにより、彼女のために装蹄師によって手が入れられた、という点だ。
私の見立てでは彼女は装蹄師の男に特別な感情を抱きつつある。そしておそらく本人もそれを自覚している。
時にその感情が枷となることもあるだろう。
しかしそれが推進力となることもあるだろうことは、私自身も経験のあることだ。
そういう意味で蹄鉄はモノとして彼女の足元を支えるだけではなく、今や彼女の精神的支柱だ。
これまでとは違う要素を手に入れた彼女は、今や求道者と化したサイレンススズカに、打ち勝つことができるのか。
勝負事にはどんなに準備をしても、常に不安がつきまとう。
それでも、私はこの子に夢を託す。
本バ場入場の呼び出しがあり、地下通路をエアグルーヴとともに歩む。
私ができるのは、ここまで。
「…リギルの名に恥じぬよう、勝ってきます」
完全に勝負師の表情となった彼女に、私はただ頷く。
それで充分のはずだった。
今日の阪神レース場は晴れ渡っております。
さぁ本年もあなたの夢、私の夢が走ります。宝塚記念。芝2200で争われます。今年の栄冠を手にするのは果たしてどのウマ娘か。
スタンドを埋め尽くす大観衆はウマ娘たちのゲートインを歓声を上げて見守っております。
場内ビジョンに映りますのは本日の一番人気、サイレンススズカ。
控えめな性格そのままに、小さくスタンドに向けて手を振り歓声に応えています。しかし秘めたる闘志は求道者そのもの。ここのところのレースでは圧倒的な逃げにより勢いに乗っております。
次に女帝、エアグルーヴも姿を見せました。
その堂々たる出で立ちは二つ名に恥じない威厳を放っております。今日も母親譲りのアイシャドウがクールです。
おや、なにやら跪いてシューズに手を当て目を閉じ、じっと集中しております。新しいルーティーンでしょうか。
さあスターターが上がりましてファンファーレです。
…大観衆の歓声が響き渡り地鳴りのようなうねりとなっております、阪神レース場。
いよいよ各ウマ娘、奇数番からゲートに収まっていきます。
あっと、メジロブライト、ゲート入りを嫌がっています。現在4連勝中のウマ娘、これは気合が合わないか。
先に入っているサイレンススズカ、ゲートインを待つエアグルーヴは泰然自若という様子で待っております。
…メジロブライトは外枠に回されて改めてゲートインが進んでまいります。
さぁ偶数番も収まりまして各ウマ娘ゲートイン完了。
大歓声の中ゲートが開きました!
各ウマ娘一斉にスタート!
まず正面スタンド前に入ってまいりますが…やはりサイレンススズカ。サイレンススズカが外からじわっと内に入りながら先手をうかがいます。
サイレンススズカ、ぐんぐんスピードをあげて後方と2バ身、3バ身とリードを拡げます。
2番手以降は5番、9番、8番…
ファン投票1位選出のエアグルーヴは中団です。
サイレンススズカが引っ張るバ群は縦長の展開だ。先頭から最後方までおよそ15バ身。
向こう正面の直線に入ってまいりますが相変わらずサイレンススズカ一人旅。2番手以降を大幅に引き離しております。その差7~8バ身から10バ身くらいあるでしょうか。3コーナーにかかっていきますがその走りはまさに最速の機能美、ひとりタイムアタックの様相を呈してまいりました。
800を切りまして後方集団がペースを上げて差を詰めてくる。
内からキンイロリョテイそして外にはエアグルーヴが前を狙っているぞ。
大歓声の中まもなく4コーナーから出てくる。
まだまだ先頭サイレンススズカ。
しかし後続も黙ってはいない。先頭に追いすがる。リードは約5バ身!
最終直線に入って未だサイレンススズカ先頭、しかし後続がつっこんでくる!メジロブライトは後方集団に呑まれ大ピンチ!残り400標識を通過!
後続が先頭を捉えにくる。サイレンススズカに迫っていくぞ。サイレンススズカまだ粘る。距離が縮まる!エアグルーヴ突っ込んでくる!間合いを一気に詰める。栄光まで200!
先頭サイレンススズカ変わらない!キンイロリョテイとエアグルーヴたたき合いながら差を詰めるが先頭サイレンススズカ、サイレンススズカ、サイレンススズカだ!エアグルーヴ届かない!
サイレンススズカ、今先頭でゴール!
逃げ切ったサイレンススズカ!期待のエアグルーヴは3着!
サイレンススズカ逃げ切り成功!
サイレンススズカ、これまでの勢いそのままに見事に宝塚記念を制しました…!