宝塚記念のゴール後の歓声。
男はスタンドの圧倒的な熱量とレースの輝かしさと残酷さの混ざりあった迫力に圧倒されていた。
改めて思う。
自分にとってはこれはただのショーではなく、自分が関わり、生きている世界なのだと。
全てのレースが終わり、ウイニングライブの準備が進むなか、人の流れに逆らい、男はスタンドをあとにする。
ルドルフを送り届けた礼とばかりに男に与えられた地下にある関係者駐車場へと向かう。
愛車のバケットシートに収まり、エンジンはかけずに煙草に火をつけると、男は深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐きだしながら、今日の宝塚記念を脳内で反芻した。
地下駐車場まで上で行われているウイニングライブの大音響が響いていた。
シンボリルドルフは悩んでいる。
今日、サイレンススズカに敗れたエアグルーヴのことだ。
眼前のウイニングライブこそ気丈に敗けたことなど全く関係ないかのように振舞っているが、心中穏やかでないことは想像がついた。
ましてや気位の高い彼女のことだ。
敗戦そのものだけではなく、チームに、そして今回の場合は彼女の蹄鉄を拵えたあの兄に報いれなかったことを思うに違いない。
そして彼女は今日、ここで兄がレースを見ていたことを知らない。
おそらくもうしばらくすれば、兄はひっそりと帰京の途につくであろう。
公としてのシンボリルドルフは、これ以上ない信頼できる右腕としてのエアグルーヴに、なんとか彼女の心を救済する手を差し伸べてやりたい。その方法として、私が兄と慕う男の助手席に彼女を乗せてしまうという方法を思いついている。彼女の複雑な思いの告白をうけた身からすれば、それは最も効果的な手法と思えた。
しかし私の部分であるルナは、それが自らの兄に対する想いと相反する行いであると警鐘を鳴らす。
ぎりり、と奥歯を食いしばる。
結局、ルドルフはウイニングライブも終わりに差し掛かる頃、総帥である東条トレーナーを会場外に誘い出し、公としてのシンボリルドルフの顔で相談を持ち掛けた。
ルドルフの相談を受けた東条ハナは、思案を巡らせる。
チームと別行動を許容することも好ましくなかったし、ましてや男の車に同乗させるなど、事故などのリスクの観点からしても本来であれば許可しない。
しかし今回の敗戦はエアグルーヴにとって、良きライバルであるサイレンススズカに敗けたこと、このために蹄鉄を誂えてもらったにもかかわらず結果を出せなかったこと、という二重の意味での精神的ダメージがあった。
ましてや彼女はチームのエース格である。
メンバーから形式上の慰めを受けながら殻に閉じこもるよりは、男の手に委ねメンタルの再生を図ってもらったほうが一石二鳥ではないか、という考えもよぎる。
男に関しては、なんだかんだと言いながらも信頼はしている。
あの鈍さであるから間違いが起こることもあるまい。その点でも問題はなかった。
東条ハナ本人の私情や提案してきたシンボリルドルフの心情にはまた別の問題はあったが、それはそれで今は見過ごすことにする。
「…いいわ。あなたの提案通りにしましょう。ただ、チームの皆には別の理由を立てるわよ。あなたや私は事情をわかっているからともかく、あまり外聞のいい話ではないしね」
提案しておきながら難しい顔をしているシンボリルドルフの心中を慮りながら、彼女はスマホを取り出し、男にコールした。
「今、まだ駐車場にいる?ちょっと頼みがあるんだけど…」
「…えぇぇ……人乗せると運転の疲労倍増なんだけど…新幹線なら2時間半でつくでしょ…」
男は思わず否定的な反応をしてしまうが次の瞬間、己の不用意さを後悔する。
電話の向こうで、聞こえるはずのないおハナさんの怒りのスイッチが入った音がした気がしたのだ。
「あなたねぇ!男なら責任取りなさいよ!」
ここだけ切り取られたら男の職業生命が瞬時に燃え尽きかねないパワーワードを繰り出される。
そもそも何の責任があるというのだろうかと思わないでもなかったが、こうなっては押し黙る他ない。
ゴソゴソと向こうで何か音がしている。
「…兄さん、私だ。私が頼んだんだ」
「ルドルフ…?そりゃまたどうして…」
シンボリルドルフモードの時にしては珍しく、何やら言い淀んでいる。
「その…エアグルーヴは今日の結果に落胆しているが、兄さんに対しても責任を感じていると思う。できれば、ゆっくり話を聞いてあげて欲しい。それには兄さんの助手席に彼女を乗せるのが一番じゃないかと、そう考えたんだ」
一応、話の筋は通っていると思った。
「なんとか頼めないだろうか。エアグルーヴはストレスを溜め込むタイプだ。私としては彼女に今回の結果を引きずってほしくない」
他ならぬルドルフからの頼みに、男は渋々だったが承諾するしかなかった。
「クルマを用意しているというから何かと思ったら…貴様、来ていたのか…」
地下駐車場にやってきた制服姿のエアグルーヴはレースのことなどなかったかのように、いつも通りだった。
「こんな古ぼけたクルマで女帝には申し訳ないな。まぁ気分転換だと思っておじさんに付き合ってくれや」
男はつとめてフラットにエアグルーヴを迎え入れる。
荷物を受け取り後席に放り込むと、助手席のドアをあけて彼女を乗せる。
助手席に乗り込む彼女をそれとなく観察すると、いつもはスッと立っている耳が今はいくらか力なく、折れているのが目に入った。
やはり態度はいつも通りでも、心情はいつも通りとはいかないようだ。
「さて、ちょっと長旅だ。楽に過ごしてくれ。寝てくれても構わない」
男はそれだけ言うと、クルマを出す。
駐車場の警備員は行きはシンボリルドルフ、帰りはエアグルーヴの乗せて出ていくクルマに目を白黒させていたが、エアグルーヴの鋭い眼光に射抜かれたのか、最敬礼で送り出してくれた。
「……?……」
走り出してしばらく無言が続く。
気まずい空気というわけではなく、なぜかエアグルーヴが落ち着かない様子でキョロキョロしているのだ。
信号で停まったタイミングで男が話しかける。
「どうかしたか?」
「このクルマは…その…貴様の、個人の持ち物、なんだな?」
やや言いづらそうにしている。何か気に食わないことでもあったのだろうか。
男は頷きを返事の代わりに返す。
「…プライベートな領域でこんなことを聞く事を、気を悪くしないでほしいのだが…この車内からとても会長の匂いがするのは、どういうわけなのだろうか…?」
あぁ…と男は苦笑いをする。
どこから説明したものか迷ったが、結局阪神までの道のりで起こったことを話すことにした。
宝塚記念を見ようと思い立ち、衝動的にこのクルマで西を目指したこと。
道中、どこかで見たことのある赤い爆速のクルマにブチ抜かれたこと。
数時間後、そのクルマが故障して停まっていたこと。
マルゼンスキーとぐったりルドルフがいて、ルドルフを収容して阪神レース場まで送り届けたこと。
「そんなことが…土曜の朝会った時には多少疲れた様子だったが、気付かなかったぞ」
男はははは、と乾いた笑いをたてる。
「ルドルフもお前さんがいなくて調子が狂ったのかもしれんな。その助手席でよく眠ってたよ」
会長が眠っている姿を見たことがないエアグルーヴは、その光景を想像するがうまくいかない。
それに気づいた時、エアグルーヴの中で男に対し解けなかった疑問がひとつ、思い出された。
「そういえば、前に貴様に聞きそびれたことがあったな…」
なにかあっただろうか。男は記憶をたどってみるが、いまいち思い出せない。
「私が工房にサルビアを持っていって、ゴールドシップを追いかけていったので話が尻切れになったときのことだ。あの時、高みに登ってしまった妹分がいる、と言っていたが、あれは…会長のことなのか?」
彼女の耳がやや後ろ目に引き絞られているが、運転中の男は気付かない。
男はそういえばそんなこともあったな、と思い出すと同時に、エアグルーヴとの写真のことも思い出されて赤面しかける。
「あぁ、そうだよ。ルドルフのご両親と俺の師匠格の人間が関わりがあってね。ルドルフとは幼いころからの知り合いだ」
エアグルーヴの引き絞られていた耳は、力が抜ける。
「そうか…そういうことだったのか。会長が妙に貴様を信頼している訳がようやくわかった」
「今はもう皇帝と呼ばれるまでに登り詰めちまって、もはや妹分なんて軽々しく言えねえよ」
男は苦笑いで茶化す。
しかしエアグルーヴは果たしてそうだろうか、と思う。
蹄鉄のこと、男のことを会長に吐露したときの会長は、妙にすんなりと話を呑み込んでくれた。
そしてその解決策も、あらかじめ持っていたかのような鮮やかさで示されたように思う。
私の直感が間違っていなければ、これが意味するところは…。
クルマはいつしか高速に乗り、スムーズな運転で一路東へ向かっていた。
車窓に流れる夜景は綺麗だったが、エアグルーヴの胸の内はその色とりどりの光が混濁したような有り様だった。
「…今日は、惜しかったな」
男は前へ向けた視線をぶらすことなく、ほどよく力を抜いてステアリングを握ったまま、ポツリといった。
脱力していたエアグルーヴの耳がぴくり、と動く。
「今日のスズカは完璧だった…私の完敗、だ…」
流れる車窓を眺めたまま、エアグルーヴの怜悧だが細い声が男の耳に届く。
「済まなかったな。勝ってくるなんて大見得を切っておいて、貴様も期待をしてくれたから観に来てくれたんだろう…なのに…こんな…不甲斐無い結果…で…」
エアグルーヴの視界が僅かに歪み、夜景が滲んでいく。
「…むしろ俺はお前に礼を言わせてもらいたいよ。いいものを見せてもらった、なんて言ったら怒られるか」
潤んだ瞳を見られまいと窓の外を眺めていた彼女が、予想外の言葉に思わず男の方を向く。
男の視線は変わらず前方に向けられたままだ。
「お前がゲートイン直前にシューズに触れてくれた時、俺もレースを戦うひとりのような気がした。
最後の直線で必死にスズカに追い込む姿を見た時、誰にも贔屓をしまいと決めていた心が揺れた。
俺が、お前たちが競い、ファンを虜にするこのレースの世界の一員であることを、誇りに思った」
男の紡ぐ言葉に、エアグルーヴの瞳からはいよいよ許容量をこえた涙が頬を伝う。
熱を持った顔で、男の横顔を眺める。
しかし前方だけを注視している男はそれに気付かない。
男は窓を薄く開け、煙草に火をつける。
男から立ち昇る煙が、車外に吸い出されていく。
今のエアグルーヴには、その煙すらも愛おしかった。
「…勝者はひとりしかいない。確かに結果は大事だ。でもな、勝とうとする、そこに至る過程こそが眩しい輝きを放って観ているものを虜にする、そんな見方もあるんだよ。もっともそれがお前の慰めになるわけじゃない…か…」
男はエアグルーヴとの間にある純正の灰皿で煙草を揉み消し、役割を終えた左手を5速に入りっぱなしのシフトノブに添える。
エアグルーヴはたまらず、その鉄と煙の香りがする左手をとって、自らの頬に添わせる。
「!?どうした…って、お前…泣いてるのか?」
手を引っ込めるなど急な動きをして、エアグルーヴを傷つけるわけにもいかず、男は手を彼女にされるがままにする。
「たわけが。こちらを見るな。危ないだろうが…」
エアグルーヴの細い指が、男の手を柔らかく包む。
「この間みたいに、撫でて良いんだぞ…」
弱々しい声音とは裏腹に強がった言葉で彼女は男に要求する。
それに応えて男は手探りで、エアグルーヴの頭をくしゃりとやる。
耳が柔らかく力が抜け、心地良さそうにひくひくとうごめく。
「私が眠るまで、こうしていて欲しい…」
か細い声でそう告げると、彼女は頭を男の手に預けた。
男は前方から目を離せず事態も把握できぬまま、左手でエアグルーヴをあやしながら、ひたすらにクルマを東へ走らせることしかできなかった。