宝塚記念が終われば、学園はいよいよ夏休み期間を間近に控え、学内がにわかに騒がしくなる。
トレセン学園の夏休みといえば強化合宿だ。
この夏を経て実力を付け、本格化に至るウマ娘たちも少なくない。
しかしトレセン学園在籍の生徒が一斉に合宿に入るとなるとその事務作業も膨大なものとなる。
つまり生徒会室は今日も大量の決裁書類と相談事と調整事と、とにかく多忙を極めていた。
「全く…ブライアンのやつはどこへいったんだ…」
エアグルーヴはいつものように副会長としての調整業務、また合宿にかかる補正予算の立案を進めている。
会長席ではシンボリルドルフが書類に目を通し、決裁事務を執っている。
その姿は一見、いつもと変わりないように見える。
しかし、あの宝塚記念以降、エアグルーヴと相対するシンボリルドルフは時々だが、どこかよそよそしく感じられる瞬間があった。
机の上のタイマーが鳴る。作業を始めて1時間半が経ったことを意味している。
「会長、そろそろ休憩のお時間です。今、お茶を用意しますので…」
エアグルーヴが立ち上がろうとすると、シンボリルドルフが手で制す。
「今は二人きりだ。たまには私が用意しよう。君は座っていてくれ。少し雑談でもしようじゃないか」
いつにもまして強い意志の宿ったシンボリルドルフの瞳に、エアグルーヴはぞくりとした。
(今日こそは、兄となにがあったのかを聞かねば…)
シンボリルドルフは手元の資料に目を通しながら、その明瞭な頭脳の半分で業務を処理しつつ、あとの半分は眼前の自らの右腕であるエアグルーヴに意識を取られていた。
自ら提案したこととはいえ、宝塚記念からの帰りにエアグルーヴと兄を一晩二人きりにしたのはシンボリルドルフ自身の中にそれなり以上の重みを遺していた。
翌日学園で顔を合わせたエアグルーヴが敗戦の余韻は残るものの、妙にすっきりして生気漲る表情をしていたこともシンボリルドルフに重ねてダメージを与えていた。
それからここまで、それをうちに秘めたまま過ごしてきたが、時間を経ても薄まることなくむしろ濃度をあげていく兄とエアグルーヴとの関係への疑問は、ついにひとりで抱えたままでは空気を入れ続けた風船の末路を予感させる状況に至っていた。
幸いに今は生徒会三役のもう一人、ナリタブライアンもいない。
紅茶を淹れながら、今日こそはこの抱え込んだ感情の処理に突破口を見出す、と決意を新たにした。
紅茶とお茶うけのクッキーが2セット置かれたテーブルを中心に、シンボリルドルフとエアグルーヴが向かい合う。
二人の表情はまるで、レース前のゲートインのように張り詰めている。
休憩という体裁であるが、それは名ばかりの、見るものがいたならば逃げ出しそうな緊張感に包まれた空間であった。
ゲートが開き、エアグルーヴが口火を切る。
「会長…改めて、宝塚記念は申し訳ありませんでした。チームの皆にも申し訳なく思っています」
シンボリルドルフは鷹揚に頷く。先を行くものとしての心得には自信がある。
「気にやむことはない。だが最近のサイレンススズカには目を瞠るものがあるな」
「…正直、心のどこかに油断があったのかもしれません。スズカには一度勝っていましたから、今回も同じように、と…」
エアグルーヴは目をふせ、レースを思い出しているのだろう。表情が強張る。
「…油断はよくないが、競いあうライバルが居てこそのレースでもある。これを糧にさらに高みを目指す。その過程こそが輝き、観るものを虜にすることもある。負けるのも悪いことばかりではないさ。もちろん我々は負け続けるなど、我慢ならないが」
エアグルーヴの耳がぴくりと反応する。
装蹄師の男と同じ言葉が、シンボリルドルフの口から語られたのだ。
耳と瞳が、驚きを隠しきれない。
「…阪神からの帰り道、同じ言葉をいただきました…その…装蹄師の先生、に…」
今度はシンボリルドルフの耳がびくりと反応する。
レースの駆け引きのような展開に呑まれそうになる。
見開かれたシンボリルドルフの目は、白磁の肌にやや赤みをもたせ、伏し目がちに話すエアグルーヴの姿を捉えていた。
「…会長の昔からのお知り合いだったんですね…車中で伺いました」
エアグルーヴがシンボリルドルフを窺うように仕掛ける。
「あぁ…両親と彼の師匠が交流があってね…私が幼いころからの、兄のような人だ。今では私を幼名で呼んでくれるのは両親と、あのひとくらいだよ」
シンボリルドルフはどっしりと構え、動揺を内に覆い隠す。
「会長は宝塚記念に行くとき、送ってもらったそうですね」
エアグルーヴはさらに話題を切れ込む。
「新幹線の最終を逃してしまってね。マルゼンスキーに送ってもらうはずだったんだが…途中で彼女のクルマが故障してしまったんだ。そこにたまたま通りかかったのが兄さんだった…という訳でね。お陰でそこから阪神までは、ゆっくり眠って移動することができたよ」
それはマルゼンスキーの助手席を逃れたからなのか、男の助手席だったからなのか。
おそらくはその両方なのだろうが。
「君は帰りのクルマでは…その…どうだったのだ?」
シンボリルドルフは今日の核心を突きにいく。
うまく質問を設定できないのは内部のルドルフとルナが折り合いを欠いているが故だ。
エアグルーヴはみるみるその顔を赤くしていく。
どう言葉にしたものか、思い返すだけで沸騰しそうになる頭を必死に回転させる。
いくらでも逃げた表現はできそうに思えたが、既に会長には自らの心情を開陳してしまっている手前、中途半端のぼかしたところで失礼に当たるだろう。しかし事細かに説明するのも彼女の品格に合わない。適切な言葉を探すが、今の状況でそれを思いつく余裕もない。まるで差しに行くコースを塞がれたような展開だ。
しかしただごとでない顔色と表情を浮かべるエアグルーヴの雰囲気に、シンボリルドルフも思わず息を呑み込む。
「…お、大人の…慰めを…いただきました…」
沸騰したエアグルーヴの頭脳がチョイスした言葉は、それが持つ破壊力に発言した者、聞いた者双方に甚大なダメージをもたらした。
エアグルーヴは赤みが差した瞳を潤ませてただふるふると震え、シンボリルドルフは掌で顔を覆って、動かなくなる。
すでに二人とも、競争能力を喪失していた。
その時、がちゃりと生徒会室の扉が開く。
「見回り、終わった…ぞ…」
生徒会室で向かい合ったまま燃え尽きていた二人の第一発見者は、ナリタブライアンだった。
「ぶえっくしょい!!」
「なんだぁおっちゃん、おっさんみたいなくしゃみして、風邪か?」
工房の外でゴールドシップが海で獲ってきたサザエを七輪で焼いていた男は、くしゃみとともに突如悪寒に襲われた。
「なんだろう…突然悪寒がね…」
思わず七輪に手をかざす。もちろん季節的に気温が寒い訳ではない。
「おっちゃん夜に腹でも出して寝てるんじゃねーのか?ゴルシちゃんが寝る時暖めてやろうか?」
サザエを掴むトングをカチカチさせながらゴールドシップがニヤニヤしている。
珍奇な言動さえなければ小悪魔的魅力を持った美女ではあるのだが。
「えぇ…なんかお前寝相悪そうじゃん…なんなら寝ながらプロレス技決められそう」
団扇で炭を少し扇いで火力を上げる。
「寝ててもプロレス技キメんのはマックイーンだな!ゴルシちゃんは末端冷え性まで治す高性能カイロとしても有名なんだZE☆」
「もう医療用器具ゴールドシップとして厚生労働省に申請でも出せよ…」
その夜、男はおさまらない悪寒とともに悪夢にうなされた。
あくまでタイトル通り、淡々とダラダラと妄想を書き連ねていこうと思います(改めての決意表明