前回がやや物議を醸しましたが、ぐりぐりと妄想を進めてまいりたいと思います。
皆様どうぞ引き続きのお付き合いのほど、よろしくお願い致します。
男はその日、以前の研究完了以来落としたままであった工房の炉に火を入れた。
この間の宝塚記念はいい刺激になった。
その刺激を受けた故、無性に鉄を叩きたくなっていた。
しかし男は、目的のないことをするというのがどうにも苦手な性質だった。
クルマを運転することは好きだが、目的を定めずにドライブすることも苦手なほどだ。
従って、蹄鉄をつくるにせよ、目的を必要とした。
炉の火加減を調整しながら、目的を考える。
先に観た宝塚記念を考えれば、やはりサイレンススズカの圧勝劇が思い起こされる。
ふと思う。
ここ最近のサイレンススズカの快進撃。それは良いが、おハナさんの危惧していた彼女の脚の限界、という面ではどうだろう。
直近のレースを全て観ているわけではないが、似たようなレース展開での快進撃だとすれば、彼女はほとんど駆け引きをせずに、ただただタイムアタックのようなレースを展開していることになる。
つまりそれは「加減をする」ということのない、剥き出しの彼女の全力ということなのか。
男は炉の火をじっと見つめながら考えを巡らせる。
やがて、ふと顔をあげると、炉の火を消した。
一人で考えていても仕方ない、と男は工房に外出の札をかけ、校舎へ向かった。
「珍しいモルモッ…もといお客さんが来たと思ったら…突然何を言い出すんだ君ぃ」
男はアグネスタキオンの研究室を訪れていた。
「まぁ沖野に話しても良かったんだがな…この間の研究のテーマとつながってるような気がして、まずはタキオン先生のご意見を賜ろうと思いついてしまったわけだよ」
ふぅん、と微笑とともに思案顔のアグネスタキオン。口角の上がり具合からして、悪い気はしていないようだ。
「まぁほかならぬ君から頼られたなら応えなければなるまいねぇ…そうだね、まずは一般論から入ろうか」
アグネスタキオン曰く。
この研究を始めて以降、自らの薬学にこだわらず全体の視点を広く持った結果いくつかのことに気付いたという。
それはウマ娘のこと競技に関する医学的なサポート面についてだ。
どのスポーツでもそうだが、怪我はつきものだ、という前提のもとに全てが考えられすぎているのではないか、というのだ。
つまり、怪我をした場合にフォローするための医学はそれなりの進歩を見せているが、予防するという観点で考えるとまだまだ未開拓だ、ということである。
特にウマ娘の場合はスピード競技という特性上、最高速度付近でトラブルが発生した場合、脚以外の強度が人間とさしてかわらない構造故に大惨事になりやすい。
もっと怪我を未然に防ぐ医学的アプローチが体系立てて整備されるべきではないか、という意見だ。
「…例えばそれは定期的な脚部の検査とか、そういうことか?」
タキオンの話に必死についていこうとする男は、無意識のうちの煙草を口に咥えている。だがさすがに火をつけることはしない。
「たしかにそういうアプローチもあるだろうねぇ。だが、たいていにおいて今の医療体系では怪我を事前に察知することは難しい」
うぅむ、と唸るしかできない。
「君の言うサイレンススズカ君の件にしても、今は大丈夫だが明日同じことをして何も起こらないという保障はない。しかしこれは誰でも同じだ。私も長く私自身の脚のデータを取っているが、どこで限界を迎えるのか…あるいは種族の可能性を超えることができるのか、わからないんだよ」
アグネスタキオンは紅茶色の瞳に憂いを湛えながら、その耳はやや前傾で真剣さが伝わってくる。
「…できることはあるんだろうが、茫洋とし過ぎてるな…俺の領域に落とし込むとするなら、なんなんだろう…」
今度はタキオンが唸る。
「そうだねぇ…この間のトレーニングシューズと蹄鉄のアプローチは良かったと思うんだが…より積極的な方向で考えるなら、どうしたら故障しやすい部位を鍛えられるか、というベクトルもあるかもしれないねぇ。しかしそうなると蹄鉄というよりは私の領域だろうねぇ…」
どうにも男一人でこなせる領域に落とし込むことができない。やはりこういうことには、課題に対してさまざまな領域を見渡して考えることができるディレクター、プロデューサー的な立場の人間が必要になる。
「まぁそういった役割は生徒会に期待したいところだねぇ。もしくはそれ相応の頭脳を集めた組織でも良いかもしれない」
タキオンは微笑を浮かべながらこちらを意味ありげに見詰めてくる。
「そういえば君ぃ、最近生徒会であったちょっとした事件について、なにか耳にしていないかい?」
はて。なんのことだろう。宝塚記念からこっち、特に生徒会のメンバーとの行き来はない。
「なんでもあの謹厳実直が服を着て歩いているようなエアグルーヴが瞳に涙を浮かべ、向かい合っていたシンボリルドルフ会長が青ざめた顔で凍りついていたというのだよ。まぁゴールドシップ君の情報だから、多少は割り引いて聞いておいた方がいいのだろうがねぇ」
…なんだそれは。一体どういう状況なのだろう。
男にはその光景の想像すらつかない。
「まさかあの二人のことだ、痴情のもつれとかそういったことでもない限り、冷静さを失うような事態というのは想像がしづらいのだよ」
志を同じくするあの二人が仲違い、というのも考えづらい。
「まぁいかな皇帝と女帝の組み合わせといっても、世間知らずな部分も多分にあるだろうからねぇ。…勿論かくいう私も人のことは言えた義理ではないのは自覚しているよ」
タキオンは耳をピコピコと動かしながらにやにやと笑い、楽しそうに話す。
「なんだかイヤに愉快そうに話すじゃないか」
男の言葉に、タキオンは意味ありげに含み笑う。
「なに、人はパンのみに生くるに非ず、というじゃないか。我々ウマ娘もレースのみに生くるに非ず、ということさ」
なにやら含蓄ありそうな言葉だが、その実何を言っているのか男にはさっぱり理解できなかった。
その困惑した男の様子を、アグネスタキオンは怪しさを湛えた瞳で観察していた。
生徒会室は、今日も今日とて多忙である。
しかしナリタブライアンの見るところ、ここのところのシンボリルドルフとエアグルーヴの間にはいささか違和感を感じていた。以前のような打てば響くというような関係性から少々、ぎくしゃくしているようにも感じられる。
業務に差し支えるほどでないところには彼女たちの意識の高さを感じるが、あまりいい雰囲気でないのは確かだ。
これは以前見かけた二人の異様な茶会が影響しているのだろうか。
しかし現状のこの雰囲気では、生徒会として開かれたスタンスとはとても言えないのではないか?
そう思ったブライアンはシンボリルドルフ、エアグルーヴと個別に話をしてみたが、それぞれに顔を赤らめ、
「なんでもないんだ…」
というばかりで話にならない。
どうしたものか、と静かに困り果てるナリタブライアンを意に介さずに業務は粛々と進んでいく。
雰囲気が動いたのは、エアグルーヴがシンボリルドルフにある課題を投げかけたときだった。
「会長、アグネスタキオンから例の研究プロジェクトについての意見書が届いておりますが…」
ありがとう、と手に取り、読み始めるシンボリルドルフ。
内容は男とアグネスタキオンが交わした会話をベースに多少、脚色されたものだ。
主に怪我の予防についての総合的な知見の集積を行い、研究開発の方向性を見出すべき、という趣旨である。
「…なかなか意欲的な内容だが、方向性を纏めるのは一筋縄ではいかないな」
書類を読んでいくシンボリルドルフの目は鋭く、冴えた頭脳が回転している様子がうかがえる。
「はい…まずは関係者へのインタビューから端緒をつけていきたいと考えますが…会長のご意見を賜りたく」
エアグルーヴは一見いつも通りに見えるが、耳の先が落ち着きなく動き、尻尾も不規則にひくひくと動く。
「そうだな…ん、これは…」
文章の末端にシンボリルドルフの目が留まる。
【 尚、この意見書は本稿執筆者であるアグネスタキオンと学園所属の装蹄師との会話より提起されたものである。 】
シンボリルドルフはエアグルーヴを仰ぎ見る。
目が合うとエアグルーヴの表情はわずかに紅潮し、視線を逸らす。
「…まずは起案者の二人に話を聞かねばなるまいな。エアグルーヴ、セッティングを頼めるか」
シンボリルドルフはエアグルーヴを試すように指示をする。
「…はい。では会長のスケジュールを調整の上、お時間を設けるようにします」
エアグルーヴは普段より緊張感を含んだ声音で応じた。
そのやりとりを静観していたナリタブライアンは、思い返せば二人の秘密の一端を見つけたのはこの時だ、とのちに姉に語ったという。