タキオンが去ったあと、男は預かった蹄鉄をシューズにセットしなおしていく。
シューズに打ち付ける釘もただ打てばいいというモノではなく、きっちりと蹄鉄と釘、ソールを合わせ、隙間のないように精度を高めて打ち付ける必要がある。
どういったものでもそうだが、組み付けの精度で性能も使用感も大きく変わる。ここを疎かにするとフィーリングが大きく変わったり、予期していた性能が出ないなんてことも珍しくないのだ。
精度が出ない場合は蹄鉄側で調整したり、アウトソール側で調整したりと状況によって変わるが、手を入れる必要がある。
トレーニング用で精度を詰める必要があるかは本人の好みにもよるが、男は自分が手をかけたものに関しては用途を問わず妥協せずに組み上げることにしている。
さらにスズカの蹄鉄のヒビに関しては補修も行っていく。
丁寧に作業をしたためだいぶ時間をかけてしまい、メンバー全員のシューズが仕上がる頃には日付がかわるまであと少し、という時間になってしまった。
男はシューズを箱に収めると、それぞれのシューズに点検メモを添付し、スピカが泊っている宿の彼らのトレーニング機材が集められている一角に置いておく。これでもし彼女たちが朝練に出ようとしてもシューズを履いて出ることができる。
それとは別に作成しておいたメンバー全員分の点検レポートを沖野の部屋へドア下から滑り込ませておく。何か気になることがあれば聞きに来るだろう。
そこまで済ませて男は再びサービスポイントに戻り、後片付けを始める。
駐車場の隅に設けたそこだけが煌々とあかりが灯っている。
機材や工具類を整理し、ハイエースの中に収め、鍵をかける。
発電機を止め照明を落としてしまうと、周りはリギルの泊るホテルとスピカの泊る旅館のあかりが少し遠くにあるものの、それ以外は月明かりにぼんやり照らされるだけだ。
男は暗がりに目を慣らすためにアウトドアチェアに座り、煙草に火を点けしばしくつろぐ。前の合宿地からの移動、展開、シューズと蹄鉄の分解点検、組み付けと一日こなしてきた疲労がどっと押し寄せる。
先ほどのアグネスタキオンとのやりとりを思い返し、焦っても仕方ないと想いながらも取り留めのない思考が頭の中を巡ってしまう。
本来ならばどこかで、サイレンススズカのレース出走そのものを止めるべきなのだろうが、男にそのような権限はないし、起こるかもしれないことで走ることこそが存在意義のような彼女からレースを取り上げて、彼女が幸せでいられるとも思えない。
結局のところ沖野が腹をくくりつつあるように、行けるところまで行ってみるほかないのかもしれない。
そうなると、はなはだ不本意ではあるが、何かが起きてしまった後のことを今から準備するほうが適切なのか。
時間軸が一方通行なのと同じように、戻ることのできない道ならば、その先を予測して備えるという手もなくはないが、それにしても今の男のできることは限られているように思われた。
それは男の視野の問題なのか能力の問題なのか、判断がつかない。
どちらにしても今の自分が考えている問題には力量不足ではあるのだろう。
ならばもっと自らを変えねばならない。
流されてここまできた身の上だが、どうやらここから先、自分がやらなければならないことは流されたままでは実現できない。それだけは確実なようだ…
男はそこまで考えると、暗い駐車場の片隅でアウトドアチェアに腰掛けたまま、海から吹く涼しい風を心地よく感じて襲い来る眠気に抗えず、眠りに落ちた。
生ける伝説、皇帝と呼ばれるシンボリルドルフの朝は早い。
体調を整えることやトレーニングの成果としての筋肉を得るために睡眠は欠かせないが、競技者としてだけでなく生徒会長という公の顔を持つ彼女は時間のすべてを自らのために使うというわけにはいかない立場だった。むしろ今は公としての時間が競技者としての時間を圧迫しつつあり、さらに言えば私で居られる時間などほとんどない。
そんな状況であっても精神の平衡を保ちつつ自らを厳しく律し続けられるのは、ひとえに丈夫な体に産んでくれた両親からの恩恵と本人の持つ意思の力、そして彼女のすべてのウマ娘が幸せに暮らせる世を、という目標ゆえであった。
所属しているチームの一員としてこの夏合宿に参加している今は、学園に居る時にくらべれば少しだけ公の時間を減らすことができ、競技者としての時間を取り戻すことができる。
その時間をすこしでも有効に使うため、彼女はできるだけ早い時間に睡眠を取り、雑事に煩わされることのない朝の時間を活用することにしていた。
すでに明るくなってきている朝5時前、彼女はベッドから起き上がると、ルームメイトを起こさないように静かに手早く身支度を整えて朝のランニングに出かける。
軽く準備運動をして体を起こして温め、ホテルから出て浜辺をランニングしていく。
この時間は風向きが変わり、山から海へと涼しい風が吹く。
ほどなくしてその風のなかに彼女のよく知る、ここにあるはずのない香りが混じっているのに気づく。
彼女は不思議に感じながらもその香りを辿るため、ランニングのコースを変更することにした。
香りのもとを辿っていくと、リギルが宿泊しているホテルの裏手にある駐車場に出る。
宿泊者たちのクルマが並んでいるが、そこに彼女が気をひかれるものはない。
駐車場を進んでいくと少し離れた大型バス用の駐車場の隅に見慣れたURAロゴ入りのワンボックスが1台とそれに寄り添うように出店のようなテントが張られていることに気づく。
ランニングのペースでそこに近づき、スピードを緩める。
ワンボックスには誰も乗っていないが、荷室を覗き込めばそれがどうやら彼女が兄と慕う男の巡回サービスカーであることに気付くことができた。
今年も兄が合宿にやってきてくれたのだな、と彼女は思わず頬が緩み、耳も力が抜ける。
しかし本人がいないのにここまで濃く兄の匂いがするのはなぜだろう。
不思議に思い車体の後ろにあるテントを覗き込む。
そこには彼女が慕ってやまない初恋の男が、くたびれた姿で座って眠り込んでいた。
シンボリルドルフは男を認めた瞬間に驚き、尻尾がびくんと跳ねる。
まさかここで行き倒れているわけでもないだろうが、慎重に足音を立てずに近づき、わずかに動く胸の動きから男の呼吸を確認する。
「…全く、兄さんは…」
普通に寝ているだけなのを確認するとシンボリルドルフは男の向かいにあるベンチに座る。
深くアウトドアチェアに沈み、首を傾げて眠る男の姿をゆっくりと観察する。
無防備で安らかな男の寝顔はずいぶん昔、まだルナだった自分に見たきりかな、と思ったが、よく考えればわりと最近に彼の部屋で眠りこけていたところを倒れていると勘違いして抱き上げたことがあったな、と思い至る。
男の部屋で本当に倒れていると思い心配して泣きそうになっていた自分のその時の行動を思い返し、シンボリルドルフは誰が見ていたわけでもないのに赤面してしまう。自らの膝に抱いた男の頭のしっかりとした重さは、今でも陶然と反芻することができる。
そしてあの時彼女の理性を飛ばしかけた男の匂いは、今は野外であるためあのときほど濃くはないが、彼女の鼻腔をくすぐり続けている。
シンボリルドルフは自分が何のために早朝から外に出たのかもすでに忘れ、寝ている男を起こさぬように音を立てずに立ち上がると、ゆっくりと男ににじり寄る。
安らかな寝息を立てる男の顔に、ゆっくりと顔を近づける。
鉄や煙草の混じった男の匂いが、彼女の高機能な鼻を通じて容量の大きな肺を満たし、彼女の脳に甘美な信号を送りつけてくる。
それは彼女が本能の部分で求めてやまない何かを満たし、さらに彼女の奥底にある欲求をかきたてる。
「…!」
彼女の知らないなにか異質な、人工的な香りをわずかに、ごくわずかにだが感知したのは、男の髪のほうへ鼻を利かせたときだった。
「…んぅ…」
ちょうどその時、周囲が明るくなり眠りが浅くなってきたのか、男が身をよじる。
驚いたシンボリルドルフは一瞬尻尾をびくりと逆立て、一歩距離をとる。
そして冷静さを取り戻したルドルフは、男を起こすことにした。
「…兄さん、こんなところで寝ていちゃダメだよ」
耳元で囁くと、男は薄目をあける。
「ん…ルナ…か…?」
男の気の抜けた声に、ルドルフは思わず耳をぺたりとして腰を落とし、下から男を見上げるような姿勢になる。
「ああ…おはよう、兄さん」
まだ目の覚め切らない男は、薄目のまま手を伸ばし、ルナの頭を優しく撫でる。
それはまだルドルフがルナだったころ、昼寝をしていた男を起こした時のいつもの動きだった。ルドルフは寝ぼけていて雑な撫で方の男の手が懐かしく、目を細める。
「…朝練とは、熱心だな…さすがは皇帝…」
男はすこしずつ意識レベルをあげつつある。
ルドルフは自らの頭を撫でる男の手を取ると、指先でマッサージするように撫でる。
「兄さんこそ、仕事熱心なのはいいがこんなところで野宿じゃ、体に毒というものだ」
男はようやく目を開き、体を起こす。ルドルフが手を引いてやるとゆっくりと立ち上がった。
「んぁぁ…ありがとう。昨夜、ちょっと遅くまで作業しててな。片付けて一息ついたら寝ちまったよ」
伸びをするとバキバキとどこからか音がする。しっかり凝り固まってしまったようだ。
「部屋に戻ってシャワーでも浴びるといい。兄さんが来たからには、リギルの面倒も見てもらわないと。午前は少しは体を休めてくれ」
そういうとルドルフは意識を切り替えランニングに戻るべく、男に背を向ける。
「あぁ。起こしてくれてありがとう。」
ルドルフは名残惜しそうに耳をへにゃりとさせたまま、後ろ手で男に手を振りながら走り出した。