チームリギルはホテルの会食場に全員揃っての朝食を摂る。
シンボリルドルフが男に遭遇した朝も、いつも通りの朝食風景だ。
朝起きてそのまま朝食会場に現れる者もいれば、それぞれ個別に朝練をこなして現れる者もいて纏う雰囲気はそれぞれ違うが、リギルにおいては朝食の場がそのまま朝礼の場にもなるため、チーム全員とトレーナーである東条ハナも顔を合わせる。
バイキング形式の朝食をそれぞれに摂り、東条ハナから今日一日のチームスケジュールの通達、個々に合わせた練習メニューの連絡が終わった後は、練習開始時間まで個々にアップをしたり、コミュニケーションを取ったりする時間だ。
「エアグルーヴ、少しいいか」
シンボリルドルフは朝食の片づけをしているエアグルーヴに声をかけ、耳元でささやくように話す。
「黙っておくのもフェアではないと思うのでな、伝えておくぞ。装蹄師の巡回が来ている。今のうちに例の蹄鉄の点検なり、気になることを依頼しておくと良いだろう」
ルドルフが微笑みながら小声で伝えると、エアグルーヴは顔を紅潮させる。
「か…会長はもうお会いになったんですか?」
エアグルーヴの問いにシンボリルドルフは微笑みに悪戯っぽさを含ませる。
「ああ。早起きは三文の徳、というのは本当だな。朝のランニング途中に野外で眠っているところを見つけたよ」
「野外で…ですか…?」
「兄は毎年、駐車場の隅に作業場を設けるだろう?あそこで夜遅くまで仕事をして、そのまま眠ってしまったらしい」
シンボリルドルフは朝の男の様子を思い出し、一人くすりと笑う。
「それはなんというか…あの人らしい話ですね。私も一度、朝に工房を訪れて、眠り込んでいる姿を見たことがあります…」
エアグルーヴは自らの脳内に浮かんだ過去の光景を思わず口にしてしまう。
シンボリルドルフの耳はぴくり、と反応した。
「兄さんの寝顔をすでに見ているとは。なかなかやるじゃないか」
柔らかい言葉の中に少し冷たいものを含んだ声音で呟くと、シンボリルドルフは音もなくエアグルーヴの許を離れた。
エアグルーヴの反応を見るに、どうやら兄の髪からしたわずかな異物の香りは彼女ではないようだ。今、彼女に近づいたときも近い香りはしなかったことだし、まず間違いない。
だとすると、誰が接触したのだろう?
ルドルフはエアグルーヴに伝えたものと同じ情報を東条ハナにも伝達したが、そこでも男からした匂いの探索は空振りに終わる。
一体誰が、何の目的で兄に近づいたのか。
あまつさえ、どのような理由で兄の髪に触れたのか。
今日のトレーニングも重要だが、それ以上にルドルフの思考はその疑問に掛かってしまっていた。
エアグルーヴが恋敵として名乗りをあげ、アグネスタキオンも時折怪しげな言動を繰り返しているし、直接確認することは難しいが自らのトレーナーである東条ハナも兄との関係性は同僚以上の何かを感じることがある。
さらによく工房に出入りしているらしいゴールドシップや、エアグルーヴとともに宝塚記念の前に兄の許を訪れているサイレンススズカ。
気が付けば兄の周りには、自分が気づくだけでこれだけのウマ娘たちが群がってきているのだ。
これまでは自分は兄との距離が最も近く、付き合いも長いと自負していたが、ここ最近の関係の密度という点で考えたらどうだろう?
そこまで思考が至った時点で、実は自分が持っているアドバンテージはすでに失われつつあるのではないか、という現実に行き当たる。
それに気づいたとき、シンボリルドルフはぞわりと肌が粟立つ感覚をおぼえ、顔からの血の気が引けていく。
「ルドルフ、体調悪いんじゃない?顔が真っ青よ」
その声にはっと我に返る。どうやら少し前から黙考する様子をマルゼンスキーに見られていたようだ。
「体調がすぐれないなら少し部屋で休んだら?この合宿に来るために相当無理して生徒会の仕事してたんでしょ」
いつも付かず離れずの距離感のマルゼンスキーは宝塚記念前後からこの合宿に至るまでのシンボリルドルフの生徒会におけるハードワークを理解していた。
ルドルフにしてみれば顔色が悪いのはそのせいではないのだが、今は思考を整理するために時間が欲しいと思ったので、マルゼンスキーの誤解を利用させてもらう。
「あぁ…ちょっと朝練で飛ばし過ぎたかな。すこし休ませてもらうよ。合宿に来てこの有様では、本末転倒だ」
マルゼンスキーにおハナさんへの言付けを頼むと、シンボリルドルフは朝食会場を後にして一旦自室に戻ることにした。
シンボリルドルフは改めて自分の身の上を思い返す。
学園に入り、理想を持ち、理想を実現する手段としてレースを勝ち続け、皇帝と呼ばれるほどに登り詰めて学園の生徒会長としての顔までもつ自分。
その立場あってもなお自身の理想を叶えるにはまだほど遠く、生徒たちからは孤高の存在として畏怖の対象となり、一番近い存在のはずのエアグルーヴは今や恋敵だ。
これまでは学園で悩みがあれば兄に相談してきたが、今は悩みの中心が兄で、そうなると当然、本人に相談するわけにもいかない。
そう思うとルドルフは男への想いとは別の、ある種の孤独感をさらに重たく感じて暗澹たる気持ちになってしまう。
ひとりでベッドに腰掛け、しゅんと耳を項垂れていた時、彼女の部屋のドアをノックする音がした。
「入るわよ〜…ルドルフ、大丈夫?耳、しょんぼりしちゃってるわよ」
マルゼンスキーはいつもと変わらない世話焼きなお姉さんの雰囲気で、そっとルドルフの前に座る。
「ホントは体調悪いんじゃなくて悩み事かな〜?私に話してみない?」
ルドルフは悲観的な思考にハマるあまり、すっかり彼女の存在を忘れていた。いつでも適度な距離感でルドルフの周りにいてくれるマルゼンスキー。彼女に救われたことはこれまで枚挙にいとまがない。男がいつもルドルフが困った時に現れるように、マルゼンスキーもまた男とは違った局面でルドルフが困ったとこにそっと助けてくれる存在だ。
そして今も、先ほどの表情を読んでルドルフの抱えるなにかを敏感に察知して気遣い、部屋まで来てくれたのだろう。
「…マルゼンスキーにはお見通しだったか」
他ではあまり見せることのない気弱な笑みを浮かべるシンボリルドルフの表情にマルゼンスキーはにっこりと笑顔で応じる。
「さっきエアグルーヴになにか囁いてたでしょう?一瞬すごい怖い表情してたわよ〜?なにかあったんじゃないかと思って」
マルゼンスキーは同時にエアグルーヴの顔が紅潮していたことも気付いていたが、それには触れない。
二人の感情にプラスとマイナスといえるほどの差があり、そこにルドルフの悩みがあるのではないかとアタリをつけていた。
「よく見ているな…さて、どこから話したものか…」
ルドルフはしばらく黙考したのち、共通の知り合いである装蹄師の男との関係から簡単に説明を始めた。
そして直近、マルゼンスキーも一部関わっていた宝塚記念前後にあったことを時系列で追ってゆく。
エアグルーヴが恋敵として名乗りをあげたこと、自らの初恋の相手が男であること、ここのところ男の周りが気になること、今朝男と会ったところ、感じたことのないウマ娘の香りを感じたこと…。
「…ふぅん…ルドルフもついに乙女の本格化、ってわけね」
マルゼンスキーは艶然とした笑みでルドルフを見つめる。
「しかしそのお相手が鉄のお師匠さんとはね〜。昔からの知り合いとは聞いていたけど…ずっと好きだったの?」
「自分の感情をはっきりと認識したのはこの学園に入ってからだな。自分の理想を追い求めるが故、周りからは浮いてしまうことが多い立場になってしまったが…それでもくじけずにここまで進んで来れたのは、兄さんが近くで見ていてくれたからだ」
ルドルフは遠くを見るような瞳で呟くように話す。
「なら、これからルドルフが進んでいくためにもお師匠さんは欠かせない人なのね」
「それは私にとってはそうだ…が、兄が同じように思ってくれるかは…それに、その…つ、付き合うとか恋人とか、恋愛の関係性である必要があるのかというと…それも…」
「もう!煮え切らないわね〜…ルドルフは、他の子がお師匠さんとイチャイチャしてたらどう思うの?」
ルドルフの瞳の瞳孔がぎゅっと窄まる。
「…それは…それ…は…」
想像してみたルドルフは、心拍数が上がり息が詰まりそうになり、指先が冷えていくような感覚に襲われる。
額には脂汗が浮かび、胃がせり上がり先ほどの朝食が逆流するような気がして思わず手で口を塞ぐ。
「あぁーんメンゴメンゴ!ちょっと意地悪すぎる質問だったわね!」
マルゼンスキーは青い顔をして虚空を見つめるシンボリルドルフを抱きしめ、背中をさすって落ち着かせる。
同時にルドルフの思い詰め様と想いの強さを感じ、マルゼンスキーは思案する。
「…恋がいつも成就するとは限らないけど、応援してるから…いつでも相談してくれていいからね…」
マルゼンスキーは息の上がったルドルフを抱きしめながら、落ち着くまで優しく背中をさすり続けた。
エアグルーヴは練習開始時間前に浜辺に出て、身体を今日の練習に向かわせるべくストレッチを開始していた。
身体を念入りにほぐしながら、朝にシンボリルドルフから伝えられた内容を思い返している。
それにしても遅くまで仕事をしてそこで寝込んでしまうというのはどうなのだろうか。
たしかに生徒会主導の研究プロジェクト立ち上げ時には仕事場で眠り込んでしまう男を見かけたことはあったが、合宿先でまでそのような仕事量を抱えてしまうことがあるものだろうか。
つらつらと考え事をしながら身体をほぐしていると、騒々しいウマ娘たちの声が近づいてくる。
あの騒々しさはスピカのメンバーのようだ。
聞くでもなく会話が耳にはいってくる。
「…なんか、シューズが新品みたいにシャキッとしてますね、今日…」
「…そりゃオメー、鉄のおっちゃんが昨日の夜にきっちり組み直してくれたんだから当たり前だろうが。スペ、感謝しろよ」
「ゴールドシップさんのもじゃないですか、チーム全員分やってもらったんですから…普段、いかに自分が蹄鉄をいいかげんにつけてたのか…反省しなくちゃ」
「さすがに先生と呼ばれる方ですわ。蹄鉄の締め方だけでこんなにフィーリングがかわるだなんて…もっと我々もこだわらなければいけませんわね」
「アタシはおっちゃん直伝で付け方きちんと習ったからな。おっちゃんお手製のゴルシちゃんスペシャル蹄鉄も作ってもらったことあるんだZE!」
「えーいいなぁ。それでレース走ってるんですか?」
「いや、レースには使えねーやつを作ってもらったんだよ!海の岩場専用スペックだぜ」
「なんですかそれ〜装蹄師の先生の無駄遣いじゃないですか〜」
「遊び用の蹄鉄を先生に造らせるなんて道徳に反しますわよ」
「それつけて獲った海の幸をおっちゃんにも届けてるんだからWINーWINの関係だろ?…」
話しているのはゴールドシップとスペシャルウィーク、メジロマックイーンのようだ。
奇しくもエアグルーヴが考えていた男のことを話題にしている。
話の内容からして、どうやら昨夜男が外で眠り込んでしまった理由はスピカにあるようだ。
「あ、エアグルーヴさんおはようございます!」
スペシャルウィークとメジロマックイーンが礼儀正しく挨拶をしてくる。ゴールドシップは軽く手をあげる。
「あぁ、おはよう。みんな朝から元気がいいな」
エアグルーヴはいつも通りのクールさで挨拶を返す。
「昨日装蹄師の先生にチームのみんなの蹄鉄を点検してもらって、組み直してもらったのが今朝返ってきてたんです。履いてみたらフィーリングがすごくよくなってて、なんか私テンションあがっちゃって…!」
「競技者として恥ずかしくないよう、こういった身の回りのものもきちんとしていかなければいけませんね…」
スペシャルウィークは弾けんばかりの笑顔でシューズの感触を楽しんでおり、メジロマックイーンは改めて装具の大事さを痛感しているようだ。
「そういや、エアグルーヴもおっちゃんに改造してもらった蹄鉄持ってたよな。どうなんだアレ。レースで使ったんだろ?」
最近の悪戯から対立することが多いゴールドシップだが、悪びれる風もなく問いかけてくる。
「あぁ…素晴らしい出来だぞ。私が不甲斐ないせいでレースは勝てなかったがな…」
「ん?エアグルーヴの最近のレースって…」
とぼけているゴールドシップの横で、スペシャルウィークの表情が硬くなり、マックイーンは徐々に青ざめていく。
「ゴールドシップさん!その…宝塚記念…!」
「この間のスズカさんが勝ったレースですわ!」
二人が小声で気まずそうにゴールドシップに教えている。
「気を使わなくていい。私の完敗だったからな。今のスズカは本当に速い」
「まぁなーちょっと今のスズカが負けるところが想像できないよなー」
エアグルーヴとゴールドシップのやりとりをヒヤヒヤしながら眺めるスペシャルウィークとメジロマックイーン。
「でも、おっちゃんの勝負鉄で勝ちたいだろ?」
ゴールドシップがニヤニヤしながらエアグルーヴを煽る。
「勝ちたいな、造ってもらった蹄鉄でも、スズカにも」
普段冷静で表情が動かないエアグルーヴがわずかに顔を赤らめているのにメジロマックイーンが気付き、一歩後ずさる。
ゴールドシップがさらに仕掛ける。
「勝って、またこのあいだみたいにおっちゃんに頭撫でてもらうんだろ?このこのぉ〜」
一気にエアグルーヴの顔が額まで紅潮し、スペシャルウィークもその変化に気付き、二歩あとずさる。
ゆっくり目を伏せ、小刻みに震え出すエアグルーヴ。
「…貴様…言わせておけば…今日こそは許さんぞ…」
エアグルーヴは顔の熱さに俯きながらも、耳が鋭利な刃物のように尖る。
その耳の意味を認めてスペシャルウィークとメジロマックイーンは逃走のスタートを切る。
「あ!スペ!マックイーンも!ズルいぞ!」
ゴールドシップは遅れて逃走行に駆け出し、間髪を入れずにエアグルーヴもスタートを切った。
ゴールドシップ、今日も出遅れてのスタートです。女帝エアグルーヴの猛烈な追撃から逃れることができるのでしょうか…。
後から来て途中からやりとりを眺めていた沖野が脳内実況をつける。
沖野は遠くでエアグルーヴに捕獲されたゴールドシップを眺めながら、学園に帰ってからの練習メニューにゲート練習を加えるべきか、とぼんやりと考えていた。
いやそれよりも。
あの鈍い装蹄師、そろそろ本当に刺されるかもしれん。
タチが悪いのが、一見とっつきづらそうに見える職人だが、ひとたび関係ができてしまえばあいつは基本的に優しいのだ。
勝負の世界で身も心も厳しい環境におかれるウマ娘たちだ。そのギャップにハマる者は多いだろう。
そして一番悪いのは、あいつはそういうウマ娘たちの心理には無頓着だということだ。
「そろそろはっきり言ってやんないとかね…」
沖野は男の作成した点検レポートに目を通しながら、沖野の気になるポイントがきっちり押さえられていることに唸る。
「…こういうとこ、だよなぁ。良くも悪くも」
口に含んだ飴を転がしながら、沖野は天を仰いだ。
なかなか難産な局面が続いております。
投稿間隔が長くなりがちで申し訳ございません。