男はシンボリルドルフに起こされた後、宿の自室に戻りシャワーを浴びて仮眠を少しだけとり、9時には作業場のテントに戻っていた。
納めていた道具類を広げ、始業準備を整える。
散発的に来るウマ娘たちの依頼をこなしつつ、空き時間は少しうたた寝したりしながら時間が過ぎていく。
沖野が作業場を訪れたのは昼過ぎ、チームによっては午後の練習が始まろうかという時間帯だった。
「昨日は遅くまで作業させちまったみたいで悪かったな」
沖野はそういうと、眠気覚ましとばかりに缶コーヒーを差し入れてくる。
「さすがにあの数の分解清掃整備は時間かかりますよ…おかげでここで寝ちまって、朝方通りかかったルドルフに起こされた」
ルドルフ、の名前を聞いて沖野がぎょっとする。
「ルドルフって…シンボリルドルフか…?」
「そうだよ。他に誰がいるんだよ」
沖野は頭を抱える。
「お前、スピカのせいでとか言ってないだろうな〜…」
「言ってない言ってない。寝ぼけてたし」
沖野から見てもシンボリルドルフは今のURAの現人神のような存在であり、生徒会長という肩書も含めてトレーナーからも頭の上がらない、雲の上の存在である。
「…で、レポートに気になるところでもあったか」
沖野が来たということはあのレポートについて話したいことがあるのだろう、とアタリをつけて男が問いかける。
沖野に出したレポートは蹄鉄の状態についての事実のみを記載し、私見は一切書かなかった。
「まぁな。スズカの蹄鉄の状態はわかったが、それを踏まえてお前の見解を聞きたい」
沖野はストレートに切り出した。
「まぁ走りそのものについては専門外だし、多分に主観だけども…サイレンススズカの走力はもう、かなり行くところまでいってるんじゃないかと思う。使っている蹄鉄は細身で攻めてるやつだから、耐久性はあまり期待できないタイプだけど、それにしてもあのヒビ、クラックの出方は異常だと思う。はっきりいって蹄鉄が負けてきてる」
男はそこまで一気に言い切ると、煙草に火をつける。
「蹄鉄が負けるほどの走りをしているとなると、当然体への負担はとんでもないだろう。疲労の蓄積とかそんなレベルでなく筋肉、腱、関節、骨それぞれの耐久性というのか…まぁそこは沖野、お前さんの専門領域だと思うけど、俺は素人なりに心配だね」
深く吸い込んで煙を吐き出す。
「…どうするんだ、沖野」
男は俯きながら言葉を発しようとしない沖野に問う。
「…スズカはアメリカ遠征を計画している。そのために、もういくつか国内で走る予定を立ててる」
枯れ気味の声になっている沖野は缶コーヒーをひとくち飲み、一息いれて続ける。
「秋は毎日王冠、天皇賞秋、ジャパンカップと比較的タイトなローテでいくつもりだ。そこで結果を出してアメリカへ、というのがアイツの希望だ。今のところ俺は、スズカの持っているその夢を止める気は、ない」
男は苦虫を噛み潰すような表情で思わず煙草のフィルターを噛む。
「蹄鉄が負け始めてるくらいにはっきり出てるんだ。せめてローテーションに余裕を持たすとか考えないのか」
「…それぞれの持つ夢をサポートして実現させるのが、トレーナーの役割だと俺は思ってる」
そう話す沖野の内心にも葛藤があるのが苦悩の表情からも伺える。
「だとしても、怪我の可能性を感じているからお前も悩んでるんだろう?」
沖野は俯き、地面を見つめ続けている。まるでそこに答えを探すかのように、一点を見つめ、動かない。
男は自身の過去の経験と、今のスズカと沖野の関係を重ね、危機感を募らせながらふつふつと怒りの感情が湧きはじめる。
ここまでわかっていながら、対策もしないというのか。
「…そうだ…だが可能性だけで彼女の夢を摘むことも、俺にはできない…」
煮え切らない態度でぐずぐずとしている沖野。
男の感情は沸点が越え、沖野の胸倉を男が掴んで持ち上げ、声を荒げて問い詰める。
「スズカは走りたいのか?勝ちたいのか?結果が破滅であるとしても、それでも?お前はその危険性をわかっていながら、そのままにするのか?トップスピードで骨が砕けでもしたら、最悪命を落としかねないんだぞ!それでもやるっていうのか!」
男の強い言葉に、沖野は今日初めて男に視線をあわせて言い返す。
「…そんなことはわかってる!でもな、学園に夢と希望を持って入ってきて、血の滲むような努力をして這い上がってきてここまで走ってきた奴らだぞ!いまさら命を引き合いに出してその夢を捨てろなんてことは、それこそ俺たち大人の横暴じゃねぇか!」
男は沖野の胸倉を突き放す。沖野はふらつき、力なく俯いたまま呟いた。
「…できるだけのことはするさ。俺はあいつのトレーナーだからな。スズカのメディカルチェックの頻度を増やして、今まで以上にコンディションには気を配ってやっていく。万が一なにかあっても、俺が責任を取る。だから、これからも協力してくれ」
沖野は冷静な声音に戻り、立ち上がって身なりを整えると、テントから出ていった。
男は沖野の後ろ姿を見送り、苛立ちを抑えきれずに作業台にひと蹴り入れると、がっくりとアウトドアチェアに腰を下ろし自らの心を落ち着けるべく、新たな煙草に火をつけた。
「…とんでもないところ、見ちゃったわね…」
おハナさんがぽつりと呟く。
東条ハナとエアグルーヴ、シンボリルドルフ、マルゼンスキーは昼食のあと、それぞれの思惑を持って各々、装蹄師の男のもとへ向かった。
しかしテントの中に沖野という先客がいたために少し離れて彼らの視界に入らないところに控えていた。
そのうちお互いを認めた彼女たちは自然と寄り集まり、テントの中の男と沖野のやりとりを見守る形になっていた。
二人のやりとりの激しさと内容の重さに、彼女たちは一歩も動けなくなっていた。
東条ハナは三人のウマ娘に目配せをすると、踵を返して静かにその場から離れる。
三人とも、おハナさんにつづいて静かに離脱した。
おハナさんはトレーナーとしての立場からしても沖野の気持ちも理解しつつ、スズカのこの問題を最初に共有した男がここまで気にかけていてくれたことに感謝もしており、相反する要素に複雑な心境だった。
もし私が沖野の立場だったらどうするだろう。
おそらく装蹄師の男と同じような結論を導き、安全に振って指導し、夢の方向を少しずつ変えようとしただろう。
しかしそれがサイレンススズカの幸せとは限らない。
現にその考え方が彼女の不振を生んでいたのだ。
その点、沖野はそこのリミッターを外し、見守るスタンスを取ることでここまでスズカの能力を引き出し、伸ばしてみせた。
そしてここに至ってもなお、沖野は最大限、スズカの夢を叶えようと、叶えるためのトレーナーであろうとしているのだ。
その姿勢と覚悟には敬意を表するが、正しいのかといえばそれは解釈の分かれるところだろう。
スズカは自らの手を離れたとはいえ、教え子のひとりである。
私にできることは、なにかあるだろうか。
午後のトレーニングを指導しながら、頭の隅で考え続けた。
「兄のああいう姿は、初めて見たな…」
シンボリルドルフの呟きに、エアグルーヴが反応する。
「会長でも見たことのない姿だったんですか…」
シンボリルドルフは苦笑いを浮かべる。
「私だってなんでも知っているわけではないさ。いや、むしろ知らないことの方が圧倒的なはずだ。なにせ彼は私に対しては兄の態度を崩したことはないからな」
エアグルーヴはそれでもシンボリルドルフが羨ましい、と感じた。すくなくとも自分よりはさまざまな男の顔を知っているシンボリルドルフ。兄と呼べることもそうだが、超え難い、過ごしてきた時間の壁を感じる。
「しかし沖野トレーナーもあれでなかなか、芯の強い男だな」
シンボリルドルフは先ほどの光景を見て、沖野というトレーナーのことを見直した。普通のトレーナーであればあそこまで深くは考えず、行けるところまで行って怪我をしたら残念だったな、と言うだけだろう。装蹄師の男と安全に対する方向性は違えど、ここまで気配りをしながらそれでもなお自らの覚悟を固めてウマ娘に寄り添い続けようとする態度は、並大抵の覚悟でできることではない。
「あのスピカのメンバーを率いていますから、私ももうすこしいい加減かと思っていましたが…あそこまで考えてもらっているスズカは、幸せ者ですね」
エアグルーヴはライバルとトレーナーの関係を少しばかり羨ましく感じる。
その感情による僅かな表情の揺らぎをマルゼンスキーは見逃さない。
「あらぁエアグルーヴ、ひょっとして沖野トレーナーにときめいちゃった?」
「…スズカは幸せ者だとは思いますが、私の好みではありませんね。トレーナーとの関係は、ドライな方が私には合ってます」
マルゼンスキーの茶々も正面から打ち返すエアグルーヴ。
「それにしても…話の内容も気になるし、兄の様子も気になるな…エアグルーヴ、少し時間をあけて夜にでも、話を聞きに行こう」
同じ場所で同じ光景を目にしてしまった以上、エアグルーヴを出し抜くようなことができるはずもない。
シンボリルドルフはエアグルーヴとともに、生徒会でホールドしているタキオンからの命題も絡めて、夜に改めて男に聞き取りに行くことにした。