だってアクセス増えたりコメントいただいたりがすごくうれしいんだもの。
仕方ないね。
サイレンススズカが蹄鉄を持ってきた日の夜。
いつもならすでに店じまいしている時間だが、この夜、男は、工房で人を待っていた。
待ち人は、チームリギルの東条ハナトレーナーだ。
男と沖野トレーナーのように、東条トレーナーとも仕事上浅からぬ縁を持つ男は、今夜、工房に彼女を呼び出していた。
夜に鉄粉で薄汚れたこの工房へ、名声高い妙齢の女性トレーナーを呼び出すなど、あまり褒められた行動ではないな、とは考えた。
しかしサイレンススズカを帰した後、SMSで簡潔に要件と来訪を請う旨を伝えると、業務終了後に伺う、といかにも彼女らしい素っ気ない返信があったのだった。
普段は工房内では煙草を吸わない男が、この時ばかりは炉の上に据えられた換気扇の下で三本目の煙草を吸い終えて、もみ消そうとしたとき、待ち人は来た。
「遅くなったわ」
疲れなど微塵も感じさせない凛とした硬質の声とともに引き戸を開けて入ってきたのは、疲れた表情までは隠し切れていない東条ハナであった。
「悪いね、こんなところに呼びつけて」
鉄粉と脂でやや黄色くなってしまった蛍光灯のあかりのせいなのか、東条ハナの顔色はあまり良くは見えなかった。
「いいわよ。あなたからの話なんて珍しいこともあるもんだわ」
彼女はいつもトレーニング中に片手に備えるタブレット端末をソファに放り投げ、続いて彼女の身も、古ぼけたソファに倒れこむように放り出した。
「ビールとチューハイならあるが、どっちがいい?」
倒れこんでうつぶせのまま、一言。
「ビール」
男は、今朝は人参ジュースを取り出した冷蔵庫から、今度はビールを1本取り出して、そっと彼女の前のテーブルに置いた。自分の分はアルコールではなく、缶の緑茶だ。
「ビール、開けて」
彼女はソファに身を横たえたまま、普段の振る舞いからは想像もつかない甘えた言葉を発した。
「よほどお疲れですな。気ぃ張りっぱなしで、大変なんだな」
「お気楽な鍛冶屋に言われたくないわね」
「装蹄師といってくれよ。一応そこにはプライドがあるんだ」
彼女の缶ビールをあけてやる。
プシュッと気の抜ける音が耳に心地よい。
その音が合図だったように、彼女は身を起こしてソファに座りなおした。
そこから軸線を少しずらした相対に、男も腰掛ける。
「相変わらず飲まないのに、アルコールは常備されてるのね」
「まぁ、おハナさんか沖野か、数少ない仕事仲間をもてなすために、多少は」
「用意のいいことで」
それぞれの缶同士を軽くぶつけ合い、それを合図に二人とも一口、喉を潤した。
男は緑茶缶をテーブルに置くと、彼女に煙草の許可を求め、彼女はそれに鷹揚に頷いた。
「煙草、やめないのね」
「最近じゃあ吸えるところも減っちまって、止め時だとは思ってるんだけどね。どうも、この悪いことしてる感じがやめられない」
「いつまで高校生みたいなこと言ってるのよ」
呆れと諦めが混じり、それでも優しさが隠し切れない笑み。
昔から変わらないな、と男は懐かしくなった。
男と沖野、そして東条ハナの出会いは、男がトレセン学園に関わるようになった頃まで遡る。
沖野とは、沖野が男の師匠格の装蹄師を訪ねたことからつながりが生まれ、同世代として親しくしてきた。
彼女はその後しばらくして、沖野が男と約束していた飲み会の席に連れてきたのだった。
その当時は2人ともまだ新人トレーナーとして自らのチームを持たず、サブトレーナーとして研鑽を積んでいた時期で、男も装蹄師の丁稚、というような頃である。
数少ないトレセン学園内での同世代である3人は、だいたい沖野が音頭を取って集まり、時には夜通し呑み明かすような関係であった。
もっとも男は下戸であり、いつも歩様が怪しくなった二人を送り届ける役回りではあったが。
そのころからはお互い立場も変わり、昔のように気安く集まり酒を呑む回数は減ったが、若いころから続く関係性を互いに「戦友」だと思う気持ちは変わっていない、と思う。
「で、今日はどういう風の吹き回しなのよ。スズカの件って、何?」
ほどよく力は抜けたまま、それでも眼鏡の奥からの眼光は鋭く、彼女は本題に切り込んできた。
「これなんだが」
男は蹄鉄を作業台から持ってきた。
「これは…スズカの?」
男は頷く。
「今朝、工房係の当番だったみたいでね。来たんだよ。で、これを見てほしいって、伝票なしで持ってきた」
彼女は鋭い瞳を閉じて、背もたれにもたれかかり、天を仰ぐ。
どうやらスズカの抱えている問題は、彼女としても重く捉えているようだ。
伝票なしで持ち込んだ、というところにも、スズカ自身がトレーナーに知られることを避けた、と思われる節があることを感じ取ったのだろう。
「…それで?」
天を仰いだまま、彼女は続きを促す。
「仔細に調べたよ。前にも一度蹄鉄の修正を依頼されたことがあったから、そのときの伝票と見比べてね」
男は新たな煙草に火をつけ、二口ほど吸うと、続けた。
「前よりも確実に、彼女の走りは良くなってる。前はあった左右の摩耗差も消えて、歪みもなく綺麗なもんだ。かなり走りこんで蹄鉄がこの状態なら、フォームも筋肉のバランスも、ほとんどおハナさんが描く最良のバランスに近いんだろう?」
じりり、と煙草の紙巻き部分が爆ぜる。
「現状、うまく走れていると思っていない彼女に、コレは俺が彼女につたえるべき話じゃないな、と思ったからさ。今や高名天下に轟くリギルの総帥にご足労願った」
天を仰いでいた彼女が、大きくため息をついた。
「…うまくいかないのよ。スズカの能力自体は疑いないんだけど…」
チームリギルの総帥が、凛とした声の張りを少し、弱めた。
「あの子は天性のものを持っている。それこそ、これまでのレースを過去のものにしてしまうような、絶対的な速さを狙える脚よ」
缶ビールを呷る彼女は、それで勢いをつけているような雰囲気があった。
「…でもね、そのままではただの速さ。私が求めているのはどんなレース展開でもゴールで勝ち切れる、強さ」
これこそが、リギルの真髄。
最強チームの看板を名実ともに背負って、戦い続ける闘将の信念。
男は、言葉を紡ぐごとに鋭さを増した彼女の瞳を真っすぐに見つめかえす。
どのくらいそうしていただろうか。
灰皿に差した煙草はフィルターまで燃え、嫌な匂いを漂わせた。
「…それだけじゃ、ないでしょう?」
男は表情を変えずに、でもどこか気の抜けた声で問うた。
「……付き合いが長くなると、こういう時が嫌ね」
そういうと、彼女は傍らに放り投げていたタブレットをとり、なにやら操作を始めた。
男は一息つくと立ち上がり、冷蔵庫からビールをもう一本、彼女の前にことりと置いた。
タブレットを操作し終えると、男に手渡し、彼女自ら二本目の缶ビールを開けた。
「スズカの直近1か月の2,000m走のタイムよ。どう思う?」
日付時間、天候、気温、バ場状態、1,000m通過タイム、2,000mゴールタイムがずらっと並ぶ。
「…これ…は…」
ところどころ、太字や色付きで強調されているタイムがある。
強調されたそれは、シニア級のG1、それもレコードタイムから1秒以内にまで肉薄した記録だった。
「このタイムが練習で、その頻度で出てしまうのよ。それが何を意味するか…わかるわよね?」
マズい。
非常にマズい。
男は嫌な汗が背を伝うのを感じながら、彼女を見る。
「このままじゃスズカの脚は、速さで、潰れてしまうわ」
そう告げる彼女の瞳は、いつもの怜悧な光が消えうせ、悲しみにくれているように見えた。
肩の力を抜きなさい>私