男は、学園に戻ってきた。
現場でのリクエストにはほぼフィードバックを済ませたが、夏合宿中に起こったさまざまなことに対応する準備も必要だったため、生徒たちより一足早く引き上げてきたのだ。
なにより、最近高稼働が続いていた工房の設備をそのままにして夏合宿に出てしまったため、これからまた起こるであろう酷使に備えてのメンテナンスも行わねばならない。
ある程度自らの裁量で仕事ができるとはいっても、のんびりしていられるとは思われなかった。
夏合宿仕様のハイエースの積載物については帰着日に荷解きを終え、洗車して返却を済ませる。
翌日は工房の掃除から始めた。
手を動かしながら、サイレンススズカの件も頭の隅で考えを巡らす。
今の蹄鉄が明らかに耐えられていない状態であるからして、本来であれば別の蹄鉄やシューズの組み合わせを模索し、提案するのは男のひとつの仕事と言えた。
すくなくともシューズ周りの信頼性を上げることで、レース中の破断や落鉄に起因するトラブルの可能性は下げられる。
しかし一方で、現在絶好調のスズカである。
シューズ周りを見直すことで当然少なからずフィーリングは変わってくるし、調子を崩すことも考えられる。
うまくいっているときこそ次の一手は難しいものだな、と男はひとり呟く。
頭の一部分で考えを行ったり来たりさせながら、工房の設備類のメンテナンスや足りないものの手配など、再稼働させる準備を整えるには、夕刻までかかった。
久しぶりに工房の外のベンチに沈み、煙草を吹かしながら、ウマ娘たちのいない静かな学園の片隅で、スズカの蹄鉄に関してさらに思考を進める。
スズカの蹄鉄はかなり先鋭的なデザインで名を馳せる海外のメーカー品だ。
そのメーカーはとにかく「レースに勝つ」ことをテーマにウマ娘用の装具を製造しており、同じ名前を持つスポーツカーメーカーとは資本関係こそないが、創業一族の祖業であるらしい。
スズカが採用しているそのメーカーの蹄鉄は、彼女の逃げという脚質に沿ったものだ。
スタートしてスピードにのり、トップスピード付近で長く走れるように無駄を削ぎ落され、接地面はあくまでシャープに、全体的な構造も必要最低限でレギュレーションに適合するギリギリの軽さとなっている。
差しや追い込みの展開を可能にするような瞬間的、爆発的なトルクを受け止めることはあまり考慮されておらず、駆け引きしながら走るレースには向かない。すっぱりとスピードに割り切った仕様だ。
おそらくスズカはシューズもセットで、重心も含めて好みに仕上げてあるはずだ。
そう考えると蹄鉄の改良だけでは片手落ちだと思われた。
男は久しぶりに自らの上司に連絡を取り、翌日に打ち合わせ時間を設けてもらうことにした。
「なんだ、いい具合に焼けてるな。山に海に、満喫してきたか?」
久しぶりに顔を合わせるシューズ課長は男から夏合宿の土産である菓子折りを受け取りながら、悪戯っぽく笑った。
「いやぁ行ったら行ったで色々ありましてね…あ、イクノディクタスの走りを見せてもらいましたよ」
この間取り組んだ成果をさっそく見ることができたと伝えると、課長は来年の入学が楽しみだ、と我がことのように喜んだ。
「で、色々あったほうのことで、相談があるんだろう?」
課長は話題を切り替えた。
さすがに男が丁稚の頃からの付き合いだけあり、話が早い。
男はサイレンススズカの蹄鉄の状態とトレーナーが気にかけていること、この秋にはタイトなローテーションが組まれることを話した。怪我の懸念に関しては言及しない。
「…そんなわけで、スズカの勝負シューズを研究用に都合できないかと思いまして」
「そりゃあまぁ、研究名目で用意するくらいわけないけどな…ローテに関しては沖野さんも危ない橋渡るなぁ」
課長はすこし思案顔で、事務所内を見回す。
夏季の合宿期間中であるため、服飾部内も交代で夏休みをとっているようで人は疎らだが、それでも彼らの話し声を聞くことができる距離で数人、それぞれの職務に励んでいる。
課長は立ち上がると、無言で人差し指で天井を指差し、屋上へ男を誘った。
屋上はじりじりと遠慮なく照りつける日差しで焼けるような暑さだった。
課長は屋上にわずかにある日陰に隠すように設置されているベンチに腰をおろす。
課長は煙草に火をつけると、男にも一本勧めた。
男は自分のがありますので、と自分の煙草を取り出し、咥える。
「建前はわかった。で、本音の方は?」
課長は男にそう言うと、眩しさに目を細めながら煙を吹かす。
「…沖野はサイレンススズカの脚の故障を予感しています。しかし彼女の希望を汲んで、いけるところまで行く覚悟のようです」
「そんなことだろうと思ったぜ。まぁ今のあの娘の勢いじゃ無理もないがね。蹄鉄とシューズで起こるかもしれない脚の故障をどうにかできないのかって思ってるのか?」
「それができればと思ってますが、難しいでしょうね。まぁまずは負けてる蹄鉄をどうにかして、落鉄なんかのマイナートラブルを減らして少しでもリスクを下げられれば、程度で考えてます」
「難しいのは俺も同意見だな。蹄鉄やシューズいじって調子くずさせるわけにもいかないし、提案するにしても悩みどころだな。トレーナーからの正式な依頼ってわけでもないし」
「沖野はスズカの夢を叶えるために、よほどのことがない限り抱え込むと思います。まぁスズカの前トレーナーの東条トレーナーや生徒会なんかには事情がバレちゃってますが…」
「なんだお前、バラしたのか?」
「バラしたというか…見られちゃったんですよね。沖野とのこの件でのやりとり」
あぁ…と課長は苦笑いする。
「お前、懐かれてるもんなぁ。あの娘たちにも、おハナさんにも」
ここのところいろんな形でいろんな関係者からこのことを言われるが、まさか上司まで言い出すとは思っておらず、男は喫驚した。
「…なんにもないですって。たまたま今年に入って妙に絡みが多いだけで」
果たして本当にたまたまなのかはここのところ少し男にも思うところがあったが、とりあえずそういうことにしておく。
「まぁなんとなく事情は周辺情報も含めてわかったよ。今絶好調のサイレンススズカを題材にして、我々も大人の自由研究といこうじゃないか。もっとも夏は過ぎつつあるがね」
課長は人の善い笑顔を浮かべながら、上機嫌で煙をはきだした。
男はシューズ課長を味方につけられたことに安堵して工房に戻る道を歩む。
何をするにしても味方は多い方が良いし、いかに業務上の裁量が大きいとはいえ勝手にやるよりは上が知っていた方がなにかと便利である。
刺すような日差しを浴びながら進み工房が見えてくると、入り口付近に緑のスーツ姿の人影がサルビアに水をやってくれているのが見える。
男は夏合宿中のサルビアの水やりについて施設管理部署に依頼していたが、今それをしてくれているのはまさかの理事長秘書である駿川たづなさんその人であった。
慌てて駆け寄り、お礼を述べる。
「装蹄師さん、夏合宿の巡回お疲れ様でした。今日は管理部も人が手薄で、たまたま私が見回りのついでに対応していただけですから、大丈夫ですよ」
いつもの穏やかな笑みを崩さないたづなさん。
この日照りの中でも汗ひとつかいていない。
お礼というわけではないが、せっかくここまでご足労いただいているので冷たいお茶でもお出しすることにして、たづなさんを工房の応接へご案内する。
「助かります。こうも暑いと水分補給してもすぐに喉が渇いてしまいますものね」
応接セットで向かいあい、しばしの雑談タイムとなる。
時折訪れるたづなさんとの会話は、男にとっては学園の動きを知る貴重な時間でもあった。
たづなさんとの会話の中で、男はふと、相談事があったことを思い出す。
ちょっと待っててくださいね、と男は工房の奥から古めかしい木箱を持ってきた。
「この間の理事長特命のシューズ研究の時に倉庫から見つけたモノなんですが…これの処遇をご相談したいんです」
「あら。足袋型のシューズとは、相当な年代物ですね…」
たづなさんはそっと、高価な装飾品を扱うような手つきでシューズを持ち、眺める。
どこから話をしたものか、と男は逡巡したが、レースやウマ娘愛にはただならぬ熱量と評判のたづなさんである。
きっと受け止めてくれるだろうと思い切って話すことにした。
「たづなさん、トキノミノル、ってウマ娘、ご存知ですか?」
たづなさんの柔らかな表情が一瞬、固まったように見える。
男はそれに違和感を感じながら続ける。
「…戦後、それほど経っていないころの皐月賞、ダービーを獲ったウマ娘のものです。私の師匠格の装蹄師が保管していたもののようで、倉庫から見つかりまして」
彼女の表情が変化していく。
いつもの笑顔がまるで仮面であったかのようにかき消え、眉が下がり、口はへの字に曲がってなにかを堪えているようだ。
シューズを胸元に引き寄せたまま、じっと瞳を閉じている。
「たづなさん…どうかしましたか…?」
問いかけにもこたえず、やがて彼女は瞳を閉じたまま、口元をひくつかせたまま、ほろりと涙を零した。
「…ったづなさん?ど、どこかお体の調子でも…」
中腰になって身を乗り出し焦る男に、指で目尻を拭いながら、たづなさんは苦笑いとともにようやく口を開いた。
しかし言葉も、シューズを持つ指も震えている。
「…すいません…つい、胸がいっぱいになってしまって…うぅっ…」
そこまで言葉を紡いだところで、ついに彼女は抑えきれず、子供のように泣き出した。
差し出したタオルに顔を埋め、男が背中をさすってもなお、彼女がおちつくまではしばらくの間を要した。
「…ほんとうに…すいません…もう、大丈夫です…」
男は何をしてしまったのか、全くわからなかった。
しかしトキノミノルが、たづなさんのなにかに触れることだけは確かなのだろう。
「…理由をお聞きしても?」
彼女はこくりと頷く。
男はタオルから顔を上げたたづなさんと目が合い、ごくりと唾を飲み込む。
「トキノミノルは…私の祖母、なんです…」
男は驚いた。
確か、老公の話ではダービー以降のトキノミノルは行方知れず、と言っていたはずだ。
「私は一人きりの孫で、とても可愛がってもらいました…私も祖母が大好きで…思わず思い出してしまったんです…驚かせてしまって、ごめんなさい…」
聞けば、たづなさんの父方の祖母がトキノミノルであるとのこと。
トキノミノルは結婚し男子、つまりたづなさんの父を産んだが、直後に夫が病死。
ひとりで息子を育て、その息子の子がたづなさんだという。
「祖母がダービーウマ娘であることは、ほとんど誰も知らなかったと思います。父はあまりウマ娘のレースに興味がなかったらしく、祖母が亡くなるまで、よく知らなかったそうです」
彼女は愛おしそうにシューズを眺める。
「私は幼少の頃からウマ娘のレースが大好きで、でもテレビで見ているだけでした。そんな私を祖母は一度だけ、レース場に連れていってくれたことがありました」
ターフを眺めるトキノミノルの瞳と表情に、いつもと違うものを感じたたづなさんは、尋ねた。
するとトキノミノルは優しい表情で一言だけ、たづなさんに告げた。
「…私もすごく昔に、走ったことがあるんだよ」
観客席から遠く眺めるターフが、急に近くなった気がしたんです、とたづなさんは言った。
「祖母はそれからしばらくして、亡くなりました。遺品の中にも、レースを走っていたときのものは残っていなくて…ただ、古いお菓子の缶の中に1枚だけ、こんな写真がありました」
たづなさんは手帳から、1枚のセピア色の写真を取り出して、見せてくれる。
ウイニングサークルで関係者に囲まれて記念撮影をした1枚。
よくみると、老公の若かりし頃と思しき人物も写っている。
「祖母の一言が無ければ、今の私はただ、ひとりのファンとしてレースをみていただけだったでしょうね」
たづなさんはトキノミノルの言葉とこの写真を頼りに、祖母のレースを戦うウマ娘としてのことも色々調べたという。
記録としては皐月賞、ダービーを獲ったということはすぐにわかり、幻のウマ娘という二つ名があることまでは調べられたが、そのまま引退となってしまった事情や当時の空気感など、祖母の足跡を辿るのは相当に難しかったという。
「もちろん私は今のようにレースも好きでしたから、趣味としてレース場などに足を運んだり、祖母にまつわることをURAにいろいろ問い合わせたりしているうちに、先代の秋川理事長とご縁がありまして…」
なるほど。
それが今のたづなさんのポジションにつながっていったわけだ。
男は人の縁が繋がっていくドラマに、壮大さを感じずにはいられなかった。
「ここに就職してからも、祖母の足跡を探し続けていたんです。それでも、祖母がこの世界にいた証を、記録と当時の新聞以外に見つけることはほとんどなくて…だから、これが祖母のモノだと言われた瞬間、胸がいっぱいになって…」
そうだろう。
たづなさんの幼少期からの探し物が突然、出てきたのだ。
そんなものであれば、俺がたづなさんの立場でもやはり泣くだろう。
たづなさんは話しながらふたたび涙ぐんでいる。
ふたりでしんみりしていると、たづなさんのスマホが鳴動する。
取り出して、男にことわるように頭を下げると、たづなさんはスピーカーで通話ボタンを押した。
「たづなっ!今どこにいるんだ!次の予定は…」
相手はあのちびっk…理事長だ。
「理事長、申し訳ありません。思わぬモノに出会いまして…」
たづなさんがことの次第を理事長に説明する。
一通りのことを聞いた理事長は、一言。
「収蔵!たづな、ウマ娘歴史館をつくるぞ!」
理事長はシューズの価値を評して、スマホの向こうで即断した。
みなさまいつも感想コメント、誤字修正、評価等ありがとうございます。
更新遅くなりまして申し訳ございません。
月末月初は仕事が立て込みますね…時間と体力が(能力も)足らない…
今回は以前置いてきた要素の回収を実施致しました。
引き続き不定期更新で恐縮ですが、お付き合いいただければと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。