「あの…蹄鉄の…先生…?」
どこかか細い、聞いたことのある声に呼ばれたような気がして、男はあたりを見回す。
「ぁ…私です…サイレンススズカ、です…」
講堂の明るい光を背景に、歩み寄ってきたのは今の男の脳内でぐるぐると回っている遅れてきた夏休みの宿題、その提出先であるサイレンススズカであった。
「お疲れ様です…先生。楽しんでいただけてますか…?」
喫煙所に現れたサイレンススズカは、いつもの品の良い笑顔を湛えている。
「あぁ…人込みは久しぶりなんで、ちょっと人当たりでね…ここで一服、休憩しようと思って」
フフフ、と微笑むスズカの横顔が講堂から漏れてくる光に照らされ、美しい。
男はスズカを気遣い、煙草の煙が流れないように風下に回る。
「スズカもここの手伝いに来ていたのか?」
「ええ。エアグルーヴに誘われて…私もたくさん、皆さんにお世話になっているので…少しでも役に立てればと思って」
そう告げるスズカの顔はとても晴れやかで、初めて工房に訪ねてきたときの陰のような暗さは見られない。
「そうか。意外だな。こういうところはあまり得意じゃないように思ってたよ」
「先生はなんでもお見通しなんですね。たくさんのお客さんにご挨拶をたくさんいただいて、一緒に写真を撮ってくれってお願いをされて…私もちょっと疲れて出てきちゃいました」
ちろりと舌を出すサイレンススズカ。
疲れたと言ってはいるが、どちらかというと招待客たちにスターとして扱われることへの照れが混じっているようだ。
「そういえば、遅くなったけど宝塚記念はおめでとう。久々にレースをちゃんと観たけど、圧倒的だったな」
「ありがとうございます。現地で見ていただいたんですよね。後から聞きました」
「あぁ。初めて会った頃がウソみたいな圧勝劇だったな」
「…最近、とても調子がいいんです。気力も、体力も充実していて…もっと速く、もっと先まで走れそうで…」
走ることが心底好きなのだろう。語るスズカは綺麗で、瞳がキラキラと輝いて見える。
「私の幸せが…私の見たかったスピードの向こう側の景色が、もう少しで見えそうな気がするんです…手ごたえを感じてるんです…」
本当にこれからの挑戦を心待ちにしているのだろう。話す横顔がいくらか上気しているようにすら感じられる。
「…エアグルーヴから聞きました。先生が私の脚を心配してるって。でも私はこれからの秋のレースを走りぬいて、アメリカに挑戦しようと思ってるんです」
男はスズカの言葉に驚く。
すでに彼女の視線は国内だけでなく、海外も視野に入っている。
大した自信だとも思ったが、今のスズカの充実ぶりなら夢や野望というよりは、より現実的なステップなのだろう。
「だから…これから先も、私は夢を叶えるために、走り続けて…途中で負けるつもりはないんです。自分にも、他の娘にも」
そう語るスズカの決意に満ちた横顔は、既に幼さの残る美少女ではなく、道を究め頂点へと登り詰めようとする挑戦者そのものだ。
「…そう瞳を輝かせて話してくれること、すごく嬉しいよ。スピカでスズカは、生まれ変わったんだな」
「…はい。先生のおかげで…スピカに移ることができて、私の道が開けたんです」
とても充実した表情でここまで言い切られると、男はこれから彼女に話さなければならないことが非常に切り出しにくい。
確かに、今の彼女は学園の中庭にある三女神にも愛されたかのような活躍ぶり。
しかし今、男が抱えている彼女への懸念が、ただの懸念で済むのならば、だ。
勝負の女神たちはいつだって気まぐれなのだ。
どう話すべきか、と無意識にシャツの胸ポケットの煙草を探る。
と、その時、ジャケットの内側に収めていた、シンボリルドルフから受け取った招待客リストがばさりと落ちた。
「ぁ…」
男が反応するより早く、スズカが拾い上げる。
スズカが拾ってくれたものを、男は受け取らずに煙草を取り出す。
「…なぁ、スズカ」
男は視線を講堂に向けながら、話しかける。
「今日の招待客さ、なんであんなに楽しそうだと思う?」
男の言葉に、スズカも講堂のほうを向く。
煌びやかな灯りが見え、楽しそうに賑やかな声が聞こえてくる。
「…パーティーだから、ですか…?」
スズカは招待客リストを持ったまま、なぜそんなことを訊くのか、と不思議そうに顔をかしげる。
「…まぁ、そうなんだが…今日の招待客、どんな人たちか知ってるか?」
「学園の人たちや、近隣のご協力いただいてる関係者の皆さん、と聞いています」
うん、と男は頷くと、先ほどスズカが拾ってくれた冊子を指し示す。
「今日の招待客リストだよ。職業欄、見てごらん」
スズカは薄明かりの中、リストを追い始める。
「近隣の関係者はとにかく学園の運営に普段から多大な協力をしてもらってる人たちからリストアップしたそうだ」
「…お医者さんが、多い…?」
男は頷く。
「そうだ。君たちウマ娘に学園生活でもレース中でも、いつ何があっても対応できるように。医者だけじゃない。弁護士や保険屋までいる。何があっても、君たちを守るために。そこまで考えておく必要があるスポーツが、レースだということさ」
男は煙草にかちり、と火をつける。
二本目の煙草は、妙に頭をクラクラさせた。
「見てみなよ、あの連中を」
講堂に集う招待客は、皆思い思いに輪を作り、歓談したり写真撮影をしたり、楽しんでいる。
その輪の中心にいるのは、この学園のウマ娘たちだ。
「自分たちがレースを走るわけでもないのに…楽しそうだろう?…何故だと思う?」
スズカは指を顎に当てて思案顔だ。光に照らされたその横顔を、男は眺めている。
「…なんでなんですか?」
「…自分が走るわけじゃないけど、走ってるんだよ、彼らも。君たちと同じレースに参加してるんだ。協力することによって…ね」
スズカは男の声を聴き、パーティーで楽しんでいる人々を見つめている。
なにかを考えているようだった。
これで、少しは伝わっただろうか。
男はいくらか緊張を解く。
幾ばくかの間、二人は並んで、言葉をかわすことなく喧騒を見つめていた。
男は、間を埋めるように深く煙草を吸い込む。
その刹那だった。
男の視界は急に狭く、靄がかかったように暗くなった。思わずよろけてしまう。
「…っ!」
「…先生?」
隣にいたサイレンススズカが男の異変に気付く。
「…大丈夫…だ。ちょっと立ち眩み、かな…」
男はなんとか気力で倒れずに踏みとどまる。
しかし背筋にぞくりと悪寒を感じ、冷や汗が噴き出るのがわかった。
「先生…顔色が…?」
男は似合わない微笑を無理やり浮かべる。
「…ちょっと疲れてしまったみたいだ。今夜はこのまま引き上げるよ。エアグルーヴにもよろしく言っておいてくれると助かる」
男はつとめてゆっくり、体調の変化をサイレンススズカに気取られないように告げると、踵を返して暗がりに向かって歩みだす。
「…先生!ありがとうございました!」
男はサイレンススズカの声を背中で聞き、左手を上げて応えるのが精いっぱいだった。