男は翌日の早朝、ファン感謝祭2日目を迎える学内を抜け、工房へと歩いた。
体調は昨日の休養のおかげか昨夜のエアグルーヴによる一喝のおかげか、すっきりとしている。
今日の感謝祭の準備をするウマ娘たちとすれ違い、その中の幾人かには頬の赤みを二度見されるが、気づかぬふりを貫く。
視線を感じながら、人の少ない時間帯でこれであれば今日はあまり出歩かないほうがよさそうだ、と男は考えていた。
工房でいつもの作業机に腰掛け、ひと心地着いてあたりを見回すと、たった一日工房をあけただけだというのに、とても久しぶりな気がした。
とりあえず昨日工房を休んでしまったことで、量は少ないながらも滞留してしまっている仕事に手を付けることにする。
昼前に男のスマホがメッセージの着信を告げるバイブレーションを起こす。
[ 昨夜の詫びに模擬店で昼食を御馳走したいと思うのだが、都合はどうだろうか ]
エアグルーヴからの誘いだった。
しかし鏡で見る男の顔は、頬の赤みは引いておらず、なんならより指の形がくっきりと浮き出てしまっている。
この状態では朝のように衆目を集めてしまうだろうし、なにより工房まで学園内の喧騒が聞こえてくるほどには盛況の様子だ。
当然、スター揃いのリギルの執事喫茶など、入場制限されていてもおかしくはない。
そんなところに頬を平手で赤くした男が現れても、それはそれで対外的に迷惑というものだろう。そもそも模擬店どうこうより、今日もっとも忙しいはずなのがエアグルーヴの立場だ。要らぬ気遣いや心配をさせてしまうのも気が引けた。
誘い自体には感謝の言葉を述べ、ありがたいけれど仕事が溜まっているから、と書きかけ、しばし逡巡した後にエアグルーヴもあまり無理しないように、と付け加えて返信する。寝込んでいた自分が言えた義理ではないのだが。
午前のうちに滞留業務を片付け、改めて夏休みの宿題に取り掛かる。
とりあえず試製の蹄鉄を課長から提供されたスズカのシューズにフィッティングし、重量バランス等を取りながら仮組みをする。
蹄鉄の余分な部分をわずかに削りながら、左右、前後、上下の立体方向の重さ、シューズの密着などを考慮しながら全体のイメージを膨らませていく。
バランスを取る微調整については、ことウマ娘の場合、本人の身体の筋肉の付き方や好みの要素が大きく、装蹄師だけでは正解が出せない。なのですべては仮で、一般的な状況に近づけていくにとどめる。
頭の中で重心位置を想像しながら調整していく作業を男はとても好んでおり、しばらくすると集中力が高まり、いつしか没頭していた。
「病み上がりだというのに熱心だねえ…熱心過ぎるから倒れたりするのだろうが」
突如背後から声がする。粘ついた声の主はアグネスタキオンだった。集中していたためにいつの間にか背後に回られていたことすら気づかなかった。
タキオンは驚いて固まっている男の顔をまじまじと興味深そうにのぞきこむ。
「…どうしたんだいその顔は。さては昨日の休業は体調不良ではなく痴話喧嘩が原因かい?」
遠慮のないコメントに、男は苦笑するしかない。
「…痴話喧嘩するような甲斐性があるように見えるなら、それはそれで結構だけども…実際は体調不良に起因した不幸な事故、といったところかな」
男はポリポリと頬を指でかきながら言う。
「相変わらずモテモテだねぇ…それはさておき、ずいぶんとご無沙汰じゃないか。自分が言いたいことだけ言って、私の研究室には顔も出さないとは、あんまりじゃないかね?」
そういえば宝塚記念後に話をして以来、アグネスタキオンとの直接のコミュニケーションは夏合宿の夜にごく短時間あったきりだ。スマホのメッセージではちょくちょくやり取りがあったのだが、ごく事務的な内容やちょっとした依頼事だった。
苦笑いして言葉を発しない男を尻目にタキオンはため息ひとつ漏らした後、言葉を続ける。
「あれから色々怪我の予防に関してリサーチをしてみてはいるんだがね。やはりなかなか難しいよ。身体症状を自覚できるタイミングもまちまちだし、なにより自覚症状があっても走ることをやめることが精神的に難しい。ウマ娘が走るのは本能だからね」
タキオンは作業机の隣の椅子に腰かけ、白衣の袖をぐるんぐるんと振り回す。
「あと、依頼されていた蹄鉄の情報だがね。スズカの使っている蹄鉄メーカーの製品で破損や異常摩耗のような報告は基本的になさそうだよ。まぁ国内ではマイナーなメーカーの話だからサンプルの数が少なくて、情報の信頼性については保証できないが」
男はタキオンにスズカの蹄鉄メーカーの製品に関しての情報収集も依頼していた。製品になにか問題があってスズカの蹄鉄が負けているのであれば、それはまた別次元の問題であるからだ。
しかしどうやらその部分については杞憂であるらしい。
「となるとやっぱり、スズカの走りに耐えられる、近しい特性の蹄鉄を造るしかないってことだね」
男は以前叩き出した形状のみ既製品に近い蹄鉄を作業台に置く。
「そういうことになるかねぇ。それができれば少なくともシューズ起点でのリスクは下げられる。怪我の予防、というにはさらにプラスアルファが欲しいところだが…」
タキオンは白衣の袖を振り回すのを止め、思案顔だ。
「なにをプラスアルファすればいいのかがわからんのが目下の問題だな。そもそも蹄鉄だけでどうにかできることなのかも相変わらずわからん」
男は煙草を咥えるが、火はつけない。
「…走るために使うエネルギーが一緒だとすれば、蹄鉄でなんらかフォローした分、身体のどこかに負担のしわ寄せがいく。つまり原因は変わらず、結果が移動するだけだ。足先に起こるはずだった怪我が別のところの怪我に、となっては意味がない」
男は何の気なしに、これまでつらつらと考えてきたことを口にする。
そこまで聞いて、タキオンははたと気づいた。
「…蹄鉄の視点から積み上げて考えても、やはり一部分だけの改善ではどうにもならない、というわけだねぇ」
「そうだな。あちらを立てればこちらが立たず、なんてのはよくある話だが」
男は同意する。
「生徒会や理事会も動いてくれてはいるが公式化には時間がかかる。ならばいっそ、君が私的な勉強会でも開催してしまえばいいのではないかな?」
タキオンの言葉に、男は眉間に皺を寄せる。
「…えぇ…?」
正直喉元まで「めんどくさい」という言葉が出かかったが、なんとかそれを大人のプライドで押しとどめる。
「なにもそんなに難しく考える必要はないよ。この工房に顔を出す人間たちの知恵を集めるだけでも、この課題に対する勉強会は成立するだろう?」
確かに、実力は折り紙付きどころか証明済みのウマ娘たちに、その娘たちを育てたトレーナー、この件に協力的な男の上司に、上手くいけばこの間の研究で知己を得た専門医なども巻き込めるだろう。知恵を集いたい範囲としては十分以上だ。
しかし少数で話すならともかく、自らをハブとして組織めいたものをつくり、動かすことに抵抗を感じる。いつも一人で作業することが肌に合っている職人気質といえば格好もつくが、単に男の好みではない、という側面もあった。
「この際、君の好みかどうかは問題じゃない。今は宿題という言葉で遊びを持たせているが、成果を出すにも時限性のある問題だろう?なら、なりふり構っている場合かい?」
「俺の心を読むなよ…」
ここまで放っておかれた恨みか、タキオンの言葉は男の心を抉る辛辣さを含んでいたが、指摘されていること自体は事実だった。
「そうだねぇ…一度集めてみる必要はあるかね…」
タキオンに押されるがままに、男は曖昧に答える。
「秋のシーズンはもう始まるんだ。そう時間はない。悠長に構えている場合ではないよ」
タキオンは男にトドメを刺した。
男は火のついていない煙草を横に咥え、腕組みをしたまま唸り続けた。
「…で、私たちが呼ばれたってわけ?」
男は夜、東条ハナと沖野を工房に呼び出していた。
応接セットのテーブルには幾多のアルコール飲料が並べられている。
「昨夜に引き続き悪いな。まぁ昨日のお礼の意味も込めてアルコールは用意させていただきました。そして相談に乗ってほしい」
男は二人に正直に話した。
「まぁ相談っていっても鍛冶屋だけが抱える話じゃないでしょうよ。スズカの様子はどうなの?」
沖野は缶チューハイを呷る。
「どうっていっても…特に変わらないな。相変わらず内に闘志を秘めて淡々とやってるよ。身体的な問題は今のところ無し、だ」
東条ハナは沖野を睨みつける。
「…淡々と、とんでもない量の走り込みしてるのが想像つくわ」
「あんまりトレーニング軽くすると隠れて走りかねないからな。手加減するわけにもいかん」
「脚の心配については話してるの?」
「まぁそれは伝えてるし、体調の変化にも気を配らせてる。まぁ、ほっといてもスペが常時見張ってるようなもんだ。それに、そっちからも手回ししてくれてるみたいだしな」
男は頷く。
エアグルーヴ経由で心配している旨が伝わっていることはパーティーの夜に確認が取れていた。
「まぁ、そこで俺の相談なんだけどね…」
男は沖野の話の後を継いだ。
午後にアグネスタキオンと話したことを総合して、予防に関しての医療的アプローチはすぐには具体化できなそうなこと、蹄鉄起点で問題解決しようにも、故障が別のところに及ぶ可能性があること、現状では自分の領域だけでは解決策が思いつかないことを簡潔に伝える。
「で、理事会やらで組織化を待って何かに取り組むというのも先の長い話で、今すぐどうこうはできない。毎日王冠、もうすぐだろう?」
毎日王冠はリギルからも出走があるだろう。トレーナー二人にとってはなかなかセンシティブな話題である。
「だから、あくまで私的な勉強会として人を集めて、知恵を募るべきじゃないか、とアグネスタキオンにケツを蹴られたわけだ」
東条ハナはため息、沖野は既に赤い顔でキョトンとしている。
「その勉強会はトレーナーも含めた形にしたい、ってことね」
「ご明察。というかトレーナーに居てもらわなければ話にならんからね」
男は煙草に火をつける。
「二人とも忙しいとこ悪いんだけどさ。そういう趣旨で参加してほしいのと、もしこれがある程度役に立つなら、沖野からスズカにアウトプットしてもらうことを期待するわけだけど、やってもらえるかって話だ」
あえて直截な表現で沖野に伝える。
沖野はキョトンとした顔のまま、動かない。
基本的にはトレーナーはそれぞれの信念や哲学に基づいてウマ娘たちを鍛え、育てていく。
そこに、こちらの私的な勉強会の考えを入れて指導してもらうというのは、ある意味でトレーナー自身の能力に疑いを抱いていることになりはしないか。プライドを傷つけはしないか。
男は沖野という人間を信頼してはいたが、その点を心配していた。
男と東条ハナからの視線を一身に集めて動じるする様子もなく、たっぷりと間をあけてから沖野は口を開いた。
「…そりゃあ、あいつらのためになるんならなんだってしてやるよ。だけどな…そのためには、あまり小難しいこと言われても困るぜ。俺がわかるような内容でないと」
沖野はあっさりと言ってのける。
そうだ。こいつもウマ娘たちの為ならなんだってする。自分は草を食べてでも、収入のほぼ全てを彼女たちに注ぎ込んでなお飄々としていられる性質の男だった。
東条ハナは沖野をみて、安堵した表情をみせている。
「でもさ…この話、おハナさんだったらどうした?」
沖野は突然鋭い視線で、刃をおハナさんに向ける。
「…どうかしら…迷うことは確かだわ。即断できるあなたの潔さに、正直ホッとしたのと、見直したわ」
男の予想通り、トレーナーのプライドにはかなりギリギリの提案ではあるようだった。
東条ハナは続ける。
「でも、私たちトレーナーが相談できるような場所がないのも事実よ。だから皆、一人親方のような状況で、自らの人脈と才覚の中でしか彼女たちを育ててあげられない、という見方もあるのかもしれないわね」
「まぁなぁ…抱え込んで過労でぶっ倒れるトレーナーもいるし、結局超人的な奴しか生き残れないのがこの世界だなぁ…」
沖野の超人的な部分と言えば、ヒトの何倍かわからないウマ娘たちのパワーで繰り出されるプロレス技を受けてなお平然としていられる部分だろうか。
「最初から期待を高められても正直応えられるかはわからないけど、なんにも結果が出せないってことにもしたくないね。やるからには」
男は頬を指でポリポリと搔きながら呟く。頬は赤みは引いてきたが、アザのように青くなり始めている。
その様子を見た東条ハナが言う。
「そういえばその頬、エアグルーヴにやられたのよね?」
確認のように問われる。そういえばおハナさんは男が頬を張られた現場は見ていないのだった。
「ん…ああ。俺もよく覚えてないんだけど。ソファまで吹っ飛んでのびてたみたいね」
男も経緯は意識を戻したあとにルドルフに聞いたので、自分の身に起きたことだが割と他人事だ。
「その頬のアザ以外には、身体はなんともないの?」
そう言われて改めて男は自分の身体のあちこちを順番に動かしながら検分してみる。
「…いや…なんともないね。それが何か?」
東条ハナはほっとしたような表情で一息つくと、男と沖野を交互に見比べた。
「…あなたたちがウマ娘たちに情熱を燃やすのと同じくらい、身体が頑丈でよかったわ…それもこの仕事をしていく上で必要な才能なのかもしれないわね」
男と沖野は東条ハナの言葉の意味を理解できず、きょとんとした表情をしていた。
まだ失踪しませんよ。