男は学園に戻り、理事長室で秋川理事長、駿川たづなさんと向かい合う。
理事長の机の中央には封印を解かれた診断書がある。
男の肘にはサポーターが巻かれ、可動域が制限されていた。
「怪我は私の不徳の致すところで、まことに申し訳ありません」
男は理事長の正面に立ち、頭を下げた。
理事長は椅子に座り、腕組みをして瞳を閉じ、硬い表情のまま黙考している。
理事長の机の傍らに立つたづなさんは、職務規定のファイルを手にしていた。
「…とりあえずは工房はしばらくお休みということで…通常の補修や調整などの業務の方は、府中レース場付の装蹄師の方にお願いしますので、安心して休んでください」
たづなさんがにこやかに応じる。
「そのことでご相談なのですが…」
男は感情を伺わせない無表情で告げる。
「私の怪我のことは伏せていただけないでしょうか。そして私は研修か何か名目を付けて、しばらく学園から離していただきたく。できれば、新しい学園の装蹄師を手配いただいたほうが良い。必要ならば、こちらも」
男はテーブルの上にもうひとつ、封筒を差し出した。
退職願、と記されている。
男が新たに取り出したものに理事長は瞳を開き、見つめる。口は真一文字に結んだまま、動揺した様子は見られない。
頭上の猫は気怠そうにひとつ、あくびをした。
「装蹄師さん、これは…」
たづなさんが笑い顔にわずかに困惑の表情を浮かべる。
「…私の腕は元に戻るかどうかわかりませんし、技術的に満足のいかないものをウマ娘たちの脚元に使うわけにもいかない。それに、私の怪我で彼女たちに影響を与えるのも本意ではありませんので」
男はゆっくりと述べる。
理事長は口を真一文字に結んだまま、小刻みに震えている。
たづなさんは焦ったように、視線を理事長と男の間を行ったり来たりさせていた。
「…君は随分と、自己評価が高いようだな?」
無表情に震えたまま、ぽつりと理事長が言った。
頭上の猫は相変わらず微睡んでいる。
理事長はおもむろに立ち上がると、扇子を開かずにびしっと男を指し示して言い放った。
「却下!すべて却下!当面の強制休暇と蹄鉄工房の一時閉鎖を命じる!休暇後は新たな業務を命じる!退出し、自室で療養していろ!」
その身の小ささ故、男は理事長に迫力を感じられなかったが、たづなさんのおろおろした様子を見るに、どうやら理事長は激昂していた。
男は理事長の指示は表面上は理解できたが、理事長の言葉の真意を測りかね、その場に立ち尽くしていた。
理事長は椅子に座り、くるりと半回転し窓の外を眺めている。
「言ったはずだ!退出しろ!詳細は追って伝える!」
理事長の強い口調とは裏腹に、頭上の猫の惰眠を貪る表情が印象的だった。
とりあえず、自らの要望が受け入れられないことだけを理解した男は、理事長室を退出した。
理事長は酷く傷ついた表情で、なにかについて歯を食いしばりながら耐え忍びつつ、窓の外を眺めていた。
そしてたづなさんはその理事長の様子をただ黙って、眺めていることしかできなかった。
「たづな!情報を流せ!当面の間、工房の閉鎖と装蹄師の休養!当面の蹄鉄のメンテナンスに関しては府中に委託に出す!URAにもその旨通告を出せ」
秋川理事長はしばらくの黙考ののち、たづなさんに指示をした。
「理事長…しかし…」
たづなさんは理事長の考えを図りかねている。
「わからんのかたづな。今のあいつは怪我をしたウマ娘と同じだ。競走能力を喪失したと思っているのだ。しかし苦難の末にそれを乗り越えた先達がどれだけいると思っている?」
頭上の猫はまた、つまらなそうにあくびをする。
「温情などではないぞ!今、あの男以上に生きた教材はいない!ここはトレセン学園だ。ウマ娘をより良き未来に導き、教育するための教育機関なのだ!レースはその一手段に過ぎん!それを忘れるな!」
理事長は窓の外、眼下に練習用トラックに向かうウマ娘たちの姿を認めながら言った。
男は理事長室を出ると、一度工房に向かい、閉鎖に備えて私物を持ち出そうと試みた。
しかし男が工房にたどり着くよりも早く、工房の入り口は施設管理部署の手によって鎖で閉鎖され、いくつもの錠がかけられていて、入ることは叶わなかった。
男は仕方なく、自室に戻った。
ソファにどっかりと崩れると、煙草に火をつける。
なぜ理事長は申し出を受け入れてくれなかったのだろうか。
装蹄師としての能力は発揮できなくなる可能性が高く、職能によって雇用されている自分の存在意義は既に学園にはない、と考えていた。
そして、腕を壊した自分が存在することで、サイレンススズカが自責の念を持つのではないかと危惧した。
そのリスクを排除することは彼女のスター性をことのほか大事にしているURAと利害が一致するはずだった。
すでに男が出来ることは成した後であるし、彼女に悪影響が出るくらいなら男は消えてしまったほうが早い、と考え退職願まで用意した。
しかし理事長は憤然とそれを却下した。
なんなら男の仕事まで保証してみせたのである。
男には理解できなかった。
煙草を一本吸い終える頃、男のスマホが狂ったように連続して着信を告げてくる。
なんだなんだと手を伸ばせば、メッセージが次々と受信されていることがわかる。
ここのところ関係の多いウマ娘たちや沖野、東条ハナからも何事か届いているようだ。
「やられた…」
男は内容をみて呟いた。
学内のイントラネットに工房の一時閉鎖連絡がアップされたのだ。
それを見ての反応が男に押し寄せている。
男はなにもかもが面倒になり、鳴り続けるスマホの電源を強制的に切ると、ソファに横になり、フテ寝を決め込むことにした。
生徒会室では日常業務を終え、自主練習を行うためにナリタブライアンが退出した後、重苦しい空気に支配された。
男からは特に連絡も返信もなく、それに焦れたシンボリルドルフは表情こそいつも通りだが、感情を抑えかねるように尻尾をせわしなく振り、そしてエアグルーヴも耳をしょげさせたまま沈黙していた。
工房がしばらく閉鎖されることと、装蹄師が当面の間休みとなる事実のみ、たづなさんから連絡が来ていた。
「…どうするべきなのだろうな、我々は」
シンボリルドルフは誰に問うわけでもなく、呟いた。
エアグルーヴは表情を変えない。
「…診断が出たことでの理事長判断が出たことは事実だと思いますが、公式にはそれ以上の情報の入手は難しいです。装蹄師の先生とは連絡がつきませんし…」
淡々と事実を並べることしかできず、エアグルーヴも内心、焦れていた。
「…兄さんの身になにかあったのは確実として、それがどの程度のものなのかもわからない、というのはな…」
シンボリルドルフは表情にこそ出さないが、落胆していた。
せめてそのくらいは本人から教えてくれてもよさそうなものなのに、と思っている。
鉄の会のメンバーであるアグネスタキオンやゴールドシップもコンタクトが取れていないらしく、グループチャットにも新たな情報はない。
以前なら、単独行動で男の部屋に向かっていただろうが、公式発表がないことはそれなりの理由があるはずだった。
その隠された情報を直接暴きにいくという行為に、自らの立場上も後ろめたさを感じてしまうがゆえに、彼女たちの行動を制約していた。
「…もしや、なにか公にはできない病気とか、そういうことなんですかね…」
エアグルーヴが呟く。
シンボリルドルフはぞくりと背筋が震える。
「…あまり想像したくはないな…」
二人の間には再び沈黙が流れた。
「…やはり、直接聞くしかあるまいねぇ」
生徒会室では普段聞くことのない、新たな声が響いた。
「…いつの間に…」
「普通にノックしたが、返事がなかったもので勝手に失礼したよ」
いつの間にか、アグネスタキオンが生徒会室に現れている。
シンボリルドルフもエアグルーヴも思考の沼に入り込むあまり、気が付かなかったようだ。
「何をそんなに迷っているんだい?わからないなら本人に聞くしかないじゃないか。どうせここで君たちが考えたところで、なにかが変わるわけじゃないだろう?」
アグネスタキオンはそうまくし立てると、二人についてくるよう促した。